最近、当事者として和解を求められることが何度かあった。
同時に、他の人から和解について相談をされる機会も増えてきている。
そこで、和解についての考えをまとめてみようと草稿を続けて来たものの、
清書して公開することはこの数年来ずっとためらってきた。
和解について書くこと、特に和解の指針について書くことは、
何度書きなおしてみても「何様デスカ?」というものになるし、
どんなに気を使ってもネガティヴな内容を盛り込まずにはいられないからだ。
でも、傲慢さや暗さを取り除いて、綺麗な言葉だけで和解について書いてもそれは内容の無いものになってしまうし、
ごはん日記やお風呂日記のような口当たりが良くて軽いものだけでなく、
このコラムのようにまとまったものを書く時には、自分の内面と向き合って、書きにくいものに取り組むべきだと考えている※1。
さらに、2009年は何かと自分の足元を見つめる機会にめぐまれた※2。
「寛容とは何でも許すことでは無く、自分の中に許す基準を持っていること」だする
僕の姿勢を明確化する時期に来ていると感じるため、ここにコラム化します。
では、ここから本文・・・
僕は温和な人間だと思われることが多い。
でも、決して優しい人間でも無いし、心が広い人間でも無い。
怒りを感じることもある。
それでは、これまでどんなことに対して怒りを感じて来たかを、その行為に注目してリスト化してみると・・・
・自分の情報は出さずに、相手のことを根掘り葉掘り聞いてアラ探しをする
→覗き見趣味
・公開されている情報なのに自分で調べようともしないで、教えてくれないと逆ギレ
→依存の押し売り
・自分からは歩み寄らないで、コンタクトが来ない相手を非難する
→わがままの責任転嫁 (教育的立場や上の立場にいて勘違いしてしまった人に多い)
・自分は信頼される努力はしていないのに、相手が本音を話さないことを責める
→馴れ合いの強制 (mixiなどの手軽なコミュニケーション・サイトのヘビーユーザーに多い)
・事前に指摘できる立場にありながら、結果が出てからしたり顔で指摘
→後出しジャンケンで勝ち誇る
・メッセージを送ることができる状態にありながら一言も無く、事が済んでから友達風を吹かせる
→ニセ友情気分の押しつけ
・・・などだ。
総じて見てみると、自分は時間とエネルギーをかけないのに見え透いた欺瞞や偽善を振りかざす行為、に怒りを感じることが多い。
「己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、人の役に立とうとするのは虫がよすぎる」という言葉があるけれど※2、
そうした虫のよい話を一方的に押しつけられたと感じた時に怒りを覚えてきた。
ただし、こうした行為に怒りを感じることはあっても、それがいつも決定的な決別になるとは限らない。
こうした行為をする人は、自分を振り返ることの少ない、自省的で無い人の場合が多い。
自分を見つめることができないのは弱いからで、
弱い人は、責任ある立場にいない限りは、大目に見てあげた方がいいと考えているからだ。
では、行為に怒りを感じるだけでなく、その人と決別するのはどういう場合か。
これまで僕が決別に踏み切ったのはどういう人かを、今度はタイプに注目してリスト化にしてみると・・・
・自分は安全な場所にいながら、相手には危険を求める
→小役人タイプ
・自分の責任転換のために、相手のアラ探しをする
→ハラスメント・タイプ
・自分の感情を解消するために、相手の生き方や人格を否定する
→虐待タイプ
・・・という傾向がある。
上に挙げた怒りを感じる行為と連続性はあるけれど、決定的に違うことがある。
それは、こういう人たちとは関係を続けていてもプラスにはならないし、何を言っても無駄だと僕が諦めを感じる点だ。
もちろん、僕は正義の味方では無いから、こういう人たちとも表面的な付き合いでお茶を濁すこともある。
でも、こういう人たちと決定的に衝突した時には、怒りを感じるだけでなくきっぱりと決別することがある。
ただし、できるだけ人とは決別しないように、つまり諦めないように気を付けている。
それは僕が心が広いからでは無く、僕のある特質を僕自身が恐れているからだ。
その特質とは、僕が上のような理由で決別した人は、必ず悲惨な出来事に合うというものだ。
本人でない場合はその人の近しい人が悲惨な出来事に合ってしまっている。
そなぜそうなるのか、その過程は実証的に検証できないことで、憶測の域を出ない。
科学的で無いネガティヴな内容で憶測はすべきではないと考えているので、ここでは書かない。
ただ、僕が諦めて相手にしなくなった人やその近しい人には常に悲惨なことが起こっている事実と、
そういう自分の特質に僕は恐れている事実、の二つの事実だけを書くにとどめる。
そんな自分の特質を恐れる僕でも、上に挙げた傾向にある人とは諦めて決別することがある。
決別する時ははっきりとしていて、これまでの経緯がどうであろうと、たとえ思い出がどんなに美化されていようと諦める。
過去にとらわれて諦めた人と接し続けることは、お互いにマイナスにしかならないと考えるからだ。
それでは、そこまではっきりと諦めて決別した人と、和解をすることがあるのかどうかと問われれば、実はある。
諦めてしまった人であっても、丁寧な手書きの謝罪文をもらったり、涙ながらに土下座までされれば心が動く。
ただ、感情のおもむくまま許してもそれは一時の気分だけで長続きはしない。
何を持って許すのか、和解には指針(目盛)が重要だと考えている。
僕の和解の指針としては、以下の四つの指針がある・・・
・謝罪して来る上に、反省しているのが伝わってくる
→忘れないけれど、許す
・謝罪して来ないけれど、反省しているのが伝わってくる
→忘れないし許さないけど、片目をつぶって接することがある
・謝罪して来るけれど、反省しているのが伝わってこない
→忘れないし許さないけど、両目を開けて注視しながら形式的に受け流すことがある
・謝罪して来ないし、反省しているのが伝わってこない
→忘れず許さず、相手にしない
・・・というものだ。
決して忘れないということと、許すためには実際の謝罪を求めるという二点が、僕が優しくも無く、心が広くもないと自覚するところだ。
忘れないことについては、「水に流す」や「無かったことにする」というのはある意味でファンタジーの世界の話で、幻想からはじまる関係は長続きしないからだ。
また、謝罪を求めることについては、自主的に謝ることができない人は、自分の言動に責任を持てない人なので関係を修復してもうまくいかないからだ。
それだけに謝罪はまず書面などのかたちで受け取ることが多い。
こうして書いてみると、誤解を受ける可能性のある内容もあるし、実際に優しくは無く、心が広くも無いことが自分でもよく分かる。
僕は問題が多い人間で、偉そうなことを言える人格も立場も実績もないことは理解している。
もしかしたら上に挙げたような人たちと僕も大して変わらないと考える人もいるかもしれない。
でも、上に挙げたような人たちと僕が一点だけ違うと言い切れることがある。
それは自分が重要だと思う意見や主張は、必ず記録に残して公開し、公の場でも主張する点だ。
僕が諦めて決別した人たちに共通するのは、自分の意見や主張が記録に残ることや公開されることを極端に嫌うところだ。
つまり、自分の発言と行動に責任を持つことが無い、陰口タイプという点が共通している。
記録に残し公開する覚悟の無い人の意見や主張は、自分自身の気持ちや生き方ついても本気では無いので、
たとえどんなに立派に聞こえたとしても、飲み屋の愚痴と変わらず、何も進めることはできない。
会議で目上の人に意見できない人に限って、陰で下の人をコソコソたたくものだし、
二人きりの時は偉そうな人に限って、その主張を記録に残して公開するとなった途端に右往左往するものだ。
僕が1996年からメーリングリストで、2001年からはインターネット上で、恥ずかしいメモを公開し続けているのは※4、
上に挙げたような人たちとは違って、自分の気持ちや人生には本気でありたいと思うからだ。
だから、本当に主張したいことがある時には、記録に残して公開し、公の場でも発言し、時には町に出て主張もしてきた。
僕はピコピコしい人間なので、こうした自分の和解の指針を公開することは勇気がいる。
でも、人を許すというのはとても勇気のいることだ。
そして人が持つことのできる勇気の中で、許す勇気が一番価値のある勇気の一つだと僕は確信している。
だからこそ、優しくも無く、心が広く無い自分の和解の指針を記録して、これからも公開し続ける。
こんな僕だけど、仲良くしてあげてくださいね(^_-)
※1:まろみあんの人たちとの対話や、直前に読んだ『今日の芸術』に考えさせられたことも大きい
※2:まろまろ茶話会2009を開催、文京区友の会の自律的な発展、教え子が結果を残してくれる、特別講義を担当する、新しい特命係長プレイをはじめるなど
※3:『こころの処方箋』
※4:まろまろコラム:『メモのメモ』
2010 1/8
まろまろコラム
追記:このコラムにはoriginal versionとして実名と実際の出来事を詳細に記したものがあります。これは裁判所に提出することが可能なほどの事実性と正当性に基づいていますが、今回の目的は自分の和解の指針とその姿勢を明らかにすることなので、publish versionでの固有名詞は伏せています。