メモのメモ~憎いけど憎めない~

ときどきメモを取ることについての質問が寄せられるので今回はメモのコラム。
前に書いた「本の読み方」と同じようにこのテーマも100人いれば100通りの
やり方や捉え方があると思うのであくまで個人的なメモのメモとして・・・

岐路にたったり迷ったりしたとき、振り返ったり考えたりするときに、
自分自身についての一番重要で一番信頼ができるメディアがメモだと思う。
後で思い返して自分でも笑ってしまうことがあるけれど、
そのときは一生懸命考えているつもりで実は何も考えていなかったり、
気分だけで盛り上がったり盛り下がったりして消耗することってけっこう多い。
そんなときにかつて書き残したメモを読んでみる。
すると、「あれ?こんなに意識低かったかな」とか
「こういうことを見落としてたんだ」とか、
「こんなことしか考えてなかったのか」とかなど、
考える土台になる自分についての発見ができる。
人は内省的になると過小評価か過大評価しかできないものらしくて、
自分を見失って右往左往してしまうこともあるけれど、
メモを読み返すと自分という前提をもう一度地に足をつけてスタートすることができる。

もちろんメモを読み返すというのは録音した自分の声を聴く以上に恥ずかしいことだ。
かくいう自分も「なかったことにしたい」と思うメモはいくらでもある。
でも、恥ずかしいと思うということはそれだけ自分が変化している証でもある。
そういうメモを書き残したときと読みなおすときの「温度差」が、
成長だったり分析だったりするのだろう。
気分に左右されて書き残したメモをまた違う気分の時に読み返す。
その温度差を感じることができるなら、それはもう立派な「客観的メディア」だ。

よく岐路にたつと「変わったほうがいいのか、変わらないほうがいいのか」
というテーマで迷うことがある。
でも、実は変わったようで変わっていないことや、
逆に変わっていないようで変わっているということがけっこうあるものだ。
自分のどこがどれだけ変わったのか、どこが変わっていないのかを
把握するメディアがあれば変わっても変わらなくても必要以上におそれることはない。

そういう風に使うメモだから実際にメモを書き残すときも、
断片的だろうが不十分だろうが関係ない。
気持ちや考えはしょせん言葉でも絵でも音でも映像でも100%は残せないんだから
そのときの自分のこころのひっかかりさえ残すことができるなら、
それは立派な自分自身のメディアだ。

メモ、これほど恥ずかしいものはなかなかないけれど、
これほど重要なメディアもなかなかない。
愛憎相半ばする人生の相棒かもしれない。

2003 1/22
まろまろコラム

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