mixi文京区コミュニティ管理人就任

ソーシャルネットワーキングmixiの文京区コミュニティ管理人に就任する。
負担を感じていた前の管理人さんから依頼を受けて管理権を受け継ぐかたちになった。

GREEの方ではこれまでも地域コミュニティを運営していたし、mixiでもまったり小石川周辺コミュニティ(376人)をゼロから立ち上げたりしていた。
でも、今回のように既に巨大化した既存コミュニティ(1274人)の管理人を交代で引き受けるというのは、僕にとって挑戦的な一歩になる。

思えば去年、立ち退き問題に巻き込まれて旧住民と新住民の対立、ご近所さん付き合いが無くなっていくことに寂しさを感じていた。
そんな中で、ご近所さんつきあいに絶大な効果を発揮するSNSはご近所さん付き合いの新しい基点になるのではないかと思い、
今年は文京区内でのコミュニティ運営を進めていきたいと思っていた矢先だった。
そんな時に今回の管理人交代話は何かの巡り合わせを感じて、リスクを承知で引き受けることになった。

管理権の譲渡を受けてからさっそく重複トピックスの統合や目的別トピックスの設置と誘導をおこなったが、
管理人交代の挨拶トピックスには予想以上に好意的な意見が寄せられたので少し安心した。
これは僕のテーマの一つである「オンラインとオフラインとのコミュニケーション」の実践でもあるし、何よりも文京区が好きだ。
これからもオンラインではグローバルに情報発信しつつ、オフラインでは自転車でまわれる距離感を大切にしていきたい。

2006 3/17
出来事メモ

振り返るきっかけとしてのコンテンツの価値を感じた古典研究

コンテンツ創造科学「古典研究」補講で、押井守特任教授が『機動警察パトレイバー』について講義したのを受講する。
一つの企画が生まれ、実現され、展開していく流れの全体像を明確に語ったものとして、
これまでのコンテンツ創造科学の講義の中でも1,2を争う有意義なものだった。

たとえば「(公私混同では無く)公私が一致しないと進まない」→「それをするのがプロデューサー」ということ、
「企画は思惑をこえて動くもの」だけど「その方向性を決めていくのは熱」ということや、
「物作りの人間は自分しか根拠が無いと覚悟しないといけない」ということは、生々しい実例と一緒に語られるだけに迫力があった。
中でも集団を活性化させるためにはサッカーと同じく「抜擢と切捨が絶対に必要」と力強く言い切っていたのは心に響いた。

また、講義の題材となった『パトレイバー』はOVA第1期シリーズが好きでリアルタイムで観ていたので、
このコンテンツがどのような動きで生まれて展開していったのかを知ることは、記憶が立体的に肉付けされる感覚をおぼえた。
(いつも小さい声で聞き取りにくいことも多いのに、今回は狭い会議室の近い距離でよく聞こえたというのもあるかも)

特に企画の節目になっているOVAシリーズラスト2話『二課の一番長い日』と劇場版『パトレイバー2』は、
僕の10代の頃の思い出のコンテンツでもあったので、
この2作品の位置づけについて監督に直接質問できたのはあの頃の自分を振り返ることにもなった。

コンテンツはそれに触れた時期の自分を思い出させてくれる。
それがコンテンツの大きな価値の一つだということをあらためて強く感じることになった。
そして10代前半に「後藤隊長みたいなおやじになりたい」と思っていた自分を思い出せたのが少し嬉しかった(^_-)

2006 2/25
出来事メモ

まろまろ記の復旧&更新再開

10月7日から2ヶ月以上にわたってまろまろ記(maromaro.com)サイトが更新停滞していた問題が解決する。

経緯は・・・
1:MovableType3.17から3.2にVersionUP→しかしBackUP読み込みエラー発生(イヤン)
2:修正版MT3.2-1を再インストール→でもbackupは読み込めたけど今度は再構築エラー(バカン)
3:それならとSQL-lightを使ってPHP化&ダイナミック・パブリッシング化→それでも再構築はできたけど今度はarchiveページが真っ白で見れない(ダメン)
4:SQL-LightからMySQLに変えて再びダイナミック・パブリッシング化→何とか更新再開にこぎつけた(フゥ)

ただし、1の段階で管理画面で今までのアーカイヴを認識できなくなり、新しいURLのアーカイヴ(/arvhive”s”/→/archive/)を使うことになった。
これによってサイト内のリンクをすべて張り替えないといけなくなったので、その作業が本当に大変だった。
完全にURLが変わってしまって、拡張子を.html→.phpに変えるだけではなかったので、自動化も断念してすべて手作業になった。
(今後もURLが変わるたびに文中リンクを張り替えないといけないのはホントにツライのでこのURL普遍性問題をなんとかしたい)

このトラブルに見まわれたのはちょうどひと夏かけてブログ化をおこなってサイト内リンクを張り替えたところだった上に、
ちょうど賃貸物件の立ち退き交渉が大詰めを迎え、実際に引越をする時期とも重なっていたので、
オフラインの住まいもオンラインの住まいも足下が揺らぐ感覚に見舞われた。
2ヶ月も更新できないことは2001年7月のサイト開設以来なかったことでもあるので停滞している状態にストレスを感じた。

せめてもの救いはダイナミック化前の.htmlアーカイヴを残していたので更新はできなくてもこれまでのものを見ることはできたし、
更新はまろまろメルマガで配信は続けることはできたことだった(サイト開設前のML時代に戻った気分だった)。
作業中は1:VersionUPは慎重にする、2:BackUPはしつこくする、ことの重要さをあらためて痛感させられた。

そして復旧してみれば自分のメディアを続けることがいかに大切で幸せなことなのかを実感した2ヶ月間でもあったように思う。
立ち退き交渉話と共にアリガタサというものを感じる機会でもあったかもしれない(おっさん化?(^^;)。

2005 10/7~12/10
出来事メモ、サイト運営

立ち退き案件解決-さらば初代まろまろハウス-

夏からはじまった、いわゆる地上げの立ち退き交渉とその後のドタバタがようやく解決する。
(詳細メモはさすがに非公開(^^;)

僕はこれまで交渉上手と指摘されることが多かったし、確かに今回も結果だけを見れば満足すべきものが得られたと言える。
でも、この案件では交渉中に不快な思いをすることが多かった。
その最大の原因は、不動産側の強引な手法やぞんざいな態度、脅しすかしなどによるものでは無い。
そんなものは言ってみれば可愛いものと言えるし、ナベッカムとしてのポジショニングを存分に発揮できる。

不快に感じた最大の原因は、欲に目がくらんで豹変していく人々、判断を見誤る人々の醜さを近くでかいま見たことだ。
特に「これからも親戚付き合いしよう」とか「取り壊すんだからいらないものはおいていけばいい」などの耳障りの良いことを言っておきながら、
実際に退出するときになって敷金は返さないと手のひらを返してくる元大家さんや、
これまでさんざん人間関係を前面に出して法的な話を避けて理解者の立場を装いながら、
合意書を取り交わして引越が完了した途端に補償金を返せと主張してくる元大家さんの息子さんなどには強い不快感を感じた。
もちろんこうした主張は法的、社会通念的に通らない話なので対処はごく簡単なものだったが、
(『ギリシア・ローマ名言集』にあった「財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあたるが、愚者にあっては支配者の地位にある」というやつか)
人間関係はもはや続けられないと見切りをつけることになった。
これまでは僕も角が立つと思って元大家さんとは法的な話は出さないようにしていたが、
法的な話を必要以上に避ける人はたいてい自分の勝手を押し通したい人が多いことをあらためて実感。

僕はこれまで人間関係を切るということがあまりなかった。
機会が少ないだけに、僕がその人間や集まりに見切りをつけるのには一定の傾向があるようだ。
・単に自分を守りたいだけのために、被害者を叩く加害者
・単に相手を叩きたいだけのために、正義感を振りかざす人間
・単に自分の欲を満たすためだけに、情を訴える人間
・・・こうた人たちには吐き気をもよおすほどの汚らしさと不快感を感じてしまい、
急速にしらけてしまって、さすがに僕でも見切りをつける傾向にあるようだ。

・・・っと言う割には、今回の件も含めて友人たちからは見切り判断が遅すぎる(甘い)と指摘されてしまった。
もっと見切りを早くすべきか、それともこれまでと同じようにギリギリまで待つか・・・
それもまたリアル人生ゲームを続ける上でのポジショニングだろうか(^^;

ちなみに不快感を感じる交渉中にも、何かと相談に乗ってくれた友人や先輩、暖かい手を貸してくれた法実務家、
結果について報告したときに励ましてくれたお隣さん、そして新しい関係にありがたさを感じることが多かった。
不快な思いをしただけに今回の件で交渉力、人生経験値が少しアップしたと思いたいところだ。

2005 8月はじめ~12/06
出来事メモ

まろまろ記4周年

まろまろ記(旧まろまろ読書日記)がサイト開設して4周年、まろまろ記に改名してからは1周年になる。

この1年では各地に散らばったまろまろフラッグの様子を見るまろまろフラッグ放浪記を設置したり、
オフラインでは「まろまろ」を商標登録コンテンツ創造科学に合格博士課程進学
布石を打つようなことが多かったように思える。
ソーシャルネットワーキングの勃興、blogの隆盛などの環境の変化も目立つ1年だった。
(maromaro.comのblog化もスタートした)

また、サイト開設してからのこの4年間は、前半は大阪、後半は東京での生活になった。
東京に出てくるきっかけがこのサイトだっただけに感慨も深い。
4年というのは知事や大統領の任期と同じく、ある程度ひとまとまりになる期間のようで、
この間に僕の他称は「まろまろ」さんで定着してしまった。
日常生活でも今ではすっかり本名では呼ばれなくなっていて、
たまに「ワタナベさん」と呼びかけられても自分でも気づかずスルーしてしまうことがあるほど(^^;

僕の自称は常に「らぶナベ」だし、「まろまろさん」と呼ばれはじめた頃はかなり違和感があったが、
『一人一メディア』を唱える僕としてはこうした傾向も自分メディア、自分ブランドとして大切にしていきたい。

2005 7/19
出来事メモ、サイト運営

ブラックモア博士招へい特別セミナー「ミーム・マシーンの進化」アレンジメント

イギリスからスーザン・ブラックモア(Susan Blackmore)博士を東京大学に呼んだ
特別セミナー「ミーム・マシーンの進化(The Evolution of Meme Machines)」が開催される。
このセミナーは僕がアレンジャーとして人材配置など準備段階から関わることになった。

当日は前日に先方の予定が急に変更になってしまったので、
会場設営を研究室の加藤っちに任せて、僕と375の二人で東京駅に迎えに行くことなった。
375が懸念したようにちゃんと合流できるか少し不安だったが、
ブラックモア博士の髪がWEBサイト通り七色に染められていたのですぐ合流できた。
一緒に来日した旦那さんのアダム・ハードデイヴェイス(Adam Hart-Davis)さんと共に、
二人ともとても親しみやすくユニークなキャラクターだったので送迎自体も面白いものだった。

実際のセミナーは想像してたよりも人が集まって立ち見が出るほどだった。
(ミームに対する関心の高さを感じた)
博士は聴講者とのインタラクションを大切にするスタイルで、
会場への呼びかけや聴講者を使った実演などを講演中に取り入れたので
会場は活気のあるものとなり、聴講者からの質問も多く飛び出した。
博士は人間の脳はミームによって進化したとする「ミーム駆動」仮説を唱える
先鋭的なミーム学研究者としても知られているので、この点についての学術的な質問も寄せられていた。

セミナー後は博士と旦那さん、それに主催の佐倉助教授や研究室のメンバーと一緒に
駅の近くの「あかかぶ」で軽く食事をした。
学環ニューズレターに掲載する報告も書く。

思えば2年前、彼女の『ミームマシーンとしての私』を僕が研究室で文献発表したことがあった。
それが今回、彼女を招いたセミナーのアレンジャーを僕がするというのは感慨深いものがあった。
そしてこの仕事は島に生まれたことをあらためて思い直すものとなった。
島には島の良さがある。でも島はやっぱり島の限界もある。
気持ちの上でも実際的にももっと海外との壁を低くして、これからも仕事や交流ができればと感じた。

ちなみにこのセミナーの翌日からこれまた2年ぶりに今度はアメリカからAndyが我が家にやってくる。
奇しくも英語漬け週間のスタートとなった。

2005 6/23
出来事メモ、まろまろ研究、講演会

芸術法セミナーにアカデミック・コメンテイターとして招へいされる

芸術法セミナー特別講師 「アーツアンドロー(Arts&Law)」主催の芸術法セミナー
特別講師(アカデミック・コメンテイター)として呼ばれて参加する。
会場は池尻大橋の世田谷ものつくり学校だった。

内容は作田知樹Arts&Lawディレクターが総論を話しつつ、
僕が各論を話したり突っ込みを入れたりする役回りだった。
特に情報発信の中でトラブルを避けるための予防法務をいかにしてきたのか、
また、商標登録などの知財権管理の体験談を中心に話した。

終わってからの懇親会ではインタラクィヴ・アートや演劇、造形など
様々な表現活動をしている人たちと情報交換や意見交換できたのが良かった。
このセミナーには表現者だけでなく法律家も多く参加していたので、
芸術法の社会的ニーズの高さをあらためて感じることとなった。

ちなみに懇親会の後に渋谷で打ち上げがあったが、隣が明らかにコンパの席だった。
たとえ話し声が聞こえなくてもコンパの席は、独特のオーラが発しているので注目してしまう。
表現と法、コンテンツ支援などの会話をしながらコンパでの人間模様を観察した打ち上げだった(^^;

2005 5/20
出来事メモ、まろまろ研究、講演会

ジャージでもんじゃ食べちゃうぜ(JMT)開催

GREE上で僕がモデレーターをやっている「ジャージでグリるコミュニティ」(略称:JGC)の
第1回オフ会「ジャージでもんじゃ食べちゃうぜ」(略称:JMT)を開催する。

もともとはいつ地震が来てもいいようにいつもジャージを来て出歩いていたら、
興味を示す人が多かったので実験的にコミュニティを作ったことがきっかけだった。
『キルビル』や『ごくせん』の影響からジャージ人気が上がっているらしいが、
女性メンバーからは「着て出歩くのは少し恥ずかしい」という意見があったので、
「だったらみんなでジャージで集まればいいじゃないか」とオフ会を開催することになった。

そんなわけで第1回オフ会は「丸洗いできる」というジャージ・アドヴァンテージを
最大限発揮するために、匂いがつきやすいもんじゃ焼き屋さんを会場に選んだ。
当日は集合時間10分前にたどり着いたのに、先に来ていた人たちが既に合流していた。
お互い初対面だったけど、ジャージを来ているからすぐに分かったということだった。
確かに何の目印&看板も持っていなかったのに、後から来る人もジャージ姿を見かけて合流してくれた。
これは奇しくもジャージは「実用性をかねたコスプレ」という持論を証明するかたちになった。

参加者もちょうど半分が女性、それもオフ会自体が初体験という人も多かった。
参加理由を聞くと中途半端な職歴&学歴自慢が多いGREEの中にあって、
ジャージの集まりという脱力感にヒットしたからということが異口同音に聞かれた。
オフ会初参加の人が多いので当然ながらほとんどの人が初対面だったけれど、
すぐ打ち解けて予想以上に盛り上がったオフ会になった。

思うにコミュニティとは、ある価値観をノリシロにしたツナガリとも言える。
ノリシロになる価値観によってそのコミュニティの性格はある程度決まるけど、
ジャージの持つ気楽で合理的な性格が影響したジャージーライクなコミュニティになったんだろう。

実はこのオフ会がSNS系のオフ会では初の単独幹事での開催になった。
いろいろと勉強になる単独開催ではあった。

2005 5/5
出来事メモ

WEBマスターな集い「お気楽 無世代まろり場」

たぼう氏(カレー)とプリン氏(プリン)と僕のWEBマスター三人でカレーを食べる。
「個人が情報を発信し続けるのは難しい」というエントリへのコメントがきっかけになって、
WEBサイト運営者同士でまったりと情報交換をする「お気楽 無世代まろり場」を試しにやってみた。
(千駄木の「ラ・カンパレラ」にて)

分野やコンテンツは違うけど、それぞれのサイトの現状や出来事を話してみると、
個人が情報発信することに共通の問題やそれぞれの工夫が明らかになってとても参考になった。
さらにその場での情報交換自体がすごく楽しく感じたのは、
共通の問題意識のある人間と対話することが最大のストレス解消ってことなんだろう。

あまりWEBマスター同士が固まったり馴れ合ったりするのはよくないと思っていたので
いままでこういう機会はできるだけ避けていたが、
逆に意識しすぎてサイト運営の現状や課題を心おきなく話す機会を持たなかったことを反省。
(相互作用の中でしか自分を振返れないということか(^^;)
小さいからこそネットワーク=ツナガリが大切なんだろう。
そしてツナガルためのには自分のノリシロ=メディアやコンテンツを外に出す必要がある。
「自分のノリシロをもっと充実させていこう」っという気持ちになった集まり。

2005 4/9
出来事メモ、サイト運営

読書日記10周年

読書日記をつけはじめてから10年になった。
10年前の最初の読書日記『光あるうち光の中を歩め』(トルストイ)で、
10年後の今日は『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)だった。
(WEBサイトでの公開は2001.7.19からだからまだ4年未満)

「続くなら続く、続かないなら続かない」
、”Quitters never win and Winners never quit”、
続けられることを続けていけば振り返った時には大きな財産になっている。
そんな10年がまたはじまった(^_^)v

2005 4/8
出来事メモ、はしり書き