榊原英資 『為替がわかれば世界がわかる』 文藝春秋 2002

人生の冬の時代に力を蓄えようと思う、まろまろです。

さて、『為替がわかれば世界がわかる』榊原英資著(文藝春秋)2002。

僕は株をはじめた1999年から市場の参加者になっている。
この間、世界の市場が相互依存の度合いを強めていることを肌感覚で実感しているのだけど、
そうしたグローバルにつながる世界を直接的に現しているのが、やはり為替市場であることは間違いない。
大阪にいる間に、そんな為替市場について勉強しようと手に取った為替の解説書。

この本の著者は、かつて大蔵省国際金融局長として為替介入を指揮して「ミスター円」と言われた人物。
政策介入当事者の視点で、1990年代の為替市場で大きな役割を果たした
ジョージ・ソロス、ロバート・ルービン、ローレンス・サマーズなどとのエピソードを折り込んでいる。

こういう本にありがちな自慢臭はするのだけど、ところどころになるほどと思うところもあった。
たとえば、「ファンダメンタルズだけ分析しても結局はトートロジー(同義反語)になる」というのは納得したし、
ヘッジファンドの巨匠、ジョージ・ソロスがカール・ポパーの「開かれた社会」に大きな影響を受けて、
その投資スタンスの基本を”Fallibility”(誤謬性)と”Reflexivity”(相互作用性)に置いているというのは興味を持った。

また、ヘッジ・ファンドをまるでハゲタカのように批判する人々もいるけれど、
不良債権などの高いリスクを取る人たちがいるから市場が活性化するのも事実で、
「自分たちが不良債権を処理できないのに外資を攻撃するのはフェアではない」と言っているのは共感できた。

金融理論につていも、「理論はある種のストーリー」であり、星々を組み合わせて星座をつくり、
それにまつわる神話をつくった神話創造と似ている、としているのは言いえて妙だと感じた。

その他でも『世界経済の成長史1820‐1992年』(マディソン、2000)によると、
1820年時点でのGDP規模別ランキングの1位は中国で、2位はインドになっているのも興味深かった。
確かに国の規模や歴史を考えれば当然で、両国の台頭をいまさら驚異に考えなくてもいいじゃんと思ったりした。

ちなみに、この本は中立的な解説書ではなく、市場介入に否定的な新古典派経済学への評価が辛かったり、手前味噌な部分も多い。
そういうのを可愛いとみてあげることのできるひと向きかもしれない(w

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2007 11/11
経済、投資
まろまろヒット率3

佐藤賢一 『カエサルを撃て』 中央公論新社 2004

ルビコン川は越えること自体に意味があると思う、まろまろです。

さて、『カエサルを撃て』佐藤賢一著(中央公論新社)2004。

紀元前52年、ウェルキンゲトリクス(ヴェルチンジェトリクス、Vercingetorix)は、
ガリアの諸部族を強引にまとめあげ、共和制ローマに対して大規模な蜂起をおこなった。
ガリア人の反乱に、ローマのガリア総督ユリウス・カエサルが立ちふさがる。

・・・アレシアの戦いを頂点に、ガリア人のウェルキンゲトリクスとローマ人のカエサルとの対決をえがく一冊。
ガリア人の視点から描かれた『ガリア戦記』の裏本というべき歴史小説。

読んでみると、とても痛かった。
この本のユリウス・カエサルが自分にそっくりだったからだ。
卑屈な自分を取り繕い、言い訳することに長けた、かつての文学青年。
「生き方を・・・。覚えてしまった。それは堕落にほからなかった。上手に生きて、いつしか体制に迎合していたのだ。
文学青年が独りよがりに奮起といい、栄達と自惚れながら、その実は世間並に、小さくまとまったということである」
・・・そう述懐するカエサルの姿は痛いほど自分に重なった。

確かに『ローマ人の物語』(塩野七生)のような手放しの賛美よりも、こちらのユリウス・カエサルの方が実情に近い。
そんなユリウス・カエサルには前から近親憎悪に似たものを感じていたけれど、
この本では主役のウェルキンゲトリクスの一本気な激しさに対して、ユリウス・カエサルの情けなさがさらに際立っている。

築いたものを壊せる勇気を持つ者だけが成長する。
そんなメッセージを読み取った一冊。

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2007 11/7
歴史小説
まろまろヒット率4

アンディ・ライリー 『自殺うさぎの本』 青山出版社 2005

KY(空気読め)と同じようにUZI(うざい)を使っている人を見かけた、
まろまろ@もはや略する意味が無いですな。

さて、『自殺うさぎの本』アンディ・ライリー著(青山出版社)2005。
タイトル通り、ひたすら自殺していくウサギの絵本。
原題は“THE BOOK OF BUNNY SUICIDES”

うさぎに縁があるので『ピーター・ラビット』『しろいうさぎとくろいうさぎ』『全力ウサギ』などを読んでいたら、
「この本もいいですよ」とまろみあんの人からすすめられた一冊。

主人公はうさぎなのでセリフはほとどなくて、様々な方法を工夫して自殺していくうさぎたちの様子が描かれている。
一見ほのぼのしているようにみえて、よく見ると自殺しようとしていることが分かるシーンも多い。

とても悲惨なことをテーマにしているのに、読んでいると時々ほっこりさせられるところもある。
マイナスも極めればプラスになるという事例の一つですな(w

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2007 11/3
絵本
まろまろヒット率3

司馬遼太郎 『豊臣家の人々』 中央公論新社 1993(改版)

日本歴史占いでは豊臣秀吉だった、まろまろです。

さて、『豊臣家の人々』司馬遼太郎著(中央公論新社)1993(改版)。

豊臣秀吉の家族、縁者たちをそれぞれ一話ずつ取り上げた連作歴史小説。
確かに一代で水呑み百姓から天下人に登りつめた豊臣秀吉の変化はすさまじいもので、
その周辺の人は「このにわかな境遇の変化のなかで、愚鈍な者は愚鈍なりに利口な者は利口なりに安息がなく、
平静ではいられず、炙られる者のようにつねに狂躁し、ときには圧しつぶされた」(第八話 八条宮)。
そんな激変の中に生きた豊臣家の人々をえがいている。

読んでみるとこの本の表本というべき『新史太閤記』と比べるとぐっとトーンが落とされたものになっていて、
大躍進に精神的にも能力的にもついていけなかった人々のもの悲しさのようなものを感じた。

縁者の中で数少ない出来人、弟の秀長でさえも、その最後に、
「あの日、兄者は(略)縄・・・縄のあぶみで、参られましたな」と、
故郷中村で兄と会った日のことを述懐するシーンにはホロリとさせられた。
(第五話 大和大納言)

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2007 11/1
歴史小説
まろまろヒット率3

レオ・レオニ、谷川俊太郎訳 『スイミー ―ちいさなかしこいさかなのはなし』 好学社 1969

まろまろ@実は海洋ものが好きだったりします。

さて、『スイミー ―ちいさなかしこいさかなのはなし』レオ・レオニ著、谷川俊太郎訳(好学社)1969。

小魚の群れの中に、一匹だけ黒い小魚のスイミーがいた。
ある日、スイミー以外の小魚は大きな魚に食べられてしまう。
逃げ出したスイミーは海の中で様々な生き物たちに出会いながら、別の小魚の群れを発見する。
小魚たちは大きな魚を恐れて岩陰から出ようとしないのだが・・・

レオ・レオニの名作として知られる絵本。
原著は“Swimmy” (1964)。

読んでみると「そうきたか」と思わず納得する結末。
違いがあるからこそ役割分担ができるということが表現されている。
水墨画のような絵も見事な一冊。

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2007 10/29
絵本
まろまろヒット率3

松村劭 『ゲリラの戦争学』 文藝春秋 2002

まろまろ@旧まろまろ記時代の「はじめに」、「どんな人?」などを「まろまろ記について」に統合しました。

さて、『ゲリラの戦争学』松村劭著(文藝春秋)2002。

これまで『遊撃戦論』(毛沢東)や『ゲリラ戦争』(チェ・ゲバラ)、『人民の戦争・人民の軍隊』(グエン・ザップ)などの
ゲリラ戦の指導者たちの本を読んできたので、ここで少し体系的な本を読んでみようかと手に取った一冊。

読んでみると、何よりもまず物足りなさを感じた。
個々の事例は単に流れを追うだけな上に、瀬戸際戦略やアメリカ同時多発テロのように
そもそもゲリラ戦に加えていいのかどうか分からないものも入っていて散漫な印象を覚えた。

著者はもともと自衛隊で正規軍の戦いを学んだ点や、ゲリラ戦は資料が残りにくいというのはあるけれど、
それだけにゲリラ戦の全体を通した共通点や特徴などの体系的なものを読みたかっただけに残念。

ただ、そんな中でも・・・

対ゲリラ戦の成功事例の多くは索敵撃滅より誘致撃破
<第10章 インドシナ三十年戦争>

ファビアン戦略の極意は主導権を渡さないことと、最終決戦陣地を持つこと
<第4章 ナポレオンのスペイン戦役>

古代ローマのスッラがおこなったゲリラの機動力を奪った事例(ヌミディアの駱駝を狙う)の紹介
<第2章 ゲリラ戦の原型>

・・・などには興味を感じた。

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2007 10/28
戦略論
まろまろヒット率2

河合隼雄 『コンプレックス』 岩波書店 1971

「おしりかじり虫」は虫じゃなくて妖精だと知った、まろまろ@思わず口ずさんでしまいますな(^_^)v

さて、『コンプレックス』河合隼雄著(岩波書店)1971。

心理学者の河合隼雄によるコンプレックス本。
そもそも「コンプレックス」という言葉はよく耳にするけれど、いったい何なのかがいまいちよく分からない。
たとえば、僕は中学の時に”complex”を「こだわり」と訳して笑われたこともある(w
コンプレックスという言葉は、もともと「主体性をおびやかすもの」として、
ユングが「感情によって色づけされた複合体(gefuhlsbetonter komplex)」と定義づけた心理学用語。
この本ではそんなユング心理学を基本にして、コンプレックスという心理現象を解説している。

読んでいて興味を持ったのはコンプレックスは感情によって色取られるものなので「劣等感とコンプレックスとは違う」という点だ。
単なる劣等感ではないのでコンプレックスの強い人は「他人を救いたがる傾向が強い」というのには納得。
<第2章 もう一人の私>

また、「精神分析の生半通は、ものごとの価値を引き下げたつもりになって喜ぶだけ」と語っている点にも興味を感じた。
ダ・ヴィンチの絵画(モナリザ)にエイディプス・コンプレックスを読みとることと、その芸術的価値とは関係がない。
それと同じようにその行為がコンプレックスによるものかどうかは、行為自体の善悪とは関係ないとしている。
<第3章 コンプレックスの現象>

また、「コンプレックスで結ばれた集団は連帯感が強い」ことについて語っている点も注目した。
連帯感の強さはメンバーの個性を殺すものとして作用するので、
メンバーがコンプレックスを統合した時にその集団から出なくてはいけないことに言及して、
「自己実現の道は孤独な道」としているのには考えさせられた。
<第3章 コンプレックスの現象>

そうしたコンプレックスについての豊富な事例を紹介しながら、
コンプレックスの解消は「感情の嵐」であり「何らかの意味で死の体験を伴う」ことを強調して、
「爆発に近い危険な過程」であると述べているのにも興味を持った。
<第4章 コンプレックスの解消>

そして最も印象に残ったのはコンプレックスの解消(自我の統一)で重要な役割を果たすことが多い、
トリックスターについて語っているところだ。
危険に満ちたコンプレックス解消の過程でトリックスター的な役割を担う存在に対して、
「挫折したトリックスター程みじめなものはない。
そこには破壊と悲惨のみが残り、怒りと嘲笑を一身に受けねばならない」と述べている箇所は、
選挙の後で体感したことをまさに言い表しているものとして印象深かった。
そして「トリックスターはしばしば世界の創世神話に登場する」ものとして、
「一人の人間を変えるというのは初めて世界をつくる程難しいこと」と指摘しているのも心に残った。
<第4章 コンプレックスの解消>

この本ではトリックスターのようにコンプレックスと神話・昔話との共通点を指摘する箇所が多くて、
「神話は事物を説明するのではなく、事物を基礎づけるためにある」(ケレニー)と述べている。
特に「事物の説明は科学で、心の中に納得のいく答を得るためには神話が必要」という部分は、
最近そういう議論(非科学的なものを求める心)をよく耳にするので印象に残った。
<第6章 コンプレックスと元型>

以下はその他でチェックした箇所(一部要約含む)・・・

○意識=自己の経験の特殊性を生きながら、この経験を自己の知識の普遍性に移すこと
→意識内容の統合の中心=自我
→意識することはそ経験を自ら語ること(アンリー・エー)
<第1章 コンプレックスとは何か>

○コンプレックスが自我に与える影響
1:抑圧、2:投影、3:反動形成、4:代償、5:同一化
<第3章 コンプレックスの現象>

○コンプレックスが問題になる時に内的な原因か外的な原因かの探求は意味が無く、
人間の内界のコンプレックスと外界の事象との間に布置が形成されていることが重要
<第3章 コンプレックスの現象>

○コンプレックスを人格化することによって、対話の相手とすることができる
<第5章 夢とコンプレックス>

○我々が誰かに対して虫が好かないとか毛嫌いするなどの場合、
我々はその人が自分のコンプレックスを人格化したものではないかと考えている
<第5章 夢とコンプレックス>

○無意識的結合を土台としての口論は、破壊も建設ももたらすことなく同じことを永久にくり返しているにすぎない
→それは真の対決ではない
<第5章 夢とコンプレックス>

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2007 10/26
心理学
まろまろヒット率4

河合隼雄・吉本ばなな 『なるほどの対話』 新潮社 2005

まろまろ@ついにこの「まろまろ記」が携帯電話に完全対応しました(^_^)v

さて、『なるほどの対話』河合隼雄・吉本ばなな著(新潮社)2005。

心理学者の河合隼雄と、小説家の吉本ばななによる対談本。

読んでみると、小説でも治療でも”偶然”が大切だということを話し合っていて、
河合が自分の職業を「偶然屋さん」と語っていたのが印象的だった。
「うまいこといったやつは、わけわからんのや。失敗したのは、全部わけがわかる」(河合)というのは、
一つ間違うと単なる傲慢だったり安っぽい開き直りになるけれど、河合隼雄が言うと妙に納得。

また、二人ともヒーリングや癒しという言葉に対してネガティヴにとらえていて、
「いま世間で言われていることはヒーリングではなくリラクゼーション」と話している点も印象に残った。

対談に加えてこの本には二人のQ&A往復書簡が載せられているのだけど、
「蝶と蛾はどちらが好き?」という河合の質問に、吉本が「圧倒的に蛾が好き」と応えているのには思わず笑ってしまった。

そして、河合が好きな言葉として「ふたつよいこと、さてないものよ」を紹介していたのも印象深い。
この言葉は『こころの処方箋』を読んだときにも紹介されていた言葉だったけれど、
かつて『こころの処方箋』を読んだ時と自分の置かれている状況が違うだけに心に響くものがあった。

他にも・・・

「ずっと目が覚めている人で掴める人は少ない→寝ている人は勘が冴えてくる」(河合)

「いまの現代人は”社会”病にかかっている→ただ外に出て働いているだけなのに社会に貢献していると思っている人がいる」(河合)

「とにかく日本には、おせっかいが多い→それは想像する作業にとってものすごくマイナス」(河合)

・・・などの発言に興味を持った。
こうして見ると河合発言が多い(^^;
(吉本ばななは対談が苦手とのこと)

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2007 10/24
対談本
まろまろヒット率3

ヴォー・グエン・ザップ、真保潤一郎・三宅蕗子訳 『人民の戦争・人民の軍隊―ヴェトナム人民軍の戦略・戦術』 中央公論新社 2002

大阪の大国町コミュニティで初オフ会を開催した、まろまろ@まさに情報機動戦です。

さて、『人民の戦争・人民の軍隊―ヴェトナム人民軍の戦略・戦術』ヴォー・グエン・ザップ著、真保潤一郎・三宅蕗子訳(中央公論新社)2002。

現在のベトナム民主共和国の独立戦争で中心的な役割を果たした、ベトナム人民軍とベトミンの最高指揮官ヴォー・グエン・ザップによる戦略書。
ベトナム人民軍はインドシナ戦争でフランスを、続いてベトナム戦争でアメリカを破っているけれど、
原著は”Guerre du peuple, Armee du peuple”(1961)なので、まだベトナム戦争が終結(1975)していない時期のもの。
そのため、インドシナ戦争で北ベトナムの独立を確定したディエン・ビエン・フーの戦いがクライマックスに書かれている。

フランスは第2次世界大戦で弱体化していたとはいえ、20世紀半ばから21世紀初頭の現在までアメリカは世界最強の国。
そのアメリカ軍を破ったベトナム人民軍の戦いは戦略を語る上では外せない存在。
特にベトナムはロシア(ソ連)のような工業国ではなかったし、中国のような人口が多い国ではない小国。
そんなベトナムが長期にわたって大国と戦えたのはゲリラ戦を中心とした戦いがあったからで、
この本の著者グエン・ザップは世界で最も成功したゲリラ戦の指導者の一人と言える。

そんな著者の本なので楽しみに読んでみると、ベトナム労働党の自画自賛とマルクス・レーニン主義的な抽象論ばかりが目についてしまった。
プロパガンダの意味もあってか「正しい」や「適切な」という単語は多かったけど、何がどう正しかったのか具体的でなかったのが残念。
そういう意味で同じゲリラ戦の指導者による戦略書としては、毛沢東の『遊撃戦論』やチェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』に比べるとだいぶ見劣りがしてしまうように感じた。

ただ、ゲリラ戦を「まず第一に長期戦の戦略でなければならない」としている点。
<第1章 人民の戦争・人民の軍隊>

武装蜂起について、「蜂起を一つの技法だとするならば、この技法の内容に必要不可欠な点は、
その転換を各時期の政治情勢に適した新たな闘争形態に誘導することと、
各時期の政治闘争の形態と武装闘争の形態との間に正しい関係を維持していくことである」としている点。
<第2章 党は武装蜂起の準備と1945年8月の総蜂起を成功裏に指導した>

また、「ゲリラ戦を維持し、発展させていくためには、必然的に機動戦に行き着かねばならない」として正規軍による戦いも強調している点。
<第3章 党はフランス帝国主義者とアメリカ帝国主義者との長期抵抗戦争を成功へと導く>

・・・などは興味を持った。

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2007 10/25
戦略論
まろまろヒット率2

網野善彦 『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』 平凡社 1996(増補)

朝オフ会の主催などで朝型として知られているとのことでごはん日記朝食カテゴリをつくった、まろまろ@ビバ早起きです(^_^)v

さて、『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』網野善彦著(平凡社)1996(増補)。

これまで注目されてこなかった、職人、商人、漁民、芸能民、アウトローなどの非農業民たちを研究して、
「日本は農耕民族」という日本史の定説に一石を投じた歴史家・網野善彦の代表作。

この本の内容は権力のおよばない空間=無縁・公界・楽を掘り起こしていくことによって、
歴史上に存在した自由空間と、そこに生きる人々の果たした役割に注目している。

たとえば無縁・公界・楽の特徴は「1:不入権、2:地子・諸役免除、3:自由通行権の保証、4:平和領域、
5:私的隷属からの解放、6:賃借関係の消滅、7:連座制の否定、8:老若の組織」にある。
<十一 無縁・公界・楽>

特に興味を持ったのは無縁・公界・楽に生きた人々が文化・精神活動を担ってきたという点だ
たとえば中世だけでなく近世の江戸時代になっても・・・
「文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この無縁の場に生まれ、無縁の人々によって担われた」
としている点は、全史を通してみてもそうなのかもしれないと感じた。
<二十三 人類と「無縁」の原理>

また、日本の主要な宗教家が鎌倉末期に集中している理由についても、無縁・公界・楽への圧力が強まった時期と重なっている点に注目して・・・
「自由なるが故に公民が負わなくてはならなかった重圧と桎梏の故に、
彼らが否応なしに富豪の輩と貧窮の輩とに分解していく過程ー自由民の分解過程」がその背景にあることを指摘している。
そして数々の鎌倉仏教が生まれたのは・・・
「矛盾の進行の過程で、屈従・抑圧下におかれた人々の間におこってくる原始の自由への復帰の希求」と、
「それに応え、仏陀の本来の精神にかえれと説く思想家」との相互作用によるもだとしている点には強く惹かれた。
<二十一 「自由」な平民>

確かに格差と矛盾の拡大は先鋭的な思想や文化の背景となるのだろう。
21世紀初頭の現在を振り返ってみれば、生活上の格差の拡大とWeb(ネット)という情報世界の拡大は、
新しい無縁・公界・楽に生きる人々が文化・精神活動を担っていく土壌になるかもしれない。
(その場合はこの本の農耕民がサラリーマンに置き換わるのだろう)

ちなみにこの本は美少女アニメ論で知られる吉田正高さんから「まろちゃん読みなよ」と薦められた本でもあるけど、著者とは不思議なご縁がある。
僕は著者が研究対象の一つとしたアウトローの家系だし、著者の甥である中沢新一さんと一緒に仕事をしたことがある。
そんな縁があるので今回、読む機会があったのはちょっと嬉しかったりする。

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2007 10/19
歴史、日本史
まろまろヒット率4