チャールズ・エリス、鹿毛雄二訳 『敗者のゲーム』 日本経済新聞社 1999

5070円の時に買ったエニックス株の先週終値は1万600円、
さらに1.5倍に分割されているので(100株→150株に)
50万7000円を投入した株が現在の時価総額159万円になっているっす。
資産を3倍にしてようやく安定した投資戦術を展開できるようになったと
感じている、らぶナベ@自由化スタートの10月から本格化だと踏んでるっす。

さて、『敗者のゲーム』チャールズ・エリス著、鹿毛雄二訳
(日本経済新聞社)1999年初版を読みました。
この本は株式投資関係のHomePageを見ると
必ずと言って良いほど推奨本として紹介されている投資本。
いままで投資関係の本は何だか薄っぺらそうなので読んでこなかったが、
“Winning The Loser’s Game”という原題に妙に引かれたので読んだ一冊。
確かに市場では圧倒的多数が失敗者で圧倒的少数が成功者になる、
つまり統計的に外から見れば市場とは「敗者になるゲーム」でしかない。
(これはどこの世界でもそうなんだろうけど)
それを踏まえた上でその中でも確実に勝っている人間はいる、
彼らを勝たせているのは一体何なのか、何が勝者と敗者を分けているのか、
ということに注目して投資における重点や姿勢を述べている本。

この本は簡単で基本的なことに集中することの必要性を繰り返し述べている。
そしてたとえ正確な答えがすぐには出なくても自分なりに
市場や自分自身への分析や考察を続ける重要性を特に強調している。
(個人投資家にとって一番の危険は市場の変化などの外部要因ではなく
本人が投げやりになり精神的放棄に陥ることだと警告している)
その結論の結び方が面白くて・・・
「問題は『運命の星でなく、われわれ自身の中にある』」として、
投資を学びたいならこの言葉が載っている・・・
「シェークスピア『リア王』を読むことをお薦めする」
・・・と皮肉っているのに笑ってしまった。
そういえば最近、答えがでないからという理由で
問題から眼をそらそうとする姿勢の人を何人か見たことがあるが
それでやっていけるほど人生は甘くないだろうということを
あらためて感じた。人生とは間違いなく「敗者のゲーム」なんだから。
少なくとも問題に向き合わないでやっていけるほど僕は器用でないし
何よりもそれでは決して満足はできないだろうと妙に感心してしまった。

また、この本ではそれに関連して・・・
「その土地に家を建てるためにその土地の気候風土を考える場合も
前の日の天気で判断することはないだろう、投資も同じだ。」
・・・というような表現を使って細かいことにまどわされず
大目標を大切にして、で~っんと構えることを奨めている。

この本はHowto本というより個人投資家への指南書的な内容なので
金融工学的な理論は少なかったがそれだけに説得力があった。
敗れるはずの舞台で勝つことの快感、負けが自然の状態からの挽回、
一度それを体験するとその味が忘れられないんだろう、僕も同じだ(^_^)
この本を読んだ結論・・・
「人生は自分への投資だ、敗者のゲームから逃げるな」。

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1999 9/9
戦略論、株、経済学
まろまろヒット率4

K.C.コール、大貫昌子訳 『数学の秘かな愉しみ』 白揚社 1999

『数学の秘かな愉しみ』(原題”THE UNIVERSE AND THE TEACUP”)
K.C.コール著、大貫昌子訳(白揚社)1999年初版を読み終えました。

もともと自分でも笑ってしまうほど数学的センスが無いのに加えて
数学的視点や思考に対して不慣れなために読もうと思った一冊。
この前、大阪に来た北陸先端科学技術大学大学院の南さんに
「数式とか入って無くて簡単に読めて内容も面白いけど
ちゃんと数学的なものの見方が分かる本ないっすか?」
というかなり舐めた条件を提示して薦めてもらった本。

内容の方は普段、単なる数や数式の猥雑さにばかり眼を奪われて
見失ってしまっている数学的な(≒論証的な)アプローチについて
ごく日常のできごとや普段の生活の中の話題から例を使って説明している。
そこから「確率って結局何なのか?」、「統計ってどういうものか?」、
「証明とはどこまでの真実を約束するものか?」という
僕たち素人が考えるいかにも数学的なネタから始まり
そこからさらに「常識とは何を指しているのか?」、
「事実とは何を示しているものなのか?」、
「生きるということはどういうことなのか?」、
「真実とはなにをもって言うのか?」そして最後は「真理とは何か?」
というとても深い話まで展開していく構成になっている。
哲学的技法としての数学を使って一見何のつながりもなさそうな
宇宙の真理と日常の日々を無理なくつなげてまとめているすごい本。
(まさに”THE UNIVERSE AND THE TEACUP”の原題通り)
この本のすごさは何といっても独りよがりな妄想に走りがちな
このような哲学的なネタに科学者たちの悪戦苦闘を紹介することで
決定的な説得力を持たせているところだろう。
数学的思考というスキルを鍛える目的で読み始めたが
純粋な読み物としてとても面白い上に転換ということを考えさせてくれる。
読み終わってみて自分の頭が勝手につくりあげた狭い狭い常識に
いかに凝り固まっていたのかということを痛感させられた。
僕が単にこういう数学的論証に慣れていないから
特にそう感じているだけかもしれないが良い本と言える一冊だろう。
そう思ってふと、読書録を振り返ってみると大学に入ってから
ちゃんと一冊通して読み終えた純粋に理系の本と言えるものを選定してみると
『はじめての統計学』鳥居秦彦著(日本経済新聞社)
『システム科学入門』北原貞輔著(有斐閣ブックス)
『数学的思考』森毅著(講談社学術文庫)
『化学入門』原光雄著(岩波新書)
『図解雑学 算数・数学』大矢浩史監修(ナツメ社)
・・・と、この本を加えてもたったの5冊(全181冊中)。
つまり基礎的知的活動である読書の36分の1しか
数学・理学系の本に使っていないということになる。
「そりゃあダメなのは仕方ないな」とけっこう反省した。

また、内容の方では論理展開の根底には数学が流れている本なので、
部分部分の抜粋はあまり意味が無いだろうけど
それでも一部分だけでもとても興味深かったのは
「何でこんなところに数学が?」の章の中での
物理学者リチャード・ファインマンの言葉・・・
「必要なのは『なぜそれがわかるのか?』とか
『どの証拠に基づいているのか?』『他の何と比較しているのか?』とか、
おそらくすでに頭の中にあった疑問を口に出して言う自信だけである。」
「科学とは自分をいかに騙さないようにするかを学ぶ長い歴史である。」
・・・としているのは僕も意識していきたい気がする。

それだけでなく「当たらない予測を科学する」の章で、
「『理論は予測する』・・・これは現在の予測を指しているのだ。」
「科学予測は、言うなれば天気予報というより
むしろ思考の流れのようなものだ・・・
予測は理解への道を照らす道標であって、ゴールの目印ではないのだ。
・・・つまりどのように、なぜ?を理解するのであって、
いつ、どこに?ではないのだ。」
「科学が特に予測に優れているのは、何といっても
いわゆるパターン認識だろう・・・科学の畠で予測をあまりにも
重要視したことが、おそらく大衆の科学不信を招いたのではないか。」
(物理学者オッペンハイマー)
・・・というものがあった。
これをおさえていないと科学に対する
過度の期待や不信を生んでしまうんだろう。

加えて「偶然、必然、O・J・シンプソン」の章では・・・
「証明とは何かがほんとうかどうかを確かめることではなく、
『その背後にある主張のあいだの論理的関係』を明らかにすることなのだ。」
・・・ということを強調した上で法廷の証拠として科学的実証が
求められることについて科学史家ポーターの主張・・・
「法廷では、科学ではとうてい不可能な基準を要求される・・・
法廷では科学者がまるで機械のようにふるまうことを期待しているけれども、
そんなことをすれば結論などだせたものではない。」
・・・法廷では科学者グループの総意を結論として扱うが・・・
「総意とは、正しい意見というわけではなく、ただの合意にすぎない。」
・・・というのを紹介しているのは科学的実証が証拠として
より認められていくだろう今後も意識して注目していかなくてはいけない点。

「量が質に転換するとき」の章では「覆り点」について・・・
「だがその臨界点に達したとき、ほんのわずかな変化が大々的な効果を
現わすのだ。ただしその決定的な境界に達するまでは、
かなり大きな変化さえも、
がっかりするほどのわずかな効果しか現わさない。」
・・・としているのは何でもやるにはかなりの粘りがいる
ということの科学的証明だろう。

そしてこの本の結論的な部分である「真理の不変性」の章では・・・
「自分が見ているものと、そこで起こっているできごととの関係を
理解するためには、自らの準拠の枠(立場や主観性、見る時の状況など)
の影響を足すか引くかしなくてはならないのだが、
ほとんどの人は自分がそんな準拠の枠などというものを持ち歩いているとは、
まったく意識していない。」・・・と、いままでこの本の中で
科学的試行錯誤を紹介した後に言っているのは説得力がある。
「人々はよく正しいとか間違っているとか言って言い争うけれども、
本当は正誤というより、準拠の枠の違いを言い争っていることが多い。」
「さまざまなものの見方は、見るものが自分の立っている枠の種類と、
自分が見とおしている光景の力を理解している限り、
それぞれがさらに新しい洞察を加えていくことになる。」
「浅薄な真理の逆は誤りだ。だが深遠な真理の逆は、やはり事実である。」
・・・としているのは説得性がある。

また、この「真理の不変性」の章では音楽家兼数学者のロススタインの言葉
「対象性をさがしているときの私たちは『どの面を最も重要と考え、
どの面を関係ないことと考えるかを定義しているのだ。』」に加えて・・・
物理学者ヴァイスコップフの言葉・・・
「科学で美しいものは、ベートーヴェンに感じられる美しさと
まったく同じものなのだ・・・さまざまなできごとのもやのなかに、
突然つながりが見えてくる。それは絶えずわれわれの心の奥底に
ひそんでいながら、一度も結びついたことのない、
複雑なことがらのつながりを表しているのだ。」
「自然の秘密はシンメトリ(対象性)にある・・・ただしこの世界の質感は、
シンメトリの破れの機構からくるのだ。」
・・・というのはとても深いが説得性がある。

それほど主要な箇所ではないが注目してしまったのが、
「こんなに危ないことをしているあなた」の章で・・・
例えばタバコに1万8250箱中、一本ずつタバコ型の爆弾が入っていれば
絶対に発売禁止になる。それは一日に3000万箱ずつ売れるとすると
一日平均1600人が確実に死ぬからだ。しかしそれ以上の人間が
確実にニコチンの害とわかっている原因で死んでいる。
このようなことから心理学者ワインスタインが・・・
「人が自分に降りかかりそうなリスクを何とか小さく見積もろうとする努力は
まさに涙ぐましく、それこそ『独創的』とも言えそうだ。
・・・おそらくこれは自尊心を守ることと関係がありそうだ・・・
『自分がリスクにさらされていることを認めることは、
とりもなおさずストレスを処理できないこと、
つまり他の人ほど強くないことを認めるようなものだからだ。』」
・・・として危機感への対処に心理的防御機能が働くことを述べている点だ。
これに関して人類学者コナーは「おそらく人間の脳は、もともと現代生活の
リスクを念入りに計算するようにはできていないのかもしれない。」
「私たちの知的器官というものは、珍しく強く情に訴えてくるような危険、
突飛で劇的な危険向きにできているのだ。」
・・・としたりしているが僕自身の経験からどう見ても
「このままだとぜったいヤバイやろう?」と思っても本人は
びっくりするほど危機感を受け入れようとしない人を見たことがあるが
これはこういったものなんだなと変に納得してしまった。

笑ってしまったのが「割れた卵はもとに戻るか」の章の
最後の方でクラウジウスの・・・
「生命とは自然に反するふるまいの常として、何か強い力によって、
あるエンジンが正常のふるまいの法則を逆行させえた結果に他ならない。
(熱は普通高温から低温へと流れるものである)」ことから・・・
「なぜ生よりも死に勝ち目があるのかを悟り、
そしてそのゆえに生命には一つ残らず終わりがあること、
それも決して例外がないことを理解したのだった。」
・・・という確信を紹介してその締めくくりとして
ストッパード著の『アルカディア』をさらに引用して・・・
「彼はそのとき突然、ものごとが必然的に向かう方向は
無秩序しかないという、トマシナの数学的発見の重大さに気づいたのである。
・・・『そうですとも』とトマシナは答えた。
『ダンスに行くのなら急がなきゃ。』」・・・として終わっているところだ。

だいたいこういったところに興味を感じたが、
以下はそれ以外でチェックしたところ・・・
「優雅な果実」の章・・・
理論物理学者デーヴィッド・グロスによる言葉
「理由はともかく、自然は根底のレベルでは、必ず美を選ぶものだ。」
「量的な論証と質の高い人生を求める心とが決して矛盾しない・・・
そもそも質と量とを引き離すことはできないものなのだ。」

「何でこんなところに数学が?」の章・・・
物理学者フランク・オッペンハイマー
「ものごとを理解するということはセックスみたいなものだ。
たしかに実用的な目的はあるのだが、人はふつう目的のために
それを実行するわけではない。」
「数学は混乱した関係をはっきりさせるのに役立つ考え方である。
それは世界の複雑さを扱いやすいパターンに書きかえる言語とも言えよう。」

「こんなに危ないことをしているあなた」の章・・・
「切迫した危険は、はるか先にある危険よりずっと強い恐怖を呼び起こす。」
心理学者ツヴァースキーとカーネマンの共同研究
「ほとんどの人はたとえ大きな報酬をふいにしてまでも、
小さな危険を避けるのにやぶさかではない。
『何かを失う危険は同等の利益より、
はるかに強く人の判断を左右するものだ』と。」
「ところが行動にでる場合のリスクと行動しない場合のリスクの
どちらをとるかを判断するとなると今度は逆で、
実際には行動しないほうのリスクが大きいかもしれなくても、
やっぱり行動をとるため冒すリスクのほうがずっと大きく見えるものなのだ」

「男を測る、女を測る」の章・・・
「計測自体、実際にはそんなに簡単なものではない。
どんな場合もまず引き離せないものをむりやり離したり、
数えられないものを測ったり、
漠然としたものを定義したりする必要があるのだ。
おまけに測るという行為は、たいがいその対象物に影響を及ぼすものだし、
ときにはそれを壊してしまうことすらある・・・
何かを計るとき、得失は必ず相半ばするのだ。」

「なぜ惑星はみんな丸いのか?」の章・・・
生物学者グールド「それぞれの体内の時計で計れば、
どんなに大きさの違う哺乳動物でもみな同じ長さの
時間を生きていることになる。」

「干草の山に埋もれた信号」の章・・・
「そもそも事実というのは、それだけが完全に隔離されて汚れもなく、
すぐさま人に鑑賞され、ちやほやされるような便利な形で
現われてくることは滅多にない。」

「どちらからも文句のでない離婚条件」の章・・・
公平な分配について「その要点は、公平な分割といっても
単にものを等分するのではなく、さまざまな『競り手』が、分けようとする
当の対象にどれほどの価値を見ているかを考えることなのだ。」
→政治学者のブラムズと数学者のテイラーが導き出した「勝者調停」
→分割の対象物に各当事者が自分の好みによって100点ずつ割り当てる。

「神は親切な者の味方」の章・・・
囚人のジレンマを繰り返すコンピュータプログラムの対戦トーナメントで
優勝した協力を第一とするプログラムの特徴を一言で言うと・・・
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
さもなければ思い知れ!」
このことを踏まえて政治学者アクセルロッドは・・・
「長い目でみれば『親切でない戦略』は結局自らの成功に
必要な環境そのものを破壊してしまう・・・
戦略の一つが他の成功を羨んでそれを出し抜こうとすると、
たいていの場合結局自分の損になるのだ。」
「他人の成功が、実質上自分自身の成功の必要条件なわけだから、
他を羨ましがっても意味がない。」
ダーウィンの進化論に対するシミュレーションの結果を
微生物学者マーグリスの言葉を引用して・・・
「『適者』が生き残ることが多かったからといって、
必ずしもその『適者』が最も強く、
最も強引で最も多産だったことにはならない。
『適者』とは、あるいは自分の目的達成のため協力を利用することを、
最もよく収得できるものを指している」

「真理の数学」の章・・・
「不変の真理に到達する道は、皮肉にも自らの観点を
鋭く自覚することにある。」

「割れた卵は元に戻るか」の章・・・
確立論に決定的な役割を果たしたニューマンの確率論に対する要点
「偶然という概念全体が、単に無知を婉曲に言っただけのことなのだ。
ただし偶然には規則性がある。」

相関関係について一卵性双生児を別々の環境で育ててみても
似たような育ち方をする実験結果について遺伝学者ローズは・・・
「血が続いていようといまいと、
とにかく対象は同時代に育った人々なのだ。」
・・・そこから「相関関係は、要するにそこに何か関係が
あるかもしれないことを暗示しているにすぎない。
一つのことがもう一つのことを引き起こすという
原因結果の信頼できそうな機構なしには、
相関関係などまずほとんど役には立たない。」
児童保護財団のスミスの言葉「僕らの脳には統計的才能に欠けている」

「偶然、必然、そしてO・J・シンプソン」の章・・・
物理学者リヒター「われわれの社会では、科学的な発表とは、
データの確率的な解釈であることが多い」
→「科学的な真理とは、必ず暫定的なものなのだ。」
これに加えて物理学者ハラリ「どんな計測であれ、
ある意味ではすべて近似値である」、
数学者クライン「矛盾の代価は不完全さだ」
・・・これをさらに展開させて・・・
「そもそも自然の法則も含めた最高の法則が不変であるからには、
法的概念も不変であるべきだと人は考えがちだ。
多数決とか武装する権利のような概念はドグマに凝り固まったあげく、
それが自然の法則が科学の方法に従っているものとして、
正当化されているようにさえ見える。
しかし自然の法則がドグマであることはまずない。
だいいちそれははっきり定義された限界のなかだけに通用するのだ。」
「諸法則が思いがけず新しい情況内で働くとき、
ルールが以前と同じでなくてはならない理由などどこにもない。
だから人間の脳などという複雑怪奇なところに、
単純な論理の法則があてはまらないのは当然だ。
地球上ですら平行線は湾曲した面では交わるのである。」

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1999 8/27
数学、自然科学、哲学
まろまろヒット率5

リチャード・バック&ラッセル・マンソン、五木寛之訳 『かもめのジョナサン』 新潮社 1977

関西では土曜日の昼間という教育上良くない時間帯にやっている
『愛するふたり、別れるふたり』のとてもよく練り上げられたシナリオに
夢中になっている、らぶナベ@『ここが変だよ日本人』も見てしまうっす。

さて、『かもめのジョナサン』リチャード・バック著、五木寛之訳、
ラッセル・マンソン写真(新潮文庫)1977年初版を読んだです。
この本のタイトルだけは昔からどこかしらで時々眼にしたことがあったので
(カラオケにもこの本の歌が入っていたはず)意識には入っていた。
この前、たまたま家の近くの旭屋難波店に別件で立ち寄った時に
見つけて手に取るとけっこうよさそうだったので買ってみた一冊。
日本では訳者の方が有名か(五木寛之は最近稼いでるから)。

内容は「食べることよりも飛ぶこと」に価値を見出してしまった
かもめのジョナサンが群れから疎外され最後は追放されてまでも
飛ぶことへの追求を続け、その死後に天国に行ってからも
そこで選ばれたかもめとして飛ぶことへのさらなる向上をめざしながらも
かつての自分のような飛ぶことを追求する孤独なかもめや
飛ぶことの価値を見出していないかもめたちに
光りを当てようと現世に帰ってくるというお話。

この本の中で印象に残っているところは、物語の結末の方で
ジョナサンが去った後に彼を崇拝する弟子のフレッチャーが
自分もかつてのジョナサンのように後輩たちに飛行の指導を始めた時・・・
「『では水平飛行から始めるとしよう』
そう言ったとき、彼は即座にあの友が今の自分と同じように、
まさしく聖者なんぞではなかったことを悟ったのだった。」
・・・と、彼が今までジョナサンに対していたあこがれを払拭したところだ。
そしてこの本の中で何よりも「やられた!」と思わされたのが、
上の場面の直後にフレッチャーが・・・
「彼は突然、ほんの一瞬にしろ、生徒たち全員の本来の姿を見たのだ。
そして彼は自分が見抜いた真の彼らの姿に、
好意どころか、愛さえおぼえたのだった。」
・・・というところには強い共感をおぼえた。
本来の姿を見抜いてしまうことは失望でも諦めでも無く
愛することなんだというのがシーンとして表現されていたからだ。

この本は最近の僕の気持ちに共鳴したから素直に読めのだろうが
「真理を知った人間が無知なやつに教えるんや」的な臭いが少し感じられた。
(アメリカ人が好きそうなネタではある)
五木寛之もあとがきの中でこの違和感に関して述べていて
この作品自体よりもこの作品がどうしてアメリカで受け入れられていて
日本ではどう受け入れられるのかということの方に興味を持っているらしい。

また、この本の中でジョナサンが群れから追放されるときに言った・・・
「『聞いてください、みなさん!生きることの意味や、
生活のもっと高い目的を発見しそれを行う、
そのようなカモメこそ最も責任感の強いカモメじゃありませんか?
・・・いまやわれわれは生きる目的を持つにいたったのです。
学ぶこと、発見すること、そして自由になることがそれだ!』」

天国から群れに戻ってきてそこで少しづつ理解を広めながらも
彼を崇拝する人間が出てきたときに・・・
「誤解されるというのはこういうことなのだ、と、彼は思った。
噂というやつは、誰かを悪魔にしちまうか
神様にまつりあげてしまうかのどちらかだ。」
・・・としたようなシーンは印象深い。

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1999 8/24
小説、文学、寓話
まろまろヒット率5

財部誠一 『シティバンクとメリルリンチ』 講談社 1999

去年から始まった日本型金融ビッグバンは眼に見える形で着々と進行中で
特に今年の10月からはいよいよ株取引の手数料自由化がスタートする。
こうした流れはサーヴィスの種類が豊富になって
僕ら顧客が自分の好みで様々な形態を選べるようになるんだけど
その代わりに「知らなかった」や「教えてくれなかった」は通用しなくなる。
と、いうわけでそれなりに僕もビッグバンの流れや
使っている金融機関の事くらいは調べようと思い読み始めた本。

シティバンクもメリルリンチも銀行と証券会社という違いはあれ、
どちらも法人(ホール)相手ではなく個人(リテール)を相手にしている
現在の日本市場では唯一の外資系金融機関。
1200兆円を超える世界一の個人金融資産が眠っている日本で
この領域をターゲットにするのは当然といえば当然の方針だが
日本独自の金融文化や個人顧客の伝統的な排他性や保守性のために
各国の金融機関は個人をメインターゲットにすることに二の足を踏んでいる。
そうした中で個人を狙って進出してきたシティバンクとメリルリンチは
一体どういう企業文化を持っていてどのような経緯で成長してきたのか、
また日本市場に対してどういう戦略を持って臨んできているのかを
この本では日本金融市場のこれまでの特徴と対比しながら記述されている。

本の中ではシティバンクとメリルリンチの両方とも80年代には瀕死状態で
(シティバンクに到っては米国史上最大の不良債権を持っていた)
そこからはい上がってきた金融機関というのを強調していた。
30万円以上の預金が無いと口座維持費を取られてしまうシティバンクの方は
あまり僕とはまだまだご縁が無さそうなのでさらっと読んだが、
(100万以上預金すると他銀行から引きだしたとしても
24時間ATM手数料無料というのは惹かれるけど)
メリルリンチの方は僕個人の取引証券会社であるのでとても興味深く読めた。
特にこの本を読んで強く印象に残ったのは”Get Rich Slowly”という
メリルの理念だ、これはまさに顧客として感じていたことだった。
普通の証券会社は営業ノルマが細かく設定されているために、
顧客に大したこと無い株を安易に薦めたりすることが多々あるが
メリルの営業にはそのノルマが細かく設定されてはいない。
だから僕の担当の人と話していても他の株を強く薦められることは無い、
求めるならあくまでアドヴァイスという形で株を紹介するという感じだ。
だからとても安心感を持って窓口に立ち寄ることができる。
しかし、この営業方針が日本の顧客に理解されるかどうかは微妙だろう。
基本的にそれは顧客がある程度は自分で学ぶということが前提になるし
顧客の自己責任について他の証券会社よりも強調することになる。
僕のように株を所有することを通して市場や株式を学びたいという人間なら
まさにこれは大歓迎だし小うるさい営業が嫌いという人にも歓迎されるが
「おんぶにだっこ」な感覚を根強く持っている多くの日本の顧客にとって
このやり方は違和感をまだまだ強く感じるだろう。
そこにメリルの苦戦があるように個人的に感じた。

そしてこの本を通して感じたもう一つの大きなこと。
それは各業界で現在進んでいる規制緩和や自由化によって
「結局1社か2社しか生き残らない」と極端には言われている。
(自動車、銀行、旅行代理店、製薬会社などなど)
でもそれはトップの「何でも屋」としては1社か2社が残るというだけで
他の各社がより存在理由やアイデンティティを鋭くしてゆく
(中途半端は消えてゆく)ということだろうと感じる。
まさに「No1か?Only Oneか?」をせまられる構造になるだろう。
もちろんこれは予想というより勝手な臭い的に感じるだけのことで
実際にどうなってゆくのかは確かにはわからないけど
どちらに転んでも僕にとっては生きやすい世の中になっていきそうだ(^_^)

また、他にはこの本の中で株式市場や為替市場に限らず、
市場で最高値で売り最安値で買うことの難しさについて・・・
「大底が形成されるのは売り手がまったくいなくなってしまうからであり、
反対にマーケットが天井をつけるときは買い手が消えてしまうからである。」
・・・としているのは当たり前の話だが思わず熱くなると忘れることだ(^^;

それと日本の不動産を買い始めている外資系企業が導入している、
担保の価格変動をも金融機関の責任に入れる「ノンリコース・ローン」が
本格的に日本の不動産業界で中心になっていけば
ずいぶん不動産業や銀行などによる融資の仕事も
興味深いものになってゆくだろうと感じた。

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1999 8/19
経営学
まろまろヒット率3

高坂正堯 『文明が衰亡するとき』 新潮社 1981

らぶナベ@今月18日にエニックス株が二部を飛び越して
東証一部に上場されるっす。
今年中に上場はあると思っていたけどまさかこんな早い時期に
それも飛び上場とは予想外っす、めざせ年内1万2千円台!(^^)

さて、『文明が衰亡するとき』高坂正堯著(新潮選書)1981年初版をば。
著者の高坂正堯は近代から現代にかけての日本の国際政治学の中でも
おそらく屈指の存在だろうと思われる国際政治学者。
沖縄返還では佐藤政権のブレインとしてその政策を支える
活躍をするなどの実践経験もある骨太な研究者。
個人的にも彼の今までの著作『国際政治』『世界史の中から考える』
『世界地図の中で考える』『世界史を創る人びと』などを通して
安易な理想主義の問題点を突っ込み、ドライな視点で現実を捉えながらも
だからといって決してすれたり投げやりにならない姿勢に好感を持っていた。
極端に楽観的になったり極端に悲観的になりがちな国際的なネタを
冷静にかつ愛情を持って見つめようとしている姿が伝わってくる書き手。
最近死んでしまったけど僕がもっとも好きな政治学者&物書きの一人。

この本はその彼の著作の中で一番の代表作というべき本。
いつか読みたいと思いながらもなぜか読む機会を見いだせなかった本、
大学院に入って本を読む時間があるというのはとても良いことだ(^^)
内容は誰もが一度は感じたことがある衰退と滅亡への
漠然とした不安、文明の衰亡論をテーマにしている。
衰亡の原因は一つだけではなくまた一直線で衰退するということも
無いために衰亡の究明は複雑になってくる。
だらこそ不安をかきたてられてどうしても安易な結論を出してしまいがちだが
この本はそういう意味では余裕がある書き方をしている。
構成としては古代ローマ、ヴェネツィアの隆盛と衰亡を軸にして
現代アメリカの苦悩と最後に海洋商業国家としての日本が戦後経済大国に
なりえた環境とその状況が変化しつつある今後の姿を示している。

昔から様々な人間を惹きつけてきた、
「ローマはなぜ滅んだか?」というテーマの大元、
古代ローマがどうして隆盛しどのようにして滅んでいったかを
これまで各時代ごとに出されてきた様々な仮説を紹介しながら
えがいているところは特に興味深かった。
確かにその時代その時代の不安がローマ衰亡論には見え隠れして
衰亡論の面白さが伝わってきて説得力がある。
また、様々な衰退要因を克服しながらも衰亡していったヴェネツィアの姿勢は
与えられた状況の中で困難に立ち向かう人間たちのカッコ良さを感じる。
そしてそれは領土も資源も無く海洋に面している
商業国家という点で似ている日本の姿をだぶらせてしまう。
(安易な類似は危険だけれど)

悲壮感が漂いそうなテーマでありながら決して感情的に高ぶったり
安易に悲観論に走らない、だからといって味気なく無いところは
さすが高坂史観だと思わせてくれる。
どうも僕は司馬遼太郎といい、高坂正堯といい、
安易な理想論や無責任な感情論に対して誰にも文句を言わせないほどの
資料調べとそれに基づく歴然とした事実を武器にして批判し、
それだからこその説得力を持って現実に絶望しないで
ユーモアを感じさせてくれる関西人的な書き手が好きなようだ。
(事実、二人とも根っからコテコテ関西人)
時にそれは感情論者や理想論者を逆なでしてしまうのだろうけど(^^;
現実的な視点で軟弱な理想主義を非難しつつも投げやりにならない
骨太な希望論は僕も心がけていきたいものだ。
たとえそれが避けがたい衰亡論のような一見絶望的なものであっても
それが必要だと、そう思わしてくれる名著だった。

以下、眼についた箇所の抜粋・・・
・ある時代に強力であった説というものは、時代おくれとして
簡単に片づけられないものなのである。

・ローマは狭い視野で、勝利の成果をむさぼろうとせず、
寛大に扱ったのであり、それ故、支配を永続させることができたのであった。

・財産の平等が質素を維持するように、質素は財産の平等を維持する。

・土木と法はローマ人がもっとも秀れていたところ

・権力と富を享受しうるようになったローマで、敢えてそれから逃避せず、
しかし、その奴隷にならないよう日毎自らをいさめ誘惑と戦う

・大衆は普通、彼等の属する集団やその価値によって自己を規制している。
そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを
得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが
大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作され易い。

・幸運に臨んでは慎み深く、他人の不運からは教訓を学んで、
つねに最善をつくす

・巧妙な外交をおこなうものは、
契約を破ったりは滅多にしないものなのである。

・よい政治体制とは国内の活力と多様性とを保ちながら、
秩序と安定とを与えるもの

・勝敗の分かれ目はレーンが述べたように
「社会を組織する能力」の差にあった。
(ジェノヴァに勝ったヴェネツィアの要因)

・挫折は自らの限界を悟らせる。そして、人間は知恵を持つようになる。

・幸運に助けられた目ざましい成功と、どうしても克服できない脆弱性、
その二つが通商国家の運命であるというほかない。

・それをしていることを十分に承知している人間の行う偽善は、
有効であるとともに、かつ芸術的に美しい

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1999 8/17
歴史、政治学、エッセイ
まろまろヒット率5

神岡学 『よわむしのいきかた。』 大和書房 1999

6月に東京に行った時に新宿の紀伊国屋で並んでいるのをちらっと見て以来、
気になって大阪に帰ってきてから差がし続けていたいわゆる大人の絵本。
最初この本を見たときはいかにもクレヨン描きの表紙の絵と
ひくつなタイトルにあざとさを感じて買って読もうとは思わなかったが
時間がたつにつれてどこか気になり続けたという
なかなかに自己アピールのうまい一冊。

内容は表紙を見たまんま。
「よわむし」という主役(いもむしに顔をつけたという感じの絵)が
生きていくお話、こういう本の例にもれずちょっと説教くさかったり
自己弁護の一生懸命さが時々うさんくささを醸しだしているが
それでも読んでいてまろまろした気分にさせてくれる。

例えばつらそうなみのむしの絵の側に「キミはふかれている。」
花をくわえているよわむしの側に「ボクはうかれてる。」
と書かれているページは変に脱力感を感じさせてくれる。
また、「思いやりとかやさしさとか我がままに生きるなら必要だよな。」
というページにも妙に納得してしまった。
最後らへんで・・・
「大きく見える世の中なんて、ボクみたいにちっちゃいもんが
いっぱいかさなってできているんだ。大手をふっていこう。」
・・・としているのはこの本の「らしさ」の結論か?

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1999 8/12
絵本
まろまろヒット率3

梶井基次郎 『檸檬』 文藝春秋『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』より 1999

らぶナベ@今日は祇園祭りっす

さて、ふと『檸檬』梶井基次郎著を読んだです。
(『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』文芸春秋1999年初版より)

言うまでもなく梶井基次郎の処女作で代表作の短編。
最近この作品に出てきた八百屋「八百卯」がフルーツパーラーに変わって
まだ京都にあることを知って作品自体に興味を持っていたところに
文芸春秋から梶井基次郎と中島敦の短編を一冊にした文庫が出たので
これは良い機会だと思って買って読んだ一遍。
読んでみると・・・やっぱり怠惰だ、けだるさや脱力感を感じる。
だからといって暗くじめじめしていないし、イヤさを感じないのは
最後は爆弾にまでなってしまう鮮やかな檸檬がこの作品の柱だからか?

この作品を通して感じるけだるさとあざやかさ、
この対比っていうのは大阪人である僕が
京都という街から受ける複雑な感じに似ているかもしれない。
そういえば梶井基次郎も十歳までは大阪で育っていた。

ま、とりあえずまだ現存する「八百卯」に行った後は
丸善の画集コーナーで檸檬プレイをしてみよう(^^)

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1999 7/16
小説・文学
まろまろヒット率5

追記:約8年半後の2007年12月27日に実現&うっかり再読

福嶋康博 『マイナスに賭ける!』 KKベストセラーズ 1998

僕が去年内定していて現在株を所有している、
株式会社エニックスの社長である福嶋康博の本。
大学院の講義で使うことになるかもしれないので株主総会でもらった本。
いかにも企業トップの出しそうなタイトルと出版社にかなり引いたが
「まぁ社長が書いた(?)本なんてこういうものだろう」と読んだ一冊。

内容は予想通り自分の半生と成功談と成功した考えが書かれていた。
彼とは最終面接も含めた採用過程で三度会って少し話をする機会があって
後で聞くとどうも彼に気に入られて採用が決定したそうだが
僕自身彼には憎めないというか好感を持っていた。
ただ、それを本にすると薄っぺらくなってしまうなという感じだ。
そうした中でそれでも印象に残った箇所が・・・
「まわりの人には常識であっても、自分が心から納得できるものでなければ、
自分にとっては”不自然”なこととしか思えない。
つまり、自然さとは自分が納得できるかどうかということなのである。」
・・・というものだ、確かに強く納得できる。

また・・・
「私は不安のために行動を起こしているのである。」や、
「小さなことをやるのも、大きなことをやるのも苦労はそう変わらない。
だったら高い目標を持って、自分自身を信じて大きなターゲットで
ナンバーワン目指してチャレンジしたほうがずっとやりがいがある。」
・・・のような意見・・・
「自分が正しいと思ったことは三回では主張し続けろ。」
・・・というところは直接彼から聞いたことがあるだけに印象深い。

そしてやっぱり慎重だなと思ったのが、
訴訟を起こすときも勝つことではなく
「どういう情況になるとウチは負けるのか?」と負ける条件を並べて
それらを確実に潰していこうという姿勢だ。

事業に関しては・・・
「事業をやるならば、玄人よりも素人のほうが当たることが多い。
玄人はアイデアがでてきても業界の常識に縛られてしまって
簡単にダメだと判断してしまうからである。素人ならば、
いいと思ったことを素直に実行するから施工する可能性が高い。」

「企画マンとしての固定概念を打ち破るような発想は、
ゼロから考えるところにあるといえる。」

「自分は強いから勝つことになっているという自然体で臨んだからである。」
・・・などは彼らしい(エニックスらしい)意見。

「周囲の人間が悲観的に振れている現代では、
マイナス思考で物事を考えている人が多い。
その常識に照らして合わせて考えるクセをつけてしまうと、
どんどんマイナス思考へのスパイラルに陥ってしまう。
そこで、世間の常識というモノサシ自体が本当に正しいものかどうかを、
疑うことからはじめることをおすすめしたい。」
・・・とは成功者だから言えることだがそれだけに言う価値があるだろう。

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1999 7/11
経営学
まろまろヒット率2

塩野七生 『マキアヴェッリ語録』 新潮社 1992

僕はいい加減な人間だからどんなものにフリーライドすることになっても
良いと思うけど自分の人生に対してだけはフリーライダーには
ならないでおこうと思っている、らぶナベっす。

さて、そういうことも考えさせられた『マキアヴェッリ語録』
塩野七生著(新潮文庫)1992年初版の感想をば。
著者はヴェネツィアをえがいた名著『海の都の物語』で有名な作家。
女流作家には珍しくドライな視点と綿密な資料による裏付けを持ち、
だからと言って小さくまとまってはいないという
(彼女の描く男たちはみんなカッコ良い!(^^))
現在生きている歴史小説家の中では一番信頼できる本を出してくれると
僕が勝手に独断と偏見で思っている作家の一人。
現在はイタリアに住んでいて毎年一冊づつ、『ローマ人の物語』を出版している。
これも歴史に残る名著になりそうな流れ、いつかは読破してやろう(^_^)

この『マキアヴェッリ語録』自体はマキアヴェッリの本の完訳でも
要約でも解説でもない「抜粋」という形を取ってまとめられている。
抜粋集からさらに抜粋するというのも変な感じだが、
この本の中で一番僕が印象に残り気に入ったのが・・・
☆天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。
『手紙』
→これはまさにマキアヴェッリらしいというかルネサンス期の
時代空気そのままといった感じの言葉、カッコ良いので気に入った(^^)

それと我が意を得たりと思った・・・
☆困難な時代には、真の力量(virtu)をそなえた人物が活躍するが、
太平の世の中では、財の豊かな者や門閥にささえられた者が、
わが世の春を謳歌することになる。
『政略論』
→つまり現代は僕が活躍できる可能性がちゃんと用意されているってこと、
生まれてくる時代は間違わなかったなとニヤリとできた箇所(^o^)

その他でこの抜粋集からさらに僕が抜粋したものが以下、
例のごとく「☆」重要と思い「○」が単なる抜粋、
「→」はそれに対する僕のコメント、
「☆」の抜粋に関しては印象深いものから順番を変えた・・・

☆決断力に欠ける人々が、いかにまじめに協議しようとも、
そこから出てくる結論は、常にあいまいで、
それゆえ常に役立たないものである。
また、優柔不断さに劣らず、長時間の討議の末の遅すぎる結論も、
同じく有害であることに変わりない。
・・・多くのことは、はじめのうちは内容もあいまいで不明確なものなので、
これらをはじめから明確な言葉であらわすことはむずかしい。
だが、いったん決定しさえすれば、
言葉など後から生まれてくるものであることも忘れてはならない。
『政略論』
→時々忘れてしまうが緊急の時には決して忘れてはいけないところだろう。

☆なにかを為しとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、
自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、
それに合わせるようにしなければいけない。
時代と情況に合致することを怠ったり、また、
生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、
生涯を不幸のうちにおくらなくてはならいないし、
為そうと望んだことを達成できないで終わるものである。
これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、
望むことも達成できるのだ。
『政略論』
→時代性を読みとる力が決定的な差になるという彼らしい言葉だろう。

☆幸運に微笑まれるより前に、準備は整えておかねばならない。
『戦略論』
→これは雌伏の時を過ごしている僕にとっては忘れてはいけない言葉。

☆運命が、われわれの行為の半ばは左右しているかもしれない。
だが、残りの半ばの動向ならば、運命もそれを、
人間にまかせているのではないかと思う。
『君主論』
→ドライな視点が決してギスギスしている訳じゃないということを
教えてくれる言葉。

☆人の為す事業は、動機ではなく、結果から評価されるべきである。
『政略論』
→彼の現実主義的な特徴はこの一言に要約されているだろう。

☆思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、
力だけならば、実行に移したことも継続することはできない・・・
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』
→バランスってやつ。

☆必要に迫られた際に大胆で果敢であることは、
思慮に富むことと同じと言ってよい。
『フィレンツェ史』

☆運命がなにを考えているかは誰にもわからないのだし、
どういうときに顔を出すかもわからないのだから、
運命が微笑むのは、誰にだって期待できることであるからである。
それゆえに、いかに逆境におちいろうとも、
希望は捨ててはならないのである。
『政略論』

☆(大事業を提唱する際の危険性を避ける方法として)
つまり提唱者は自分であるということを明示してはならず、
そのうえ、提唱する際にも、やたらと熱意をこめてやってはならない。
この種の配慮は、たとえあなたの考えが実行に移されても、
それは彼等が自身で望んだからであって、
あなたの執拗な説得に屈服したからではないと、思わせるためなのである。
・・・第一は、危険を一身に負わなくてもよいということである。
第二は、もしもあなたの提唱する考えが容れられず、
代わりに他の人の案がとりあげられ、それが失敗に終わった場合、
今度はあなたが先見の明があったということで賞賛される・・・
『政略論』
→ちょっとせせこましい気もするが一考する価値はある、
なにしろでかいことをやるのには体力と時間と精神力がかかるから
こういうスタンスで参加しても良いのだろう。
ちょっとスケールは小さくなるだろうけど(^^;

○個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。
しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』

○君主(指導者)は、それをしなければ国家の存亡にかかわるような場合は、
それをすることによって受けるであろう悪評や汚名など、いっさい気にする必要はない。
・・・たとえ一般的には美徳(virtu)のように見えることでも、
それを行うことによって破滅につながる場合も多いからであり、
また、一見すれば悪徳のように見えることでも、その結果はと見れば、
共同体にとっての安全と反映につながる場合もあるからである。
『君主論』
→ここらへんはいかにもマキアヴェッリらしい

○思慮深い人物は、信義を守りぬくことが自分にとって不利になる場合、
あるいはすでに為した当時の理由が失われているような場合、
信義を守りぬこうとはしないし、また守りぬくべきではないのである。
『君主論』

○人間というものは、自分を守ってくれなかったり、
誤りを質す力もない者に対して、忠誠であることはできない。
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』

○わたしは、愛されるよりも怖れられるほうが、
君主にとって安全な選択であると言いたい。
なぜなら、人間には、怖れている者よりも愛している者のほうを、
容赦なく傷つけるという性向があるからだ。
『君主論』

○共和国において、一市民が権力を駆使して国のためになる
事業を行おうと思ったら、まずはじめに人々の嫉妬心を
おさえこむことを考えねばならない。
・・・第一は、それを行わなければ直面せざるをえない困難な事態を、
人々に納得させることだ。
・・・第二の方策は、強圧的にしろ他のいかなる方法にしろ、
嫉妬心をもつ人々が擁立しそうな人物を滅ぼしてしまうことである。
・・・人々の嫉妬心が、善きことをしていれば自然に消えていくなどとは、
願ってはならない。邪悪な心は、どれほど贈物をしようとも、
変心してくれるものではないからだ。
『政略論』

○君主は、自らの権威を傷つけるおそれのある妥協は、
絶対にすべきではない。たとえそれを耐えぬく自信があったとしても、
この種の妥協は絶対にしてはならない。
なぜならほとんど常に、譲歩に譲歩を重ねるよりも、
思いきって立ち向かっていったほうが、たとえ失敗に終わったとしても、
はるかに良い結果を生むことになるからである。
『政略論』

○優秀な指揮官とは、必要に迫られるか、
それとも好機に恵まれるかしなければ、けっして勝ちを急がないものである。
『戦略論』

○武装していない金持ちは、貧しい兵士への褒賞である。
『戦略論』

○思慮に富む武将は、配下の将兵を、
やむをえず闘わざるをえない状態に追い込む。
『戦略論』

○人は、大局の判断を迫られた場合は誤りを犯しやすいが、
個々のこととなると、意外と正確な判断をくだすものである。
・・・つまり、大局的な事腹の判断を民衆に求める場合、
総論を展開するのではなく、個々の身近な事柄に分解して説明すればよい。
『政略論』

○民衆というものは、はっきりとした形で示されると
正当な判断をくだす能力はあるが、理論的に示されると、
誤ること多し、ということである。
『政略論』

○衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、
常に態度を変えないものである。
『政略論』

○どうすれば短所をコントロールするかが、成功不成功の鍵となってくる。
『政略論』

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1999 7/10
名言集、哲学
まろまろヒット率5

秋山駿 『信長』 新潮社 1996

最近、文春文庫から現代日本文芸館シリーズとして
『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』という本が出版されたっす。
タイトルからもわかるとおり、これは中島敦と梶井基次郎の代表的短編を
一冊の文庫にまとめたという実に小憎ったらしい戦略の文庫本っす。
一冊の本にすると短すぎるけど手元にはおいておきたい作品を
うまく入れているという(僕なら『山月記』=中島と『檸檬』=梶井っすね)
この出版社側の意図に見事にハマってしまい自分用とプレゼント用に
二冊も買ってしまった、らぶナベ@ちなみに『檸檬』の舞台になった
あの八百屋さんはまだ京都に現存するらしいっす。

さて、『信長』秋山駿著(新潮社)1996年初版をば。
前々から様々なところで評価を受けていたので気になっていた歴史評論本。
実際に読んでみると評判以上の大作で大当たりの一冊!(^o^)
けっこうな分量がありその上小説ではなく評論という取っつきにくそうな
雰囲気を持った本だけどこれは読んでおくべきと断言できる本っす。

以下は具体的な内容・・・
主に『信長公記』を元にして織田信長の革新性や天才性を考察している本。
彼に対する評論や小説は多いがこれはひと味もふた味も違う。
「モデルを持たなかった真の創造者」という視点で信長の行動を追っていき、
その革新性や創造性を支えた精神とはいったい何だったのかということを
プルタークやヴァレリー、モンテスキュー、スタンダール、デカルト
などからの引用を多様しながら紐解こうとした実に野心的な評論。
「それは持ち上げすぎやろ」とか「ホンマかいな」という突っ込みは
いくらでもできるが、それが事実かどうかということよりも
いまを生きることの意味や時代を切り開く価値について考えさせられる
歴史書というよりは創造性や革新性を信長を通して考える哲学書的な本。
野間文芸賞や毎日出版文化賞をもらっているのも
そういう側面があるからだろう。

この本の中で僕がもっとも印象に残り、
かつ信長についてとても的確に表現していると思われる箇所がここ・・・
☆リアリストは、現実を掴む。しかし、単なるリアリストは、
現実を超えない。現実の方が彼より強いから。
したがって、根底からの新しい創造などというものは無い。
これに反して、非凡なリアリストは、現実を掴むと同時に、
もう一つの見えない手、現実否定の刃を持った手で、
これを撃つのである。現実を割る。
・・・したがって非凡なリアリストは、その存在の一端で絶えず、
無、というか、非現実なものに触れているはずである。
信長が好んだという「人間五十年・・・夢幻の如くなり」の詩曲は、
そんな彼の生の深処に木霊するものであったろう。
(第四項「行動のエピソード」より)

もう一つ・・・
☆「・・・行動を制するものは精神力である。
天分が芸術の領域で作品に独特の肌ざわりを創り出すように、
精神力は行動に活力と生命を与えるのである。
事業というものに生命の息吹きを与えるかくのごとき精神力の持ち主は、
結果の責任を一身に負う気魄の人である。
困難が精神力の人を引きつけるのである。
なぜならば、彼が自己を表現できるのは困難に立ち向かう時をおいて
他にないからである。困難に打ち勝つか否かは彼だけの問題である。」
(比叡山焼き討ちについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)
・・・というのはぞくぞくするくらいに納得できる。

さらにこの本の根幹である信長(革命家)と他の戦国大名
(例え優れていても単なる時代の追随者)との違いについて・・・
○信玄と信長とでは、戦争の方法が違う、あるいは、
戦争をする意味つまり原理が、違っているのだ・・・
信玄は、自分の家が大切な男だった。
・・・これに反して、信長は・・・いわば、生まれ育った場処の否定、
自分の家の否定、ということになる。
・・・天下、という観念、あるいは「天下布武」という思想は、
こういう自分の家否定、のところから出発する。
信玄にはこれが無かった。

○信玄や謙信の場合は、結局のところ、自分がそこに起って
生きているところの、現在の、日常生活というものが基礎になっている。
信長はそれとは反対のことをしている。彼の土台は、戦争である。
戦争は、自分を主人公にして場面を変化させるものだ。
あるいは現実を動かす。そういう戦争の精神が基礎であって、
日常生活はそこから割り出される。だから日常生活も改変される。

○彼等の誰一人として、「天下」などという観念を抱いてはいないのだ。
仮りに天下といっても、それは漠然たるイメージであって、
観念の明晰さを持っていない。
・・・彼等には、天下という理想が無かった。
仮りに彼等の一人に天下を与えてみよ。
何も為ることが思い浮かばず、ただ右往左往とうろうろするだけだろう。

・・・このようなことを展開をしながら・・・
☆反信長同盟には、中心がない。
力がそこから発してそこへと帰着する球心点を欠いている。
したがって統一がない。
これに反して、信長軍では各武将が、
一つの中心から各方面に一斉に放射される力のヴェクトルのように、
統一の形状を成している。
・・・信長軍は到る処で現状を改変しようとするシンボル、
生き生きと動く信長という、一つの理想があった。
それが統一の根拠となる。
・・・以来、十年ばかり、周囲はすべて敵であり、
天下の反信長勢を相手に、信長軍が、いわば孤軍奮闘することになる。
天下を(敵として)相対する信長軍は、何を以ってその重さを持ち堪えたのか。
それはやはりー天下布武、という理想だと考えていい。
(なぜ織田勢が長年敵勢に包囲されながら崩壊しなかったかについて)
・・・としているのは爽快感さえある。

また、このことに関連することで・・・
☆「人間は弱いがゆえに、目的に完全性を求め、弱いがゆえに、
精神がうっ屈するがゆえに、無限に願望をふくらませ、
自分の無力さをしっているがゆえに、偉大な行動に参加を求めるのである。
指導者は人間のこの曖昧模糊とした願いに堪えてやらねばならない。
この偉大さというダイナミズムを利用せずしては
なんぴとも人に自分の意志を強要することは不可能である。」
(比叡山焼き討ちや一向一揆との戦いになぜ信長の配下武将が
従ったかについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)

☆「暗澹たる、並々でなく責任の重い問題への只中にあって
みごとに快活さを保つといふことは、決して些細な芸当ではない、
とはいへ、快活さ以上に必要なものがどこにあらう?
・・・力の過剰こそ初めて力の証拠である。」
(信長の全行動についてニーチェの『偶像の薄明』を引用して)
・・・などの箇所が印象深い。

他にも・・・
☆野望は自己の肥大化であるが、理想は自己一身の献身を要求する。
野望はそれを抱いた人の死で熄むが、理想は抱いた人の死を超えて生きる。
理想は、天下布武というようなものでなければならぬ。
偉大な将帥の本質とは何であろうか。
それは理想を、己の精神の内密の秘密と化し、
己の日常の生の波動と化している人のことだ。
理想を一秒の休みもなしに刻々の火と化している精神力の人のことだ。
戦術の巧妙とか戦術眼の確かさなどは、佐官クラスの器量に過ぎぬ。
(長篠の戦いで優れた人物とされた武田勝頼が挫折したことについて)

☆「カエサルは多数の成功を収めたが、天性大事業に対する名誉心が
強かったために、骨を折つて果たした仕事を味はふ気持ちにはならず、
それらが将来の仕事に対する燃料と自信を与え、
一層大きな事業に対する計画と名声に対する欲望を生じ、
現在の名声は用が済んだものと見て、自分自身の功績を他人の功績のやうに
考へて絶えずそれを凌がうとし、既に果たした仕事を向ふに廻して
将来の仕事に抱負を懸けた」と『プルターク英雄伝』を引用して・・・
独創の人の戦争は、実は、その始源は自分との戦争から始まる。
彼は、絶えず間断なく、かつて在った自分、そこに在る自分を、
乗り越えようとする。
(本能寺の変直前の信長について)

☆「剛胆とは、大きな危難に直面した時に襲われがちな胸騒ぎ、狼狽、
恐怖などを寄せつけない境地に達した、桁はずれの精神力である。
そして、英雄たちがどんなに不測の恐るべき局面に立たされても
己を平静に持し、理性の自由な働きを保ち続けるのは、この力によるのである。」
(本能寺での軽装備について『ラ・ロシュフーコー箴言葉』を引用して)

☆「彼らが殊に注意して糺明するのは、どういふ点でその的は自分たちより
秀れているのだらうかといふことだつた。
そして、まづそれを自分のものにした。
・・・戦は彼らにとつて一つの考察であり、平和は実習だつたのである。」
(美濃攻略の過程をモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』から引用)

☆「天才とは己が世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である。」
(「本能寺の変」でスタンダールの『ナポレオン』を引用して)
・・・などはしっかりとメモを取る価値のある箇所だろう。

以下はこれら以外で気になった箇所の抜粋・・・
○戦闘において、自分の軍勢を敵より常に到る処で二倍にすることにあった
(スタンダールがナポレオン戦法について述べたことを引用して)

○二千の兵を、無意識に義元と妥協しているような人々から切り離して、
何処へ往ってもいいような一個の流動体と化して行動させた
ーそこに合戦の鍵があった、と思う。
(桶狭間の戦いの革新性を述べて)

○なるほど、われわれにとっては町を歩きながら「瓜をかぶりくひ」
するのは、普通の行為普通の光景だろうが、そこに信長が参加すると、
あるいは信長を中心にそれが行われると、異なった光景が出現する・・・
・・・信長が、新しい世界異なった世界へ入っていくのではない。
単身先頭をきって駆ける信長が、常に到る処で、自分の周囲に、
新しい世界異なった世界を出現せしめているのだ、と。
(「うつけぶり」から彼の革命性を読みとって)
              ↓
○「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がさうしている、
それが貴様の強みぢやないか」
(ランボオの『地獄の季節』から引用して)

○剛毅な心だけが、人の精神をリードして、新しい現実を創り出させるのだ。
(尾張統一戦での信長の苛烈な戦いぶりをスタンダールを引用して)

○発進する思考と、考え込む思考との違いがある。
この信長の行動と見えるもの、実は、
それが「剛毅な心」というものの表現なのであり、
あるいは、そこから発する思考のスタイル、といってもいいものだ。
・・・その思考の尖端に居座っているのは、現実そのものの真と偽を、
厳しく弁別、検証する力だ。
・・・現実の真偽の弁別を、いったい何がするのか、ということだ。
(疑問を自らの行動で確かめようとする傾向を指して)

○自分の家を捨て、いわば城も捨て、ことによったら「死のふは一定」で、
自分さえ捨てることのできる信長が相手だと、勝ったところで・・・
戦争の採算が取れぬ・・・これは危険な男だ。
(なぜ信玄が強大化する前に信長を討とうとしなかったかについて)

○「言葉固有の目的は、聞く人に信念の念を起こさせることにある」
(斉藤道三が信長を信じた根拠についてプルタルコスからの引用して)

○「諸君は、幸福の一致ばかり説くが、しかし誰も、
不幸を一致しようとは言わぬではないか」・・・「友」とは何か
ーそれは、不幸と死を、一致する相手のことである。
(信長と家康の関係をトゥーキュディデース『戦史』から引用して)

○「余は恒に二年後のみに生きて居る。
かういふ男に取つては現在といふものが存在しなかつたのだね。」
(このようなことをヴァレリーの『固定観念』からの引用して)

○これは見られる所のものを、見られる所のものに、
形と運動に還元することではないのか。
(上洛後の行動についてヴァレリーの『オランダよりの帰途』から引用)

○自己から発しての一尺度の創造。これが信長の本質である。
(貨幣統一と宗教宗論を起こした原因について)

○危急の瞬間、人は三十分もあれば最高の判断を下す。
(浅井長政の離反時の信長の行動について)

○「難局に立ち向かう精神力の人は自分だけを頼みとする。」・・・
「英雄とは、自己を信じるといふ道を選んだ人間でなくして何であらう。」
(比叡山焼き討ちについてド・ゴールの『剣の刃』、
アランの『デカルト』からそれぞれ引用をして)

○自分の心のかたちになぞらえて他人の心理を読む者がいる(信玄)。
人間通である。が盲点がある。
よく似た心が隣接すれば必ず反撥するということに。
自分が人とはまったく異なった生き物だと思うゆえに、
人間機械でも洞察するように他人の心理を読む者がいる(信長)。
これも人間通であるが盲点がある。
洞見されたと知ることによって変態してしまうほど、
人の心は不合理なものであることに。
(信玄、信長それぞれの人間観について)

○「最も簡単なものが通常最もすぐれたものである」
(鉄船の発明についてデカルトを引用して)

○信長の武辺道には、単に現実の局面その場その場での、
勇猛心や憶隠の情の発揮だけではなく、戦争における行為の一貫性、
あるいは生の態度の明晰さ、というものが必要であった。
(反乱を起こした荒木村重の武辺道と信長の武辺道との違いについて)

○第一。ふと好奇心を発したら、直ちにそれを確かめる。
・・・第二。信長の精神の内部にあっては、精神のもっとも高級な問題と、
これとは対極的なもっとも日常的な現実の些細事とが、
見えない直線で直結している。
・・・第三。徹底性、あるいは完結性。
(信長の日常の態度から彼の精神の三つの面を割り出して)

○もし、信長が、単なる大軍の軍司令官だとしたら、
かなり以前に石山本願寺という本拠を撃滅しただろう。
しかし、こんな「本拠」の撃滅は、相手が宗教戦争を仕掛けてくるのでは、
たいして意味がない。
相手の「中枢」を撃たねばならぬ。中枢とはこの場合、
対信長戦争の無意味化であり、朝廷の斡旋による和睦の成立にあった。
(なぜあれほど激しく戦った本願寺を撃滅せずに和睦したかについて)

○なるほど、時間の余裕があれば、光秀の態度は賢明であろう。
まず言葉を発し、用意してから、行動に移る。
だが火急の一瞬、信長は恒に、言葉より前に行動を発した。
行動こそが言葉であった。
(信長を倒した光秀がなぜあれほど早く滅びたかについて)

・・・ふぅ、この本とにかく価値ある大作です。

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1999 7/1
歴史、エッセイ、哲学
まろまろヒット率5