読書日記の日記~メモのメモ~

『メモのメモ』を読んだ人から「読書日記はどう考えてるの?」という質問が寄せられたので
今回はメモの中でも特に読書日記に焦点を当てたコラム。

最初に自分が読書日記を残すことになったきっかけから書くと、
メモを残さないと「もったいない」と感じたからだ。
(かなり不純な動機だす)

本を読んでいると、読書という行為=文字から音や映像を再現するというのは、
音楽を聴いたり映像を観るよりもエネルギーと時間が必要なんだなぁと感じることがある。
特に自分は集中力が散漫な方なので、一冊の本を読みきるまでに手間と隙がかかってしまう。

そうやって苦労して読んだ本なのに、読んだ次の週くらいからもう、
「あの台詞はどの本にあったっけ?」とか「この本は読み終えたんだっけ?」などと
本棚をひっくり返す経験を何度も繰り返していた。
さらに、本は物(ハードウェア)なので、無くしたり、人に貸したり、引越したり、
様々な理由から物理的に手元から消えてしまうことがある。

そんなときでもタイトルと著者と出版社、読み終えた日時(引用するなら出版年もあるとグゥ)、
そして読んだ時の心のひっかかりさえ残しておけば、
たとえ忘れたり、本を無くしたりしても、それほど右往左往しなくてもよくなる。
メモとしての読書日記を読み返せば内容は思い出すし、手元にない本でも引用できる。
特に人は頭の構造からして「記憶しよう」、「忘れないようにしよう」と思っても
すっかり忘れてしまう(いやん)ということがよく起こるので、
思い出すきっかけになるこの読書日記の効果は絶大なものだ。
読書日記を書き残す労力はたいへんだろうと思われることもあるけれど、
読書日記をつけると安心して忘れられるので、逆に読書に集中できるようになった。
(この「まろまろ読書日記」で一番得をしている読者は自分自身だったりする)

そして、読書日記を残すようになって気づいたことがある。
読書で一番大切なもの、それは物としての本ではなく
その本を読んで感じた自分の気持ちだということだ。
その本に書かれてある文字ではなく、その文字を通して感じた自分独自の気持ち、
それこそが本当の意味での「コンテンツ」だと思う。
本に書かれた文字は印刷物なのでたとえ手元から無くしたとしてもいくらでも手に入るけど、
読んだとき、そのときの自分の気持ちは一度無くすともう手に入らない。
もちろん意識の底に残ったり何らかのかたちで影響を残すものだけど、
まったくゼロから思い出した気持ちの記憶は、
それ自体がかなり変わっている可能性が高かったりする。

読書日記はその本を読み終えたときの自分の気持ちを再現できる。
時にはそれがすごく恥ずかしいことだけど(メモのメモ)、
自分の気持ちを再現できるのは自分で残したメモしかない。

そんなこんなで今日も読書日記出来事メモを書き残している。
名前は残ってないけど文字を作った人たちは偉大だ。

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2003 7/3
まろまろコラム

メモのメモ~憎いけど憎めない~

ときどきメモを取ることについての質問が寄せられるので今回はメモのコラム。
前に書いた「本の読み方」と同じようにこのテーマも100人いれば100通りの
やり方や捉え方があると思うのであくまで個人的なメモのメモとして・・・

岐路にたったり迷ったりしたとき、振り返ったり考えたりするときに、
自分自身についての一番重要で一番信頼ができるメディアがメモだと思う。
後で思い返して自分でも笑ってしまうことがあるけれど、
そのときは一生懸命考えているつもりで実は何も考えていなかったり、
気分だけで盛り上がったり盛り下がったりして消耗することってけっこう多い。
そんなときにかつて書き残したメモを読んでみる。
すると、「あれ?こんなに意識低かったかな」とか
「こういうことを見落としてたんだ」とか、
「こんなことしか考えてなかったのか」とかなど、
考える土台になる自分についての発見ができる。
人は内省的になると過小評価か過大評価しかできないものらしくて、
自分を見失って右往左往してしまうこともあるけれど、
メモを読み返すと自分という前提をもう一度地に足をつけてスタートすることができる。

もちろんメモを読み返すというのは録音した自分の声を聴く以上に恥ずかしいことだ。
かくいう自分も「なかったことにしたい」と思うメモはいくらでもある。
でも、恥ずかしいと思うということはそれだけ自分が変化している証でもある。
そういうメモを書き残したときと読みなおすときの「温度差」が、
成長だったり分析だったりするのだろう。
気分に左右されて書き残したメモをまた違う気分の時に読み返す。
その温度差を感じることができるなら、それはもう立派な「客観的メディア」だ。

よく岐路にたつと「変わったほうがいいのか、変わらないほうがいいのか」
というテーマで迷うことがある。
でも、実は変わったようで変わっていないことや、
逆に変わっていないようで変わっているということがけっこうあるものだ。
自分のどこがどれだけ変わったのか、どこが変わっていないのかを
把握するメディアがあれば変わっても変わらなくても必要以上におそれることはない。

そういう風に使うメモだから実際にメモを書き残すときも、
断片的だろうが不十分だろうが関係ない。
気持ちや考えはしょせん言葉でも絵でも音でも映像でも100%は残せないんだから
そのときの自分のこころのひっかかりさえ残すことができるなら、
それは立派な自分自身のメディアだ。

メモ、これほど恥ずかしいものはなかなかないけれど、
これほど重要なメディアもなかなかない。
愛憎相半ばする人生の相棒かもしれない。

2003 1/22
まろまろコラム

理論と感情論~頭と心はちょこっと差異~

「人っておもしろいなぁ」といういきなりありふれた感想からはじめると、
理屈を嫌っている人ほど妙に理屈っぽかったり、
感情論を軽視して理論を重視する人ほど感情的だったりするのを垣間見ることがある。
その中の代表例は、もちろん自分だ(^^)

「そんな理屈で割り切れないのが気持ちや人間関係で・・・」
とか言っているときは変に理屈っぽくなっているし、
「その点を感情論に左右されずに冷静に見ると・・・」
とか言っているときは変に感情的になっていることが多い。
書き残したメモを後で読み返してみると、
一方を否定してもう一方を強調しておきながら、
実は否定している方に無自覚にはまっている自分に気づいて
かなり恥ずかしingな気持ちになることがよくある。
(“出来事メモ“)

面白いことに法律に少しでも関わってみると、
「それは理屈だ」と言って理論では割り切れない心情を重視する意見とよく出会う。
でも、判例を読んでみると感情もひとたび口に出したり考えたりすれば、
それはもう立派な理屈になるということに気づかされる。
(読書日記の”法律関係カテゴリ”)

考えたり話したりするときに理論と感情を分けてスタートすることが多いけど
ホントにそんなにちゃんと分かれるものなのだろうか?
かつては理論と感情の両方のバランスを取るという意味の、
「熱い心と冷たい頭脳」という標語が大好きだったこともある。
でも、心と呼ぼうが頭と呼ぼうが神経科学や認知科学の視点からいえば
そもそも理論も感情もどちらも脳で扱う同じものだ。
(『マインドー認知科学入門』)

もちろんこの二つを分けた方がわかりやすかったり話が早いということはあるだろう。
でも、この二つの差をあくまで「例え」程度にとらえて、
絶対視しないことはけっこう重要かもしれない。
大切なのは「それは理屈だ」と言って考えることから逃げ出さず、
「感情論だ」と言って重要な要素を無視しないことなのだろう。
理論と感情、頭と心、蓋を開ければどちらも同じ。
たとえ違う点はあったとしてもそれは”ちょこっと差異”だけなのかもしれない。
(プッチモニの“ちょこっとLOVE”より)

2002 12/4
まろまろコラム

本の読み方~シャーロックホームズ・プレイ~

まろまろコラム第二段はご要望にお応えして「本の読み方」についてをばをば。

本を読むってことはそれ自体がすごく内向的な活動だと思う。
そもそも読書ライヴや読書上演会なんて見たことない・・・やれるならやりたいけど(^^;
内向的な活動は「好き嫌い」や「合う合わない」が大きく左右してくるものだし、
また、それだけで片付けていい話だと思う。
一冊の本を読む人が10人いれば10通りの読み方があるというのが、
読書の良さの一つなのだと感じているくらいだ。

ただ、あくまで自分の個人的なスタンスを書くと・・・

「どんな本でも推理小説のように読む」

・・・これに尽きると思う。

手軽な本でも学術書でも、良い本はその本のページ数を全部無駄なく使っている。
名作と呼ばれるような本はどれも途中に布石や伏線がちりばめられていて
読み終わったときにパズルを完成させたような達成感を感じさせてくれるもばかりだ。
だから途中で少々わからないところがあったり読みにくいなと感じることがあっても、
とりあえず最後まで読んでみるということが一番大切だと思う。
推理小説と同じでわからないところは最後まで読んで全体像をつかんでみて
はじめてわかるというような場合が多いからだ。

犯人やトリックがわからないからといって、推理小説を読むのを途中でやめるなんてもったいない。
『USUAL SUSPECTS』という名作サスペンス映画があるが、
この映画の最後の15分を観ずに「つまらない」と言っていた知り合いがいた。
彼の話を聞きながら「99%くらい面白さをわかってないじゃん」と
すごくもったい感じを受けたことがある。
(『評決のとき』の最終弁論のシーンを見逃すのも同じかな)
それと同じことを本でもしないようにと思っていつも本を手に取っている。
どんな本を読むときも自分は名探偵や名捜査官になったつもりで、
自分にとっては読書とはシャーロックホームズ・プレイだったりする(^^)

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2002 10/15
まろまろコラム

幸せの位置

いいなプリンワールドカツ丼倶楽部など、
成功しているHPを見ていて「思い切りがいいな」と思う。
「プリンなんて・・・(HPにするほどのものじゃないという言い訳入る)」、
「カツ丼なんて・・・(一般受けしないなどの言い訳入る)」
・・・などという独りよがりなまとまりは一切ない。
スケールが小さいことを思い切りやるスケールの大きさまで感じる。
もしかしたら情報の最大の価値は知識でも教養でもなく感性の共鳴にあるかもしれない。

その情報というものは受け取る人それぞれにとってまったく意味が違うものなので、
自分以外に一人でも好きだという人がいれば、それだけで情報発信する価値がある。
そういうことをまろまろHP開設から一年たったいま、実感として感じる。
僕自身、「読書日記なんて・・・(知り合い以外誰も読まないだろうし)」と、
勝手に決めつけて長くMLの世界にとどまっていたからその思いは後悔とともに強い。
何よりも後悔させられるのは上に紹介したHPの管理者さん達は本当に楽しそうだということだ。
僕もまろまろHPを運営して大小の日々の目標と充実感を意識するこができている。
勝手に小さくまとまらずにもっと早くHPを開設していれば・・・。
「どうせ何かにぶつかって小さくなるんだから自分からわざわざ小さくなる必要はない」
・・・そんな言葉がふと浮かんできた。

きっと幸せになるには思い切りが必要なんだろう。
もしかしたら「幸せ」がある位置は「無難さ」がある位置とは離れているかもしれない。

2002 7/19
まろまろコラム、はしり書き、出来事メモ

サイト開設一周年を記念してコラム化

哲学とはどこで開き直るか

標題: [ml-dokusyo 190] 哲学と結論と開き直り
期限: 00/ 8/ 4 14:48
宛先: ml-dokusyo@ml.ritsumei.ac.jp

椎名林檎が昔ホリプロスカウトキャラバンに応募していたことを知って
(それもBEST4まで残ってた!)「キャラ違うやろ」と突っ込んだ、
らぶナベ@アイドルになってなくてホント良かった(^_^)

さて、ぼーちゃんがアップした・・・
>だから、読書感想文でも書いてみることにしました。
(中略)
>『西田幾太郎哲学講座(永遠の今について)』
・・・について、僕も暇になったのでコメントでもちょっと書いてみまっす。
僕たちの親やその少し上の世代の人にとって哲学と言えば
西田哲学と言うほどこの著者は影響力を持っていたらしいっすね。
僕も団塊の世代と話をしていて哲学的な話に方向が行くと
この人の話は耳することがかなり多いっす。

各哲学論がどうかということはひとまずおいておいて
そもそも哲学というものを大きな視覚見てみると
これは客観的な有形物では無いからそれを捉えようとする
人自身の感情や姿勢によってまったく違ったものなってしまう性質が
あることは無視できない面だと思うっす。
どんなに客観的or科学的or分析的になろうとしても
まさに「永遠に」主観的な感情論の粋を出ない面もあると思うっす。
これは前に読んだ『不安の心理学』生月誠著(講談社学術新書)
1996年初版で不安に対するアプローチについて
書かれてあったことにも通じることなんだろうけど、
(主観的無形物という点では哲学も不安も同じカテゴリ)
哲学に対してあまり感情を抑えて正面から冷静に捉えようとする
科学的アプローチは本末転倒に陥る可能性があるなと思っているっす。
でも、哲学論がすべてそういうものだと言い切ってしまうと
いくら考えても答えが出ないという哲学で言うところの
サスペンス状態に陥ってしまうっす。
この未決状態っていうのが人間にとっては一番気持ち悪い状態だから
(推理小説のカタルシスはこの点をつく)
どこかしらの結論をとりあえずは出すっす。
・・・では、どこで結論を出すのか?
言いかえてみればどんなに冷静になっても最後は感情論の結論を出すという
開き直りをどこでするのかということになると思うっす。
では「どこで開き直るのか?」ということが
その人やその学派の哲学を形作っているんだと僕は捉えているっす。
だから僕は哲学者の意見を聴くときや著作を読むときには
常に「こいつどこで開き直っているんだ?」という視点で
接するようにしているっす。(ちょっとヤなやつかも(^^;)
そして所詮は感情論の粋を出ないことなんだからこちらも開き直って
自分なりのそこへの感想を尺度にして捉えるようにしているっす。
そういう視点で見てみると西田哲学は・・・
>こうして現在は、過去・現在・未来を包んでいると理解した。
・・・そして・・・
>自我へのこだわりを捨てきった絶対無の境地にいたって、初めて世界との世
>界との対立が融解して世界がそのまま自由な自己であると感じられるである。
・・・という風に開き直っているところが共感者を集めているんだなと
感じたっす、いまを生きるしか術のない僕らの状況を肯定している
彼の哲学観には勇気づけられた人も多いだろうから(^_^)

“Making policy as a king top of the world,
Working task as a slave bottom of the world”
Yoshihiro Watanabe:School of Policy Science


読書会MLより。

2000 2/6
まろまろコラム

就職エッセイ

フジテレビ系列で昔放送していたドラマに『ロングバケーション』というものがあったが、
その中で木村拓也が山口智子に「もういい年なんだからさぁ、
結婚しただけで幸せにしてもらおうって考えやめたら?」
みたいなことを言うシーンがあったように記憶している。
就職活動もそれと同じだろう。
「もういい年なんだからさぁ、どっかに入っただけで幸せにしてもらおうという
考えやめたら?」ということだ。
僕がそんな風にカッコつけて言ってもモテないのでちょっとむなしいが。
その会社に入ることで幸せにしてもらおうなんて
ちょっと虫の良すぎるすぎる話だろう、もう二十歳もとっくに過ぎているんだから
そういう他力本願は通じないことに気がつかないと
どんなに意気込んで就職活動しても結局は独りよがりに終わるだろう。
戦後高度成長期からバブル期まではそれで良かったんだろうが
社会構造は大きく変わりつつある。
これまで生きてきた人たちならいざ知らずこれから先を生きる僕たちの世代が
その変動を受けとめずに社会の最前線である企業で働くなんてかなり無謀だ。
これは就職活動だけでなく新卒採用者三分の一が
辞めてしまうことにも通じるのだろうが。
実際、僕自身の就職活動を振り返ってみてもその企業に入ること自体が
目的になってしまっているような人たちはことごとく落ちている。
例えば内定をもらった企業の役員さんから
「うちも取りたいと思ってるから面接するんだけど、
選考の選択肢にも入らない学生が多いんだよ」ということを聞いたことがある。
興味があるので話をよくよく聞いてみると「御社はすばらしいですね!」とか
「入ってからがんばります!」ということを強調したがる人間がやたらと多すぎる
ということらしい。いくら面接で「入ってからめちゃくちゃがんばります」
ということを言ってみてもその人間が実際にがんばることができるのか
どうかなど判断できるはずがない。
まず最初に『自分は今までどのようなことをしてきて』、
『どのようなことを感じてきて』、『これからどのようなことをしたいか』
ということを話してみてその人間がその企業に合っているのかどうかを
判断する材料が始めて揃う。
それから本格的な採否判断がおこなわれるというのに
頭ごなしに熱意を見せようと空回りしてしまって
やたらと一人で盛り上がったりする人間がいたりするらしい。
僕自身もそういう人たちと何度か同席したことがあるが
確かに彼らはものの見事に落ちていた。
結局は『採用されるのは自分自身でそれを判断するのは企業自身の仕事』
なんだからその企業への安易な分析やどうしたら
その企業の人に気に入られるんだろうという
せせこましい気づかいはかえって逆効果だ。
自分のいままでのこと、いま感じていること、
これからやりたいことを話してみてその企業と合うか合わないかを模索するのが
就職活動だ。そうでなければたとえその企業に入ったとしても続けられないだろう。
就職活動中もそのような方向性で企業側も採用活動をおこなっているのだと
確信することが何度かあった。
例えば僕が内定したエニックスという企業の部長面接では
5人の学生が一度に呼ばれて質疑応答するという形式だったが
企業側からの質問に「うちの悪口を右から順に言ってみてください」
というものがあった。
学生が言い終わった後にすかさず「悪いところを知ってなおかつ
この場に来ているんだから何か対策案を持っているはずだ。
今度は逆の順でその対策案を述べてください」と求められたことがある。
その時に今まで理路整然とした発言を続けていて
まさに準備万端で面接に臨んできたことが伝わってくる学生が
一気にしどろもどろになってしまった姿を見たことがある。
「確かに彼は優秀かもしれないが悪いところが眼について
その対策案を持てないようなら彼自身がこの企業に入ることは不幸なんだろうな」
と同じ学生である僕でさえ感じられたことがある。
その企業が何を求めているかどのような人材を欲しているのかが
一瞬にして伝わってきたことがある。
もちろん大学入試の延長と同じ方針を持って入ることを第一目的に捉えるという
考えもあるだろうし、中にはまだそのような方向で
新卒採用活動を実施している企業もあるのもまた事実だ。
だからその企業に気に入られるための戦略を考え抜いて
それに徹して臨むという就職ポリシーも十分に有効だと言えるだろう。
しかし、そのポリシーを採って就職活動するならば
その精度を徹底して上げなくてはいけない。
数週間やそこらでちょっと準備したくらいでは通用しないのが現実だ。
わずか4年しか所属しない大学入試でさえ2年前か
最低でも1年前から準備するものなのだから、
もしパーフェクトで勤め上げるなら35年以上は所属することになる就職では
せめて入試に匹敵できるくらいの期間と労力は必要だろう。
そしてこの就職ポリシーはNo.1の人間しか生き残れないという厳しさもある。
最後は抜群に武器になる資格を持っているとか学歴が決定的に良いとか
スポーツで日本一に近い位置につけたとかいう外面的な点で決まってしまうからだ。
どちらにしても『自分は「No.1」で行くのか
それとも「Only one」でいくのか』を明確化しなといけないだろう。
確かに就職活動は厳しい。厳しい状況下では特に方針に
迷いがあってはいけないというのが戦略の鉄則だ。
自分の学歴や持っている資格、そして経験と人格のすべてに
よっぽどの自信を持っているなら話は別だが、
それほど恵まれたものをそろえていないと感じるならば
持っている資源を最大利用する道を選ばないと続かないだろう。
よく就職活動の始まったばかりの時はやたらと勢いがいいのに
ゴールデンウィーク当たりから息切れしてきて肝心の内定が出る頃には
完全にダウンしている人を見かけるが僕の知りうる限り
そういう人たちはことごとく「No.1もOnly oneも」目指している人たちだ。
なぜそうなるのかと言えば自分自身の中ではなく
まわりに自分が拠って立つべきものを見出しているからそうなってしまうのだ。
例えば企業を評価する場所の一つである証券市場を取ってみてみよう、
統計を見れば市場では圧倒的多数が失敗者で成功者は圧倒的少数だ。
だから「まわり」に合わせていれば必ず負ける。
これは就職活動も同じで内定獲得者は圧倒的少数で圧倒的多数が不採用者になる。
自らどこで勝負するのか決めていない人間はやたらと「まわり」に合わせてしまい、
それを絶対視する傾向にある。例えば面接で落ちた人間から
「まわりはそんなこと言う雰囲気じゃなかった」とか
「まわりにそんな人間になかった」という発言を聞くことが多いが、
その「まわり」とはしょせん多くても10人前後の集まりでしかない上に
どれも落ちている人間たちのことだった。
つまり不採用者に合わせれば不採用になるのは当然のことだ。
どうしても大学で普通に生活しているだけでは
仲良しグループで集まってすごすことが多くなり、
そこでできた小さな「まわり」の常識や感覚に自分の基準をおいてしまう。
そしてその「まわり」がたとえ違っていても気づかないこともある。
僕はこのことを吉本興業にインターンシップに行って始めて気がついた。
アルバイトでもヴォランティアでもなくインターンシップという状況で
企業に研修に行ってみるといかに自分の「まわり」での常識や感覚が
実際の社会とは違うのかということが痛いほど感じられた。
多くの人はこのことを就職活動でもしくは入社後に感じるのだろうが
インターンシップで感じられた僕はこの点で極めて幸せだった。
資格も学歴もスポーツも経験も人格も武器にはならない僕のような人間が
数社から内定をもらえたのもこのことに気づいていたからだと確信できている。

「まわり」と違うことをおそれないこと。
そのためには自らが拠って立つべき方針が必要だ。
特に僕の場合はやりたいことが明確になっていなかったし
勝負できるような資格も学歴もなかったので
仕事や企業を選ぶ上での基準を自分で作るしかなかった。
まず『厳しいと言えばどこも厳しい、しかしその厳しさには種類があるはずだ』
という意識を持つことからスタートした。
就職活動中は「~は厳しいらしい」、「うち厳しいよ」という話を
耳にタコどころか大王イカができるほど聞くことになるし、
それに惑わされることも多い。
実際に厳しいのだから余計にそれは説得力を持って重くのしかかってくる。
しかし厳しいと一言で言いきる前にどういう風に厳しいのかを
見つめてみるべきだと感じた。
そこで僕は厳しさを・・・
『普段自分の好きなことができず上司には黙って従わないといけないが、
いざという時は責任がある程度分散できる厳しさ』
『普段ある程度自分の好きなことができて上司にも思うことを述べることができるが、
いざという時は自分自身が責任を被らなくてはいけないきびしさ』
・・・という二つに分けて見るようにした。もちろんどちらもとても厳しい。
厳しいからこそ『どの厳しさの下なら自分は続けられるのだろうか?』
という考えを持って就職活動に臨んでみた。
僕の場合は前者の厳しさは気持ち的に続かないだろうなと感じていたので
漠然とだが後者を選ぼうと思っていた。
企業に関するさまざまな事件報道を見たり積み立て年金の問題や
規制緩和の話を聞く度に「いざという時は守ってもらうという安心感を
頼りにして厳しさに耐える前者であっても
結局これからその保障はなくなっていくやん」と思わざるを得なかった
とういうこともあったからだ。
このような視点を持てるようになったのはインターンシップでの経験から来たものだ。
そういう意味で僕にとってはインターンシップは留学以上に役に立つものだった。
また、ちょうど新卒採用者の三分の一は辞めていくという情報が
入って来始めた時期でもあったことは
この視点を持つ必要性を感じたきっかけの一つだった。
こういう方針をもっていたので就職活動で迷うことは少なかった。
就職活動中はたぶん前者は公務員、金融、商社などの総合職で
後者はエンターテイメント、ゲーム業界などの企画職だろうという仮説を持って、
それを確かめようというささやかな野心を持っていたので
採用担当者の方々と話をしても面接を受けているというよりも
こちらから探りを入れて相手の本音を聞きだそうという意識の方が強かった。
おかげでいわゆる就職マニュアルは必要なかったし本音で話し合えることができた。
言いたいことを言い、聞きたいことを聞き出したのでやっていて充実感もあった。
たとえそれで落ちても「ああ、ここには合わなかったんだ。
入らない方が良かったんだろうな。」と自然に思えた。
自分の悪いところも見せて「採っても良い」と思ってくれる企業なんて
そういくつもないだろうと最初からタカをくくっていたからだ。
そう考えてみると就職活動で行くすべての企業から気に入られて
内定をもらおうなんてもしかしたらとんでもなくおこがましいように感じる。
そんなにすごい人間ってそんなにいないしましてや自分が
そんな人間であるはずがないんだから。
また、こう考えていたからこそ採用担当者の方とは
お互い一人の人間として話ができたように思える。
逆にもし「この企業に合うように」という方針を持って就職活動に臨めば
どこが悪かったのかわからずに自分を見失っていただろう。
曖昧な焦燥感に潰されていたかもしれない。
自分なりの方針を持てなければどうなっただろうかと思うとちょっとぞっとする。
そしてその方針を信じられるか信じられないかで
就職活動の正否は決まってくるだろう。

そんな風に書いてしまうとやっぱり就職活動ってとんでもなく厳しいものだ
と感じる人もいるかもしれない、
現に統計的な数字だけを見ればそう思うのも当然だろう。
しかし、就職活動は旅行をする以上にいろいろなものを見聞きしできるし、
旅行とはまた違った新鮮な出会いや感動がある。
その上そうした体験を通して自分自身を見つめ直す機会にもなる。
今までにない感覚を味わえてなおかつ就職先が見つかるなんて虫が良いくらいに
お得な機会だ。例えるなら旅行をして逆にお金がもらえるようなものだ。
世知辛い世の中だと言われるがまんざらでもないなと思えてしまう。
就職活動をすると普段、何気なく通り過ぎていたビルの一つ一つにも
それぞれの小宇宙のような世界があったんだということを教えてくれる。
いつもは何気に使っていた製品やサーヴィスにもそのすべてに
小説何冊分にもなるドラマがあるんだと気づかせてくれる。
いつもの場所、いつもの日常を送っていても
まるで世界が広がったような感覚を持つようになる。
知らない場所に行くことも新鮮だが普段知っていたと思っていた場所や
ものの中にドラマを発見することもかなりエキサイティングなことだ。
例えば上の方で証券市場の話をしたがこれは内定を辞退したものの
あまりのもエニックスという企業がすばらしいので
最小単位株を東京在住するための敷金+礼金を投資して購入したからだ。
もし就職活動をしなければ一生株なんて始めなかっただろう。
また、就職活動で出会った学生や企業の人たちとも今でも親好がある。
時には辞退した企業から仕事に関する話が振られてきたりすることだってあった。
それはその企業に合わせるための就職活動をしたのではなく
自分自身の考えを話す就職活動をしたからこそ入社に関わらず
関係が続けられるのだと感じている。
このような出会いは旅行でさえなかなかできないものだろう。

沢木耕太郎の小説のように自分発見の旅がしたいなら
まずお金のかからない就職活動をすることをお薦めしたい。
もちろん『ロンバケ』を見直して。


『スーツの中身』の原稿。
精神的にいっぱいいっぱいだった時期に書いたので
ちょっといやんな感じもあるけどメモなのでこのままアップ。

1999 12/20
まろまろコラム

俺の1995

1995年は戦後50年だ。新聞やテレビでは飽きるほど
「戦後50周年記念」という見出しが誇らしげに打ち出されている。
それほど50年というのは価値のあるものだろうかとふと思う。
「本質的に戦中から日本はあまり変化していない」と良く聞く。
 たしかにそうだと思う、戦後日本は社会を再生させなくてはいけなかった。
そのためにはまず産業を活性化させなくてはいけない。
経済復興のふれこみの下、日本は大量生産型の社会構造を構築した。
情報を効率よく管理するための一極集中、一部エリートによる政策審議・決定組織、
集団性と指示されたことの遂行を強調した学校教育、
安定した人材を確保するための年功序列と終身雇用による会社への帰属の要求や
大量の新規採用の後の社内教育。すべてが大量生産のために構築された。
特に私が印象に残っているのは管理教育だ。
統一された制服、髪型、カリキュラム、ことこまかな規範、
それらを生徒に遂行させるように構築された学校の構造。
日本が戦前から培ってきた個性より集団を重視し与えられた仕事を確実にこなす能力、
自分が所属する組織への忠誠などを過剰に美化するという意識は
戦後の大量生産社会において非常に有効だった。
個々の個人が「政策」を持つ必要はなく、一部のエリート集団が
その他多くの個性への仕事配分を命令した。
それらはまさに明治維新から日本人がたたき込まれてきた特性だ。
そういった意味で戦中も戦後も社会構造的に大した変化はない。
そうした社会構造であったからこそ日本はこれほどまでの急成長を達成できた。
それに対しての反抗もあったが所詮は構造的変革なしの
一時の激情だけでは変革は不可能だと実証したにすぎない。
また、こうした日本の体質は否定されるようなものではない、
日本が誇るものの一つだろう。ただ、状況が変わりつつある。
 そう今、大量生産型の社会構造は限界を見せている。
社会がある程度成熟するに従って対応できなくなる少量多種型生産、
工場のオートマ化、海外移転は大量生産に必要とされてきた与えられた仕事を
確実に遂行できる個性の重要性を低くしている、
運輸・情報伝達技術の発達が推進している国際化、もはやあらゆるレベルで
多様化に対応しきれなくなっている既存の組織。
 具体的に例を挙げてみれば小中学校は未だに大量な生徒を大量に教育する
管理教育のままだ。だが小中学児童数は明らかに減少している。
また情報伝達の発達によって児童は明らかに以前より「大人」になっている。
以前のように簡単に「洗脳」できにくい。
いわば自我に目覚めた児童が多くなっている。そう児童が変化しているのに
個性の多様化に対応することを想定していない学校が変化していなければ
教育者のよく言う「脱落者」が出てくるのは当然だ。
登校拒否児が戦後最高の値に達し、なお増え続けているのはどうしようもない。
個性を軽視した学校に息苦しさを覚える児童は萎縮し、
不満を内へ内へ持っていこうとする、いじめがより陰湿になっていっても
今の学校では対応できないし、現に多くの犠牲者を出している。
小中学の文部省の中央指導、大量生産的性質では現在の学校問題はもはや対応しきれない。
そうした混乱が今日本のあらゆる場面、場面で表面化してきているのではないだろうか、
個人的にも今までのように指示や情報をもらえて当然のものと思っていては
もはや対応できないのではないだろうか。
その変化は私たちの親の世代がやろうとした感情的なアジテーションによって
推進されるものではなく足下から変わるようなもの、
「地殻変動的」な変化であって思想や信条に関係のない
構造的変化なのではないだろうか。

・・・っていうふうに見てみると最近のニュースが
理解できるような気がするんです。
ここからは私もちゃんとまとめられていないことろだが、
今後は上部や中央からの指示だけでは対処しきれない多様化する問題に対応するためには
ある程度個々のアクターの権限を増やしていく必要があるのではないか。
そうなると個々のアクターがいままで一部のエリートだけが握っていた情報を
管理する必要があるだろうし、最近の情報伝達技術の発達はそのことを
可能だと予想できるまでになっている。一部のエリート集団が行ってきた
政策立案・実行は個々のアクターに分化されていくのではないか。
今までは政策立案・実行する集団が小さく少ないのにも関わらず
その対象が大きすぎたのだろう、ある程度は分ける必要があるだろう。
先の学校の例で言えば文部省の指導だけではなく個々の学校独自の対応を迫られてくるだろう。
また、会社におけるプロジェクトチームの強化などの独自の政策決定・実行組織の増大や
規制緩和に伴って小売業者、消費者はうまく売る、買うために
商品や流通に関しての知識を身につけるなどの必要が増大するだろう。
大きな意味での規制緩和、地方分権化だ。
 これからは個人でもある程度は個々に情報を収集し状況判断をおこない、
自らの責任で計画を立て実行する機会が増えてくるのではないだろうか。
いうなれば「政策的」思考(政策mind)を持つ政策personが様々な場面で
必要とされるのではないだろうか。社会状況は私たち「政策」に
関わる者の登場を待ち望んでいるのではないだろうか。
・・・とんだ勘違いかもしれませんが、
こう思えるのはおれが大学生活8カ月での収穫だと思います。
1995年はおれにとっても考え深げな年だったので記念にまとめてみました。
そのままじゃさみしいのでアップさせてください。
「ではどうしていけばいいのか?」とう疑問があるっすね。
それはまだおれにはよくわからないです、
今関わっている「政策」がその答えを見いだす媒体になるような気がしますが
まだ確信できないでいます。
ただ、あと3年と少しくらいでこれからの社会を
うまく乗り越えていけるようなものを何か一つでも得られるようにしたいです。
 それが出来ればたぶんおれの大学生活は成功だっんでしょう。
1995 12/31

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やっぱり恥ずかしいこと書いているけどこれも僕のポリシーだったので消さずに残す。

名将たち

ジューコフ(1896~1974){ソ連}
「スターリンも一目置き、ソ連最高の尊敬と実力を有したロシアの英雄」
独ソ開戦から集結まで一貫して第一級の戦闘を指揮し独裁者スターリンも
彼の意見には耳を傾けたというほどの名声を勝ち得たソ連の英雄。
モスクワ攻防戦、スターリングラード攻防戦、クルスク戦車戦
そしてベルリン攻防戦と彼が参加した戦いはそのまま独ソ戦史である。
「大きくものごとを捉え、斬新な戦略で指揮する」彼の作戦指導は
守るときは徹底して守り、攻めるときは徹底して攻める戦術を取った。
この戦術はロシア人とその広大な領土の特性を反映したもので
有力なドイツ軍相手に幾度も自軍のピンチを救っていった。
慎重さと大胆さをうまく同居させることができたたぐい希な指揮者でもあり、
クルスク戦車戦ではドイツ軍が奇襲しようとするわずか数時間前に
逆に先制攻撃に打って出るという戦史に残る離れ業を行ってもいる
(これを「後の先」と言う)。
その数々の功績からベルリン占領という栄誉も得た。彼の指揮能力、
戦略眼をたたえる言葉は枚挙にいとまがない。
貧民の子として生まれ今もってロシア国民に慕われる英雄となった彼は
まさに「ロシアンドリーム」の体現者として語り継がれている。

グーデリアン(1888~1954){ドイツ}
「戦車戦の父、SchnelleHeintz」
裏方では戦車戦への研究・インフラづくりに没頭する理論家でありながら
表舞台では自ら装甲師団を指揮する有能な前線司令官。
まさに「戦車戦の父」の呼び名にふさわしい人物。
まだ社会が戦車の性能を疑問視していた当時から常に戦車の有効性を訴え続け、
多くの反対を押し切って戦車とその戦術の研究を続けた組織構築者の顔と
最前線で戦車を中心とする装甲師団の指揮を取り、
自らの持論を証明した猛将の顔を持つオーガナイザー兼指揮者。
先見の眼を持って組織内で持論を主張していく事務能力もさることながら
前線での装甲師団の指揮ぶりの勇猛さは特に有名で、
自ら育て上げたドイツ装甲師団の初陣となる1939年のポーランド侵攻の際は
「撃って撃って撃ちまくれ!」「ポーランド兵恐るるにたらず!」と
ドイツ兵一人一人に激励してまわり、前線の最高責任者でありながら
装甲車で銃弾が飛び交う最前線に向かい指揮を取った。
車両の故障が多く兵士も未熟だった当時のドイツ装甲師団が破竹の勢いで
ポーランド軍を打ち破っていったのは彼の功績によるものが大きい。
その前線指揮ぶりからファーストネームを取って「SchnelleHeintz」
(韋駄天ハインツ)とも言われた。
1940年の対フランス戦、1941年の対ソ戦(バルバロッサ作戦)でも
「彼の息子たち」装甲師団を率い、見事な戦術で次々に強力な敵を撃破していった。
しかし1941年のモスクワ攻防戦でロシア軍の反抗に対して
一時軍を後退させたことがヒトラーの怒りを買って罷免される。
だがその能力は貴重であると誰もが承知していたので1943年に再び復帰、
翌1944年陸軍参謀総長という軍人として最高位につく。
しかしここでもことあるごとにヒトラーとその取りまきたちと衝突、
事実上解任されて終戦を迎える。
誰もその有効性を信じなかった戦車中心の軍団を育て上げて自ら彼らと共に戦い
社会に持論の正しさを認めさせ、そして後年は自ら育て上げた
彼の装甲師団が壊滅していくのをただ見守るしかなかった。
その時の彼の思いは苦渋に満ちたものであったろう。
人類の歴史上戦車を主力とする戦争が存在した時代、
彼の名はその創造者の一人として永遠に記されている。

ロンメル(1891~1944){ドイツ}
「『砂漠の狐』と呼ばれた天才的前線司令官」
「戦術の芸術家」、「砂漠の狐」などと呼ばれ前線指揮の実績と
その悲劇的な最後により伝説化し、今も人々の語り草になっている英雄。
元々「歩兵の攻撃」という本も出版する歩兵戦術のエキスパートとして
有名であったが1940年の対フランス戦で装甲師団長に抜てきされることとなった。
そこでめざましい戦果を挙げ、戦車戦でも第一流の指揮者として評価される。
その柔軟性を買われて北アフリカ戦線に派遣され、
イギリスと北アフリカで2年間の死闘を演じることとなる。
本国からの補給がままならず数、質とも常に劣性に立たされるが
「不屈の意志と冷静な状況判断、断固とした決断力」を持って
優勢な敵に果敢に挑んでいった。
1941年の「プレヴティ作戦」、「バトルアクス作戦」、
1942年の「キレナイカ制圧」、「大釜の戦い」を経て
イギリス軍の重要な拠点トブルクを陥落させた。
この間イギリス軍は常に圧倒的に優勢な兵力を持って
ロンメルを再三攻撃したがことごとく撃退された。
この一連の戦いはロンメルの名声を敵味方を問わず高めることとなる。
遮蔽物がなく補給と兵力がものをいう砂漠地帯で戦車を中心とした機動戦で
常に劣性をはねのけていくロンメルは連合国軍の将兵から
「砂漠の狐」という名で恐れられ、また尊敬されるようになる。
この時イギリスの首相チャーチルまでも英国下院で敵将ロンメルのことを
「偉大な将軍」と手放しにその指揮能力を誉めたというエピソードも残っている。
また彼は「我々の前には極めて勇敢な、極めて巧みな敵将がいる」とも語っている。
しかしヨーロッパ戦線でのドイツ軍が劣性になるに従って一層補給がままならなくなり、
進撃のスピードが徐々に落ちていった。それでも善戦するがついに
1942年の「エル・アラメインの戦い」でモントゴメリー率いる
イギリス軍の圧倒的な数(ロンメルの3倍以上の兵力)の前に敗退。
苛烈な追撃を受けるが残存兵を巧み指揮し、悪天候にも助けられ脱出に成功した。
1944年の連合国の「ノルマンディー上陸作戦」で再び前線に立つが
重傷を負い戦線からしりぞく。この時「最も長い一日・・・」という名言を残している。
後にヒトラー暗殺計画に関わったことが判明して服毒自殺をはかり、
ドイツ軍で最も名声を得た将軍はドイツ軍から永遠に消えることとなった。
戦いを通して関わったあらゆる人間に感動を与えた名将として
彼の前線指揮能力、功績を讃える声は膨大な数に上る。
故に彼は多くの出版物や映画に題材とされ、
今でも「狐の足跡」として人々に感動を与えている。

マンシュタイン(1887~1973){ドイツ}
「ドイツ最高の作戦頭脳」
ドイツ軍最高の作戦立案者。
大戦を通して両陣営から最も評価された将軍の一人。
沈着冷静に熟慮した後に自分が正しいと納得すればそれに突き進むタイプ。
冷静な分析力と苛烈な行動力を合わせ持った人物として有名。
1940年の対フランス戦において『軍展開はほぼ不可能と思われていた
「アルデンヌの森」を突破しフランス軍の裏を突く』という極めて大胆な作戦、
通称「マンシュタイン・プラン」を内部の猛烈な反対をものともせず押し進めた。
結果、第一次大戦では4年かかっても勝てなかった長年の敵フランスを
わずか2カ月で占領した。
対ソ戦(東部戦線)の1942年「クリミアの戦い」ではわずか6個師団
(1個装甲師団を含む)でソ連軍26個師団を撃破しセバストーポリ要塞を占領。
また、1943年の「スターリングラードの戦い」に勝利し勢いづいた
ソ連軍の大進撃を「ハリコフ反抗戦」で自ら提唱する『機動防衛』をもって
巧みに誘導、壊滅させドイツ軍崩壊の危機を救った。
続く史上最大の戦車戦である「クルスク戦車戦」でも
常に戦略眼ではソ連の動きをうわまっていたが
ヒトラーの強い作戦介入により戦略的敗北を喫した。
大戦を通じてヒトラーと作戦方針をめぐり何度も対立。
その本来の力を充分に発揮できなかったばかりか1944年には罷免されている。
歴史家リデル・ハートからは「作戦行動について最新の着想を持ち、
技術面についての専門家で、絶大な突撃力をかね備えた、
連合軍にとって最も恐るべき相手」と賞され、戦車戦の父グーデリアンからは
「熟慮断行、冷静な判断力を備えたドイツ軍最高の作戦頭脳を発揮した将軍」など
その作戦立案、実行能力は敵味方をとわず各方面から賞賛を浴びた。
後に回顧録「失われた勝利」を記述している。

パットン(1885~1945){アメリカ}
「バストーニュを救った現代の騎士」
中世的な騎士道精神に貫かれた気質を持ち、”Old Blood and Guts”
「熱血と剛胆」と賞された大戦中アメリカ随一の猛将。
突撃戦を最も得意とし、ノルマンディー上陸戦、シシリー戦では
その抜群の戦闘指揮能力を発揮し評価される。
そしてバルジの戦いでは包囲され全滅の危機に立たされた
バストーニュの同胞を救うため160キロの距離をわずか48時間で救援に駆けつけ
ドイツの包囲網を突破し、一躍連合国の英雄となる。
このとき「走れ!ガソリンの続く限り走れ!!」と部下に叫び続けたのは有名で
後に映画にもなっている。常に最前線に立ち、「戦争とは非常なものだ。
戦争をするには単純で非常な人間が必要なんだ!」とも発言したその姿勢は
自分に対しても部下に対しても厳しい指導と共に多くの批判を買い、
「強引すぎる」として慎重派で有名なイギリスのモントゴメリーとしばしば対立した。
「時代遅れのロマンティスト」(シュタイガー大佐談)とも言われたが、
彼が連合国最高の将軍の一人であることは誰もが認める事実である。
彼は戦争が終わった年にささいな自動車事故で死亡した。
戦闘を崇高なものとし戦争に必要とされた人物が
戦争終了と共に去ったのは象徴的であった。

モントゴメリー(1887~1978){イギリス}
「天才ロンメルを破ったエル・アラメインの英雄」
その指揮能力への確信と部下に信頼を抱かせるすぐれた能力により
エル・アラメインで「砂漠の狐」ロンメルを破ったイギリスの国民的英雄。
その勝利は当時の英国首相チャーチルにして「エル・アラメン以前に勝利なく
エル・アラメイン以後に敗北なし」と言わしめるほどのものであった。
決して派手さはないものの注意深く確実に仕事をこなしていくタイプで
戦闘に対しては常に兵力、補給共に充分な準備が整って
初めて攻勢に打って出る戦闘法を用いた。
まさにライバルであるアメリカのパットンとは好対照である。
彼の作戦行動は「慎重すぎる」との批判をよく受けたが
しかしこの作戦行動は連合国の有力な生産力を充分に生かすことができた。
パットンを「華麗な常勝」と呼ぶなら
モントゴメリーは「確実な不敗」というべきであろう。
敬虔な牧師を父に持つ彼は何事においても潔癖であったと言える。
その性格が幸いしたのかパットンとは対照的に91歳という長寿をまっとうしている。

・・・課題で書いてみました。

1995 12/5
まろまろコラム

社会科学のミッドフィルダーに

政策の学生は大学で政治も法律も経済も人文科学も
コンピューターも勉強するが、法律では法学部の人に劣るし、
経済では経済学部の人の負けてしまうという事実が存在している。
それぞれの専門分野ではそれだけを勉強をしてさえいれば
専門家として通じるのでこれは当然の結果だ。
しかし現在人類が直面している様々な問題は一分野の専門家だけでは解決で
きないのは明白だ。もし僕が欧米のことしか勉強しない専門家ならば
地域の文化風習は一生知ることはなかったかもしれないし、
関心さえ払わなかったかもしれない。そうした状態で将来僕が
こうした地域で仕事をすると仮定すれば本当にゾッとする。
その地域への無理解が多くの問題を引き起こしただろうし、
一番怖いのは僕が現地の文化風習へ偏見を持ち、
そのことにさえ気ずかず現地の人達を差別するという仮定だ。
こうした僕自信の仮定は残念なことに他の人々によって現実化しているという。
まず現地に行き、そこの文化風習につねに関心を払う人間でありたい、
そしてつねに自分の知らない地域のことを
読書やテレビをとうして注目してく人間でありたい。
かなり話が飛躍したと思われるかもしれないが、こうしたことが初めに言っ
た政策科学生としての話につながると思う。経済だけを勉強してきた人にとっ
て政治学はバングラディシュの文化のようになじみのないものかもしれない。
専門家とはそれぞれ孤立して調査、研究するものだからなおさらだ。その状況
下で様々な専門家同士が一つの問題を解決しようと協力するのは困難だと
思う。まさに僕がついさっき仮定した嫌な将来像と同じような
過ちをおかすかもしれない。
もし先進国の開発においては一流の専門家だけがバリの文化風習に
関心を払わなずにバリ開発を担当したらどうなるだろう?
JICAなどがおこなってきた日本の開発援助に対する批判は
そうしたことの現われの一つではないだろうか。
ほとんどその地域に関しての知識がない人達が発展途上国の開発で
初歩的な失敗をおかすのは当然の結果だと思う。
国際開発だけでなく、おおくの分野でこうしたお互いや、
対象となるものへの不理解からくる失敗を
できるかぎり防ぐのが政策科学の仕事だと思う。

このことをサッカーにたとえると面白いのでやってみよう、
政策科学部生だけに限らず広く政治や経済などを学んだ人は
サッカーで言えばミッドフィルダーだと思う。
シュートを打たせればフォワードにまけるし、
守らせればディフェンダーにまける。
でもフォワードとディフェンダーとキーパー、
つまり専門家だけではゲームが成り立たない、
普通専門家同士はつながりが薄いから
(自分の専門分野だけしてればそれでいいから)
連係プレーがスムーズにできない。そこでその間に入ってボールのつなぎ役が必要だ。
状況を他の誰より理解して専門家同士の橋渡し役になる人間、それがミッドフィルダーだ。
これが実社会で僕たち政策科学部生が力を発揮できる方法の一つだと思う。
バリ島の開発をするなら、開発の専門家とバリ島の文化研究の専門家、
地域住民との間に入ってそれぞれの話し合いがスムーズにできるような場
(スペース)を創ることができるのはある程度の知識を広く持った人間が適任だ。
サッカーのことわざで「スペースを活かせる人間は一流、
スペースを創りだせる人間は超一流」という言葉がある。
多くの人達(専門家も含めて)が力を発揮できる場を創り出すことは
重要だけどなかなか出来ていないものだ。かつてジーコという選手がいた、
彼はもう年をとってスピードもパワーもなく、すぐケガなどで退場する選手だった。
しかし彼がいる時といない時ではそのティームは全然違っていた。
彼が出場した試合ではそのティームの他の選手達が見違えるようにイキイキとプレーできた。
決して派手ではなくほとんどが地味な仕事をするだけの選手だったが、
すばらしい状況判断を持ち、非常に存在感をかもしだした、神とまで言われた人だった。
このことは僕たちにとって心強い事実だと思う。
こうした仕事をするためには大学の中の友達などだけで固まらずに多くのも
のを読み、多くの人達と話し、多くの場所に行き色々なことを感じなくてはい
けないと思う。所詮一人で部屋にこもって勉強だけしてもそれぞれの分野では
中途半端で終わり、結局何の役にもたたない人間になるだけだ。もちろん本を
使った勉強も重要だ(基本だからね)。が、それよりも自分の足で色々な
タイプの人たちと会い、どうしたらうまく付き合えるかを考えたほうがはるかに
政策科学部生として有意義で、自分というものを社会に活かせると思う。
専門家は(結果的に偏った研究をしてしまうから)社会的に欠陥したひとも
多いので、代わりに僕たちが実社会を経験し状況判断力を高め、
専門家の社会的欠陥を補っていく方法を学ぶことが重要だと思う。
「人とのつながりを広げて大切にしよう、多くの人達の能力を活かせる場を
創れる人間になろう」これがぼくの将来像であり、
このために大学生活をすごそうと思う。

1995 7/15


2001年現在の今にして読み返せば実に恥ずかしいことを書いているが
実はこれが自分の考えを文章にした最初であったし、
これが大学以降の学生生活の僕のポリシーだったので消さずに残すことにする。