官能的な体験

まろまろ@今日は大晦日、今年もいよいよ暮れていきますな。

思えば今年はいままでにない経験をした年でした。
でも、僕は経験という言葉が好きではありません。
そういう趣旨のことを発言すると「なぜまろまろさんが!」と意外に思われたり驚かれたりすることが多いので、
2007年最後の日は経験についての僕の考えをコラムにしてお送りします(^_-)

では、ここから・・・

自分の経験をことさら持ち出す人に尊敬できる人はほとんどいない。
かと言って別に経験至上主義を敵視している訳ではないし、経験すること自体を軽視しているわけではない。
狭い範囲の小さな経験しか無いのに、ことさらそれを口にする人はある意味で可愛げを感じてしまうほどだ。
そういう人は自分が経験したことはちょっとしか触れたことが無いものでも高言するのに、
新しい状況や分野には必要以上にビクビクする姿をよく見かける。
それは弱い相手には徹底的に強く、強い相手には徹底的に弱い小役人を観ているようで、
痛いものコレクターとしてはある意味で微笑ましい。

確かに、自分自身の経験がもたらすインパクトは、まず何にも増して強烈なものがある。
さらに思い出として美化されるので、甘美な味わいをもたらす。
経験は強烈で甘美、一言で言えば官能的(erotic)なもの言える。
取り立てて官能的な経験である必要はない、経験とはすべて官能的なものだ。

たとえば自分の経験はどういう状況なら当てはまるのかを精査せずに振りかざすことは、
シチュエーションも相手も違うのに自分の性癖を押し通すのと同じことだ。
そういう人は自分の経験の官能的な感覚に酔ってしまって、相手もまわりも見えなくなってしまっている。

もちろん、経験の持つ官能的な感覚それ自体は悪いことではないし、一人でかみしめればいい。
ただ、官能的な感覚に眼を曇らせて独りよがりになってしまっては、その経験の持つ有効さを削ってしまうことになる。
もしその経験が有効なら、官能的な感覚に引きずられずにその有効さを抽出しなければならない。
そうすれば、その経験は自分だけが愉しめる官能的なおかずではなく、輝いたものになる。

ここで自分を振り返ってみれば、2007年は本当に良いことが無い年だった。
軽く列挙すると・・・
選挙に落ちる
・株で巨大な損切り
・父が左遷、母の勤務先が倒産、祖母が認知症になって要介護化という家族の動揺
・maromaro.comが一時期、閲覧不可能になる
・・・などなど。
苦い経験ほど、時間がたつにつれて甘く醸成されてゆく。
だからこうした経験は僕の中でこれから官能的で甘美なものになってゆくのだろう。

その官能的な側面を愉しむことはあっても、快楽に眼を曇らせずに体験の有効さを抽出してゆきたい。
「いい経験だった」というセリフは、その官能を独りで愉しむだけではなく、
有効さを抽出した時にはじめて言えるセリフだから。

2007 12/31
まろまろコラム

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