シンポジウム「ソーシャルネットワークとコミュニケーション手法の多様性」パネリスト参加

「ソーシャルネットワークとコミュニケーション手法の多様性」というシンポジウムに
パネリストとして呼ばれたので中央大学多摩キャンパスに行く。

パネリストは僕に加えて澁川修一(独立行政法人経済産業研究所研究スタッフ)、
矢尾板俊平(中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程)の三人。
司会が銭谷恭子(中央大学総合政策学部)だった。

進行はソーシャル・キャピタルや情報と通信の融合などの大きな話からはじまったので、
僕は心おきなくネットワークの重要性を感じた驚きの体験(西行法師プレイ)から、
ネットワーク=ツナガリを創るためには「ノリシロ」を創る必要性があること、
特にそのノリシロを公開するのがメディアなんだ(まろまろコラム)・・・っという流れの話をした。
(主催者側のメモ→ここ)

オーディエンスからのレスポンスも積極的に切り込んでくるものがあったので、
やはりこういうネタの関心が高まっているんだなぁっということをあらためて実感。
終了後にスタッフさんやパネリストと近くの定食屋さんで晩ご飯を食べた時も、
参加者の有志も来てくれてシンポの延長線上の話をすることができた。
そして家に帰ってからもGREEMIXIでもつながることに・・・
まさにこのシンポジウムの存在自体が「コミュニケーション手法の多様性」って感じだった。

いろいろな問題もあるし、慎重にならなくてはいけない場面もある。
でもノリシロを自分の外に出すことで、ツナガリはどんどん生まれていくんだ・・・

2005 4/6
出来事メモ、シンポジウム、まろまろ研究

サバイバル・ゲーム初体験

前々からサバゲー幹事をしている知り合いに誘われていたが、
ちょうど一段落したし気分転換したくなったので参加してみる。

早朝集合で車に乗せてもらって千葉の専門フィールド「SPLASH」に行くと、
前日の雨で泥道化していて車輪を取られる車が続出していた。
不安を感じながら風の強い寒空の中で着替える。
フィールド観察を終えてから参加者全員が二組に分かれた時、
はじめて連れて行かれたチーム名が「チーム・ドキュン」という
実に恥ずかしい名前であることを知らされる(>_< ) (結果的にIT企業の人や2ちゃんねるの人たちと同じチームだった) 実際にゲームを始めてみると、どこにいるかもわからない敵、 どんどん撃たれてアウトしていく味方、常に緊張の連続だった。 (寒かったのにゴーグルには汗が溜まった) 特に相手側のチームには射程が長く連発できる機銃(ミニミ)を保有していた上に、 無線を使って連携を緊密に取っていたこともあってこちら側は苦戦の連続だった。 火力と情報戦での優劣がとても重要なんだとあらためて実感。 ただ、森林戦と市街戦の両方があるフィールドだったので多彩な展開ができた。 印象深いのは最後の2ゲーム目で建物の壁に隠れて攻防戦をしていたときに、 泥に思わず膝上まではまってしまって身動きが取れなくなってしまったことだ。 なんとか泥からはい出ようと必死でもがいている間にも、 飛び出した味方がどんどん撃たれてアウトしていく・・・ ちょうどセーフティフィールドの真下だったので参加者の爆笑を買ってしまったが、 最後は僕に気づかずに側面に入ってきた敵を撃ってアウトさせることができた。 すると仕留めた相手にアウトさせられた人たちが駆け寄ってきて感謝されたりもした。 終わってみると共に戦った相手は知らない者同士でも仲間になった気分になった。 ゲーム中の没頭感に加えてそういう連帯感を味わえるのが、 ニューエコノミーな社交スポーツにもなっている理由なんだろう。 また、帰りに近くのスーパー銭湯で汗を流すと爽快感も味わえた。 ゴルフからサバイバル・ゲームに・・・社交スポーツも構造変革なのか。 そしてサバゲーの経験は、人はすぐに死ぬんだということを疑似体験することにもなった。 戦争ごっこを通じて嫌戦、反戦を感じる効果もあるんだろう。 2005 2/26 出来事メモ

東京大学大学院 学際情報学府 博士課程合格

東京大学大学院 学際情報学府 学際情報学専攻 文化・人間情報学コース博士課程に合格。

2/5
博士課程入試を兼ねた修士論文口頭試問を受ける。
(『コンテクスト・デザインとしてのWEB表現-オンラインとオフラインのコミュニケーション表現-』)
当然ながらまろまろフラッグを設置して、まろプチフラッグも卓上に置いてプレゼンする。
審査員は、佐倉統助教授(指導教員)、武邑光裕助教授(副指導教員)、
原島博教授(前学環長)、花田達郎教授(現学環長)
・・・っと正副指導教員に加えて新旧学環長という実に豪華ラインナップだった。

反省点としては、発表時間(20分)ギリギリ使ったプレゼンを作ってしまったので、
アップアップしたままの流れで質疑応答(20分)に入っていってしまった。
おかげで一呼吸考えてから応えるべきところを反射的やってしまい、
説明不足だったり不用意な言い切りをすることがあった。
自分のリズムを獲得することの大切さをあらためて痛感した。
教訓=余裕を持ったスライド・時間が大切

2/22
合格発表を見に行くと受かっていた。
教授から「旗を掲げて博士課程に進む人間は東大史上初」と言われた。

思えば東京に出てくる前は「いまさら・・・」という気もどこかでしていた。
ある意味で思い切りが必要な決断だったけど、
それがこういうかたちでちゃんと結果につながったのは素直に嬉しい。
前にいた立命館では「博士課程進学は絶対に無理」と教授達から言われていた。
それがここでは最低年限の2年で博士に進むことができた。
(何年かかっても進めないことも多いのに)
このことは自分に合う場所を見つけるまで続けることの大切さを
あらためて感じることとなった。
人生には三つの「さか」があるという。
登り坂、下り坂、まさか。
まさかの坂を思わず転げ落ちることもあるし、
逆に気づけばころげ上がっていることもあるんだろう。

そして次のステップを踏もう。

2005 2/5、2/22
出来事メモ、進路関係

ま論:『コンテクスト・デザインとしてのWEB表現~オンラインとオフラインのコミュニケーション創造~』(修士論文)

はじめに 1

1 理論研究1 2
1-1 研究の発端 2
1-2 研究の背景 6
1-3 概念の設定 9
1-3-1 コンテクスト 9
1-3-2 先行研究 10
1-3-3 この論文での定義 13
1-4 仮説モデルの構築 15

2 研究意義 17

3 表現実践 20
3-1 実践方法 20
3-2 まろまろフラッグ (プロトタイプ) 20
3-3 まろプチフラッグ (量産型) 25
3-4 まろまろフラッグ放浪記 (コンテンツへの回帰・同化) 27

4 理論研究2 38
4-1 まとめ 38
4-2 展望 40

参考文献、資料 43

謝辞 47

論文(本文)

口頭試問版プレゼン資料(要旨)

「まろまろ」商標登録

構想段階から数年間取り組んでいた「まろまろ」の商標登録が完了する。
(登録第4827132号)
短い単語という点と一般名詞、形容詞に近いという点から登録は難しいと思われたので
特許庁から認可が下りたとき(2004.12.7)は小躍りしてしまった。
実際の証書を受領したとき(2005.1.7)も感無量。
(法的なコミュニケーションって大切ですな)

商標はあくまでリーガル・ディフェンスの一環として登録したものだけど、
この登録を通じて知財権のポジショニングの面白さを感じた。
商標は一般名詞では権利が保護されない、
でも一般名詞のように流通しなければ意味がない・・・
その微妙な境界線に立っている商標が、より価値のあるものになる。
そんな知財権のマージナルさがナニゲに楽しいと思う僕は、
マージナル・マニアとしてちょっと重傷かもしれない(^^;

2004 12/7
出来事メモ、進路関係、サイト運営

まろまろフラッグ放浪記設置

オフラインで展開しているまろまろフラッグや配布したまろプチフラッグ
再びオンラインで可視化させる画像掲示板「まろまろフラッグ放浪記」が完成する。

これでオフラインで分散したものを再びオンラインで集中させるプラットフォームができた。
紆余曲折をへたのでほっと一息という感じだけど(WEB技術の名手itazawaに感謝)、
忘れてはいけないのがこれで「創った」ということにはならないことだ。
今後はこの掲示板がオンラインとオフラインとの架け橋として進化していってほしい。
その進化を生み出すことこそが創造なんだ。

2004 10/27
出来事メモ、まろまろ研究、サイト運営

相づちの大切さを感じさせられたコンテンツ創造スタート

13日のコンテンツ創造科学ガイダンスに出席した流れで、
そのまま次の特論Ⅲ「アニメーション制作の理論と実践」にも出る。
今期は論文の関係から「グローバルストラテジー論」だけの履修予定だけど
この講義は名物講義なので参加してみる。

今回はスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーによる講義だった。
特に響いたのは「プロデューサーにとって一番大切なのは相づちを打つこと」、
「上手く相づちを打てば才能ある人は才能を発揮してくれる」、
「そのためには日頃の勉強が必要」ということだった。
思うに才能と孤独はワンセットになることが多い。
才能のマイナス面である孤独をフォローして勇気づけながら、
プラス面をのばすために相づちは重要になるんだろう。
それもちゃんと相手に伝わる相づちが必要になるんだろう。

肝心の「グローバルストラテジー論」の方は第1回(19日)目から
tomato“のSteve Bakerによるlecture&discussionだったのには驚かされた。
tomatoはイギリス国内だけで活動していたら1年でつぶれていたという分析は、
世界を広く使わなくてはいけない時代に生きていることを
忘れてはいけないという教訓と感じた。

また、22日の懇親会では自己紹介プレゼンをPowerPointでさせられることに。
履修生だけでなく教授も助手も事務の人もすべて同じフォーマット、
同じ条件でプレゼンするというスタイルに共感を持った。
特任教授も何人か参加していたので二次会も含めて話をする機会があったが、
コーエーの松原健二執行役員が「世の中のため」、「俺がやりたい」、「俺しかやれない」
の三つのうち一つが欠けても持続はできないという話は印象深かった。

このような聴講や対話は自分自身を振り返る機会になった。
このプログラムに対する自分のキーワードはずばり、
「コンテンツの中心で、コンテクストをさけぶ」・・・だ(^_-)

そんな考えさせられることも多かったコンテンツ創造科学スタート。

2004 10/13、19、22
出来事メモ

東京大学コンテンツ創造科学産学連携教育プログラム合格

新しい日本文化のコンテンツ創造と研究を目的として今年から設置された
東京大学コンテンツ創造科学産学連携教育プログラムに合格する。

1次試験もかねている出願時の志望理由書には、
コンテンツとコンテクストとの関係に注目した
「雰囲気」について書いたものを提出した。
直前まで出願しようかどうしようか迷っていたこともあって、
書き上げたのは消印締切ぎりぎりの23時後半ごろで
郵便局窓口に駆け込むなど1次試験はバタバタしてしまった。

出願者が多かったのに1次試験で最終40人枠のところ
57人まで絞っっていたのには少し驚いたが、
2次試験を実際に体験してその理由がわかった。
1限目の英語はごく一般的なものだったけれど、
2限目の小論文と3限目の面接がオリジナリティ豊かなものだったからだ。
小論文はテクノロジー系かプロデューサー系どちらかの選択式で、
その選択によって3限目(午後)の面接の方式も変わってくるというものだった。
テクノロジー系選択の場合は自分の解答がOHP出力されてそれをプレゼンする。
プロデューサー系選択の場合は与えられた課題について他の受験者と共に
企画会議をしてその過程やプレゼン結果を含めて面接とするというものだった。
このような形式で面接をするということの説明についても、
当日のそれも小論文の開始前になって発表されたという
実に機動力あふれるものだった。(対応能力も評価対象だったのか?)

僕はプロデューサー系の選択だったので自己紹介もしていない人たちと
制限時間つきで企画会議&プレゼンをすることとなった。
「北京オリンピックでの新しい技術を使った
開会式セレモニー企画をプレゼンする」という感じのお題だったが、
制限時間40分の時間配分が重要だと判断したのでタイムキーパー役を引き受ける。
ボランチのつもりで基本はタイムキーパーをしながらは司会役の人をフォローし、
重要事項で発言すべきだと思われる場合は発言するようにした。
(中国発祥の技術として紙と火薬を使う提案をしてこれが通った)

実際に紙面に落とす作業もあった上に2次試験当日(9月13日)は、
暑かったこともあって終わった頃は思わず汗をかいていた。
冷静になれていたのだろうかと少し不安になったが最終合格40枠に入れていた。

これでコンテンツ創造科学の第1期生となる。
思えば自分が活躍できたり評価される場所は新しい分野や舞台なのに、
これまで「第1期」というのはほとんど縁がなかった。
(アクティヴな引きこもりで基本は保守的だからか?)
唯一の例外は吉本興業インターンシップ&産学連携事業だけだったが、
今回はこれにこのコンテンツ創造科学が加わった。

これまでの出来事メモを振り返ると僕がこのメモをつけはじめた頃からずっと
アニメ・ゲームなどの日本のオタク文化はこれから重要になると言い続けてきた。
(記録に残しているだけでもオタクシンポジウム参加交流会での分科会主催
産学協同事業で声優企画の提案やゲーム会社との接点など)
当時はその度に色物扱いされたり失笑されて悔しい気持ちになったことを思い出した。
現在は既存のコンテンツやブランドを楽しむよりも、
自分でコンテンツやブランドを作ってゆくことに関心が移りつつある。(『1人1メディア』)
そんなタイミングでこのプログラムに受かったことはかつてを思えば夢のようだ。

ふと気づけば夢の舞台に立っている。
そう感じたことは忘れずにいたい。

2004 9/17
出来事メモ、進路関係

ソーシャルネットの興亡~GREE NIGHT 2.0~

GreeNight1.0に続いて代官山”UNIT”で開催されたGreeNight2.0に参加する。
いくつかの理由で今回の参加は見合わせようかと思ったが、
mo5でSNS(Social Networking Service)の研究&開発に携わっていることや、
開催地について意見募集で「お台場ビッグサイトでコミケ方式にやったら?」と
提案したこともあって当日券組として参加することにする。

イベントの雲行きを事前に嗅覚的に感じることがあったので
今回は念のためにまろまろ秘書は置いていき、
mo5メンバー(前田&八角)と会場で合流することを
打ち合わせただけにして1人で会場のUNITに向かう。
会場入り口近くでGREEでの登録と同じ格好をしようと
ピンクのウサギのかぶりものをかぶって
まろまろフラッグを組立ててから入ろうとすると
組立てたばかりのまろまろフラッグはさっそく入場段階で止められた。
(1.0の時は持ち込み可能だったしその趣旨は連絡していたんだけど)
ただ、事前の感じからそんなこともあろうかと
まろプチフラッグの方も持っていたのでそれで代用する。

入ってすぐに事前に来ることを聞いていたクミちゃんたちと合流できたが、
ステージがあまりにもあまりだったので上のCAFEに向かう。
ところがそこは人口密度がすごく高くて身動きが取りづらい場所だった。
仕方ないので端っこの席でmo5メンバーが到着するまで待機していたら、
知り合いやまろみあんが見つけ出してくれてやってきてくれた。
ピンクのウサギなので遠くからも発見できたらしい。

驚いたのはオフラインでしか接点が無かったのでこちらからは分からないのに、
ちゃんと向こうが僕と認識して声をかけてきてくれた人が何人もいたことだ。
中には前回も来ていたもののまったく僕と接触は無かったのに、
ずっと僕のHPを見続けてくれていたという人もいた。
前回もGREEと同じ格好をして良かったと思ったことがあったが、
今回はそういう人たちと出会える確率が格段に増えた。
(GREEのユーザー数もイベントの規模も大きくなったからだろう)

また、ちょうどmo5のメンバーがそろって合流できた時に
いくつかの報道陣から取材を受けることとなった。
インタビュー時間が一番長かったのはアサヒ芸能さんだったが、
(『月刊アサヒ芸能エンタメ!』11月号P.127にまろプチフラッグとの写真付きで掲載)
日経新聞の記者はプレハブ学校のかつての知り合いだったのが驚きだった。

そんな意外な再会やひょんな出会い(?)も多かったので、
個人的には参加して良かったと思えるイベントだった。
SNS関係や新しいネットコミュニティについては資料が少ないので
参与観察で感じ取ることの必要性にも応えられた。

ただ、開催前から物議を醸したり、その後の批判も多くあるように
僕も疑問や不快を感じてしまうようなこともあった。
(二流のA級より一流のB級が好きだから)
さらに今後に対しての不安を感じるようなことも前回以上にあった。
奇しくもこのイベント開催の数日前はGREEは
トラフィックMIXIに抜かれた時期でもあった。
(登録者数の急激な鈍化も目立つ)
もしかしたら僕はSNS興亡の象徴的な転換点を目撃したのかもしれない。

2004 9/12
出来事メモ

産学連携研究プロジェクトの名前を「感性ネットワーク研究会」(愛称mo5)に決定

6月後半から携帯キャリア会社と始めていた産学連携研究プロジェクトの名前を
「感性ネットワーク研究会」(愛称mo5)に設定する。
最初は感性モバイル研究会と言っていたが、だんだんとモバイルに限らず
ネットワーキング全体の議題が多くなってきたのでこの名前に決める。
今後オープンにすることも視野に入れてmo5.orgのドメインも取った。
(まだ準備段階だけどアンテナとtmaedaのblogは機能中)
そんなぷちゲリラ活動はまだまだ続く。

2004 9/2
出来事メモ、まろまろ研究