J.G.マーチ&H.A.サイモン、松田武彦・高柳曉・二村敏子訳 『オーガニゼーションズ』 ダイヤモンド社 1977

さて、『オーガニゼーションズ』J.G.マーチ/H.A.サイモン著、土屋守章訳
(ダイヤモンド社)1977年初版をば。
『経営行動』から10年後に書かれた本。
基本的に『経営行動』の理論をもとに肉付けをしたという感じがある。
それ故理論自体は『経営行動』の焼き直し的な匂いを感じた。
なかなかに難解だが著者の特徴として第一章で結論的なことを述べ、
各章の終わりにもその章での結論を項をさいて書かれているので
歯ごたえはあってもうんざりするものではなかった。
これは著者が理系に強く傾いているからか?

具体的な内容の方は最初に組織のメンバーに関する一般的な三つの命題・・・
(1)組織のメンバーは受動的な器械であるという命題
(2)組織のメンバーは態度、価値、目的を組織に持ち込むという命題
(3)組織のメンバーは意思決定者かつ問題解決者であるという命題
・・・を挙げてそれぞれに考察を加えていくという構成になっている。
第一章はこの問題提起、第二章は(1)の命題に関する考察、
第三章~第五章は(2)の命題に対して考察し、
第六章から第七章は(3)の命題に対して考察している。
(全七章完結)

以下は重要と思われる箇所の抜粋・・・
第1章”組織内行動”
<社会制度としての組織の重要性>
☆組織の特徴を二つあげて・・・
「組織のメンバーそれぞれを取り巻いている環境としての他の人々は、
高度に安定し、予測可能なものとなる傾向がある。
組織が環境に対し調整のとれた方法で対処することができる能力を
もっている理由は、すぐ後に論じられる組織の構造的諸特徴とともに、
この予測可能性があるからである。」
                ↓
「組織は相互作用する人間の集合体であり、われわれの社会の中では、
生物の中枢の調整システムと類似したものをもっている最大の集合体である。
しかしこの調整システムは、高等の生物有機体にある中枢神経系統ほどには
とても発達していないといえるー組織は、猿よりもミミズに近い。
それにもかかわらず、組織内の機構と調整の高度の特定性こそ、
ー複数の組織間、ないし組織されていない個人間の拡散した多様な関係と
対比してみればー生物学における個々の有機体と重要性において比較可能な
社会学的な単位として、個々の組織を特徴づけているものである。」

第2章”「古典的」組織理論”
<結論>
○古典的組織理論(科学的管理法)の限界についての結論を・・・
「古典的組織理論は組織内行動に対する理論全体の
ごく一部分のみを説明しているにすぎない・・・」
            ↑
「(1)理論の基礎となる同期に関する過程が不完全であり、
したがって不正確である。
(2)組織内行動の範囲を規定するに当たって、
利害の組織内コンフリクトがもつ役割を、ほとんど認めていない。
(3)複雑な情報処理システムとしての人間の限界のために
人間に課せられている諸制約条件がほとんど考慮されていない。
(4)課業の認定と分類における認知の役割に対して、
意思決定における認知の役割とともに、ほとんど注意していない。
(5)プログラム形成の現象をほとんど重視していない。」

第3章”動機的制約ー組織内の意思決定”
<集団圧力の方向>
「個人の生産への動機づけに作用を及ぼすものとしての個人の諸目的は、
彼が入りうる集団(組織を含めて)に対する彼の一本化の強さと、
その集団圧力の方向との二つを反映しているものである。」

<結論>
○動機づけに及ぼす影響を三つの関数に絞って・・・
「(a)個人にとっての行為の代替的選択肢の喚起作用
(b)喚起された代替的選択肢の個人によって予期された結果
(c)個人によってその結果につけられた価値」

第4章”動機的制約ー参加の意思決定”
☆「組織の均衡」理論について・・
「均衡とは、組織がその参加者に対して、
彼の継続的な参加を動機づけるのに十分な支払いを整えることに、
成功していることを意味している。」
            ↓
<組織均衡の理論>
「(1)組織は、参加者と呼ばれる多くの人々の
相互に関連した社会的行動の体系である。
(2)参加者それぞれ、および参加者の集団それぞれは、組織から誘因を受け、
その見返りとして組織に対して貢献を行なう。
(3)それぞれの参加者は、彼に提供される誘因が、
彼が行うことを要求されている貢献と、(彼の価値意識に照らして、
また彼に開かれた代替的選択肢に照らして測定して)等しいか
あるいはより大である場合にだけ、組織への参加を続ける。
(4)参加者のさまざまな集団によって供与される貢献が、
組織が参加者に提供する誘因をつくり出す源泉である。
(5)したがって、貢献が十分にあって、その貢献を引き出すのに足りるほどの
量の誘因を弓よしている限りにおいてのみ、
組織は「支払能力がある」ー存続しつづけるであろう。」

<結論>
「誘因ー貢献の差引超過分は、二つの主要な構成部分をもっている。
すなわち、組織を離れる知覚された願望と、
組織にとどまるために放棄している代替的選択肢の効用
(すなわち組織から離れる知覚された容易さ)である。
移動の知覚された願望は、現在の職場についての個人の満足と、
組織から離れることを含んでいない代替的選択肢に対する彼の知覚との、
二つのものの関数である。」

第5章”組織におけるコンフリクト”
<コンフリクトに対する組織の対応>
「組織はコンフリクトに対し、次の四つの主要過程によって対応する。
すなわち、(1)問題解決、(2)説得、(3)バーゲニング、
(4)「政治工作」である。」
           ↓
「これらの過程の最初の二つのもの(問題解決と説得)は、
決定についての公的一致とともに、私的一致をも確保する試みを示している。
このような過程を、われわれは分析的過程と呼ぶ。
公私ともの一致ではない後者の二つ(バーゲニングと政治工作)を、
われわれはバーゲニングと呼ぶことにする。」
●バーゲニング(bargainning)がかぶっているやん!!
           ↑
「・・・バーゲニングは、意思決定過程としては、
潜在的に分裂的な結果をある程度もっている。
バーゲニングは、ほとんど必然的に、
組織の中の地位および権力体系に緊張を与える。
もし、より強い公式の権力をもっているものが優勢になれば、
これは組織の中の地位および権力の差違を、
非常に強いものとして知覚することになる
(これは一般的にはわれわれの文化の中では逆機能的である)。
そのうえ、バーゲニングは、組織の中の諸目的の異質性を、
承認し合法化する。目的の異質性が合法化されてしまえば、
組織内ヒエラルキーにとって利用できたかもしれない
コントロール技法が、利用できなくなってしまう。」

「組織の中のほとんどすべての争いは、
分析の問題として規定されることとなる。
コンフリクトに対する最初の対応は、問題解決および説得になる。
このような対応はそれが不適応にみえるときにすら持続する。
共通の目的が存在していないところでは、
それが存在しているところと比較して、
共通の目的に対するより大きなあからさまの強調がある。
また、バーゲニングは(それが起きたときには)、
しばしば分析的な枠組みの中に隠蔽される。」

第6章”合理性に対する認知限界”
<組織構造と合理性の限界>
「組織の構造と機能の基本的特色が生じてくるのは、人間の問題解決過程と
合理的な人間の選択とがもっている諸性質からであるということであった。
人間の知的能力には、個人と組織とが直面する問題の複雑性と比較して
限界があるために、合理的行動のために必要となることは、
問題の複雑性のすべてをとらえることでなくて、
問題の主要な局面のみをとらえた単純化されたモデルをもつことである。」
●ここは『経営行動』の理論そのまま

第7章”組織におけるプランニングと革新”
<個人および集団の問題解決>
○ケリーとチボーの問題解決過程に対する集団の作用・・・
「(1)数多くの独立の判断をプールしておく効果
(2)問題の解法に対して直接の社会的影響によってなされる修正」
            ↓
○(1)について個人の問題解決能力に対して集団がもっている優位性・・・
「(a)エラーの分散、(b)よく考慮された判断の際立った影響力、
(c)自身のある判断の際立った影響力、(d)分業」
            ↓
○(2)について直接の社会的影響力によってなされる修正の種類・・・
「(a)集団メンバーは全体として、どの個人メンバーよりも可能な解法もしくは
解決への貢献を、より多く利用することができるであろう。
(b)個人の集団メンバーに対して、多数はの意見に同調させようとする圧力。
(c)集団の環境は、孤立した個人に比較して努力と課業完遂とに向けての
動機づけをを増加させたり現象させたりするであろう。

(d)集団メンバーは、自分の考えを他の人に伝える必要のために、
自分の考えを鋭くし明確化しなければならなくなる。
(e)集団の解法を出すために、個々人の解法を組み合わせたり
重みづけすることからくる作用。
(f)集団の環境は、程度はさまざまだがわずらわしさを生じさせる。
(g)集団の環境は、相違を刺激したり疎外したりする。」

<目的構造と組織構造>
○目的構造と組織内単位のヒエラルキーとの関係について・・・
「(1)手段ー目的ヒエラルキーの高いほうのレベルでの目的は、
操作的ではない。」
(2)手段ー目的のヒエラルキーの低いほうのレベルでは、
目的は操作的である。
(3)手段ー目的ヒエラルキーにおいて目的が操作的になっているレベルの
もっとも高いところから一つか二つ下のレベルでは、
個々の行為プログラムを認識することができる。」

<限定された合理性の原則>
○フォン・ミーゼスとハイエクの分権化擁護論・・・
「人間のプランニング能力の現実的な限界を所与とすれば、
分権化されたシステムは、集権化されたものに比較して、
よりよく作動するものである。」

1999 6/22
組織論、経営学
まろまろヒット率4

ルイス・セプルベダ、河野万里子訳 『カモメに飛ぶことを教えた猫』 白水社 1998

(京都の)高尾に蛍を観にいくと思っていた以上にたくさん飛んでいて
都会育ちの僕にとってははじめて本物を見たときにはがっかりした蛍も
「やっぱり本物の方が良いな」とあらためて思えたのがよかった、
らぶナベ@しかし文化の違いか英語で蛍を表す”firefly”、”glowfly”などは
ちょっと風情が無いなと思っているっす。

さて『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ著、河野万里子訳
(白水社)1998年初版の読書感想をば。
もともとこの本は去年の夏休みくらいに京大の書籍部で見かけて以来、
そのタイトルに惹かれて(たぶんカモメ=海猫に引っかけているんすね)
「どんな本なんだろう?」とずっと気になっていた本。
しかしそれからの怒濤のような日常と読むべき本たちに追われるあまり
この本の存在自体もすっかり忘れてしまっていた。
しかし最近マキアヴェッリやら歴史小説やら空に賭ける男たちの本など
生臭い本ばかり読んでいて汚れてしまっている自分に気づき
「これはいかん!ピュアな自分を取り戻さねば!!」と思ったところ
偶然別の本を買うために立ち寄った帰り道の書店で再び巡り会ったので
購入に踏み切ったヨーロッパで評判になっているらしい寓話。

こういうかたちでこの本のを読んでみることになって
運命の巡り合わせと言うのか、そういう言い方が綺麗すぎるなら
嗅覚というものなんだろうか、とにかくそういうものを強く感じた。
なぜならこの本は僕が現在進行形的に感じていることを
寓話の形式をとって書かれていたからだ。
その気持ちはあるのにうまく表現できなかったり、
それを伝えたい相手に伝えきれずに焦燥感を感じたりしてたことを
ちょうどテーマにしている本だったからだ。
内容をよく知らないでたまたま購入したまったくの偶然なのに
いま別の角度から見つめて表現したいことにスポットが当たっていた。
この本が僕を呼んだのか・・・読書って時々不思議なことがある。

この物語りはハンブルクで暮らす猫ゾルバ(なかなかカッコ良いやつだ)が
ひん死のカモメと成り行きで三つの約束事をすることから始まる。
それは「私がいまから生む卵は食べないで」、
「ひなが生まれるまで面倒を見て」、
そして「ひなに飛ぶことを教えてやって」(んな無茶な!)の三つだ。
このゾルバと「港の猫の誇り」を持つ仲間の猫たちと
カモメのひなフォルトゥーナが飛べるようになるまでの
試行錯誤や模索、葛藤を描いている。

この話の中でフォルトゥーナがゾルバたちと同じ猫になりたいと渇望し
そのために傷つき自分自身やゾルバたちからの愛を見失いかけていた時に
ゾルバが彼女に語りかけたシーンが特に印象に残っている・・・
「たとえきみがカモメでも、いや、カモメだからこそ、
美しいすてきなカモメだからこそ、愛してるんだよ。
・・・きみは猫じゃない。きみはぼくたちと違っていて、
だからこそぼくたちはきみを愛している。」
「そのうえきみはぼくたちに、誇らしい気持ちでいっぱいになるようなことを
ひとつ、教えてくれた。
きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、
尊重し、愛することを、知ったんだ。
自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、
違っている者の場合は、とてもむつかしい。
でもきみといっしょに過ごすうちに、
ぼくたちにはそれが、できるようになった。」
「いいかい、きみは、カモメだ。そしてカモメとしての運命を、
まっとうしなくてはならないんだ。だからきみは、飛ばなくてはならない。」

そして最後の場面でフォルトゥーナが飛び立った時にゾルバが言った・・・
「最後の最後に、空中で、彼女はいちばん大切なことがわかったんだ。
・・・飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願った者が、
全力で挑戦したときだけだ、ということ。」

ってこんな読書感想書いている僕ってかなり恥ずいやつやな。(^^;

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1999 6/10
小説、寓話
まろまろヒット率5

池宮彰一郎 『島津奔る』 新潮社 上下巻 1998

ドラマ『古畑任三郎』が最近自虐的なネタが増えてきているので
見る度に痛々しさを感じる、らぶナベ@古畑に「何でもありなんです」
や「トリックに穴があるのは前からです」とか
劇中で言わせるなんてそろそろいっぱいいっぱいだな(^^)

さて、『島津奔る』上下巻、池宮彰一郎著(新潮社)1998年初版をば。
戦国武将、後に大名として戦国末期から江戸時代初期の転換期に生きた
島津義弘を主人公にした小説。
彼の人物紹介としては当初彼の兄、義久の元で島津家No.2として
常に前線最高司令官を務めて薩摩統一戦を成功に導き、
続く外征では九州統一の一歩手前まで島津を導いた中心人物。
豊臣政権に屈してからは義久の引退を受けて島津家当主に就任。
当主として二度の朝鮮出兵に参加し特に二度目の慶長の役の末期、
豊臣秀吉死後の日本軍総退却時には追撃してくる李氏朝鮮と明の連合軍を
退路が無く兵力差30倍、かつ他家の協力も無いという絶望的な状況で
島津家お家芸の迎撃作戦「釣り伏せ」で壊滅(泗川の戦い)する。
帰国後の関ヶ原の戦いでは西軍に与して戦場に参加するも
終始積極的には戦わず、戦いが決着してから千数百の軍勢で
数万の東軍の中心を突いて中央突破退却をしたことは有名。
・・・このように生涯を通じて戦場では常に劣勢な状態から
卓越した戦術と作戦指導で不利な状況を打破してきた点が注目されている。
彼について国内では「鬼島津」、国外では「石曼子(シーマンズ)」
と当時から怖れられたように猛将のイメージがいままで強かったが、
(最近の『信長の野望』では戦闘能力90の大台を軽く突破)
実はそれだけでなく彼は卓越した政治的感覚と大局的な視点を持った
人間だったんだという興味深い切り口でこの小説では彼を画いている。
その証拠として西軍(負け側)に与して戦いながら
唯一島津家だけが領地を減らされなかったこと
(東軍に与してガンバって戦っても潰された家は多いのに)
戦後交渉の中ではさらに加えて琉球領有まで幕府に認めさせたこと
そして最後まで徳川家康が「徳川家の敵は西から来るだろう」と恐れたほどに
強力な薩摩藩の基礎を彼が創ったということだ。
そういう政治家:島津義弘としての視点でこの小説は書かれている。
そのためにこの本は朝鮮半島から撤退しようとしている
泗川の戦いからスタートしている。
(猛将島津義弘を画くなら九州統一は避けられないのに敢えて飛ばしている)

彼と僕とは名前がまったく同じで前から親しみを感じていたんだけど
読み進んでいくうちに圧倒されるほどのカッコ良さを感じた。
戦国時代が終わり戦争経済終焉後の不況にあえぐ当時の日本にあって
(バブル後のいまの日本を対比させているのが興味深い)
その次に来るべき経済体制を見通したヴィジョンを持ち
自らのそのヴィジョンに賭けた彼の姿は爽快な泥臭さがある。

純粋に面白いと言える小説だけあって印象深いシーンが多かったが
特に泗川の戦いに臨む直前に義弘がいなくなりそれを咎めた参謀に対して・・
○「匂いじゃよ、匂いを嗅いで廻るとじゃ。」
(中略)ー戦には匂いがある。
(中略)義弘は作戦計画の不備欠陥を感じとると、
ひとり戦場予定地に赴き、その匂いに浸って心気を澄ます。

また、豊臣政権を支えた官僚石田三成らを指して・・・
○吏僚の本文は、為政者から与えられた業務を、
いかに過怠なく遂行するかにあり、能力とは、
それをいかに能率よく行えるかにある。
従って、吏僚の持つ本能的な性格は、
極めて短期的な展望しか持てないように規制されている。
目の前の事態、困難な状況の打開には役立つが、
長期的な展望にはまったく不感症といっていい。

そして何より島津家の命運がかかった関ヶ原の戦いの準備段階で
どちらに与するか微妙になりかつ不利な状況が増えてきたのに対して・・・
○「・・・わしの一生は悪じゃった(中略)世に戦ほどむごい悪は無い・・」
(中略)「そのくせなあ(略)よいか、これは構えて人に言うな・・・
世の中に、悪ほど面白か事は無かと思うとる。
わしはな、戦と道ならん色恋ほど好きで困るもんは無か・・・
まことの悪の悪よ」
・・・と笑うシーンなどは特に印象深い。

今まで戦国時代で一番好きな人物は真田昌幸だったが
この小説を読み終えてみて島津義弘も双璧として加わった。
「なんだかんだやっても生き残った」&「自分の生き方に満足して死んだ」
人間という僕の好嫌基準にもバッチリ当てはまっているからだ。

以下はその他にこの本の中で印象に残っている箇所・・・
○「まず、敵の反抗を迎え撃ち、遠く退けて敵が陣を立て直す隙に
風の如く去る。負け戦の退き方の要諦はそこにある・・・」

○「世の中には、与する相手にはふた通りある、
正義だが戦下手な者と、心延え悪ではあるが戦上手な者とだ。」
(中略)「わしは、どちらとも組まん・・・組むならツキのある者を選ぶ」

○「戦いうものはな、好悪の思いでやってはならぬ。
(中略)たとえ相手が正義を言い立てておっても、
必ず打ち破って未来の道を切り開く、
それが国のまつり事を担うものの第一のつとめである」

○「所詮戦はツキと運・・・勝てる筈の戦に負けることもあれば、
勝ち目のない戦に勝つこともある・・・
そんなあやふやなものに命を賭けられるか、
戦の要諦は戦うと見せかけて、戦わずに相手を屈服させることにある」
(これだけは徳川家康の台詞)

○「戦の要諦はな、兵数の多寡や兵の強弱を計算する事でない。
敵の心のうち、味方の心の動きをおし量る事にある・・・」

・・・最後に読み終えた感想を一言で・・・
僕も別に天下を取らなくても良いから天下人以上に
活き活きと時代の荒波の中を奔る人生を送りたいものだ(^_^)

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1999 6/5
小説、歴史
まろまろヒット率5

マキアヴェッリ、河島英昭訳 『君主論』 岩波書店 1998

「チェキッ娘」の人数がわからなくて迫り来る年波を感じてしまう、
らぶナベ@そういえば「YURIMARI」の見分けもできないっす(^^;

さて、今回はけっこうな大著なのでいきなり本題をば・・・
『君主論』マキアヴェッリ著、河島英昭訳(岩波書店)1998年第一版発行。
さとまん教授から「『君主論』にすごく良い新訳が出た」と聞いたので
いまさらながら読んでみようと思った古典の名著。
っというか一度はきっちりと精読しておかないといけないだろう本。
実際に新訳を読んでみるとそのそつの無さを感じた、一読の価値あり。
昔から様々な批判を浴びている本でありながら
いまだに読み継がれているという事実がこの本の価値を物語っているだろう。
ちなみにさとまん教授とT教授によると政策科学部生にとって
本質的な点でもっとも重要なものはこの本に出てくる、
「virtu」(この訳者は「力量」と訳している)らしい。

さて、内容の方はこの本自体が古い時代の古典だということに加えて
著者のマキアヴェッリ自身もダンテの『新曲』の影響を受けまくっていて
よくわからない比喩や回りくどい言い方をして書いているので
理解に苦しむ箇所がかなりある。
それに対して訳者は様々な資料を洗い直して
原典(主にカゼッラ版)への独自の考察を元に新訳をしている。

特に訳者の見解としてこの本の構成を・・・
『君主論』
前半<君主政体論>
(その一)第一章ー第十一章
(その二)第十二章ー第十四章
後半<君主論>
(その一)第十五章ー第二十三章
(その二)第二十四章ー第二十六章
・・・と前半と後半に分類しているのは非常に興味深い。

以下の「○」はチェックした項目、
「☆」は特に重要であると思われた箇所・・・

第三章:複合の君主政体について
○「戦争を避けるために混乱を放置してはならない」

第四章:アレクサンドロスに征服されたダレイオス王国で、
アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して
反乱が起きなかったのは、なぜか
○「(君主政体の違いについて)一つはひとりの君主と
他はすべてが下僕である者たちによって治められる方法・・・
いま一つはひとりの君主と封建諸侯たちによって治められる方法」

第五章:征服される以前に、固有の法によって暮らしていた
都市や君主政体を、どのようにして統治すべきか
○「獲得された諸政体が、固有の法によって自由に生活するのに
慣れてきたものであるときには、支配を維持するための方法は三つある。
第一は、これらを壊滅させること。第二は、みずからそこへ移り住むこと。
第三は、固有の法によって暮らすのを認めながらも、
内部にあなたと密接な関係を保つ寡頭政権を確立し、
租税を取り立てること。」

第六章:自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について
☆「新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを
敵にまわさねばならない。・・・そして新制度によって恩恵を受けるはずの
すべての人びとは生温い味方にすぎない・・・この生温さが出てくる原因は、
一つには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、
いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、
新しい実態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。」
              ↓
☆「したがって、これら改革の側に付く者たちが自分の力で立っているのか、
それとも他者の力に依存しているのかを、
すなわち自分たちの事業の遂行にさいして、彼らが祈っているだけなのか、
それとも実力を行使できるのか、仔細に検討しておかなければならない。」

○「ここから生まれてきた事実によれば、軍備ある予言者はみな勝利したが、
軍備無き予言者は滅びてきた。・・・人民は本性において変わりやすいので、
彼らを一つのことを説得するのは容易だが、
彼らを説得した状態に留めておくことは困難であるから。」

第九章:市民による君主政体について
○「賢明な君主は、いついかなる状態のなかでも、
自分の市民たちが政権と彼のことを必要とするための方法を、
考えておかねばならない。
そうすれば、つねに、彼に対して彼らは忠実でありつづけるだろう。」

第十二章:軍隊にはどれほどの種類があるのか、また傭兵隊について
○「すべての政体が・・・持つべき土台の基本とは、
良き法律と良き軍隊である。」

第十四章:軍隊のために君主は何をなすべきか
○「精神の訓練に関しては、君主は歴史書を読まねばならない。
そしてその内に卓越した人物たちの行動を熟慮し、
戦争のなかでどのような方策を採ったかを見抜き、
彼らの勝因と敗因とを精査して、
後者を回避し前者を模倣できるように勤めねばならない。」

第十五章:人間が、とりわけ君主が、
褒められたり貶されたりすることについて
☆「いかに人がいま生きているのかと、
いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常に隔たりがあるので、
なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、
自らの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。
なぜならば、すべての価値において善い活動をしたいと願う人間は、
たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。」

○「悪徳からも、可能なかぎり、身を守るすべを知らねばならないが、
それでも不可能なときには、さりげなくやり遣り過ごせばよい。」

第十六章:気前の良さと吝嗇について
○「賢明であるならば、君主は吝嗇ん坊の名前など気にしてはならない。」

○「奪い取らないことによって、
無数に近い人びとのすべてに気前の良さを示し、また与えないことによって、
少数の人びとのすべてに吝嗇を行使することんある。」

○「君主たる者は・・・吝嗇ん坊の名前が広まるのを・・・
いささかも気にしてはならない。
なぜならばこれを彼をして統治者たらしめる悪徳の一つであるから。」

☆「その君主は自分のものや自分の臣民のものを費やしてきたのか、
それとも他人の所有物を費やしてきたのか。
第一の場合ならば、控え目にすべきである。
第二の場合ならば、いかなる形の気前の良さも惜しんではならない。」

○「気前が善いと呼ばれたいばかりに、憎しみにまみれた悪評を生み出す
強欲という名前へ陥ってゆくよりは、
むしろ憎しみの混ざらない悪評を生み出す吝嗇ん坊という名前を
身につけてゆくほうが、はるかに賢明なのである。」

第十七章:冷酷と慈悲について。
また恐れられるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か
○「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、
恐れられる存在にならねばならない。」

第十八章:どのようにして君主は信義を守るべきか
○「闘うには二種類があることを、知らねばならない。
一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。
第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。」
            ↓
☆「君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、
なかでも、狐と獅子を範とすべきである。
なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからゆえに。
したがって、狐となって罠を悟る必要があり、
獅子となって狼を驚かす必要がある。」

○「君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを
現実に備えていることではなくて、
それらを身につけているかのようにみせかけることだ。
いや、私としては敢えて言っておこう。
すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、
身につけているようなふりをするのは有益である、と。」
            ↑
○「あなたの外見をだれもが目で知ってはいても、
あなたの実態に手で触れられるのは少数の者たちだけであるから。」

第十九章:どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか
○「陰謀に対して君主がなすべき最も強力な手当の一つは、
大多数の人びとから憎まれないことである。」

第二十章:城砦その他、君主が日々、政体の維持のために、
行っていることは、役に立つのか否か
○「君主たちが既存の政体を新たに征服したさいに、
その政体の内部にありながら支持してくれた者たちがいたときには、
自分を支持してくれた者たちがいかなる理由で支持に踏み切ったのかを、
よく考え直して、思い返す必要があるということだ。
そしてその理由が、自分たちに寄せられた自然の敬愛のためではなく、
単に彼らが元の政体に満足していなかったためだけであるならば、
彼らを味方にしておくことは困難であり到底かなわぬであろう。
なぜならば、彼らを満足させることは不可能であるゆえ。
・・・満足していないがために、相手の味方について、
それまでの政体が征服されるのに力を貸したがごとき者たちよりも、
以前の政体に満足していたがために敵対した者たちのほうが、
己の真の味方になることは、はるかに容易に看て取れるであろう。」

第二十一章:尊敬され名声を得るために君主は何をなすべきか
○「旗幟を鮮明にする態度は、中立を守ることなどよりも、
つねに、はるかに有用である。・・・勝ったほうには、
逆境のなかで助けてくれなかった疑わしい味方など、要らないし、
負けたほうには、武器を執って自分と運命を共にしたがらなかった、
あなたのことなど、受け容れられるはずもないから。」

☆「慎重な心構えとは数々の不都合の特質をよく見分けて、
最悪でないものを良策として選び取ることにある。」

第二十三章:どのようにして追従者を逃れるべきか
☆「良き助言というものは、誰から発せられても、
必ず君主の思慮のうちに生まれるのであり、
良き助言から君主の思慮が生まれるものではない。」

第二十五章:運命は人事においてどれほどの力をもつのか、
またどのようにしてこれに逆らうべきか
○「運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らって
あらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、
すなわち土手や堤防の築かれていない箇所であることを承知の上で、
その場所へ、激しく襲いかかってくる。」

○「私としてはけれどもこう判断しておく。
・・・慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。
なぜならば運命は女だから・・・
そして周知のごとく冷静に行動する者たちよりも、
むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。
それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。」

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1999 5/27
政治学、心理学、リーダーシップ論、哲学
まろまろヒット率5

加藤寛一郎 『管制官の決断』 講談社 1996

(株)エニックスから出版されている今月号(6月号)の雑誌、
『Gファンタジー』の編集後記に入社して二ヶ月もたっていない
友達Mの弁が載っているのを見て「なかなかやるな」とほくそえんでいる、
らぶナベ@さあ、みんなも本屋にゴーだ!(^^)
ちなみに僕的にはいまは何もない机が痛いものの残骸の山になってくれると
ネタ的には最高っす(妄想銀行貯金中)。

さて、『管制官の決断』加藤寛一郎著(講談社+α文庫)1996初版をば。
前に読んだ著者の『生還への飛行』で取り上げられたパイロットたちが
潰されるでもなく惑わされるでもなくあたかも楽しむように
危機的状況に対処する姿がかなりカッコ良かったので
もう一冊くらいは読んでみようと思って手に取った一冊。
普段あまり注目されることのない航空管制官にスポットを当てた珍しい本。
主に空港での管制塔内で行われる業務の紹介や適性などを紹介している。
(つまりホンマもんの意味での司令塔)

この著者の書いたものの特徴としてちょっと散漫だったり
趣旨がずれているように感じられる章とかもあったりするんだけど
管制官へのインタビューから成る第六章「二人の管制官」が一番面白かった。
管制官の落合進は管制官の適性について・・・
「瞬間、瞬間に最大限の判断が下せる人・・・口八丁、手八丁の人間。」
管制官でもっとも大切なことについて・・・
「何をやらなくちゃいかんという仕事の上の選択順位、
・・・それができない官制は駄目です。」
「仕事の選択です。・・・いい決め手をしないと、終始駄目になります。」
また、同じく管制官の前川博和は適性について・・・
「パイロットは自分の周波数にいるのは、五分か十分しかいない。
・・・その間に、最初の交信で、『あ、この人だったら大丈夫だ。』
という感じをパイロットに与えないといけない。
・・・声の質とか、話し方とか、何か心が伝えられるような人間。」
彼はまた、反対の多い官制の自動化については・・・
「決心すればできる。」

別の章で管制官、宇根和光夫は官制でもっとも大切なこととして・・
「全体の見通し、先を読むこと。」
官制の極意については・・・
「基本に忠実ということ・・・判断力は、訓練によって養われます。
また訓練によって、ゆとりが生じます。
余裕ある判断が、自信につながります。これが安全につながると思います。」

結論、やっぱ誇りを持って困難な仕事に挑んでいく男ってカッコいい(^_^)

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1999 5/19
ドキュメンタリー
まろまろヒット率4

浅野祐吾 『軍事思想史入門』 原書房 1979

テレビ東京系列にて火曜日の7時から放映している
『KAIKANフレーズ』を見て「これって俺たちの時代で言うところの
『アイドル伝説えり子』のバンドヴァージョンか?」と感じている、
らぶナベ@しかし『アイドル天使ようこそようこ』は良かった、
田中陽子はかなりきっつかったけど(^^)

さて、『軍事思想史入門』浅野祐吾著(原書房)1979年初版。
中世から現代までのヨーロッパ史と古代から現代までの中国史における
軍事思想の展開を通史的に紹介している一冊。
断片的なものをつなげ合わせたという側面が強いために、
読んでいてそれほどガツンと来るような箇所は少なかったが
一度はこのようにまとめて軍事思想史を見てみることは必要なのだろう。

この本の中でもっとも印象深かったのは戦史研究に対する批判の代表例として
常にやり玉に挙がる戦前の軍国主義時代に対しての反論として・・・
「決して、戦争や軍隊についての知識が日本人に普及していたのではない。
むしろそれは軍事機密の名の下に、
国民の手の届かない所に秘蔵されていたのである。
・・・つまり少数の専門家と、多数の無知な人間というのが
戦前の軍事思想の普及状態だった。」
・・・と述べている箇所は実に説得力があるものだった。

以下はこの本でその他にチェックしたところ・・・

○プロイセンのフリードリッヒ大王の言葉・・・
「戦勝とは敵にその地位を譲ることを余儀なくさせることである。」

○よく話題にのぼるモルトケとシュリーフェンの違いについては
そのいくつかを列挙して対比している、以下はその一部・・・
「モルトケは撃破しやすい敵をまず攻撃しようとしたが、
シュリーフェンは最も強大で、危険な敵を
全力をあげて撃滅する必要を説いた。」
「モルトケが外交との調節をはかることを考えたが、
シュリーフェンは政治家を信ぜず、武力による撃滅戦に傾倒した。」
「モルトケが作戦計画において初期作戦を重視し、
綿密な計画作戦を指導するが、
その後は状況の変化に対応する情況作戦を考えたのに対し、
シュリーフェンは全期間を通じて緻密な計画作戦が可能であると信じた。」

○フラーからの引用・・・
「小銃が歩兵をつくり、歩兵が民主主義をもたらした。」

○毛沢東の十大軍事原則・・・
1「まず分散した敵を討ち、集中した強大な敵はあとで撃つ。」
2「まず小、中都市および広大な郷村を占拠し、あとで大都市を占領する。」
3「敵の生産力を殲滅することを主目的とし地域の奪取は主目的としない。」
4「絶対優勢の兵力を集中し、敵を四囲から包囲殲滅につとめ、
 不徹底な消耗戦を避ける。」
5「準備と確信の無い戦いは行わない。」
6「勇敢に戦い、犠牲と疲労、連続作戦を恐れない気風を養うこと。」
7「つとめて運動戦によって敵の殲滅をはかる」
8「都市攻撃にあたっては敵の守備薄弱部を、
 中程度の守備に対しては状況と能力の許す限り機を見て、
 堅固な守備に対しては条件の成熟を待ってこれを奪取する。」
9「敵の兵器と人員の大部を捕獲、捕虜として自己を補充する。
 わが軍の人力と物力の補給源は主として前線にある。」
10「部隊の休息と整備は二つの戦役の間をりようして行うが、
 休息を長きに失せぬよう、また敵に反撃の余裕を与えない限度で行うこと。」

○あとがきにて・・・
「歴史は過去を取り扱うものであるが、
それを扱う方法は過去からだけでは生まれてこない。
将来に対するある種の見通しがあってこそ
過去の扱い方も出てくるのである。」

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1999 5/18
戦略論、政治学、歴史
まろまろヒット率4

加藤寛一郎 『生還への飛行』 講談社 1998

今月26日で24歳になってしまうことに愕然としている、
らぶナベ@14歳のあの頃がすでに10年前になってしまっている
なんてかなり驚きっす!(*o*)

さて、『生還への飛行』加藤寛一郎著(講談社+α文庫)1998年初版。
著者は航空力学の専門家で東大名誉教授。
ばりばりの理系だけど文系チックな本をけっこう書いている。

内容の方はまずこの本のテーマ性がとても面白い。
航空機を操縦している最中の事故やミスは一瞬で死につながってしまうことが
多くて特にテストパイロットなどは「優秀なやつから死んでいく」
とまで言われるほど危険な目にあうことが多い。
そうした中で事故を経験したパイロットでも生き残ったパイロットと
死んでしまったパイロットに何か違いはあるのだろうか?
窮地を乗り越えて生き残ったパイロットたちに
共通点ははたしてあるのだろうか?
・・ということをきっかけに絶対絶命の死地を脱した
世界中のパイロットへのインタビューを通して
この疑問に挑もうとしたとても興味深い一冊。

インタビュー中もっとも微妙でかつ確信的な質問である
「なぜ貴方は生き残ったのか?」という答えに対して各パイロットたちは・・
○絶対にあきらめなかったからだ(エミール・ウィック)
○いま何が起こっているか正確に判断できること(ニック・ウォーナー)
○怖がらないこと、アクティブにする。麻痺してしまってはだめだ。
何が起こっているか知っていることが必要(ジャン・クーロー)
○キャプテンが平気な顔をしていたら大丈夫、
だけどもし彼がうろたえていたら、たいへんだぜ(ザビエル・バラル)
○平均的なパイロットよりは、少し早く事情を理解する(ピーター・ベガー)
○基本にもどる(藤原定治)
○できるだけ変数を減らして処理するのがパイロットの仕事
(リン・フリーズナー)
○生きるために、一生懸命働いた。
・・そして新しいものには常に疑いを持ってのぞんだ(トニー・レビエル)
→などが特に印象深い。

そして著者が・・・
○航空事故は基本的には「予想できないこと」が原因で発生する。
というように、非常的事態に接しなおかつ生き残ったパイロットたちに
共通した点として四つ列挙している・・・
1:生き延びた理由の一つに「幸運」を挙げている。
2:事故中、時間の経緯が極めて遅くなる。
3:短時間の出来事でも、有能なパイロットはそのあらゆる細部に
正確に対応し、それを詳細に記憶している。
4:事故がパイロットにほとんど後遺症を与えていない。←本質的に楽天的。

そしてこれらを踏まえて・・・
○技巧の優れてパイロットと武道の達人の間に
共通点があってもよいのではないか。
少なくとも両者は際立ってすぐれたセンサーを必要とする。
なぜなら両者は瞬時の判断と決断を要するからである。
・・・として、さらに勝海舟が『氷川清話』で書いた・・・
「天下のこと、すべて春風の面を払って去るごとき心境、
この度胸あって始めて天下の大局に当たることができる」
・・・をも引用している。

そしてこのような領域まで達するには非常な努力がいるだろうという
著者のインタビュー前の考えを・・・
○彼らは一生かけて仕事を楽しんでいる。
必ずしも刻苦精励努力しているわけではない。
好きで楽しんでいるからこそ、長続きし、上達する。
・・・と修正している。
例えば生き残ったパイロットでも・・・
○重要なのは練習と現実が同じでない、ということを認識することです。
しかしまず必要なのは練習です。
これを繰り返すことです(ジョーフレイ・ホールダー)
○学ぶことが好きなこと(ジャン・クーロー)
・・・と述べている。
このことをもっとも端的に表している例がある。
菱川暁夫が墜落して重体として病院に運び込まれたときに、
かけつけた奥さんにまず言った言葉は三つだけで・・・
「うろたえるな」「子供のことを頼む」、
そして「体が治ったら、また操縦してもいいか」だった。
奥さんは「いい」と答えたので何としても生き延びて
また飛ぼうと決心したそうだ。彼はいまでも空自の一線で飛んでいる。
・・・達人とはつまりはマニアだということだろう(^^)

また、面白かったのは零戦の撃墜王として有名な坂井三郎が
彼の極意である左捻り込みを実戦で使ったことが無いことを引用して・・・
○名人は極め技を使うところまでは追い込まれないのである。
・・・ともしている点は考え深いものだった。

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1999 5/9
ドキュメンタリー
まろまろヒット率4

田尾雅夫 『組織の心理学』 有斐閣ブックス 1991

らぶナベ@大阪の万博公園内にある「みんぱく(国立民族学博物館)」の
入館無料日に見学に行けてうかれているっす(^^)

さて『組織の心理学』田尾雅夫著(有斐閣ブックス)1991年初版を読みました。
政策科学研究科の講義に来ている組織論の教授の著書。
組織に関する心理学の研究について現在おこなわれている研究と諸説、
相反する意見や議論を紹介している。
この本を読み通して伝わってくるのはこの分野は研究され始めたのが
かなり新しいということもあっていろいろな定義や概念などが
まだまだ結論に至っていないということだ。

この本でもっとも面白く感じれたのは実は後書きにあたる”後記”だった。
大学の同級生とたまにあって飲むときに大学教員である著者に対して
「お前は気楽で良いよな」と愚痴られることがあるそうだ。
「俺だって・・・」と喉まで出かかることはあるが生き方の重たさの違い
というようなものを感じてしまい言葉にさせてくれないらしい。
現実はメルヘンのようでないからメルヘンを必要とする。
しかし学生時代のモラトリアム人間を続けている(と述べている)
著者にとってメルヘンの意味はわかるようで、
その奥行きまでは理解できない。
もしかしたらこの言い訳のために本書を書いたかもしれないし、
このなかに免罪の意味を込めようとしかもしれないと記述している。
→実に正直で微笑ましいと感じられた(^^)

またこの”後記”では本書の理念的柱とでもいうべき記述が多く・・・
○「組織と人間」の関係は微妙である。
・・それほど脆いカゴのなかに青い鳥など住んでいるわけがない。
本気になって探す人がいれば・・・それはそれで幸せかもしれないが、
羨ましく思わせるような幸せではない。
○いい古されたことではあるが「組織と人間」の関係は
本来ハッピーではない。むしろ、奥深くに入り込むほど、
苦い酒を飲むことも多くなるであろう。
それが現実と、したり顔でいう以前の、もっと身近な現実である。
○組織の人になれば、組織にのめりコムのではなく、
かといってソッポを向くのでもなく、
それなりに組織と擦りあわせができるような関係とは
どのような関係であるかと考えるようになる。
・・それはテクニックの問題で済ませられないところがある。
・・人の一生で何分の一かを費やすところである。
もっと深い意味がありそうである。あってほしいという気持ちもある。
→という風に学術的な記述ではないが著者の組織論に対する姿勢を
率直に述べている、このようなところに非常に好感が持てた。

さて、では本題の注目すべきと思いチェックしたところの・・・
第1章”心理学の方法”
「個と全体」
○人間性と組織は本来折り合わないものである。
・・・というアージリスの発言を引用して・・・
○組織が、現代社会のために不可欠な制度であることを認めつつ、
組織におけるこの二律背反を注視しなければならない。

「現代社会のなかの組織」
○組織は、おそらく人類の歴史とともにあったかもしれない。
・・・しかし、組織を自覚的に、つまり自然にできるものではなく、
人為的に創り出されるものであるという視点から
捉えるようになったのは古いことではない。
ウェーバーの官僚制、テイラーの科学的管理法、フェイヨルやアーウィック、
ギューリックの行政管理論などは、科学的な組織分析は、
ようやく1世紀を超えたくらいの歴史が数えられるくらいである。

「科学としての組織の心理学」
○組織における心理学が、実際的な意義をもつのは、
個人の自由意志が組織の目標と対等に出会うところであり、
それは社会全体の成熟とともにあると考えられる。
強制的な応藷によるシステム運営が当然であるとする社会にあっては、
組織の心理学が成り立つ素地はない。
→これは本当だろうか?一見そうかなと思ってしまうがどうもひっかかる。

「組織の中の合理と非合理性」
○理論やモデルだけではなく、思想そのものがまだ熟していない
ということであろうか・・・組織と人間に関する確固たる思想が望まれる。

「分析視点の刷新」
○組織と人間の出会いは、ただ1つではなく、さまざまなモデルが
成り立つことをごく自然なことと考える寛容さが望まれる。

第2章”社会化とキャリア”
「社会化とは」

○(組織の社会化について)社会化は2つの視点から捉えられる。
1つは、個人が自らの利益のために、すすんで組織人になろうとし、
組織の価値や規範を積極的に取り入れ適応する過程である。
他の1つは、組織が自らのために、個人を順化させ、教化しようとする
過程である。この2つの社会化、つまり個人が関心を向けるところと
組織の意図するそれが合致しないところもある。

「コミットメント」
○ブキャナンの定義・・・
a)同一視(identification)
B)投入(involvement)
C)忠誠(loyalty)

第3章”モチベーション”
「欲求説の比較」
○欲求説における個人差とは、人間一般の区分けであり、
それぞれのメンバーの個人的な事情に配慮した差違ではない。

第4章”組織とストレス”
「ストレス・モデル」
ストレッサとストレイン、モデレータの関係を・・・
○  モデレータ要因
      ↓
ストレッサ→→→ストレイン
     
「個人的達成感の後退」
○役割葛藤や曖昧さの多い仕事ではバーンアウトしやすい。

「コーピング」
○(ストレスに対するモデレータ要因について)状況を変えることが
できそうであると判断したとき、問題中心型のコーピング(coping)になり、
変化させられそうにないと認知すると
情動中心(emotion-focused)型になる。

第7章”プロフェッショナリズム”
「スペシャリスト」
○半ば組織人、半ば職業人の行動は組織がインテリジェントになるほど
無視できない要因にならざるを得ない。

第8章”グループ・ダイナミックス”
「会議の心理学」
○会議の機能について・・・
a)アイデアの創出
b)情報の意図とその解読をがっちさせる
c)成員性を改めて確認する
○会議運営について、経験的には知られていることも多いが、
体系的に整理されているとはいけない。今後に残された問題は多い。

「プロジェクト・チームなど一時的な集団の形成」
○その特徴について・・・
a)相互依存的関係
b)成果の先行→とりあえず成果を得なくてはいけないので、
いわば勝ちを急ぐ集団でもある。
c)基準や規範の単純さ
・・・永続を前提とする集団に比べると、
「その場」を切り抜けることを何よりも優先さえたがる傾向に陥り、
合理的な判断や行動に欠けるところもある。

第9章”対人葛藤”
「社会的技術」
○適応できないことが葛藤の要因であるならば、
葛藤関係は学習の機会である。
・・・修羅場を何度かくぐり抜けることが適応のためには
欠かせないということである。

第10章”リーダーシップ”
「リーダーシップとは」
○リーダーシップとは特定の個人の能力や資質によるのではなく、
対人的な関係のなかで発揮され、場合によっては、
集団の機能そのものである・・・バブリンによれば、
リーダーはその機能を必要とする状況の制約から外れることはできない。
ある状況のもとで有効であったリーダーも、状況が変われば、
そして、役に立たないことが明らかであると、その地位から追われる。

「パス・ゴールモデル」
○フォロワーを動機づけ、満足させるために、
リーダーは彼らに目標の達成にいたる道筋を明確にしなければならない。
通路、つまり、パスの明示化(path clarification)である。

第12章”組織風土”
「行動環境としての組織風土」
○リットビンとストリンガーの組織風土(organizational climate)
の定義として・・・
組織システムの要因とモチベーション性向の間に介在しうる
1つの媒介変数であり、一群の個人のグループと一群のモチベーションの
グループに対する状況的なモチベーション影響力の累積的な記述をあらわす。

「方法の問題」
○(組織風土という言葉の使用の問題点について)ペインらも、
満足では分析の単位は個人であり、分析の要素は仕事であり、
観測は感情であるのに対して、風土では、単位は集合ないしは組織、
要素は集団か組織、そして、観測は記述的であり、
論理的にも操作的にも明確に区別されるものであるとしている。
・・しかし、現実には・・満足との相関関係を明らかにしようとする研究が
圧倒的に多い・・概念としても、まだ成熟するのはいたっていない。

「組織文化との相違」
○風土とは、あくまでそれぞれの個人による特性の記述であり、
必要に応じて、個々の心理的風土は平均され、
その組織の特性であるとされる。
しかし、そのものに評価的な、規範的な特性はないとされている。
その点、文化には、程度の差はあるが、
メンバーの判断を方向づけ、行動を規制する働きがある。

「外部的な役割規定」
○組織風土とは・・・その是非や可否と別途に論じるべきである。
倫理的な概念ではない。

第13章”パワー関係と管理”
「パワー関係の動態」
○ザルドは、組織とは、パワーを保持するものの間で繰り返される
内部的演技(interplay)であるとして、競いあいのなかのパワー関係に
分析の焦点を合わせなければならないとしている。

「ポリティクス」
○メイエスとアレンによれば、ポリティックスとは、
組織によって是認されない目的に到達するために、
あるいは、是認されない手段を通して是認された目的に到達するために
影響力を行使することである。

「管理者とリーダー」
○肝心なことは、管理者は、対人的な影響力を重視するリーダーとは
区別されるべきである。
リーダーの働きは監督者に近似しているといえるであろう。

「管理者は何をすべきか」
○ミンツバーグによる管理者の定義、3つのカテゴリーと10の役割として
・・対人的(シンボル、連絡、監督)
情報的(モニター、普及、広報)、
意思決定的(革新、妨害除去、資源配分、ネゴシエーション)

第14章”組織デザイン”
「支持の調達」
○変化については、実際の変化とシンボリックな変化を
区別しなければならないことがある。
組織が内部の構造を変える場合、もし資源や権力の再配分が伴わなければ、
それは単にシンボリックな変化が起こったことでしかない。
このような変化はスタイルを変えただけで、
中味や重要度を実質的に変更してないからである。

「変化における成功条件」
○デルベックが挙げた変化が成功にいたるための条件・・・
a)変化の一般的な目的について、組織エリートからの委任と、
計画を実行に移すことについての同意を取り付けていること。
b)パフォーマンス・ギャップに関して文書化するなどの明示的にすること。
c)可能な解決策と、それによって得られる成果に関して、
広範で技術的に確かとされる調査を実施し、データ得ておくこと。
d)内部的に強力な支援が得られるような工夫。
e)変化の効果をみるためのパイロット・テストが行えるような
許容能力や余裕の調達。
・・・要は、一方で支持をできるだけ多く集めること、
他方で抵抗を除去するための方策を立てることが
変化をすすめるために重要である。→いちいちこんな言い方するなんて
この人たちは戦略と戦術を知らないのでは?

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1999 5/5
組織論、心理学、経営学
まろまろヒット率5

ハーバート・A・サイモン、松田武彦・高柳曉・二村敏子訳 『経営行動―経営組織における意思決定プロセスの研究』 ダイヤモンド社 1989(第3版)

最近ダイオウイカにはまっている、
らぶナベ@スルメ何人前になるんだろう?っす

さて、『経営行動~経営組織における意思決定プロセスの研究~』
原題”ADMINISTRATIVE BEHAVIOR
-A study of Decision-Making Proccesses
in Administrative Organization-”
ハーバート・A・サイモン著 松田武彦、高柳曉、二村敏子訳 
ダイヤモンド社 1989年新版(第3版)初版を読み終えました。

この本は組織論の古典中の古典であり社会科学の代表的名著の一つ。
「これを読まずして組織論を語るな」とまで言われるほど重要な本で
前々から一度は読んでみようと思っていた一冊。
しかし読む機会が見いだせずにモヤモヤしていたところ、
ひょんなことで社会人になりそこねたので読んでみることになった。
人生とはよくわからないものだ(^^)

著者は経済学の分野でノーベル賞をもらっているが発表論文も含めると
その研究領域は組織論、システム科学、コンピュータ科学、哲学、数学、
OR、心理学、社会学、政治学、統計学、
電子工学、認知科学、さらに人工知能論に及んでいるという
まさに歩く”Liberal Artist”。
そのためか元々初版発行時(1946年)には十一章完結であったのに
著者がどんどん付け足していって最新版(第三版)では
六章増えて十七章+付録まで増えている。
前書きだけでもかなりの分量になっているという実に読み応えがある本。

さて、内容の方は意思決定過程の観点から組織がどのように
理解できるかについてアプローチしている。
「初版への序」でも述べられているように組織の真の骨肉をとらえる言葉や
概念上の適切な定義がいままで無かったということで
著者がこの領域の研究に役立つ道具を創ろうと試みた一冊でもある。
そのためか定義付けのための道具立てを意図した記述が多い。
その例の一つとして今まで組織論において明確な概念や定義が無かった理由を
長くこの領域の研究分野とされた経済学と心理学との間にある溝に
求めている。そのことをもっとも端的に表している「第3版への序文」
(合理的行動と管理)では・・・
○今日の社会科学は、合理性の取り扱いにおいて、
極度の分裂症状を呈している。一方の極には、経済学者がおり、
彼らは経済人が途方もない全能の合理性をもっているものと考える。
・・他の極端では、すべての認識を情緒に分解しようとする
フロイト以来の社会心理学の傾向がある。
・・おそらく、つぎの世代の行動科学者は、
われわれが今日述べているよりは、人間はずっと合理的である
ーしかし、経済学者が宣言したほど大げさではないー
ことを示さなければならないだろう。
この分裂症状は、第四章と第五章に反映している。
第四章は、経済学や公的意思決定理論で展開されてきた
合理性の概念を明らかにする仕事をしている。
第五章は、人の認知能力には限界があるため、合理性を行使するにさいして
大きな制約が課されることについて議論している。
それゆえ、実際の世界で見出されると実際に期待できる
合理性を描いているのは第四章ではなく、第五章である。
・・ただ、心理学を捨てたり、組織理論を経済学的基礎の上に
据えるだけでは、問題の解決とはならない。
・・組織と管理の純粋な理論の存在できる余地は、
人間行動が合理的であるように意図されているが、しかし、
ただ限られた範囲でのみ合理的であるような領域にこそ、まさしく存在する。
・・・と自分の考えを経済学と心理学の間に位置していると主張している。

そして組織の定義を「第3版への序文」(組織の意義)で・・・
☆本書の既述では、組織という言葉は、人間の集団内部での
コミュニケーションその他の関係の複雑なパターンをさす。
このパターンは、集団のメンバーに、その意思決定に影響を与える情報、
仮定、目的、態度、のほとんどを提供するし、
また、集団の他のメンバーがなにをしようとしており、
自分の言動に対して彼らがどのように反応するかについての、
安定した、理解できる期待を彼に与えるのである。
社会学者はこのパターンを「役割の体系」と呼んでいる。
われわれの大部分の人々にとっては、
それは「組織」として、広く知られているものである。
・・・としている。
このことをさらに深めた第四章「管理行動における合理性」
(組織の影響のメカニズム)では羅列的に・・・
○(1)組織は、仕事をそのメンバーの間に分割する。
(2)組織は、標準的な手続きを確立する。
(3)組織は、オーソリティと影響の制度をつくることによって、
組織の階層を通じて、意思決定を下に
(そして横に、あるいは上にさえも)伝える。
(4)組織には、すべての方向に向かって流れるコミュニケーション経路がある。
(5)組織は、そのメンバーを訓練し教育する。
・・・と明確な定義付けをおこなおうとしている。

同じく「第3版への序文」ではこの本の骨格部分として・・・
○第四章と第五章は、本書の核心を示している。
この二つの章では、人間による選択、すなわち、
意思決定の理論が提示される。
この理論は、経済学者の主要な感心の的となってきた選択の合理的諸側面と、
心理学者や実際の意思決定者の注意をひきつけてきた、
人間の意思決定のメカニズムの諸性質や諸限界の両方を含み、
十分広くかつ現実的であることをねらいとしている。
・・・と第四章「管理行動における合理性」と、
第五章「管理上の決定の心理」がこの本の中心だと述べている。

この二つの章に関しては同じく「第3版への序文」(合理性の限界)でも・・
○第四章と第五章の論題を一口でいえば、こうである。
すなわち、管理の理論の中心的な関心は、人間の社会的行動の、
合理的側面と非合理的側面の間の境界にある。
管理の理論は、特に、意図され、しかも制限された合理性についての理論、
すなわち極大にする知力をもたないために、
ある程度で満足する人間の行動の理論である。
・・・と結論をまとめてくれている。

この「第3版への序文」はこの本の要約的な色合いが強く
(長い本なのでこれはありがたい(^^))、
今まで意思決定をおこなう人間に対する分析とされていた経済人に対して・・
○1:経済人が最高限を追求するー利用しうるかぎりの選択肢のなかから
最良のものを選び出すーのに対して、
われわれが経営人と呼ぶ彼の従弟はあるところで満足する
ー満足できる、あるいは「十分よいと思う」好意を探し求める。
2:経済人は混雑したままの「現実の世界」を扱う。
経営人は、彼の知覚する世界が、現実の世界を構成する、
さわがしいはなやかな混乱を、
思い切って単純化したモデルであることを認める。
彼は、現実の世界が概して意味がないことー現実世界の事実の大部分は、
彼が直面している特定の状況には、たいして関連をもたないこと
ー現実世界の事実の大部分は、彼が直面している特定の状況には、
たいして関連をもたないこと、原因と結果のもっとも重要な連鎖は、
短く単純であることーを信じているので、
このようなあらっぽい単純化で満足する。
それゆえ、彼は与えられた時点において実質的に無関係であるような、
現実の諸側面ーそのことはたいていの側面がそうであることを意味するが
ーを考慮に入れないで満足する。
彼は、もっとも関連があり重要であると考えるごく少数の要因だけを
考慮に入れた状況の簡単な描写によって、選択を行う。
・・・と反論している。

また、社会学において非常によく使われる役割という言葉については・・・
○もし、社会的な影響を、意思決定前提に対する影響としてみる見解を
採用するなれば、役割理論における困難は解消する。
役割とは、個々人の意思決定の根底にある諸前提の、
すべてではないが、そのいくつかを明記したものである。
○かくて、役割理論および行動理論についてわれわれがひき出した結論は、
同じものである。
すなわち、適切な分析単位をもたなければ、
正しい人間行動の理論をうちたてることは不可能であるという結論である。
役割は、単位としては大きすぎ、行為もまた同様である。
意思決定の前提は、このどちらよりも、もっと小さな単位である。
・・・とこの言葉の安易な使用を注意している。

さて、以下はこの本の骨格である第四章「管理行動における合理性」で
チェックした箇所、ちなみに()は節の名称、
☆は特に重要であると思ったり印象に残った点・・・
(手段と目的)
○各階層は、下の階層からみれば目的と考えられ、
上の階層からみれば手段として考えられる。
目的のハイアラーキー的な構成によって、
行動は統合され一致したものとなる。
なぜなら、一連の代替的行動の各々が、価値の包括的尺度
ー「究極の」目的ーによって評価されるからである。

○このように、手段と目的の関係を考察してくると、組織も個人も、
ともにその行動の完全な統合を達成することができないでいることがわかる。
けれども、その行動に合理性がなにか残っているとすれば、
それはまさしく、いま記述してきたこの不完全な、
しばしば相矛盾するハイアラーキーである。

(代替的選択肢と結果)
☆手段と目的の関係様式に対してあげられる難点は、
(a)それが意思決定における比較の要素を、漠然としたものにすること。
(b)意思決定における事実的要素を価値的要素から分離することに、
十分成功していないこと。
(c)合目的の行動における時間という変数に対しての認識が不十分である。
・・代替的行動の可能性とそれらの結果の観点から述べられた
意思決定理論は、これらの難点にすべて答えてくれる。

(代替的行動)
○個人にとって、彼の代替的選択肢のすべてと
その結果のすべてを知ることは明らかに不可能である。
そしてこの不可能であることが、実際の行動と客観的な合理性のモデルとを
異ならしめる非常に重要な分岐点となっている。

(第四章の結論として)
○手段と目的は、事実と価値にそれぞれ完全には対応していないが、
この二組の用語の間にはなんらかの関係があることがわかっている。
手段と目的の連鎖は、諸行動からその結果としてあらわれる諸価値に
いたるまでの因果的に関連した要素の列挙、として定義された。
かかる連鎖における中間的目的は、価値指標として役立っている。
そして、この価値指標を用いることによって
最終目的あるいはその目的に内在している価値を完全に探求することなしに、
われわれは代替的選択肢を評価することができる。

さらにもう一つの骨格である第五章「管理上の決定の心理」
でチェックした箇所・・・
○この章の議論はきわめて簡単に述べることができる。
一人の孤立した個人が、きわめて合理性の程度の高い行動をとることは、
不可能である。
・・個人の選択は、「所与の」環境ー選択の基礎として選択の主体によって
受容された諸前提ーのなかで行われるのであり、
行動は、この「所与のもの」によって定められた限界内においてのみ
適応したものとなる。

(合理性の限界)
☆実際の行動は前章(第四章)で定義したような客観的合理性に、
少なくとも三つの点において、及ばない。
(1)合理性は、各選択につづいて起こる諸結果についての、
完全な知識と予測を必要とする。
実際には、結果の知識はつねに部分的なものにすぎない。
(2)これらの諸結果は将来のことであるゆえ、
それらの諸結果を価値づけるにさいして、
想像によって経験的な感覚の不足を補わなければならない。
しかし、価値は、不完全にしか予測できない。
(3)合理性は、起こりうる代替的行動のすべてのなかで
選択することを要求する。実際の行動では、これら可能な代替的行動のうち
ほんの二、三の行動のみしか思い出さないのである。

(予測の困難性)
○損失の経験があると、損失が起こることが高い確率で生ずると
予測するよりは、むしろそのような結果を避けようとする欲求が強化される。

(行動持続のメカニズム)
○行動持続の一つの重要な理由は、すでに第四章で論じられた。
活動は、同じ方向に活動を持続することを有利とさせるなんらかの
「埋没価値」を生じさせることが非常に多い。
・持続の第二の理由は、活動それ自体が、
注目を活動の持続と完成とに向けさせるような刺激をつくり出すことである。

(要約)
○人間の選択の型は、代替的選択肢のなかからの選択というよりも、
刺激反応の型に近いことが多い。
○人間の合理性は、心理的な環境の範囲内で働くにすぎない。
○しかし、意思決定の刺激それ自体は、より大きな目的に役立つように
統制されうるものであり、個人の一連の意思決定は、
十分に練られた計画へと統合されうるものである。
☆意思決定の環境を注意深く統制することは、
選択の統合を可能にするのみでなく、選択の社会化をも可能にする。
社会的な制度は、個人に社会的に課せられた刺激のパターンに
その個人の行動を従属させることを通して、個人の行動を秩序かするもの、
とみることができよう。
まさにこのような諸パターンにおいてこそ、
組織の意義と昨日を理解することができるのである。

以下はその他の章でチェックした箇所(・・・
第七章「オーソリティーの役割」
(オーソリティー)
○「オーソリティー」とは、他人の行為を左右する
意思決定をする権力として定義されよう。

(オーソリティーと「最後の言葉」)
○部下の服従の度が強くなればなるほど、
オーソリティーが存在する証拠はますますかくれたものとなる傾向がある。
なぜなら、オーソリティーは、間違った意思決定を取り消すときのみにしか、
行使される必要がないからである。

(心理学とオーソリティーの理論)
○心理学は、ちょうど、生理的、物理的、あるいは他の環境的要素が
そうであるように、条件として管理のなかにはいっている。
それは、管理理論それ自体の一部というよりはむしろ、
管理の技術の一部である。

第八章「コミュニケーション」
(マニュアル)
☆マニュアルを作成する人々は、「完全性」および「統一性」を求めて、
ほとんどつねに、以前には個人の決定にゆだねられていた事柄を
マニュアルのなかに含め、かつこれおを組織の方針に具体化する。
これは、決して必ずしもまったく望ましいことではない。
なぜならば、「完全性」および「統一性」は、調整のために
必要でないかぎり、組織にとってはどんな特別の価値もないからである。

第九章 能率の基準・・・
(達成ー程度の問題)
人間の認知、予測には限界があることと人間の欲望には際限が無いことを
理由として達成とは程度の問題としている。それを踏まえて・・・
☆諸目的を定めることで、管理的決定における
価値要素の問題が終わるわけではない。
加えて、目的が達成されるべき程度を決める必要がある。
・・・と展開している。

第十章「忠誠心と組織への一本化」
(一本化と十分性)
○管理的決定の基本的な基準は、十分性の基準ではなく
むしろ能率の基準でなければならない、と結論できよう。管理者の仕事は、
限られた資源と比較して社会の価値を最大化することである。

第十一章「組織の解剖」
(合理性の領域)
○合理性が行動を決定するのではない、合理性の領域のなかでは、
行動は、能力、目標、および知識に対して、
完全に弾力的であり、適応性がある。
その代わりに、行動は、合理性の領域を制限する非合理的
および不合理的な要素によって、決定される。
合理性の領域は、これら不合理な要素に対する適応性の領域である。

また、著者は上記の通りやたらと研究分野が広いが
付録の「管理科学とはなにか」では・・・
(管理科学の諸命題)
☆科学は、われわれが利潤を最大化すべきか否かを語ることはできない。
科学は単に、どのような条件のもとでこの最大化が起こり、
また最大化の結果がどうなるであろうかを語ることができるだけである。
このような分析が正しいとすれば、一つの科学の文章と別の科学の文章を
区別する論理的な差違はないことになる。
どのような差違であろうと、それは、いくつかの科学の内在的性質からよりは
むしろ、それらの主題から生ずるはずである。
・・・としているのは印象深い。
「訳者まえがき」でも訳者が共著や協同研究を得意とする
サイモンの協同研究のコツを・・・
○協同研究成功の秘訣として同教授があげられるのは、
(1)問題意識の明確な共通理解、
(2)(知識レベルではなく)方法レベルでのコミュニケーション
・・・と紹介しているのには注目した。

最後にこの本を読みながら大学一回生の春休みに挑戦した
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(略:ぷろりん)』
マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳(岩波書店)
・・を読んだ時のことを思い出してしまった。
社会学と経営学という分野の違いはあれ、
その分野では外せない名著であることと
著者が異様に多様な専門領域を持っていることが
共通していた点がこの本のことを思い出させたのだろう。
よく考えたら読む時期としても所属の違いはあれ同じ一回生だ。
振り返れば僕はいままで一回生時に『ぷろりん』を読んだ経験に
ずいぶんと助けられて来たがこの本もそんな風に
僕にとってかけがえの無い本になるのだろうか。
そう思って読書を終えた。

この本をamazonで見ちゃう

1999 4/27
組織論、経営学、意思決定論
まろまろヒット率5

北方謙三 『悪党の裔』 中央公論社 上下巻 1995

野島信司脚本のCX系列ドラマ『リップスティック』
不覚にも第1話目から完全にハマってしまった、
らぶナベ@しかしなぜあの役を三上博史が??
(豊川悦司の方が向いているかも)

さて、『悪党の裔』北方謙三著(中央公論新社)1995年初版上下巻を読みました。
この本を読むことになったもともとのきっかけは、
以前見たNHKの『堂々日本史』だったか何かで
南北朝時代の悪党にスポットを当てる特集が放映された時、
番組の中でこの小説の主人公、赤松円心(則村)に対して女子アナが
「・・・同じ時代に生きていたら私、彼に惚れてたかもしれない。」
と言った発言に対して番組にゲスト出演していたこの本の著者(北方謙三)が
「僕はすでに彼に惚れているんですよ。」と答えていたのが印象深かった。
いずれこの赤松円心の小説は読んでみたいと思っていたところ、
この前に読んだ同じ著者で同じく南北朝時代を舞台にした
『道誉なり』が予想以上にヒットだったのでさっそく手に取ってみた一冊。

この小説の主人公、赤松円心は播磨の半土豪・半盗賊である悪党として
領主や鎌倉幕府に対する悪党業をこそこそと続けてながらも
分裂した家中をまとめあげ各勢力に繋がりをつけて力を溜め
ついには鎌倉時代から南北朝時代へと移行する混乱期に
決定的な影響を与えた人間。
自分の代には結局来ないかもしれないと知りながらもそれでも
「いつか吹くはずだ」と信じる時代の風に乗ろうと腰を据えて見定め、
ついに鎌倉幕府に対する反乱をいったん起こせば
六波羅探題救援に向かってきた名越高家を集中して戦死に追い込み、
彼の同僚であった足利尊氏に鎌倉幕府への裏切りを決意させる。
建武の新政が崩壊すれば新田義貞の軍を少数でくい止めて
足利尊氏の西日本での再起に決定的な役割を演じる、
それもあくまで一人の悪党としての心を失わずに。

そういう彼の生き方を言い切っていると強く感じられる一節があった・・・
「天下を取れるとは思っておらぬ。そのために無理もしたくない。
ただ、天下を決する戦がしたい。この赤松円心が、天下を決したい。」
・・・地方の悪党としては大きすぎる野心を持って
その時を辛抱強く待ち続け、そして実現させた彼には確かに惚れる(^_^)

僕は分不相応な夢や野望を持った人間っていうのがどうも好きみたいだ。
そういうことをこの本を読んであらためて思った。
だから政策系の学部や学問が好きなのだろう。
「お前に絶対国なんか動かせるかよ!」って誰もが思う人間が
国を動かすようなプロジェクトやプログラムを当たり前のように考える。
そういうある意味で厚顔無恥で滑稽な人間たちに親しみを感じてしまう。
僕が学部のラウンジでギターを弾きながら天下国家を語っているような
勘違いな人間に痛いものコレクターとしての触手が動かされるのは
そういうことなのだろうと感じた。

そしてこの小説で主人公の赤松円心が登場したのは
人生の終盤、50代の半ばにもなってからだ。
そこから幕府の締め付けに耐えながら家中をまとめあげて
ようやく夢がかなう可能性があるほどの力を付けても決してあせらずに
周りが勢いに乗り遅れてはいけないと不用意に飛び出すことにも流されず
じっと「吹く風」を見きわめた彼の姿には少なからず感慨をおぼえた。
最近、僕と同い年や同年代の人間が芥川賞を取ったり、議員になったり、
企業で働いたりしているのを見ていると心動かされることもあったが
この本を通して赤松円心が僕に対して「無駄に焦るなよ」、
「いまは時代の流れを読み力を蓄えろ」と言っているように感じてしまった。
これは彼も僕も同じく「勘違い」な人間としての共通点があるからだろう(^^)
一人の人間としての生き方は『道誉なり』の佐々木道誉の方がずっと華麗で
カッコ良いが僕は道誉にはなれない。(あんまりなりたくないが(^^;)
でも円心にはなれるかもしれないし彼を越えることもできるだろう。
そういう分不相応な夢を僕にも与えてくれた本でもあった。

以下、この本の中でその他にチェックしたところ・・・
「学問とは、そういうものかもしれなかった。
ほんとうに戦で必要なものは、なにも教えない。」

「戦とは、騙し合いでもある。ここぞという時までこらえていなければ、
捨て石にされるだけよ。」

「よいか、光義。大儀のない戦を、長く続けてはならぬ・・・
大儀さえあれば、一敗地にまみれたとて、再び旗をあげられよう。」

「戦は、陣形や兵数だけでなく、大将の気持ちの闘いでもある。
それを忘れるな。」

「しかし、自分ひとりの存在が、天下を決する。
そういう立場に立つことはできるはずだ。」
「もし首を取ろうとするほどの小さな男なら、
首を取られる儂も同じだけ小さな男だ。」

「生きたいように生きているために、耐えている。」

この本をamazonで見ちゃう

1999 4/12
小説、歴史
まろまろヒット率5