リチャード・バック&ラッセル・マンソン、五木寛之訳 『かもめのジョナサン』 新潮社 1977

関西では土曜日の昼間という教育上良くない時間帯にやっている
『愛するふたり、別れるふたり』のとてもよく練り上げられたシナリオに
夢中になっている、らぶナベ@『ここが変だよ日本人』も見てしまうっす。

さて、『かもめのジョナサン』リチャード・バック著、五木寛之訳、
ラッセル・マンソン写真(新潮文庫)1977年初版を読んだです。
この本のタイトルだけは昔からどこかしらで時々眼にしたことがあったので
(カラオケにもこの本の歌が入っていたはず)意識には入っていた。
この前、たまたま家の近くの旭屋難波店に別件で立ち寄った時に
見つけて手に取るとけっこうよさそうだったので買ってみた一冊。
日本では訳者の方が有名か(五木寛之は最近稼いでるから)。

内容は「食べることよりも飛ぶこと」に価値を見出してしまった
かもめのジョナサンが群れから疎外され最後は追放されてまでも
飛ぶことへの追求を続け、その死後に天国に行ってからも
そこで選ばれたかもめとして飛ぶことへのさらなる向上をめざしながらも
かつての自分のような飛ぶことを追求する孤独なかもめや
飛ぶことの価値を見出していないかもめたちに
光りを当てようと現世に帰ってくるというお話。

この本の中で印象に残っているところは、物語の結末の方で
ジョナサンが去った後に彼を崇拝する弟子のフレッチャーが
自分もかつてのジョナサンのように後輩たちに飛行の指導を始めた時・・・
「『では水平飛行から始めるとしよう』
そう言ったとき、彼は即座にあの友が今の自分と同じように、
まさしく聖者なんぞではなかったことを悟ったのだった。」
・・・と、彼が今までジョナサンに対していたあこがれを払拭したところだ。
そしてこの本の中で何よりも「やられた!」と思わされたのが、
上の場面の直後にフレッチャーが・・・
「彼は突然、ほんの一瞬にしろ、生徒たち全員の本来の姿を見たのだ。
そして彼は自分が見抜いた真の彼らの姿に、
好意どころか、愛さえおぼえたのだった。」
・・・というところには強い共感をおぼえた。
本来の姿を見抜いてしまうことは失望でも諦めでも無く
愛することなんだというのがシーンとして表現されていたからだ。

この本は最近の僕の気持ちに共鳴したから素直に読めのだろうが
「真理を知った人間が無知なやつに教えるんや」的な臭いが少し感じられた。
(アメリカ人が好きそうなネタではある)
五木寛之もあとがきの中でこの違和感に関して述べていて
この作品自体よりもこの作品がどうしてアメリカで受け入れられていて
日本ではどう受け入れられるのかということの方に興味を持っているらしい。

また、この本の中でジョナサンが群れから追放されるときに言った・・・
「『聞いてください、みなさん!生きることの意味や、
生活のもっと高い目的を発見しそれを行う、
そのようなカモメこそ最も責任感の強いカモメじゃありませんか?
・・・いまやわれわれは生きる目的を持つにいたったのです。
学ぶこと、発見すること、そして自由になることがそれだ!』」

天国から群れに戻ってきてそこで少しづつ理解を広めながらも
彼を崇拝する人間が出てきたときに・・・
「誤解されるというのはこういうことなのだ、と、彼は思った。
噂というやつは、誰かを悪魔にしちまうか
神様にまつりあげてしまうかのどちらかだ。」
・・・としたようなシーンは印象深い。

この本をamazonで見ちゃう

1999 8/24
小説、文学、寓話
まろまろヒット率5

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