もりしたの「カキオコ(牡蠣入りお好み焼き)」


岡山県の日生町は牡蠣の養殖が盛んな港町。
牡蠣を入れたお好み焼き=カキオコの町としても知られていて、季節になるとカキオコを食べに来る人でにぎわう。

そんな日生町にあるカキオコのお店の一つ、もりしたでカキオコをいただく。
こちらのカキオコは、一つのカキオコを醤油味(左)とソース味(右)のハーフ&ハーフの味つけにしてくれるのが嬉しい。
どこを食べても牡蠣が出てくるほど牡蠣が入ったカキオコは、醤油味でもソース味でもどちらも美味しい。

安良田浜屋みっちゃんなど、近くにはカキオコのお店が多くあるけれど、それぞれ個性を出していていいですな。
まろまろと今日ももぐもぐ。

岡山県日生町の「牡蛎入りお好み焼き もりした(森下)」にて。

KIKI(キキ)の「ラザニア」


天王寺にある、cafe & barのKIKIでラザニアをいただく。

このKIKIは、プレハブ建ての一軒家をカフェバーにしている隠れ家的なお店。
洋食系のメニューが充実していて、ラザニアも半熟卵が最後にのせられている見た目にテンションがあがる。
味の方もしっかりとした味つけになっていて、天王寺界隈では貴重な雰囲気も味も両立したお店として気に入った。
まろまろと今日ももぐもぐ。

大阪・天王寺の「cafe & bar KIKI(カフェ&バー・キキ)」にて。

がんこ 平野郷屋敷の「てっちり」


大阪の平野郷は、かつて平野川を使った交通の要衝として栄えた古い町並みが残るエリア。
その平野郷にあった商家を改築した、がんこ・平野郷屋敷をおとずれる。

このがんこ・平野郷屋敷は、河内木綿で栄えた辻元家の屋敷跡を、大阪を中心に展開するがんこフードサービスが買い取ったもの。

写真はそんな味のある店内でいただいた、てっちりの4人前。
国産のとらふぐにこだわっているとのことで、プリプリとした新鮮な身が美味しい。
こうしたコンセプト居酒屋は、味の方はイマイチなことが多いので期待していなかっただけに、この質の良いてっちりには嬉しい驚きだった。

ちなみに、てっちりやてっさよりも、てっちり後の雑炊が好きなピュアピュアさんな味覚だったりする(w
まろまろと今日ももぐもぐ。

大阪・平野(加美)の「がんこ 平野郷屋敷」にて。

寛容のメモリ~決別のmemoryと和解の目盛~

最近、当事者として和解を求められることが何度かあった。
同時に、他の人から和解について相談をされる機会も増えてきている。

そこで、和解についての考えをまとめてみようと草稿を続けて来たものの、
清書して公開することはこの数年来ずっとためらってきた。
和解について書くこと、特に和解の指針について書くことは、
何度書きなおしてみても「何様デスカ?」というものになるし、
どんなに気を使ってもネガティヴな内容を盛り込まずにはいられないからだ。

でも、傲慢さや暗さを取り除いて、綺麗な言葉だけで和解について書いてもそれは内容の無いものになってしまうし、
ごはん日記お風呂日記のような口当たりが良くて軽いものだけでなく、
このコラムのようにまとまったものを書く時には、自分の内面と向き合って、書きにくいものに取り組むべきだと考えている※1。
さらに、2009年は何かと自分の足元を見つめる機会にめぐまれた※2。
「寛容とは何でも許すことでは無く、自分の中に許す基準を持っていること」だする
僕の姿勢を明確化する時期に来ていると感じるため、ここにコラム化します。

では、ここから本文・・・

僕は温和な人間だと思われることが多い。
でも、決して優しい人間でも無いし、心が広い人間でも無い。
怒りを感じることもある。

それでは、これまでどんなことに対して怒りを感じて来たかを、その行為に注目してリスト化してみると・・・

・自分の情報は出さずに、相手のことを根掘り葉掘り聞いてアラ探しをする
 →覗き見趣味

・公開されている情報なのに自分で調べようともしないで、教えてくれないと逆ギレ
 →依存の押し売り

・自分からは歩み寄らないで、コンタクトが来ない相手を非難する
 →わがままの責任転嫁 (教育的立場や上の立場にいて勘違いしてしまった人に多い)

・自分は信頼される努力はしていないのに、相手が本音を話さないことを責める
 →馴れ合いの強制 (mixiなどの手軽なコミュニケーション・サイトのヘビーユーザーに多い)

・事前に指摘できる立場にありながら、結果が出てからしたり顔で指摘
 →後出しジャンケンで勝ち誇る

・メッセージを送ることができる状態にありながら一言も無く、事が済んでから友達風を吹かせる
 →ニセ友情気分の押しつけ

・・・などだ。
総じて見てみると、自分は時間とエネルギーをかけないのに見え透いた欺瞞や偽善を振りかざす行為、に怒りを感じることが多い。
「己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、人の役に立とうとするのは虫がよすぎる」という言葉があるけれど※2、
そうした虫のよい話を一方的に押しつけられたと感じた時に怒りを覚えてきた。

ただし、こうした行為に怒りを感じることはあっても、それがいつも決定的な決別になるとは限らない。
こうした行為をする人は、自分を振り返ることの少ない、自省的で無い人の場合が多い。
自分を見つめることができないのは弱いからで、
弱い人は、責任ある立場にいない限りは、大目に見てあげた方がいいと考えているからだ。

では、行為に怒りを感じるだけでなく、その人と決別するのはどういう場合か。
これまで僕が決別に踏み切ったのはどういう人かを、今度はタイプに注目してリスト化にしてみると・・・

・自分は安全な場所にいながら、相手には危険を求める
 →小役人タイプ

・自分の責任転換のために、相手のアラ探しをする
 →ハラスメント・タイプ

・自分の感情を解消するために、相手の生き方や人格を否定する
 →虐待タイプ

・・・という傾向がある。
上に挙げた怒りを感じる行為と連続性はあるけれど、決定的に違うことがある。
それは、こういう人たちとは関係を続けていてもプラスにはならないし、何を言っても無駄だと僕が諦めを感じる点だ。
もちろん、僕は正義の味方では無いから、こういう人たちとも表面的な付き合いでお茶を濁すこともある。
でも、こういう人たちと決定的に衝突した時には、怒りを感じるだけでなくきっぱりと決別することがある。

ただし、できるだけ人とは決別しないように、つまり諦めないように気を付けている。
それは僕が心が広いからでは無く、僕のある特質を僕自身が恐れているからだ。
その特質とは、僕が上のような理由で決別した人は、必ず悲惨な出来事に合うというものだ。
本人でない場合はその人の近しい人が悲惨な出来事に合ってしまっている。
そなぜそうなるのか、その過程は実証的に検証できないことで、憶測の域を出ない。
科学的で無いネガティヴな内容で憶測はすべきではないと考えているので、ここでは書かない。
ただ、僕が諦めて相手にしなくなった人やその近しい人には常に悲惨なことが起こっている事実と、
そういう自分の特質に僕は恐れている事実、の二つの事実だけを書くにとどめる。

そんな自分の特質を恐れる僕でも、上に挙げた傾向にある人とは諦めて決別することがある。
決別する時ははっきりとしていて、これまでの経緯がどうであろうと、たとえ思い出がどんなに美化されていようと諦める。
過去にとらわれて諦めた人と接し続けることは、お互いにマイナスにしかならないと考えるからだ。

それでは、そこまではっきりと諦めて決別した人と、和解をすることがあるのかどうかと問われれば、実はある。
諦めてしまった人であっても、丁寧な手書きの謝罪文をもらったり、涙ながらに土下座までされれば心が動く。
ただ、感情のおもむくまま許してもそれは一時の気分だけで長続きはしない。
何を持って許すのか、和解には指針(目盛)が重要だと考えている。

僕の和解の指針としては、以下の四つの指針がある・・・

・謝罪して来る上に、反省しているのが伝わってくる
 →忘れないけれど、許す

・謝罪して来ないけれど、反省しているのが伝わってくる
 →忘れないし許さないけど、片目をつぶって接することがある

・謝罪して来るけれど、反省しているのが伝わってこない
 →忘れないし許さないけど、両目を開けて注視しながら形式的に受け流すことがある

・謝罪して来ないし、反省しているのが伝わってこない
 →忘れず許さず、相手にしない

・・・というものだ。
決して忘れないということと、許すためには実際の謝罪を求めるという二点が、僕が優しくも無く、心が広くもないと自覚するところだ。
忘れないことについては、「水に流す」や「無かったことにする」というのはある意味でファンタジーの世界の話で、幻想からはじまる関係は長続きしないからだ。
また、謝罪を求めることについては、自主的に謝ることができない人は、自分の言動に責任を持てない人なので関係を修復してもうまくいかないからだ。
それだけに謝罪はまず書面などのかたちで受け取ることが多い。

こうして書いてみると、誤解を受ける可能性のある内容もあるし、実際に優しくは無く、心が広くも無いことが自分でもよく分かる。
僕は問題が多い人間で、偉そうなことを言える人格も立場も実績もないことは理解している。
もしかしたら上に挙げたような人たちと僕も大して変わらないと考える人もいるかもしれない。

でも、上に挙げたような人たちと僕が一点だけ違うと言い切れることがある。
それは自分が重要だと思う意見や主張は、必ず記録に残して公開し、公の場でも主張する点だ。
僕が諦めて決別した人たちに共通するのは、自分の意見や主張が記録に残ることや公開されることを極端に嫌うところだ。
つまり、自分の発言と行動に責任を持つことが無い、陰口タイプという点が共通している。
記録に残し公開する覚悟の無い人の意見や主張は、自分自身の気持ちや生き方ついても本気では無いので、
たとえどんなに立派に聞こえたとしても、飲み屋の愚痴と変わらず、何も進めることはできない。
会議で目上の人に意見できない人に限って、陰で下の人をコソコソたたくものだし、
二人きりの時は偉そうな人に限って、その主張を記録に残して公開するとなった途端に右往左往するものだ。

僕が1996年からメーリングリストで、2001年からはインターネット上で、恥ずかしいメモを公開し続けているのは※4、
上に挙げたような人たちとは違って、自分の気持ちや人生には本気でありたいと思うからだ。
だから、本当に主張したいことがある時には、記録に残して公開し、公の場でも発言し、時には町に出て主張もしてきた。

僕はピコピコしい人間なので、こうした自分の和解の指針を公開することは勇気がいる。
でも、人を許すというのはとても勇気のいることだ。
そして人が持つことのできる勇気の中で、許す勇気が一番価値のある勇気の一つだと僕は確信している。
だからこそ、優しくも無く、心が広く無い自分の和解の指針を記録して、これからも公開し続ける。

こんな僕だけど、仲良くしてあげてくださいね(^_-)

※1:まろみあんの人たちとの対話や、直前に読んだ『今日の芸術』に考えさせられたことも大きい

※2:まろまろ茶話会2009を開催、文京区友の会の自律的な発展教え子が結果を残してくれる特別講義を担当する、新しい特命係長プレイをはじめるなど

※3:『こころの処方箋』

※4:まろまろコラム:『メモのメモ』

2010 1/8
まろまろコラム

追記:このコラムにはoriginal versionとして実名と実際の出来事を詳細に記したものがあります。これは裁判所に提出することが可能なほどの事実性と正当性に基づいていますが、今回の目的は自分の和解の指針とその姿勢を明らかにすることなので、publish versionでの固有名詞は伏せています。

岡本太郎 『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 光文社 1999

まろまろ@これが2010年最初に読み終えた本になります☆

さて、『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』岡本太郎著(光文社)1999。

「太陽の塔」などの作品で知られる前衛芸術家、岡本太郎による芸術論と文化論。
原本初版は1954年という60年近く前の本だけに、単語や言い回しは古いものがあるけれど、その内容は今も色あせていない。
著者が「われわれの生活全体、その根本」を対象にしたと初版の序で書いているように、
単なる芸術にとどまらない主張は読んでいて強く心に響くものがあった。

特に現代論を展開しながら芸術を「ゆりうごかされ、感動を呼び起こし、そこから問題を引き出されるもの」と定義して、
「うまくあってはいけない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と述べているのには感銘を受けた。

岡本太郎によれば、現代は手軽に気晴らしを手に入れることができる状況にあり、
そうした上手なもの、綺麗なもの、心地良いものは、目の前を通り過ぎて消費されていく点が強調されている。
手軽な気晴らしよって、「楽しいが空しい」、「楽しむつもりでいて、楽しみながら、逆にあなたは傷つけられている」。

だから、たとえ気晴らしであっても「生命が輝いたという全身的な充実感、生きがいの手ごたえがなければ、
ほんとうの意味のレクリエーション、つまりエネルギーの蓄積、再生産としてのレクリエーションになりません」として、
「自己疎外からの自己回復する情熱」が芸術だと位置付けているのは考えさせられるものがあった。

20世紀半ばの岡本太郎の視点を21世紀初頭の現代に持ち越してみると、情報通信技術の発展で気軽にコミュニケーションが可能になった現在、
手軽な交流による浅く薄い人間関係で一時の寂しさや疎外感をまぎらわし、そのことでかえって傷ついている人を見かけることがある。

また、自分を振り返って見れば、このまろまろ記は本来は読書日記であり、今でも自分に恥ずかしさをつきつけるために続けている。
(まろまろコラム:『メモのメモ』)
アクセス数の多いごはん日記お風呂日記のような手軽なコンテンツによって人気ブログやカリスマ・ブロガーなどと祭り上げられることはあるし、
そうした称賛には気軽な心地良さを感じることもあるけれど(ピコピコしいw)、軽いコンテンツだけしか読まない人とは結局は表面的な関係しか構築できなことが多い。
手軽なコンテンツだけでは無く、たとえ重たさや反発を招く可能性があったとしても、
自分の内面と向き合って導き出したものを書き、そして公開することの重要性をあらためて感じさせられた。

ちょうど数年来草稿を続けていたまろまろコラム:『寛容のメモリ』を仕上げに入った時期とも重なり、
上手く、綺麗で、心地良いものは他人事であり、自分の根源を揺り動かすものでは無いという岡本太郎の主張はずっしりと重く響くものがあった。
読み終えた時には、非公開の場所で慣れ合い、依存し合っているだけで何も産み出さない交流では無く、
自分の内面と向き合って表現し、発信するために情報メディアを使うことの大切さを突き付けられた気分になった。
そのことをあらためて気づかせてくれたという一点だけを持って、まろまろヒット率5。

ちなみに純粋に読み物としては、くどさを感じる部分も多かった。
それは岡本太郎の作品に共通した印象で、僕の好みとは違う。
でも、著者が「ここちよくあってはならない」とするように、
違和感があるものでも心に響くものは価値があると思うので、まろまろヒット率は5のまま公開。

以下はこの他にチェックした箇所(感銘を受けた順)・・・

☆現代に生きぬく責任を持たないものは、とかく過去を美化してその中に逃げこもうとするもので、これも空虚な欺瞞
<第3章 新しいということは、何か>

☆この「…らしく」がくせものです。それは無責任な旅行者の言い分であって、そこに生活している人間にとってはなんの意味もない
→むしろ迷惑な言いがかりにちがいありません
<第6章 われわれの土台はどうか>

☆新しいものには、新しい価値基準がある
→なんの衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない
<第3章 新しいということは、何か>

☆まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける
→人生だって同じです(略)いつでもなにかにぶつかり、絶望し、そしてそれをのりこえる
→そういう意志のあるものだけに、人生が価値を持ってくるのです
<第3章 新しいということは、何か>

☆見栄や世間体で自分をそのまま出すということをはばかり、自分にない、べつな面ばかりを外に見せているという偽善的な習慣こそ、非本質的
→人間はちょうど石ころと同じように、それそのものとしてただある、という面もあるので、
その一見無価値的なところから新しく自分をつかみなおすということに、これからの人間的課題がある
→芸術は、いわば自由の実験室
<第5章 絵はすべての人の創るもの>

☆謙虚というものはそんな、人のまえで、おのれを無にするとか低く見せることでは絶対にない、
むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します
→つまり、謙虚とは権力とか他人にたいしてではなくて、自分自身にたいしてこそ、そうならねばならない
<第6章 われわれの土台はどうか>

○創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたせることは、りっぱな創造
→自分自身の、人間形成、精神の確立
<第5章 絵はすべての人の創るもの>

○芸術はすべての人間に生まれながらもっている情熱であり、欲求
<第1章 なぜ、芸術があるのか>

○「いい」と思ったとき、その人にとって、そう思った分量だけ、わかったわけです
→あなたはなにもそれ以外に、わからない分など心配することはありません
<第2章 わからないということ>

○相対的(時代的)な価値と、時代をのり越えた絶対的な価値の二つが、おたがいに切りはなすことのできない、創造の不可欠な本質
<第3章 新しいということは、何か>

○きれいなもの、上手なものは、見習い、おぼえることができるが、人間精神の根元からふきあがる感動は、習い、おぼえるものではありません
→だから自由
<第6章 われわれの土台はどうか>

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2010 1/7
芸術論、文化論
まろまろヒット率5

ホテル阪神の「朝食バイキング」


温泉付きのシティホテル、ホテル阪神で朝食バイキングをいただく。

和洋のおかず(手前左右)があり、オーダーでオムレツを焼いてもらえる(上)のが嬉しい。
オーソドックスなラインナップだけど、うどん(右上)があるのが大阪らしい演出。

決して悪いわけではないけれど、大阪市内にある同じ温泉付きホテルには、肉汁を取り入れたドーミーイン梅田東や、とろろご飯が可能なスーパーホテルCity大阪などの朝食を頑張っているところもあるだけに、もう一工夫してほしいところ。
まろまろと今日ももぐもぐ。

大阪・福島(キタ)の「ホテル阪神」にて。

「ホテル阪神」 (温泉)

泉質:単純温泉 (低張性-弱アルカリ性-温泉)

大阪の福島にある温泉付きのシティホテル。
日帰り入浴が可能な大浴場としてスパ&サウナもあるけれど、何と言っても客室のバスルームから源泉かけ流しで温泉が出るのが魅力的。
(原泉名は「徳次郎の湯」)
バスタブに温泉を張ると褐色のお風呂となって、ゆっくりと温泉気分を味わえるのが良い。

ドーミーインスーパーホテルなど、都心でも天然温泉を備えたビジネスホテルは増えて来ているけれど、
都心にあるシティホテルで天然温泉を備えているのはまだめずらしいので貴重な存在。

ちなみに朝食は普通。

2010 1/5
ぷかぷかお風呂日記
まろまろヒット率4

JILL STUART CAFE(ジルスチュアートカフェ)の「ミックスベリーマスカルポーネのワッフル」


大丸心斎橋店北館に入っている、JILL STUART CAFEでミックスベリーマスカルポーネのワッフルをいただく。

このJILL STUART CAFEは、その名の通り、服飾ブランドのJILL STUARTのコンセプト・カフェ。
JILL STUARTの服は着る機会が無かったので、どういう風にブランドが再現されているかはよく分からないけど、同行者によると全体的に薄いピンクだったり、店員さんの黒い服装が「ジルっぽい」とのこと。

メニューの方はワッフルを売りにしているとのことで、ミックスベリーマスカルポーネのワッフルを注文。
これまた同行者によるとカラーリングが「ジルジルしている」とのこと。
食べてみると、けっこう美味しい。
マスカルポーネ・チーズとワッフルとの組み合わせが新鮮で、ミックスベリーの酸味も良いアクセントになっている。

ちなみに、このJILL STUART CAFEが入っている大丸心斎橋店北館は、旧そごう本店だった場所。
リニューアルオープンしたものの撤退したそごうの後を受けて、隣にある大丸が若い女性を中心にした売り場に変更したエリア。
本来はデパ地下として食料品があるエリアに若い女性向けブランドが並ぶという再生が注目されるエリアでもある。
まろまろと今日ももぐもぐ。

大阪・心斎橋(ミナミ)の「大丸」心斎橋店にて。

追記:後日、東京から来たまろみあんの人と再訪した時も、同じくテンションの上がり方にJILL STUARTのブランド価値をかいま見た気がした(w

まろまろアワード2009

読書アワード:「風の谷のナウシカ」 (宮崎駿)
→迫力を持って進む物語の中に人類普遍のテーマを盛り込んだまさに名作。

ごはんアワード:「Volo Cosiのディナーコース」 (東京都文京区)
→一品一品の美味しさ、ボリューム、盛りつけの美しさ、ホスピタリティのすべてをかねそなえたコース。
さらにコミュニティの成長という意義も含めて2009年を代表するごはん会。

出来事アワード:「まろまろ茶話会2009」 (東京都渋谷区)
→自分にも今すぐできることの中に、自分にしか今しかできないことがあることを感じた茶話会。

ぷかぷかアワード:「城崎温泉 三木屋」 (兵庫県豊岡市城崎町)
→志賀直哉も泊った読書日記とリンクも高いお風呂。

もろもろアワード:「イルミナイト万博2009」 (大阪府吹田市)
→何だかよく分からない岡本太郎の意思を受け継ぐイルミネーション。

2009 12/31
まろまろアワード

寛容とは、許す指針を持っていること

寛容とは、何でも許すことでは無く、許す指針を持っていることをいう。
「水に流す」や「忘れる」というのはファンタジーで、それを求めることはアニメやゲームの出来事を現実と錯覚することと変わらない。
許すことは勇気が必要な行為だからこそ、指針を明確化させなくてはいけない。

追記:指針の詳細はまろまろコラム『寛容のメモリ~決別のmemoryと和解の目盛~』で公開。

2009 12/31
はしり書き