ヤコブ・ニールセン&ホア・ロレンジャー、斉藤栄一郎訳 『新ウェブ・ユーザビリティ』 エムディエヌコーポレーション 2006

松阪市民講座として「”まろまろ流”市民による情報発信のすすめ」という公開講座をすることになった、まろまろです。

さて、『新ウェブ・ユーザビリティ』ヤコブ・ニールセン&ホア・ロレンジャー著、斉藤栄一郎訳(エムディエヌコーポレーション)2006。

ウェブ・ユーザビリティの重鎮として知られるヤコブ・ニールセン(Jakob Nielsen)によるウェブ・ユーザビリティ本。
ウェブ・ユーザビリティの基本を様々な事例を紹介しながら解説している。
原題は“Prioritizing Web Usability” (2006)。

読んでいて一番印象に残ったのは・・・
「筆者は13年にわたってウェブのユーザー行動を見てきた。
その経験からいえば、ユーザーは実にわがままな生き物で、未来や過去ではなく今が大切なのだ。
だからウェブで成功するためには、今のニーズに的確に応えるしかない」
・・・と明言しているところだ。
作り手の思いと受け手の思いのバランスについて、受け手に大きく比重が置かれたWebの特徴を端的に言い当てているように感じられた。

そうした点は考えさせられたけれど、解説本としては疑問を感じるところもあった。
たとえば、文中に多くあるWebサイトの画像は白黒なので分かりにくかったり、
囲み記事が散漫で読みづらかったりと、ウェブ・ユーザビリティの前に本書自体のユーザビリティが気になった。
試しに原著をひも解いてみると、いくつかの大きな省略も発見した。
できれば原著を中心にして、副読本として読むことがオススメの一冊。

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2010 12/6
ウェブ・ユーザビリティ、情報・メディア、デザイン論、HP・ブログ本、実用書
まろまろヒット率2

ロバート・B・チャルディーニ、社会行動研究会訳 『影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか』 誠信書房 2007

特命係長プレイがきっかけでツイ飲み(Twitter 飲み会)に参加させていただいたので、
ようやくTwitterの使い方が分かりつつある、まろまろです。

さて、『影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか』ロバート・B・チャルディーニ著、社会行動研究会訳(誠信書房)2007。

人間が無意識のうちに影響されてしまう心理メカニズムについて、
社会心理学の実証実験や事例研究から科学的にアプローチする一冊。
原題は、“Influence: Science and Practice. 4th Ed.”(2001)。

内容は、人間には自動的に承諾する心理メカニズムがあることを「影響力の武器」(第1章)で述べた後に、
承諾を導く影響力の典型として。「返報性」(第2章)、「コミットメントと一貫性」(第3章)、
「社会的証明」(第4章)、「好意」(第5章)、「権威」(第6章)、「希少性」(第7章)の6つを詳細に解説。
そして、このような自動的な影響力は情報化社会においてはますます重要になってくることを、
「手っとり早い影響力」(第8章)でまとめる、という構成になっている。

読んでいて印象的だったのは、様々な心理実験の結果を通じて共通しているのは、
人間は自分が影響力を受けていることを過小評価する傾向があるという点だ。
だからこそ、この本で解説されている6つの影響力の武器は強力なものであり、
気をつけなくてはいけないものであるということが説得力を持って伝わってくる。

もちろん、こうした影響力の武器はそれ自体は決して不当なものではない。
ただし、それをねつ造したり、過剰に振りかざされたりすることが問題であり、
不当な承諾や集団の悲劇はこれらの影響力の武器の乱用にあることが強調されている。
それだけに、それぞれの項目の後に「防衛法」と「まとめ」があるのは読んでいて少しホッとした。

この本は、人間の心理はいかに生々しいものであるかについて科学的に解説した本なので、
読んでいて『カリスマ―出会いのエロティシズム』と同じようなインパクトを感じた。
読み物としての迫力は『カリスマ―出会いのエロティシズム』の方があるけれど、
こちらはその分、日常の中にある無意識な人間心理の原理に気付かせてくれる。

自分が不当な影響力を受けないため、そして自分も不当な影響力を与えないため、
という実用性の面でも一読の価値がある本。

以下はチェックした個所・・・
(一部要約含む、「→」はまろまろコメント)

○実際、人間の行動の多くは自動的、紋切り型のものです。
なぜなら、たいていの場合、それが最も効率的な行動の形態であり、
また、場合によってはそうすることが必要でさえあるからです。
<第1章:影響力の武器>

○返報性のルールの本質を構成するのはお返しをする義務ですが、
このルールを自分の利益のために利用することを容易にしているのは、受け取る義務の方です。
この義務があるために、私たちは恩義を感じる相手を必ずしも自分で選ぶことができませんし、
そのルールの力を他者に委ねることにもなります。
<第2章:返報性>

○心のなかの不快感と恥をかくかもしれないという危険性、この二つが組み合わされると、
とても大きな心理的負担が産み出されます。
こうした負担という観点から考えれば、返報性の名のもとに、
受け取ったもの以上ののものを私たちが返そうとするのも、さほど不思議なことではありません。
<第2章:返報性>

☆返報性のルールを使って私たちの承諾を得ようとする人に対する最善の防衛法は、
他者の最初の申し出を常に拒否してしまうことではない。
むしろ、最初の行為や譲歩は誠意をもって受け入れ、後でトリックだとわかった時点で、
それをトリックと再定義できるようにしておくことである。
<第2章:返報性>
→気をつけたいところ。

☆実際、私たちは皆、自分の行為や決定と一貫した思考や信念を持ち続けようとして、
自分自身をだますことがしばしばあります。(中略)
一貫していたい(一貫していると見てもらいたい)というこの欲求は、
しばしば自分の本当の利益とは明らかに反するような行動に私たちを駆り立てます。
したがって、これは社会的影響力のとても強力な武器として使えるものなのです。
<第3章:コミットメントと一貫性>
→現状維持の言い訳と足踏みの自己肯定は飲み屋でよく目撃する。

○自分自身の信念や価値や態度についての主要な情報源は自分の行動なのです。
<第3章:コミットメントと一貫性>

☆行動を含むコミットメントをしてしまうと、自己イメージには二つの面から一貫性圧力がかかります。
中からは、自己イメージを行動に合わせようとする圧力がかかります。
そして外からは、もっとも秘かな圧力ー他者が自分に対して抱いているイメージに、
自己イメージを合わせようとする傾向ーがかかるのです。
<第3章:コミットメントと一貫性>

○パブリック・コメント方略は、プライドが高い人、あるいては公的自意識が高い人に特に有効なようである。
ex.シャルル・ド・ゴールの禁煙のセリフ、「ド・ゴールは自分の言葉を裏切ることができないのだ」
<第3章:コミットメントと一貫性>

☆多くの場合、人は自分がしたコミットメントについて、それが正しいということを示す新しい理由や正当化を付け加えるのである。
その結果、コミットメインとを生み出した状況が変化したずっと後でも、そのコミットメントの効力が持続することになる。
(ローボール・テクニック)
<第3章:コミットメントと一貫性>

○(一貫性圧力に対しての防御法は)「今知っていることはそのままにして時間を遡ることができたら、
同じコミットメントをするだろうか」という厄介な質問を自分自身に問いかけなくてはならない。
そのとき、焼くにたつ答えをもたらしてくれるのは、最初に沸き上がってきた感情である。
<第3章:コミットメントと一貫性>
→気をつけたいところ。

○(人類滅亡などの終末の予言がはずれた教団がより強固なものになることがある理由について)
それを正しいと思う人が多ければ多いほど、人はその考えを正しいと見ることになるのです。(中略)
物理的証拠は変えられなかったので、社会的証拠を変えねばならかったから。
<第4章:社会的証明>

☆改宗者を求めたいという気持ち(社会的証明)に火についたのは、自分たちの確信がぐらついたときでした。
一般に、自分自身に確信が持てないとき、状況の意味が不明確あるいは曖昧なとき、
そして不確かさが蔓延しているときに、私たちは他者の行動を正しいものと期待し、またそれを、受容する。
<第4章:社会的証明>
→「みんな」という言葉が好きな日本人は、この社会的証明に影響される傾向が強いように感じる。

☆人が集団になると援助をしなくなるのは、彼らが不親切だからではなく、確信がもてないからだということを認識することです。
<第4章:社会的証明>

☆一般的に言って、緊急援助が必要な場合の最善の方略は、あなたの状況と、周囲の人たちの責任に関する不確かさを低減することです。
助けが必要であることを、できるだけ正確に言いましょう。傍観者が、一人で結論を出すようにさせてはいけません。
特に群衆のなかでは、社会的証明の原理とそこから生じる集団的無知の効果によって、
あなたのおかれている状況が緊急事態ではないと見られてしまうかもしれないからです。
<第4章:社会的証明>
→気をつけたいところ。

☆最も影響力のあるリーダーというのは、社会的証明の原理が自分に有利に働くようにするためには
集団の状況をどう整えればよいのかを知っている人なのです。
<第4章:社会的証明>
→その通りだから、よい結果を導かなくてはいけない。リーダーは結果責任を問われる。

○(アシモフの言葉)人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する・・・
その人が証明したいと思っているのは、自分が他の人より優っているということなのである。
応援する相手が誰であれ、その相手は自分の代理にになる。
そして、その人が勝つということは自分が勝つことと同じなのである。
<第5章:好意>
→確かに阪神タイガースや浦和レッズ、バルセロナなどの熱狂的ファンはコンプレックスが原動力になっているように感じる。

☆栄光の反映に浴したいとする気持ち(栄光浴)が強い人たちの特徴は、
背後にパーソナリティの脆弱さが隠されている人たちです。
つまり、否定的な自己概念をもっている人びとなのです。
こころの深層に、自分は価値が低い人間だという気持ちがあるため、
自分自身の業績を高めて名声を得るのではなく、
他者の業績との結びつきを形成し、それを強めることによって名声を得ようとしているのです。
<第5章:好意>
→○○と知り合い自慢がみすぼらしいのは、言っている本人の痛々しさが伝わってくるから。
痛いものコレクターなので嫌いというわけではないけれど(w

○ある状況で要請者に尋常でない好意を感じたら、その社会的相互作用から一歩退き、
要請者とその申し出の内容を心のなかで区別し、申し出のメリットだけを考えて決定を下さなければならない。
<第5章:好意>
→気をつけたいところ。

○「この権威者は本当に専門家なのか」、「この専門家はどの程度誠実だとかんがえられるか」。
この二つの質問を発することによって、権威者の影響力による有害な効果から自分自身を守ることができる。
<第6章:権威>
→気をつけたいところ。

○希少性の喜びは希少な品を体験することにあるのではなく、それを所有することにあるのです。
この二つを混同しないことが大切なのです。
希少性が高いものが、なかなか手に入りにくいという理由だけで美味しくなったり、感じが良くなったり、
音がよくなったり、乗り心地がよくなったり、よく動くようになったりすることはないのだ、
ということを決して忘れてはいけません。
<第7章:希少性>
→気をつけたいところ。

○希少性の原理は、二つの最適条件のもとで最もよく適応できると思われる。
第一にそれが新たに希少なものとなったときに一層高まる。
第二に、他人と競い合っているときに、希少性の高い物に最も引きつけられる。
<第7章:希少性>

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2010 11/1
社会心理学、心理学、社会学、コミュニケーション論、実用書
まろまろヒット率5

塩野七生 『ローマ人の物語38,39,40 キリストの勝利』 新潮社 上中下巻 2010

『文明が衰亡するとき』を読み直したくなった、まろまろです。

さて、『ローマ人の物語38,39,40 キリストの勝利』塩野七生著(新潮社)上中下巻2010。

大帝と呼ばれたコンスタンティヌス帝の死後の混乱から、コンスタンティウス帝による統治、
背教者と呼ばれたユリアヌス帝によるキリスト教化への抵抗と、テオドシウス帝のキリスト教国教化までをえがいた、
『ローマ人の物語35,36,37 最後の努力』に続くシリーズ第14段。

読んでみると、ローマ帝国のキリスト教化という大きな時代の流れの中で、
多神教である本来のローマに戻そうと抵抗するユリアヌス帝の苦闘と挫折が印象的。

多神教だったローマが一神教であるキリスト教に飲みこまれていく中で、著者は・・・
「ローマには建国の初めから専業の祭司階級が存在しなかったが、
それは、多神教徒であるローマ人の精神に忠実であったまでなのだ。
そしてこれこそが、ローマ人の文明の真髄なのである」
・・・として、ローマ文明の本質部分が変化したのだと断定している。

そして・・・
「ローマ帝国の滅亡とか、ローマ帝国の崩壊とかは、適切な表現ではないかと思い始めている。
(中略)ローマ帝国は溶解していった」
・・・として、この物語の第1段、『ローマ人の物語1,2 ローマは一日にして成らず』』のはじまりで投げかけた、
「なぜローマが滅んだのか?」という問いに対して、一応の答えをつけている。

それれだけに、ローマ文明のキリスト教化に最後に抵抗したユリアヌス帝と、知識人のシンマクスのもの哀しさが読後感として残った。
そして、ローマ人の物語も残りあと一つ。

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2010 10/11
歴史、政治、宗教
まろまろヒット率3

追記:全巻へのリンク(☆は特に印象深い巻)・・・

『ローマ人の物語1,2 ローマは一日にして成らず』

『ローマ人の物語3,4,5 ハンニバル戦記』

『ローマ人の物語6,7 勝者の混迷』

『ローマ人の物語8,9,10 ユリウス・カエサル~ルビコン以前~』

『ローマ人の物語11,12,13 ユリウス・カエサル~ルビコン以後~』

『ローマ人の物語14,15,16 パクス・ロマーナ』

『ローマ人の物語17,18,19,20 悪名高き皇帝たち』

『ローマ人の物語21,22,23 危機と克服』

『ローマ人の物語24,25,26 賢帝の世紀』

『ローマ人の物語27,28 すべての道はローマに通ず』

『ローマ人の物語29,30,31 終わりの始まり』

『ローマ人の物語32,33,34 迷走する帝国』

『ローマ人の物語35,36,37 最後の努力』

『ローマ人の物語38,39,40 キリストの勝利』

『ローマ人の物語41,42,43 ローマ世界の終焉』

『塩野七生「ローマ人の物語」スペシャル・ガイドブック』

ラ・ロシュフコー、二宮フサ訳 『ラ・ロシュフコー箴言集』 岩波書店 1989

趣味は人間観察の、まろまろです。

さて、『ラ・ロシュフコー箴言集』ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳(岩波書店)1989。

17世紀フランスに生きた、ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世による名言集。
原題は“Réflexions ou sentences et maximes morales”(1664)=『人間考察もしくは処世訓と箴言』。

名言集と言っても、原題にあるように人間考察に軸を置ているので、よくある口当たりの良いものではない。
最初に・・・
「われわれが美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない」
・・・という言葉から初めているように、特に自己愛による偽善について鋭く切り込んだものが多い。

たとえば、相手のことを思う行為や正直さを愛する姿などの一般的に美徳とされていることのほとんどは、
結局は自己愛と支配欲の延長線上にあるものだと指摘する言葉が散りばめられている。
また、怠惰と惰性の力をハッキリと指摘している言葉も複数見受けられる。

この名言集は人間への幻想や希望を打ち砕くほどの痛烈さを持っている上に、
さらにそれらの指摘が無視できない説得力を持っていることから、
フランス・モラリスト文学の最高峰との評価をされてきた。
決して心地よくは無いけれど、原題の通り人間考察の参考になる一冊。

ちなみに、この名言集は刊行当時から現代にいたるまで物議を醸し続けているので、
何かと注釈を入れられることが多いことでも知られている。
(同時代に生きたスウェーデンのクリスティーナ女王による注釈が有名)

僕もこれにならってチェックした言葉に「→」でコメントを入れてみたのが以下(☆は特に心に残ったもの)・・・

1:われわれが美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない。
→そういう時もあるというのが正確だが、確かにそういう時の方が多いかもしれない。

18:栄達を極めた人びとの慎ましさは、その栄位をものともしないほど偉い人間に見せようとする欲望なのである。
→そんな人も多いというのが正確だが、これもそんな人の方が多いかもしれない。

22:哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。
→哲学の現実。

30:われわれの持っている力は意志よりも大きい。だから事を不可能だときめこむのは、往々にして自分自身に対する言い逃れなのだ。
→めずらしく前向きで印象的。

☆37:過ちを犯した人びとに向かってわれわれがする説教には、善意よりも傲慢の方が多分に働いている。
そしてわれわれは、彼らの過ちを正そうというつもりはそれほどなしに、
むしろ、自分がそんな過ちとは無縁であることを彼らにわからせるために、叱るのである。
→自尊心を満足するための説教は確かに醜い。

47:運命によってわれわれに起きるすべてのことに、われわれの気質が値段をつける。
→騎士っぽい表現で気に入った。

54:富の蔑視は、哲人たちにあっては、自分の価値に正しく報いない運命の不当さに、仕返しをしたいという密かな欲望であった。
→捻くれた見方だけど、その見方も無視できない哲人は確かに多い。

☆62:ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない。
→信頼を得るには率直さが必要だけど、それを媚びとして使う人もいるのは確か。

☆63:嘘に対する反発は、自分の証言に箔をつけ、自分の言葉に宗教的な畏敬の耳を貸させたいという、それと気づかぬ野心であることが多い。
→よく見かける偽善。

☆116:助言の求め方与え方ほど率直でないものはない。
助言を求める側は、友の意見に神妙な敬意を抱いているように見えるが、実は相手に自分の意見を認めさせ、彼を自分の行動の保証人にすることしか考えていない。
そして助言する側は、自分に示された信頼に、熱のこもった無欲な真剣さで報いるが、実はほとんどの場合、与える助言の中に、自分自身の利益か名声しか求めていないのである。
→ある意味で納得。ただし、それによって良い結果が出る場合もあるのも確か。

☆143:われわれが他人の美点を誉めそやすのは、その人の偉さに対する敬意よりも、むしろ自分自身の見識に対する得意からである。
→「前から分かっていたよ」というのはよく耳にするセリフ。僕はそれに対してその人がどう賭けたかで判断する。

☆165:われわれの真価は選良の尊敬を引きつけ、われわれの幸運の星は大衆の尊敬を引きつける。
→選挙。

☆237:何人も悪人になる強さを持たない限り善良さを称えられるに値しない。
それ以外のあらゆる善良さは、おおむね、惰性か意志の無力に過ぎない。
→その通り。そして惰性と意志の無力で善良になるなら結果的には良いことだと思う。

☆294:われわれに感嘆する人びとを、われわれは必ず愛する。
そしてわれわれが感嘆する人びとを、われわれは必ずしも愛さない。
→選挙。カリスマと呼ばれる人はこの点を勘違いしてはいけない。

306:他人に恩恵をほどこすことができる立場にある限り、人はめったに恩知らずに会わないものである。
→その通り。

322:軽蔑すべき人間に限って軽蔑されることを恐れる。
→よく見かける。

375:凡人は、概して、自分の能力を超えることをすべて断罪する。
→特にモンスター系な人に多い。

☆414:気違いと馬鹿は気分でしか物を見ない。
→気分を判断基準にする人に対する、これほど痛烈な批判は読んだことがない。

436:人間一般を知ることは、一人の人間を知ることよりもたやすい。
→医学、社会学、すべての科学。

469:人は理性でしか望まないものは、決して熱烈には望まない。
→理解できる。

☆479:毅いところのある人だけが真の優しさを持つことができる。
優しそうに見える人は、たいてい弱さしか持たず、その弱さは容易にとげとげしさに変じてしまうのである。
→確かに弱い人はすぐに攻撃性を持つ。

MS61:自分の内に安らぎを見出せない時は、外にそれを求めても無駄である。
エピクロスの哲学と同じ趣旨で納得。

MS74:自分の過ちを告白する力がある時は、その過ちについてくよくよしてはならない。
→反省。

MP39:賢者を幸福にするにはほとんど何も要らないが、愚者を満足させることは何を以てしてもできない。
ほとんどすべての人間がみじめなのはそのためである。
→やや辛辣すぎる言い方だけど、納得する。

MP44:何かを強く欲する前に、現にそれを所有する人がどれだけ幸福かを確かめておく必要がある。
→確かに気を付けないといけないところ。

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2010 10/4
名言集
まろまろヒット率4

梶井基次郎 『城のある町にて』 筑摩書房『梶井基次郎全集』より 1986

松阪市ホームページ検討委員会の委員長に就任した、まろまろです。

さて、『城のある町にて』梶井基次郎著(筑摩書房『梶井基次郎全集』より)1986。

主人公は、結核の療養のため、城のある町に滞在する。
そこで暮らす日々の中で、幼くして亡くした妹のことや自分の病気に思いを馳せながら、
城のある町に生きる人々と交流を持って行く・・・

・・・大正14年(1925年)発表の梶井基次郎の短編小説。
著者自身が前年に松阪に滞在した体験を題材にしている。
(城とは松阪城址のこと)

『檸檬』などに代表されるように、梶井基次郎と言えば淡々とした文体の中にある陰鬱さが特徴的だけど、
読んでみると、この作品では淡々とした文体の中にも明るさが感じられた。
特に・・・
「今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた」
・・・という箇所での、城のある町(松阪)の風景描写が活き活きとしていたのが印象的。

今回、僕はご縁があって松阪に貢献する機会を得たけれど、
自分の社会貢献もこの短編のような明るさがあるものであってほしいと思って読み終えた一冊。

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2010 8/31
小説
まろまろヒット率3

谷川俊太郎・和田誠 『あな』 福音館書店 1983

まろまろ@好きな言葉の一つは”no reason”です☆

さて、『あな』谷川俊太郎著、和田誠イラスト(福音館書店)1983。

ひろしは穴を掘りはじめた。
様々な人や生き物が穴の活用を提案するが、ひろしはただ掘りつづける。
自分が掘った穴の中で、ひろしはある言葉をつぶやく・・・

詩人の谷川俊太郎とイラストレーターの和田誠がコラボレーションした絵本。
まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」の第2部で実施した本の交換会で、えほんうるふさんが持って来ていただいた一冊。
えほんうるふさん主催の大人絵本会第9回課題作でもあるとのこと。

この本自体はとぅなんてさんがGetしたものだけど、すぐに読むことができる絵本なので僕もコーヒーゼリーを食べながら他の参加者の方と一緒に読ませていただいた。

ちょうど「まろまろ茶話会2010」の第1部で寄せられたまろまろ質問状に対して、
目的は意識しすぎないという趣旨のことを応えた直後だったということもあり、
ひろしの行動と思考には共感するものがあった。
“no reason”の価値を感じさせられる絵本。

ちなみに、表紙と裏表紙の意味が読み終わってから分かるようになっているのもポイント。

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2010 7/19
絵本
まろまろヒット率4

スティーブ・クルーグ、中野恵美子訳 『ウェブユーザビリティの法則』 ソフトバンククリエイティブ 2007(改訂第2版)

まろまろ@各記事の下に関連記事を表示できるよう改良しました☆
ただし、自然言語処理で抽出しているので、チューニングはまだ発展途上です。てへっ。

さて、『ウェブユーザビリティの法則』スティーブ・クルーグ著、中野恵美子訳(ソフトバンククリエイティブ)2007(改訂第2版)。

AppleやAOLなどのWebサイトにも関わったウェブユーザビリティ・コンサルタントによるウェブユーザビリティ本。
弊社の元同期で、現在のまろまろ記サイトデザイン構築時も協力してもらった、ユーザビリティ・スペシャリストのtmaedaから推薦を受けた一冊。
原題は“Don’t Make Me Think: A Common Sense Approach to Web Usability” (2nd Edition, 2005)。

内容は、原題にあるように「ユーザーに考えさせない」ということを第一にしたウェブユーザビリティについて解説している。
特に、Webサイト製作側が想定する利用法と、実際のユーザーの利用には大きなギャップがあることに対する指摘が多い。、
たとえば・・・
「人はページ内の文章を読まない。ざっと見るのみ」、「人は最良の選択に時間をかけるよりも、ある程度満足できるところで妥協する」、
「人はものごとの仕組みを理解しない。何とか帳尻を合わせて切り抜ける」という傾向を指摘して、
「製作者はウェブページを卓越した著作物(パンフレット)だと思っているが、ユーザーは時速100キロで疾走する車の窓から見る看板という方が実態に近い」。
・・・と断定している。
(第2章:ユーザーは”実際には”どんな風にウェブを使っているのか)

さらに・・・
「大きさの感覚がない」、「方向感覚がない」、「位置感覚がない」というWebの特徴は、
「物理空間に比べてはるかに自分がどこにいるかを把握するのが難しい」点に注目して、
「ウェブページをデザインする場合は、ユーザーはトップページから、きちんと整理された経路を通って目的のページに到達すると想定したくなる。
しかし現実には、そこがどこかもわからないままで、サイトのど真ん中に放り込まれるというケースが多い」。
だから、「内容の詳細ではなく、全体の外観だけで判断がつくようにしておく必要がある」。
・・・と展開している。
(第3章:道路標識とパンくず)

また、製作者側とユーザー側とのギャップについてだけでなく、製作者側の内部での不毛な議論についても解説しているところも興味を持った。
自分の好みや信念を一般化させて議論することを「宗教論争」と表現して、一般論ではなく具体論で話し合う必要性を強調している。
(第8章:「きっと仲良くやっていけるさ」)

そのために必須となるユーザー・テストについては・・・
「テストを行う目的は、何かが正しいと証明することでも、間違いがあると証明することでもない。
製作者の判断を整理するためにおこなうのである」。
・・・と位置付けている。
(第9章:1日10円でできるユーザビリティテスト)

確かに一般論で話し合うことは自分たちの好みを言い合うだけの不毛なものになることがあり、
有益なものにするためにはテストが必須としているところは他の分野にも通じるものとして納得した。

また、ユーザビリティをあえて逸脱することについては・・・
「自分が違反しているルールが何なのかは自覚しておくべきだし、
少なくともルール違反を犯すだけの納得のゆく理由があるのだと考えるくらいのことはしてほしい」。
・・・と結論づけている。
(第12章:助けて!ウチのボスが○○しろって言うんです)

ウェブユーザビリティの考え方と、具体論の進め方を知ることができる一冊。

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2010 7/13
ウェブユーザビリティ、デザイン論、HP・ブログ本、情報・メディア、実用書
まろまろヒット率3

ステファノ・フォン・ロー&トルステン・クロケンブリンク、岩田明子・小林多恵訳 『小さい“つ”が消えた日』 三修社 2008

いま読んでいるWeb Usabilityの本を参考にして、まろまろ記のデザインを変更中のまろまろです。
(検索ボックスをスクロールの必要のない位置にあげるなどの改良をしています)

さて、『小さい“つ”が消えた日』ステファノ・フォン・ロー文、トルステン・クロケンブリンク絵、岩田明子・小林多恵日本語監修(三修社)2008。

いつも先頭に立ちたがる偉そうな“あ”、逆に他を優先する謙虚な“ん”、迷ってばかりの“か”、文字の間に身を置く中立的な“を”、
などの文字が住む五十音村の村民の一人、小さい“つ”は、ある日、他の文字たちから言葉が話せないことをからかわれる。
存在を否定された小さい“つ”は、五十音村を飛び出して旅に出る。
旅先でのさまざまな体験を通して小さい“つ”は自分の存在を見つめなおす。
一方で、小さい“つ”が消えた日本語は大混乱におちいってしまう・・・

日本に留学経験のあるドイツ人の著者が書いた日本語の絵本。
確かに小さい“つ”(“っ”)は、それ自体で発音することが無い日本語の無声音の一つ。
その小さい“つ”に注目した理由は、著者が二十歳を過ぎてから日本語を勉強し始めたことがきっかけになっているとのこと。
母国語では、「言葉を意識するのは、言い間違えをしたときか、おかしなことを言ってしまったときくらい」だけど、
外国語を勉強すると「大人になって何も感じなくなってしまっていた些細なことにも感心、感動することができる」
、と著者が「おわりに」で述べているように、nativeとしては普段意識しない日本語の役割に注目している。

そうした意図で書かれているので、言葉遊びの側面も大きいのがこの本の特徴の一つ。
たとえば、主人公の小さい“つ”と、そのお父さんの大きい“つ”、そしてお父さんのことが好きな“み”、
の三人が最後に並ぶラストも言葉遊びのオチとなっている。

言語的な着眼点を軸にして、普段は見落としがちな大切なものの発見をテーマとしてえがく一冊。

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2010 7/12
絵本
まろまろヒット率3

ホルヘ・ルイス・ボルヘス、鼓直訳 『伝奇集』 岩波書店 1993

まろまろ記9周年の「まろまろ茶話会2010」開催を正式発表した、
まろまろ@今回は原点回帰として本の交換会もしますので、まろみあんの方はぜひいらしてくださいな☆

さて、『伝奇集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳(岩波書店)1993。

ガルシア=マルケスと並ぶラテン・アメリカ文学を代表する作家・小説家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの代表的短編集。
原題は“Ficciones” (1944)。
読んでみると、中でも・・・

海賊版の百科事典に書かれている架空の国家を調べることで現実と架空の境界線が曖昧になっていく、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」。

巨大な図書館の中で生まれ育った司書が図書館の空間と自分の人生を振り返る、「バベルの図書館」。

夢を見ることで一人の人間を創造しようする男をえがく、「円環の廃墟」。

・・・の3つが印象に残った。
特に「円環の廃墟」の諸行無常を感じさせる最後は印象深い。

著者は『ボルヘス、文学を語る』の中で、「われわれは暗示することしかできない、
つまり、読み手に想像させるよう努めることしかでない」と語っているように、暗示に富んだ内容のものが心に響いた。

暗示させることを意識的に書かれただけあって、現代にも通じるテーマ性を持った作品が多い。
たとえば、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」はシミュレーテッド・リアリティを、
「バベルの図書館」はインターネットを、「円環の廃墟」は仮想現実を、それぞれ思い起こさせられた。

そんな暗示に富んだ著書の小説は現代にも影響を与えていて、
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の中に出てくる図書館は「バベルの図書館」をモデルにしている。
(しかもその図書館長の名前は「ホルヘ」だったりするw)

ちなみに、短編集は音楽のアルバムのようなもので、中に収められている1本だけ(シングルだけ)ほしい時がある。
電子書籍がどのように普及していくのかはまだ不透明だけど、電子書籍普及によって
短編小説がより手に入りやすく、そしてより発表しやすくなることを期待している。
そんな現代的なテーマも思い起こさせられる短編集。

この本をamazonで見ちゃう

2010 6/17
小説、短編集
まろまろヒット率4

ピエール・ブルデュー、田原音和訳 『社会学の社会学』 藤原書店 1991

アクセス殺到によるサーバダウン頻発化に対応するため、ついに6回目のサーバ引越をしようと思う、
まろまろ@しばらく不安定な表示になりますが気長にまろまろとお付き合いくださいな☆

さて、『社会学の社会学』ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳(藤原書店)1991。

社会学者、ピエール・ブルデューによる、21の論点に対する回答集。
原題は”Questions de sociologie” (1984)。
もともとは一般の人々を対象とした講演やインタビューの議論を基にしているので、
「専門家以外の人に読まれることを想定している」と著者は書いているけれど、内容は決して簡単ではない。
とはいえ、社会科学の方法論から、文化論、芸術論などにおよぶ内容はとても刺激的。
どれもが鋭い視点で、これまでの「常識」に対して「冷や水をかける」ようなブルドュー社会学の概要を知ることができるものになっている。
読み応えがあるので、一章、一章、ゆっくりと噛みしめて消化しながら、三カ月ほどかけて通読することになった。

ちなみに、パリ第7大学(Denis Diderot)でのブルデューの後任は矢田部和彦さんという日本人の人が務めているけれど、
僕は矢田部和彦さんが参加した大阪フィールドワークのコーディネータを務めた経験がある。
また、矢田部研究室の院生さんからインタビューを受ける機会もあったので、ブルデューの弟子と孫弟子に当たる人達とご縁があることになる。
そういう経緯があるので、この本の中で調査対象者に対する接し方について書かれた部分には、
「僕もこんな風になことを思われているんだな」と微笑ましくなることもあった。

そんな個人的な事情は差し引いても、読み応えがあり、そしてとても刺激的な一冊。

以下は、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○私はいつも別の方向にねじまげることから始めます。
つまり、はみだし者、社会的空間の外なる者であろうとする人びとも、
結局はみんなと同じように社会的世界のなかに位置づけられているのだ、
ということに立ち戻ることから始めるのです。
<言葉に抵抗する技術>

○私の目標は、「社会的世界なんて大したことはないさ」と言わせないように手を貸すことなんです。
<言葉に抵抗する技術>

○社会学が示してみせるのは、あれこれ社会的慣習行動の効力が発揮されるために糾合されなければならない客観的な諸条件は何かということです。
<お邪魔な科学>

○おそらく社会学の唯一の任務というのは、そのはっきりした欠落からしても、その獲得しえたところからしても、
社会的世界についての認識の限界をはっきりさせることであり、
またこうして、科学を引き合いに出すような予言を手初めに、あらゆる形の予言を成り立ちがたくすることなのです。
<お邪魔な科学>

○投資とは[何かに打ち込もうとする]行動への傾性[気質]であって、
なにがしかの賭け金を賭けようとするゲームの空間(これを私は「場」=champと名づけています)と、
このゲームにぴったり合った諸性向の体系=systeme de dispositions(私はこれをハビトゥスと呼んでいます)との間に産み出されるものである、
ゲームをしたがる、ゲームに熱中しようとする傾性と素質とを同時に含意するゲームとその賭け金の感覚のことなんです。
<お邪魔な科学>

○言葉の厳密な使用、コントロールされた使用に到達するために必要不可欠な書くという作業が、
明晰さと呼ばれているものに達することはきわめて稀にしかありません。
明晰さとはすなわち良識の証しを、あるいは狂信の確かさを補強するだけだということです。
<問題の社会学者>

○科学のなすべきことは、作られたものの妥当性の限界をはっきり明言しておいて、
これができることの全部だということを知り、かつ言った上で、なすべきことはする、というところにあるからです。
<問題の社会学者>

○社会科学の仕事の一部は、この日常用語がまとったり脱いだりするすべてのヴェールを剥ぎとる=de-couvrir(発見する)ことにあります。
<問題の社会学者>

○行為の原理は、私がハビトゥスと呼んでいる性向の体系であり、それは生活史的経験すべての所産です。
まったく同一の二つの個人史というものが存在しない以上、類似した経験、つまりハビトゥスの類、
あるいは階級のハビトゥスは存在するとしても、二つの同一ハビトゥスは存在しないということです。
<どうやって「自由な知識人」を解放するか>

○大事なことは、対象についての言説が対象に対する無意識のかかわり方の単なる反映でないように、
対象に対するかかわり方を対象化する(客体として設定する)にはどうすればよいかを知ることです。
この対象化を可能とする技術のなかに、もちろん学問的装置の一切があるのです。
いうまでもなく、この装置自体は、それぞれの時代の先行科学から引き継いだものですから、当然、歴史的批判に服さねばなりません。
<社会学者の社会学のために>

○行為者というのは自分を分類し、他社を分類して日々を過ごしています。(中略)
こうした分類こそ行為者間の闘争の一つの賭け金にほかなりません。
別の言い方をすれば、分類の闘争というものが存在するのであり、これが階級闘争の次元の一つをなしているということなのです。
<社会学者のパラドックス>

☆悪口は他者をその特性のひとつ、彼のひそかに隠しもったえり好みの一つに還元してしまいます。
他者をいわばその客観的真相に押し込めてしまうのです。(中略)
日常的行動のなかでは、客観主義と主観主義との間の闘争が絶えることなく続けられています。
誰もがその人なりに自分についての主観的な表象を客観的な表象として人に押しつけようとするものです。
支配者とは、自分がそう見られたいと思っている通りに被支配者が自分を見るように被支配者に対して押しつける諸手段をもっている者のことです。
<社会学者のパラドックス>

○真理とは一つの敵対関係を含んだものです。ある一つの真理があるとすれば、それは、その真理が闘争の一つの賭け金であるからにほかなりません。
<社会学者のパラドックス>

○社会学者の仕事は、いつも二つの役割の間に自分の位置を取らなければなりません。
座を白けさせる役割に終始してもなりませんし、反対にユートピアを信じる共犯者としての役割に甘んじてもならないわけです。
<話すということはどういうことか>

☆☆場にはもう一つ、すっかり見えにくくなっている特性があります。
場に参与しているすべての人びとが、一定数の根本的利害、つまりその場の存在それ自体に結びついているものの一切を共有しているということ、
それから、どんな対立にも表面にはあらわれてこない客観的な共犯性を共有していることです。(中略)
闘争に参加する者は、敵味方を問わずゲームを再生産することに貢献し、
場によってその完全さに程度の差こそあれ、賭け金の価値に対する信仰を産み出すことに貢献しているのです。(中略)
ゲームそのものを破壊してしまう全体的革命から守っている要因の一つが、
ゲームに参加するために予期される時間や努力などに費やす投資の重要さだということは明らかです。
また、そうした投資が経なければならぬ通過儀礼の試練の数々が示しているように、
ゲームが根こそぎ破壊されることをじっさいに考えられもしないものにしてしまうのです。
☆<場のいくつかの特性>

○ハビトゥスとは、意識されていようといまいと、長い時間をかけた習得によって獲得された性向の体系であり、生成図式の体系として作動します。
また、ある目的にむけてはっきり構想されたものでなくとも、行為者の客観的利害に客観的に合致しうる戦略を産み出す生成母体なのです。
<場のいくつかの特性>

○人びとがハビトゥスのおもむくがままに動いてさえいれば、場の内在的必然性に従い、そこに刻み込まれている諸要請をみたすことができるというときには(そうなればどんな場においても卓越したことだとはっきり言えます)、当の人たちは自分を犠牲にしてまである義務に身をささげるなどという意識はまるでもっておらず、なおさら(特定の)利益の最大化をついきゅうしているという意識はもっていません。
したがって、よそ目にも完全に損得を免れているように見え、自分自身もそう考えるという追加利益があるわけです。
<場のいくつかの特性>

○言語資本とは、言語の価格形成のさまざまなメカニズムに及ぼしうる権力であり、
価格形成の法則を自分の利潤に合わせて作動させたり、特定の余剰価値を引き出したりする権力なのです。(中略)
言語的相互作用はすべて、それを包摂する諸構造によってたえず支配され続けている小さな市場のようなものなのです。
<言語市場>

○恩着せがましさとは、客観的力関係を扇動的に利用することです。
なぜなら、人びとの思いを聞き届けてみせる人が、ヒエラルキーを否定するために、まさにそのヒエラルキーを利用しているからです。
彼がヒエラルキーを否定するとき、彼は、それにつけこんでいるからです。
<言語市場>

○趣味というのは、他との違いを際立たせるものであるからこそ変化していくのです。(中略)
音楽ビジネスがなぜ難しいかというと、文化的財に関する限り生産とは消費者を産み出すことにほかならないからです。
もっとはっきり言えば、音楽の趣味の生産、音楽の欲望、音楽への信仰の生産ということなのです。
<音楽愛好家という種の起源と進化>

○趣味とは、一人の人物ないしはある集団の習慣行動と所有=物の総体として見れば、
財とある趣味との出会いの(予定調和による)所産ということになりましょう。
<趣味の変容>

○噂される人というのは、潜在的に言いたいことがあっても、誰かにそれを言われて初めてそうだと分かる、そんな人でもあるです。
<趣味の変容>

○趣味とは、一方の客体化された歴史と他方の身体化された歴史という二つの歴史の、客観的には相互に合致した出会いの所産なのです。
<趣味の変容>

☆芸術作品と消費者との出会いのなかには、不在の第三者がいます。
この不在の第三者とは、自分の内なる美的感覚を物象に変え、それを魂の状態から、いや身体の状態から、
自分の美的感覚に合った可視的な物象へと変える能力にたよって作品を生産し、自分の好みに合うものを作りだした人のことです。
芸術家とは、このような内的なものを外的なものに変える専門家、客体化の専門家なのです。
<趣味の変容>

☆消費者がその芸術家の創作物のなかに自分の姿を認めることによって、自分でも作ることができたなら作っていたであろうものを
芸術家の創作物のなかに認めることによって、芸術家は芸術家として承認されるのです。
こういう人が「創造者」という魔法の言葉で呼ばれてしまうのは、芸移活動をいったん魔術的な働きと定義してしまっているからなのですが、
しかしこれこそは、実は社会的な働きにほかならないのです。
<趣味の変容>

○趣味とは、ある特定の人物によってなされる選択の総体ではありますが、
芸術家によって客体化された美的感覚(趣味)と消費者の趣味との出会いの所産ということになるのです。
<趣味の変容>

☆社会学の特有の困難は、誰もが何らかのかたちで知っている事柄をあらためて教えてみせるというところに由来しています。
しかし、それは知りたくない事柄であったり、そうでなければシステムの法則がそれを隠しているために知りえない事柄だったりするのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆クリエーターは、創造者たる権力を信用させるだけの言説をもっていることによって、
クリエーターとして創造されうるのだ、ということが重要なのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆芸術家の自律性は、その基礎が創造的な天才の奇蹟のなかにあるのではなくて、
方法、技術、言葉など、相対的に自律的な一つの場の社会史の社会的産物のなかにあるのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○芸術生産の場とは、その名において、芸術の価値のなかに、芸術家がもつ価値の創造能力のなかに
信仰を産み出す場であるということが、どのように歴史的に形成されるのかを明らかにすることが問題なのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○あらゆる力関係の本質は、それが言説によって隠蔽されているからこそ初めてその力を発揮できるのだと言っていいでしょう。
<世論なんてない>

○正当性とは、何かが見落とされていることを意味します。(中略)
被支配者たちが承認するのは、支配者たちがこの定義に対してもつ利害を被支配者たちが見落としている場合に限られます。
<ストライキと政治行動>

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2010 6/16
社会学、芸術論、学術方法論
まろまろヒット率4