アーノルド・ローベル、三木卓訳 『ローベルおじさんのどうぶつものがたり』 文化出版局 1981

今年も7月19日に「まろまろ茶話会2009」を開こうかと思っている、まろまろです。
(前回の様子は出来事メモ:「まろまろ茶話会2009を開催」)

さて、『ローベルおじさんのどうぶつものがたり』アーノルド・ローベル著、三木卓訳(文化出版局)1981。
“Frog and Toad Are Friends”(『ふたりはともだち』)の作者としても知られるローベルによる動物寓話集。
原題は“Fables” (1980)。

内容は、左に文章、右に絵の見開き2ページで1話完結の寓話が20話集められている。
それぞれの寓話の最後にはローベルおじさんからの教訓が添えられていて、たとば・・・
「クマとカラス」では、「欲望が強いときは、だまされやすものです。」
「サイのおくさんとドレス」では、「たとえひとかけらのおせじだって、おせじほどてごわいものはありません。」
「ゾウとそのむすこ」では、「ものを知っていることが、いつも素朴な観察にまさる、というわけではありません。」
・・・など、皮肉なものが多い。
確かに、動物を擬人化した物語は童話や寓話の基本だけど、妙に冷笑的なものが多い。
文学ではGeorge Orwellの“Animal Farm”や、音楽ではECHOESの“ZOO”なども、皮肉な内容になっていることを思い出した。
(ときどきカラオケで歌いますw)

ただし、この寓話集の中には明るいものもある。
たとえば・・・
「ネコの思い」では、「すてきな食事でしめくくれるなら、何があってもすべてよし、です。」
・・・と述べているところは、微笑ましく感じた。
また、最後の寓話である・・・
「海べのネズミ」では、「長くつらかった道のりも、ほんとうにしあわせだとかんじる一瞬があれば、それでむくわれます。」
・・・というのは、少しジーンときた。
特に、夕日を見つめるネズミが描かれた絵も印象的で、壁紙にしたいと思ったほど。
皮肉の多さを感じる寓話集だけど、この最後の寓話で何だか暖かい気持ちになった。
(まろまろヒット率はこの「海べのネズミ」を考慮してのもの)

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2010 5/29
絵本
まろまろヒット率4

横山光輝 『史記』 小学館 全11巻 2001

文京区友の会で会長である僕自身が幹事を担う朝オフ会を3年ぶりに開催した、まろまろです。

さて、『史記』横山光輝著(小学館)全11巻2001。

司馬遷の『史記』を、『鉄人28号』『魔法使いサリー』『三国志』などで知られる漫画家、横山光輝が手がけた長編漫画。
マンガ化と言っても、取り上げていない話やアレンジを加えている部分もあるので、
どちらかというと『史記』を原案にした人間劇という感じになっている。

たまたまフフレの家にあったので手にとって読んでみると・・・これがとても痛い。
人の歴史の醜い部分が鮮明にえがかれていて、読んでいて胸が痛くなることの連続だった。

『ローマ人の物語29,30,31 終わりの始まり』の中で哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウス帝に対して・・・
「マルクスが傾倒していた哲学は、いかに良く正しく生きるか、への問題には答えてくれるかもしれないが、
人間とは(略)下劣な動機によって行動に駆られる生き物でもあるという、人間社会の現実までは教えてくれない。
それを教えてくれるのは、歴史である」
・・・と指摘する部分があったけれど、この『史記』はそうした人の下劣さをイヤというほどえがいている。

ちょうど自分の社会活動=人間関係を振り返っていた時でもあったので、自分のことに照らし合わされて読み進めるのが辛くなることもあった。
人には下劣な面があり、人の営みの結果である歴史はそうした下劣さの連続であるのは事実だけど、
これまでの自分を振り返れば、自分自身が高潔で美しくあろうとするあまりに、
人の下劣さや醜さに対して目を向ける機会が少なかったことを思い起こさせられた。

よく「政治は汚い」とか「あそこは裏でドロドロしている」などということを、したり顔で話す人を見かけることがある。
でも、政治は人がおこなう以上、政治が汚いのは人に汚い面があるからというのも無視できない事実だ。
そして、人にはドロドロした面がある以上、社会と呼ぼうが、組織と呼ぼうが、グループと呼ぼうが、ネットワークと呼ぼうが、コミュニティと呼ぼうが、
人の集まりはドロドロした部分があるものだ。

また、『こころの処方箋』の中で・・・
「自分の権力や権威を否定する人ほど自分を安定させるために気づかないところで権威を振りかざしたり権力にしがみつくこともある」
・・・という指摘があったように、普段したり顔で自分の潔癖さを語る人ほど、
いざ当事者の立場なると途端に醜い姿を曝け出すのを見かけることもよくある。
それは自分自身を含めた人の下劣で醜い部分に対して目を背け、無自覚であるからだ。

このマンガの中でえがかれた醜い歴史エピソードの数々は、人には美しくない部分があることの事実を雄弁に物語っている。
スッガー・ロウが「悲しいけど、これ戦争なのよね」と言ったように、「悲しいけど、これ現実なのよね」という気持ちで、
「美しさは求めていくものであって、前提とするものではない」ということを受けとめる機会の一つとなった。
その一点だけを持って、自分にとってはとても意義深い一冊。

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2010 4/16
歴史、マンガ本
まろまろヒット率5

ハンス・ウィルヘルム、久山太市訳 『ずーっと ずっと だいすきだよ』 評論社 1988

サントリー山崎蒸留所でちょっと感じるものがあった、まろまろです。

さて、『ずーっと ずっと だいすきだよ』 ハンス・ウィルヘルム著、久山太市訳(評論社)1988。

犬のエルフィーと”ぼく”は、一緒に育った。
“ぼく”の背がエルフィーよりも高くなる頃には、エルフィーは太って動きも鈍くなる。
ある朝、ついにエルフィーが死んでしまった。
深い悲しみを感じながらも、”ぼく”には唯一の慰めがあった・・・

・・・ペット(コンパニオンアニマル)の老いと別れをえがいた絵本。
原題は“I’LL ALLWAYS LOVE YOU” (1985)。

ちょうど僕も19年飼っていた猫(ホームズ)とお別れしたので、
ペットの老いと別れをテーマとしたこの物語には共感するものがあった。
特に最後のページで・・・
「いつかぼくも、ほかの犬を、かうだろうし」
・・・ではじまるくだりには思わずウルウル(T_T)

愛していることを伝えることの大切さを表現した絵本。

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2010 3/30
絵本
まろまろヒット率4

池波正太郎 『鬼平犯科帳〈1〉』 文藝春秋 2000

せっかく電源が使えるN700系新幹線に乗ったのに、Let`s noteのACアダプタを忘れて来たことに気づいて「そして、僕は途方に暮れる」 by 金色鍋生です。

さて、『鬼平犯科帳〈1〉』池波正太郎著(文藝春秋)2000。

浅間山の噴火や相次ぐ飢饉によって治安が悪化した江戸時代中期、長谷川平蔵(宣以)は江戸の火付盗賊改方長官に就任する。
闇社会にも精通する情報網と苛烈な取り締まりぶりから、長谷川平蔵は鬼の平蔵、鬼平と呼ばれていく・・・

1968年初版の池波正太郎の代表作、鬼平犯科帳シリーズ第1弾。
僕にとって鬼平犯科帳と言えば、二代目中村吉右衛門が演じる時代劇の印象が強いけれど、
今回は池波正太郎記念文庫で開催されるイラスト展のお誘いが
まろまろ談話室(mixiまろみあんコミュニティ)に寄せられたので、予習のために読んでみた。

読んでみると、鬼平は基本的に「まとめ役」(著者談)で、同心や盗賊、庶民たちが各話の主役となっている。
江戸の庶民の暮らしぶりを丁寧にえがきながら、人間味あふれる話が進んでいくというストーリー展開。

ただし、単純な「人情もの」ではなく、人情の空しさや儚さが強調されている。
人間の持つ憧れや信頼というものが、いとも簡単に崩れていく様子が鮮明にえがかれているのが印象深い。
特に第3話「血頭の丹兵衛」の中で、密偵となった粂八がかつての親分に対して言い放つ言葉は胸が打たれた。

ちなみに、僕は大阪(上方)出身だけど、ちょうどこの本を読んでいる時に引率をしていた際には、
「若けえ連中には腹いっぱいにさせてやらねえとな」などという風に江戸口調になっていたらしい。
まったく、何にでもすぐに影響されちまっちゃあいけねえや。

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2010 2/26
時代小説
まろまろヒット率4

ミヒァエル・エンデ&マンフレット・シュリューター&ヴィルフリート・ヒラー、虎頭恵美訳 『おとなしいきょうりゅうと うるさいちょう』 ほるぷ出版 1987

今年は読書日記ごはん日記お風呂日記とのリンクを意識しようと思う、まろまろです。

さて、『おとなしいきょうりゅうと うるさいちょう』ミヒァエル・エンデ著、マンフレット・シュリューター絵、ヴィルフリート・ヒラー曲、虎頭恵美訳(ほるぷ出版)1987。

元気一杯の恐竜は、「おとなしいきょうりゅ」と名付けられた元気さを失ってしまった。
一方、静かさを愛する蝶は、逆に「うるさいちょう」と名付けられて落ち込んでしまう。
蝶は恐竜と会ってお互いの名前を交換する契約をかわそうと思い立つ・・・

『はてしない物語』(『ネバーエンディングストーリー』)や『モモ』で知られる児童文学作家、ミヒャエル・エンデが原作の絵本。
絵本カフェ holo holoさんにおじゃました時に見つけて読んだ一冊で、原題は“Der Lindwurm und der Shmetterling” (1981)。

内容の方は、名前を付けられることで受けてしまうidentityの揺らぎと、その克服をテーマとしている。
エンデ自身も名前のことで小さい頃からからかわれてきたことを、あとがきで書いているように、
誰もが一度は通る道でもあるので興味深いテーマだった。
(Endeはドイツ語で終わりを意味する)

また、この絵本のために作曲がされていて、場面ごとに楽譜が入っているのも興味深かった。
特に効果音などは、さりげなく絵の一部として溶け込んでいるところが面白い。
(作曲家も著者と並んでちゃんと名前が載っている)
エンドのテーマと共に、新しいスタイルへの意欲が感じられる絵本。

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2010 2/12
絵本
まろまろヒット率3

ホルヘ・ルイス・ボルヘス、鼓直訳 『ボルヘス、文学を語る―詩的なるものをめぐって』 岩波書店 2002

まろまろ@今週末はtwitterでの話題から発展した1000円焼肉食べ放題に行きます☆

さて、『ボルヘス、文学を語る―詩的なるものをめぐって』ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳(岩波書店)2002。

『伝奇集』などで知られるボルヘスが1967年~1968年にかけてハーヴァード大学のチャールズ・エリオット・ノートン詩学講義でおこなった講義録。
原題は“This Craft of Verse” (2000)。

ボルヘスといえば、ガルシア=マルケスと並ぶ20世紀を代表するラテンアメリカ文学者だけど、
小さい頃から英語を話す環境にあったこともあって、この講義も英語でおこなわれている。
(英文学からの引用も多いので、英語表現の勉強にもなった)

内容は、多くの引用を使いながら自説を展開する講義の中に、ボルヘスらしさがかいま見える。
たとえば、エマソンの「図書館は、死者らで満ちあふれた魔の洞窟である」を引用して、
読み手によって書物は「生命を回復することが可能」だと指摘しているところは興味深かった。
あくまで「書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体」だけど、
読者によって「すると言葉たちは息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち会うことになる」としている。
<詩という謎>

また、ホイッスラーの”Art happens”を引用して、
“Art happens every time we read a poem” (われわれが詩を読むたびに、芸術はたまたま産まれる)
と付けくわえているところはボルヘスらしい”wit”だと感じた。
<詩という謎>

さらに自分自身の作家としての姿勢についても言及していて、
作家であることは「それは単に、自分自身の想像力に忠実であることを意味します」と言い切っている。
「私は作品を書くとき、読者のことは考えません (読者は架空の存在だからです)。
また、私自身のことも考えません (恐らく、私もまた架空の存在であるのでしょう)」。
「私が考えるのは何かを伝えようとしているかであり、それを損なわないよう最善を尽くすわけです」。
だから「私の考えでは、われわれは暗示することしかできない、つまり、読み手に想像させるよう努めることしかでない」としている。
<詩人の信条>

ちなみに、ボルヘスはこの講義の時にはすでに視力がほとんど失っていたので、メモを使わずに講義をしたとのこと。
ボルヘスの百科全書のような教養も感じられる一冊。

以下は、その他にチェックした個所(一部要約含む)・・・

○バイロンの”She walks in beauty, like the night”をその気になれば自分たちにも書けたかもしれないことについて
→しかし、その気になったのはバイロン一人でした
<隠喩>

○叙事詩で大事はのは英雄、小説の本質は人間の崩壊
<物語り>

○いい本を書くためには、恐らく、一つのきわめて重要でしかも単純なことが必要である
→その本の枠組みのなかに、想像力を掻き立てるような何かが存在しなければならない
<詩人の信条>

○意味などというものは重要ではない
→重要なのは音楽まがいのもの、語り口と呼ばれるもの
<詩人の信条>

○若者は不幸を好むものである(略)若者は不幸であるために全力を尽くす
→そして一般に、それに成功する
<詩人の信条>

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2010 2/11
文学論、詩論
まろまろヒット率3

ロラン・バルト、花輪光訳 『文学の記号学―コレージュ・ド・フランス開講講義』 みすず書房 1998

ちょっとした試験に通ったので特命係長プレイとして4月から倫理も担当することになった、
まろまろ@人類の哲学・思想・宗教の流れを知ることは、自分が悩んだり迷ったりした時に大きな参考になると思ったからです☆

さて、『文学の記号学―コレージュ・ド・フランス開講講義』ロラン・バルト著、花輪光訳(みすず書房)1998。

副題にあるように、ロラン・バルトがおこなったコレージュ・ド・フランス(Collège de France, CdF)の講義をまとめた一冊。
原題は”Leçon: Leçon inaugurale de la chaire de sémiologie littéraire du Collège de France” (1978)。

読んでみると、まずロラン・バルトが文学の定義を・・・
「私が文学という語によって意味するのは、一群または一連の作品のことではなく、それにまた、商売や教育上の一部門のことでもない。
ある実践、各という実践が残す痕跡からなる複合的な書き物(グラフ)のことである」
・・・と広がりを持って捉えているところが注目された。

また・・・
「たとえ権力の外にある場所から語ったとしても、およそ言説には、権力(支配欲 libido dominandi)がひそんでいる」
・・・と指摘しているのは、インターネットで情報を発信する自分自身のことを振り返ることになり、
またmixi日記などで無自覚に支配欲を発揮する人たちのことも重ね合わせて考えさせられるものがあった。

そして論旨を展開しながら・・・
「科学は粗雑であり、人生は微妙である。そしてこの両者の距離を埋めるからこそ、文学はわれわれにとって重要なのである」
・・・と言い切っているところも印象深い。

講義の最後で・・・
「一生のうちには、自分の知っていることを教える時期がある。しかしつぎには、自分の知らないことを教える別の時期がやって来る。それが研究と呼ばれる」
・・・と述べているのは、すごく良い表現だと感じた。

とはいえ、ロラン・バルトの言っていることはコロコロと変わっている(「転位」)し、使っている用語もかなり曖昧なもので、何だかよく分からないところも多い。

そんな分かりにくい講義内容でも、この本の半分にもなる訳者の解説が付いているので、通読すれば理解しやすいように工夫されている。
訳者が解説の中で・・・
「彼の本質的寄与は(中略)彼の言表の内容にあるのではなく、言表の仕方にあるのだ」
・・・というロラン・バルトの評価を紹介しているように、
エクリチュール(écriture、言説)の快楽に注目したロラン・バルトのあやしい魅力があふれる講義録。

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2010 2/4
文学論、記号論、思想
まろまろヒット率3

夏目漱石 『坊ちゃん』 新潮社 1950

まろまろ@Appleから発表されたiPadが成功するかどうかは一先ずおいて、
電子書籍の普及によって版元から出版された書籍とWebサイトがまったく同じ土俵に躍り出る点に注目しています。
電子書籍普及の影響は、読み手よりも書き手や発信者の方によりimpactのあるものになるでしょう(^_-)

さて、『坊ちゃん』夏目漱石著(新潮社)1950。

江戸っ子の「おれ」は、無鉄砲で真直ぐな気質を持つ江戸っ子。
四国の中学に赴任した「おれ」は、田舎根性丸出しの悪質な生徒や教師たちと闘ってゆく・・・

明治39年(1906年)発表の夏目漱石初期の代表作。
道後温泉に行った時に通読したことが無かったことを思い出したので手に取った一冊。
著者が松山中学(愛媛県尋常中学校)に赴任した体験をもとにしているので、方言や名所などの舞台装置は松山になっている。
(ただし実際の夏目漱石は主人公と違って優遇されていた模様)

読んでみると、まず読みやすいことが意外だった。
夏目漱石の作品は、乾いた文体で陰気な世界観を語る印象が強くて(『こころ』など)、
読みにくい気がしていたけれど、この作品は文体も展開も軽くて自然に読み進めることができた。
それは初期の作品ということもあるけれど、現存する原稿には手直しが少ないとのこと。
確かに寝かせることや推敲をあまりせず一気に書き上げたことが、ところどころから伝わってくる。

特にいたずらをした生徒を追求する第4章で・・・
「いたずらだけで罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。
(中略)学校へ這入って、嘘を吐いて、護摩化して、陰でこせこせ生意気ないたずらをして、
そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。」
・・・と主人公に語らせる部分は、この作品を貫く妥協の無い反骨&反俗精神を、
思い切りよく書き上げたことが伝わって来て印象深い。

悪を懲らしめる勢いの良さを感じる作品だけど、よく読めば善は勝っていないことに気づく。
決してハッピーエンドにはならない勧善懲悪ものとして、近代を表現しようとした意欲作。

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2010 1/29
小説
まろまろヒット率3

岡本太郎 『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 光文社 1999

まろまろ@これが2010年最初に読み終えた本になります☆

さて、『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』岡本太郎著(光文社)1999。

「太陽の塔」などの作品で知られる前衛芸術家、岡本太郎による芸術論と文化論。
原本初版は1954年という60年近く前の本だけに、単語や言い回しは古いものがあるけれど、その内容は今も色あせていない。
著者が「われわれの生活全体、その根本」を対象にしたと初版の序で書いているように、
単なる芸術にとどまらない主張は読んでいて強く心に響くものがあった。

特に現代論を展開しながら芸術を「ゆりうごかされ、感動を呼び起こし、そこから問題を引き出されるもの」と定義して、
「うまくあってはいけない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と述べているのには感銘を受けた。

岡本太郎によれば、現代は手軽に気晴らしを手に入れることができる状況にあり、
そうした上手なもの、綺麗なもの、心地良いものは、目の前を通り過ぎて消費されていく点が強調されている。
手軽な気晴らしよって、「楽しいが空しい」、「楽しむつもりでいて、楽しみながら、逆にあなたは傷つけられている」。

だから、たとえ気晴らしであっても「生命が輝いたという全身的な充実感、生きがいの手ごたえがなければ、
ほんとうの意味のレクリエーション、つまりエネルギーの蓄積、再生産としてのレクリエーションになりません」として、
「自己疎外からの自己回復する情熱」が芸術だと位置付けているのは考えさせられるものがあった。

20世紀半ばの岡本太郎の視点を21世紀初頭の現代に持ち越してみると、情報通信技術の発展で気軽にコミュニケーションが可能になった現在、
手軽な交流による浅く薄い人間関係で一時の寂しさや疎外感をまぎらわし、そのことでかえって傷ついている人を見かけることがある。

また、自分を振り返って見れば、このまろまろ記は本来は読書日記であり、今でも自分に恥ずかしさをつきつけるために続けている。
(まろまろコラム:『メモのメモ』)
アクセス数の多いごはん日記お風呂日記のような手軽なコンテンツによって人気ブログやカリスマ・ブロガーなどと祭り上げられることはあるし、
そうした称賛には気軽な心地良さを感じることもあるけれど(ピコピコしいw)、軽いコンテンツだけしか読まない人とは結局は表面的な関係しか構築できなことが多い。
手軽なコンテンツだけでは無く、たとえ重たさや反発を招く可能性があったとしても、
自分の内面と向き合って導き出したものを書き、そして公開することの重要性をあらためて感じさせられた。

ちょうど数年来草稿を続けていたまろまろコラム:『寛容のメモリ』を仕上げに入った時期とも重なり、
上手く、綺麗で、心地良いものは他人事であり、自分の根源を揺り動かすものでは無いという岡本太郎の主張はずっしりと重く響くものがあった。
読み終えた時には、非公開の場所で慣れ合い、依存し合っているだけで何も産み出さない交流では無く、
自分の内面と向き合って表現し、発信するために情報メディアを使うことの大切さを突き付けられた気分になった。
そのことをあらためて気づかせてくれたという一点だけを持って、まろまろヒット率5。

ちなみに純粋に読み物としては、くどさを感じる部分も多かった。
それは岡本太郎の作品に共通した印象で、僕の好みとは違う。
でも、著者が「ここちよくあってはならない」とするように、
違和感があるものでも心に響くものは価値があると思うので、まろまろヒット率は5のまま公開。

以下はこの他にチェックした箇所(感銘を受けた順)・・・

☆現代に生きぬく責任を持たないものは、とかく過去を美化してその中に逃げこもうとするもので、これも空虚な欺瞞
<第3章 新しいということは、何か>

☆この「…らしく」がくせものです。それは無責任な旅行者の言い分であって、そこに生活している人間にとってはなんの意味もない
→むしろ迷惑な言いがかりにちがいありません
<第6章 われわれの土台はどうか>

☆新しいものには、新しい価値基準がある
→なんの衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない
<第3章 新しいということは、何か>

☆まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける
→人生だって同じです(略)いつでもなにかにぶつかり、絶望し、そしてそれをのりこえる
→そういう意志のあるものだけに、人生が価値を持ってくるのです
<第3章 新しいということは、何か>

☆見栄や世間体で自分をそのまま出すということをはばかり、自分にない、べつな面ばかりを外に見せているという偽善的な習慣こそ、非本質的
→人間はちょうど石ころと同じように、それそのものとしてただある、という面もあるので、
その一見無価値的なところから新しく自分をつかみなおすということに、これからの人間的課題がある
→芸術は、いわば自由の実験室
<第5章 絵はすべての人の創るもの>

☆謙虚というものはそんな、人のまえで、おのれを無にするとか低く見せることでは絶対にない、
むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します
→つまり、謙虚とは権力とか他人にたいしてではなくて、自分自身にたいしてこそ、そうならねばならない
<第6章 われわれの土台はどうか>

○創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたせることは、りっぱな創造
→自分自身の、人間形成、精神の確立
<第5章 絵はすべての人の創るもの>

○芸術はすべての人間に生まれながらもっている情熱であり、欲求
<第1章 なぜ、芸術があるのか>

○「いい」と思ったとき、その人にとって、そう思った分量だけ、わかったわけです
→あなたはなにもそれ以外に、わからない分など心配することはありません
<第2章 わからないということ>

○相対的(時代的)な価値と、時代をのり越えた絶対的な価値の二つが、おたがいに切りはなすことのできない、創造の不可欠な本質
<第3章 新しいということは、何か>

○きれいなもの、上手なものは、見習い、おぼえることができるが、人間精神の根元からふきあがる感動は、習い、おぼえるものではありません
→だから自由
<第6章 われわれの土台はどうか>

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2010 1/7
芸術論、文化論
まろまろヒット率5

森谷公俊 『アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像』 講談社 2000

まろまろ@携帯電話を洗濯するというドジっ子プレイをしてしまったので、
携帯電話をdocomoのSH-03AからSH-01Bに機種変更しました、てへっ。
携帯カメラも800万画素から1210万画素になったので、ごはん日記の写真も向上すると思います(^_-)

さて、『アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像』森谷公俊著(講談社)2000。

アレクサンドロス大王(アレキサンダー大王、アレクサンドロス3世)の実像に迫ろうとする歴史書。
20歳でマケドニア王になってから33歳で急死するまでの間に、東地中海からインド西部までの
広大な領域を征服したアレクサンドロス大王は世界史上で最も英雄らしい英雄の一人。
ヘレニズム時代をつくったその影響力は絶大で、同時代からすでに伝説化と神格化が進んでいた。
そんな伝説と神話的エピソードに包まれたアレクサンドロス大王の実像を原典研究を通して解明しようとしている。

特にアレクサンドロス大王の生涯を代表する戦いである、
グラニコスの会戦(第2章)、イッソスの会戦(第3章)、ガウガメラの会戦(第4章)の三つの戦いに
それぞれ1章づつ割り当てて戦いの実像を再現しようとしているところが中心部分になっている。

原典研究から再現した戦いの推移を読んでみると、完全無欠のように評価されることが多いアレクサンドロス大王も、結構失敗をしている。
戦略的なミス(イッソスの戦いでダレイオス3世に後方を遮断される)と、戦術的なミス(すべての戦いで深追いしすぎる)の両方があったこを解明しているのが印象深い。

読み物としても、アレクサンドロスが展開した戦略・戦術の本当の姿を、原典研究の過程を追いながら丁寧に再現されていくのには、
歴史研究の静かなおもしろさと、アレクサンドロス大王の実際の思考・行動の躍動感の両方を感じた。

また、古代からアレクサンドロス大王の成功は「単に幸運だったのか、それとも実力か?」という議論があったことも興味深かった。
ダレイオス3世の再評価や東方政策の実像も再現して、「東西融合はフィクション」だとしているなど、
アレクサンドロス大王の実際の戦いと生身の姿をかいま見ることができる。

この本の結論部分では伝説的な側面を削り取ったアレクサンドロス大王の実像を「未熟だが成長する若い将軍」として結論づけている。
それでも「大王の魔力」として、人を引き付けていったエピソードをエピローグで紹介しているのも印象深かった。

英雄伝説としてでは無く、歴史上の人物としての生身のアレクサンドロス大王に迫ろうとする一冊。

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2009 12/29
歴史、戦略論
まろまろヒット率3