生月誠 『不安の心理学』 講談社 1996

日テレ系新ドラマ『ロマンス』のCMで雛形あきこが
ホモ役の男を押し倒して彼の手を自分の胸に押しつけて
「何も感じない?何も感じない!!」と迫っているシーンがあったけど
「そんなんされたらホモじゃなくても引くで」と突っ込んでしまった、
らぶナベ@ボーズにしてから僕もホモっぽいって言われているので(T_T)
このドラマはチェックするっす。

さて、『不安の心理学』生月誠著(講談社学術新書)1996年初版を読んだです。
古今東西の戦略書を読んでみると、どこかに必ずと言って良いほど
「敵を不安にさせる機動と攻撃が重要」や「相手の不安点をつけ」
などということが書かれている。
『孫子』の中には「兵は奇道なり」というのが出てきているし、
リデル・ハートも『戦略論』の中で直接的攻撃ではなくて
相手の不安をかきたてて判断を狂わせるような
「間接アプローチ」を提唱している。
・・・ではその「不安」とは実際には何なのかと考えると
そのメカニズムがいまいちよくわからないなと思っていた。
そういう時にたまたま本屋でこの本を見つけて読もうと思ったのがきっかけ。

この本の内容でもっとも中心的だと思われる箇所が、
「根源不安説」と「不安=甘え説」についての著者の既述だ。
不安についての考え方については二つの大きな流れがある。
その一つ根源不安説は元々人間は自分の存在や日常について
常に不安を感じている。それを普段は何かに打ち込むことによって
その不安から逃げているのだというのが一つの考え。
もう一つの不安=甘え説は人間は生きることに必死な時は不安など感じない。
不安を感じているのは単なる甘えの状態なのだという説。
特に前者の根源不安説はハイデガーが『存在と時間』の中でも
「不安は、日常慣れ親しんでいる非本来的な自分のあり方から、
本来的なあり方に自分を連れ戻そうとする。
不安によって、自分の本来的なあり方の開示が可能になる。」
と強く主張しているとして有名らしい。

実はこの有力な二つの説は不安というものに対して
ともに大きな見落としがあるとしているのが本書の主張。

まず、根源不安説に関しては・・・
「不安を感じるのと実際に存在することは同じ」という点と
「言語表現が思考の中心的な役割を担う」という点に注目して
「不安になったときに、偶然そうなったと考える場合と、
自分の根本的な欠陥によって不安になったと考える場合とでは、
不安に与える影響は大変違う。」として・・・
「不安は、自分の思考とは別に、独立して存在する不動の対象と考えて、
その本質を求めたのである。ところが、不安を現時点でどのように捉えるか、
その捉え方自体が不安を大きく変化させることを見落としていたのである。」
→「これは、不安に駆られて書物を読みあさる時に
陥りやすい落とし穴である。」
そして・・・
「根源不安説は、不安を、あたかも外部の対象であるかのように、
行動や思考とは独立した不動のものとして扱うが、
そこには大きな誤りがある。
不安のような内的な減少は、
行動や思考と離れて存在するものでは決してない。
また、根源的不安を前提に不安を理解しようとする思考の構え自体が、
実は不安を大きく規定する結果となっているのである。」

一方、不安=甘え説に関しては・・・
「完全なものを追求しようとする結果、自分を含めたすべての事柄について、
その完全でない部分、つまり欠点だけが、意識の中で目立ってくるのである。
マイナスの可能性だけを、選択的に非常に鋭く追求することが、
不安を引き起こすのである。
そうして不安は、さらにマイナスの可能性を目立たせ、
それがさらに不安を増大させるという悪循環が起きるのである。」とし、
「人間の意識はごく限られた範囲しか照らし出すことはできない。
意識の証明をマイナスの可能性のみに限定することこそ、
不安を増大する最大の原因である。」
・・・と主張している。

また、不安を悪用する例として相手に対して根源不安説を徹底的に強調し、
不安の深淵があたかも客観的に存在するかのように信じ込ませて
絶望状態に追い込んで相手が藁にもすがる思いにかられた時に
自分の偉大さを信じ込ませるという方法が見られるとして・・・
「根源不安仮説の検証の過程は、外見的に、
科学的な検証過程と酷似しているから、悪用される可能性が高い。」
「不安が、体験とは別に存在しているという考え自体が、
実は当人を不安にさせている。」としている。

つまり「不安は、感じることと存在することが全く同じ現象である」から
「不安は、それをどう考えるかによって、
その存在自体が影響を受ける現象である」という点を強調して・・・
「不安そのものに接近する際には、不安の周辺の現象を把握し、
その上で、不安に対する仮説や考え方によって不安が大きく影響されることを
十分に考慮しながら、不安の理解に取り組まなければならない。」
・・・というのが不安に対するこの本の結論的主張。

ここらへんの主張は説得力があったが、
この本の中のその他の主張や具体的事例の選び方などは
ちょっと都合が良すぎるなと思われるところもかなりあった。
しかし心理学の世界で最も信用のおける(本物な)精神医学でさせ
医学の世界では非常にうさんくさい領域であるのだから
文系的なこの本では(著者は行動療法研究家)しかたないなとも感じた。
心理学っていうのはかなりうさんくさいものだから。

以下はこの本で気になってチェックした箇所の列挙・・・
不安の定義については宮城音弥編『心理学小辞典』(岩波書店)
からの引用で・・・
「漠然とした恐れや危険が近づきそうだという感情、
あるいはそれらの感情に伴う警戒的態度や身体的感覚」

不安を解消する方法として・・・
「第一の方法は、その対象に積極的に働きかけて、
その働きかけに対する反応や結果を確認して、
これは、このような刺激に対して
こう反応するという法則を発見するやり方。」(能動的)
「第二の方法は、対象になるべく影響を与えずに、
ありのままを観察することによって、
その対象の本質を解明しようとするやり方」(受動的)

「能動的な方法で相手を把握しているつもりでいるのに、
実は、単なる受動的な観測になっているというのは、
教育やしつけなどでもよく見受けられる現象である。」

「不安の本質を追究しようとする場合、不安をそのまま、
あるがままに観測しようとする態度自体が、
不安に大きな影響を与えるということを、
まずはっきり知っておくべきだろう。」

「実は、対象なき不安というのは、日常的な状況自体が、
不安を喚起しているのである。」

「思考は、行動と同様に、繰り返すことによって、
自動化、つまり習慣化する。」

不安状態に陥る人々に共通して見られることの多い傾向として・・・
「(1)現時点で、実行不可能なことを確認する思考が多い。
(2)過去の経験のうち、失敗経験を想起する思考が多い。
(3)将来の可能性については、失敗する可能性を予期する思考が多い。
(4)失敗の原因を、どうにでもできない事柄(たとえば幼児期の環境、
過去のショッキングな体験、親のしつけ、遺伝など)や、
仮想的であるが、どうにもできないと思われる事柄(根源不安、前世、運命)
などに求めるような思考が多い。」

「思考は、論理的に、事実に基づいて進められるという面があるが、
自動的に働くという側面もまた大きいのである。」

「自然に関する法則は、仮説を立てることによって、
いささかも影響されることはない。」
→「不安などという現象は、仮説を立てて検証しようとすること自体が、
現象に大きく影響することを考える必要がある。」

また、「どんな場合でも、不安に冷静・沈着に接することは不可能であり、
したがって、不安の本質の解明はそれ自体不可能な課題である。」
・・・とする説も紹介している。

「重要なのは、自分で数分間リラックスできるようになれるか
どうかという点である。」

普通の対象が不安対象に変わる原理は・・・
不安は冷静になれば現れず、不安になれば冷静にはなれない、
それ故「不安な時に、ある特定の対象に接するということを繰り返すと、
その特定の対象は、不安対象に変わる。」

「対象の本質と不安はどのような関連があるのかをいくら追求しても、
満足できる解答は見いだせない。
つまり、今までに、不安な状態でその対象に接したこと自体が、
対象による不安喚起の原因なのである。」

「ある不安対象に接しながら、何かで不安を一時的に打ち消すということを
繰り返すと、元の不安対象は、普通の対象に変わる。」

「不安が起きないようなパターンを確立するには、
不安を一時的に弱める手段を持ち合わせているかどうかが、鍵になる。」

「不安が課題達成を抑制する場合も、逆に促進する場合も、
当人は不安を軽くしようと試みている。」

「不安によって動機づけられる行動は、
その行動による不安軽減の予期によって促進され、
その行動による不安増大の予期によって抑制される。」

「行動は、課題の達成やその予期によって促進される。」

「行動であれ、思考であれ、自動化した場合には、
それを一時的に中断するということを繰り返せば、
その自動反応はやがて消失する。」

ヤーキーズ・ドッドソンの法則として・・・
「適度を越えた強い罰が加えられると、効果はマイナスになる。
学習が困難であればあるほど、弱い罰が有効なのである。」

「恐いから逃げるのではない。逃げるからこわいのだ。」
というジェームズ・ランゲ説には・・・
「自律神経系の反応は、運動神経系の反応よりも、
その活性化に時間がかかる」という点から・・・
「恐怖と逃避が繰り返されると、逃げるんから恐いという
因果関係が形成される可能性が大いにある。」と訂正している。

不安からの逃避と回避の違いについて・・・
「逃避とは回避の一種であり、不安を一時的に軽減させる行動や活動である。
しかし、不安対象の持つ不安喚起力は、
その行動や活動で弱まることはない。」

逃避についての定義を独自に・・・
「不安によって動機づけられた回避が、
一時的な不安軽減をもたらすにもかかわらず、その回避を反復しても、
不安対象の持つ不安喚起力が弱まらないのは、
不安対象への接近が不十分なまま回避しているからであり、
より高い不安階層への接近をしていないからである。
このような回避に限定して、本書ではそれを逃避と呼ぶことにする。」

「焦りは・・・不安によって動機づけられた反応であって、
不安軽減の予期や増大の予期によって、変化するのである。」

「焦ることによって引き起こされた行動であっても、
その行動がメリットをもたらすことが繰り返し経験されれば、
たとえ、不安や焦りが無くなっても、その行動は、しっかりと定着する」
→「不安は焦りを誘発する。焦りが、不安軽減の予期と結びつけば、
焦りは持続する。しかし焦ることによって、
不安が増大すれば、焦りは減少する。」

「不安がおさまった後に、不安だった時の行動を冷静に振り返るとか、
他者からの適切なアドバイスによって、焦ることで引き起こされる反応を、
不安の軽減に有効なものと無効なものとに弁別できるようになると、
不安になっても、焦ることはなくなる。」

「焦ることによって不安が増大するために、
抑制的になる絶望的なあきらめは、不安の軽減をもたらさず、
不安軽減の予期に基づいた開き直り的なあきらめは、
不安軽減をもたらすことが多い。」

「焦りを減少させるかどうかについては、
効果的な不安軽減の方法がどの程度明確になっているかが、
一つの重要なポイントである。また、焦ることによって、
不安が軽減すると予期するか、あかえって増大すると予期するかが、
もう一つの重要なポイントである。」

「不安の対象が明確な場合を恐怖症、対象がきわめて不明確な場合を
不安神経症と読んで区別することがある。」

「弱いが持続する不安については慢性不安と呼ぶ。」

「慢性不安は、何かに取り組んでいる時は軽くなり、
暇になると強く感じられる」→「対象なき慢性不安は、
何もすることがなくなった時に最も強く感じられる。」

「その対象と不安を感じる本人との今までの出会いの仕方に、
大きく依存している。」

「連鎖反応のどこかを断ち切れば、恐怖は起きなくなる。」

「人間の自由意志による選択が関与するような将来の予測については、
その予測を立てる人の社会的な信頼性が高ければ高いほど、
その人の予測によって結果が左右されることになる。」

不安を行動のみに限定するというワトソンが提唱する
「行動還元主義」に関しては・・・
「不安は、行動に完全に還元できる現象ではない。」と主張。

「気を紛らわすのには、いつもきまったやり方をするのがいい。」

「適度に体系化した手続きというのは、要するに、慣れに応じて、
気を紛らわす手続きを変えていくことである。」

「不安はその体験と存在が同じであること、不安をどのように考えるか、
その思考の内容自体が不安に大きく影響すること、
さらに、不安を軽減する決定的な要因は気を紛らわすことにあるというのが、
本書の結論。」

この本をamazonで見ちゃう

1999 4/8
心理学、教育学
まろまろヒット率5

北方謙三 『道誉なり』 中央公論社 上下巻 1999

南北朝の動乱期を生きた『ばさら』佐々木道誉の破天荒さを
まさに「ぶったぎった」とでも言うべき一冊。
けっこうな分量だったけどアッと言う間に読み終えた、
久々に夢中にさせてくれる本だった。

歴史小説につきものの年代の既述や歴史的事件の説明、時代考証は一切せずに
(そういう意味では司馬遼太郎などとはまったく違うやり方で)
大胆かつ狡猾な生き方を貫く佐々木道誉という男の生き方を中心に
戦いにはめっぽう強いが純粋すぎる夢を追って孤立する護良親王、
不器用な生き方を最後までしてしまう楠木正成、
気分のムラがありすぎて強い敵には異常に怯えるが
自分に恐怖を与えるだけの敵を求めてしまう足利尊氏などの
男たちの哀しさと芸に生きる者たちの逞しさを印象深く描いている。
痛快にかつもの悲しく書く手法のうまさは
ハードボイルド作家の本領発揮と言うべきか?

この小説に描かれる佐々木道誉のポリシーを実にうまく言い表していると
思われる一文がこの小説の最初の方にあった・・・
「この湖の水をわがものにすれば、近江を御することができる。
以前は、よくそう思っていたものだった。
いまでは、琵琶湖はただの大きな湖だった。
流れのない琵琶湖にこだわれば、時代の流れは見失う。」
・・・この文章こそこの時代に生きた彼の生き様を
著者がどのように捉えているのか言い切っていると思う。

またこの小説は印象深い箇所が多く、
「毀すことがばさら」と言う道誉に対して尊氏が出した
「なにを毀したい?」という問いには・・・
「自が生を。これまで生きてきた歳月を。」
・・・と道誉に語らせている。

彼が生涯強く保護し続けこの物語でも重要な芸能に関しては・・・
「人を救えるほどの者が、芸などはやりますまい。
また、それでは芸になりませぬ。」や・・・
「芸は、なにかを写す。多分、観る者の心の底にあるものを、写す。
優れた芸とはそういうものだ。」
・・・などを能楽芸者や足利尊氏に語らせている。

元々僕は価値観が大きく左右に揺れ動いて「悪党」や「ばさら」のような
うさんくさい連中がいきいきとした力を持って動き回った
南北朝という時代に何となく惹かれるものを感じていたんだけど、
ハードボイルド作家の彼がこの時代を舞台にした物語りを
取り付かれたように書いている理由がこの小説を読んで
確信的にわかったような気がする。
「小説は真面目なことを考えさせるためのものではなくて、
酒みたいなものだ・・・」と断言する彼には魅力あふれる時代なのだろう。
「つべこべ言わずに男の生き方に酔え」とこの小説は言っているようだ。

この本をamazonで見ちゃう

1999 4/7
小説、歴史
まろまろヒット率4

松村劭 『戦争学』 文芸春秋 1998

スキンヘッドにした、らぶナベ@「変質者っぽい」と言われて
間違った方向にイメチェンしてしまったことに後悔中っす(T_T)

さて、『戦争学』松村劭著(文芸春秋)1998年初版を読み終えました。
著者は陸上自衛隊で作戦幕僚や総幹部防衛部長などを歴任した元陸将補。
(つまりホンマもん)
そのためか新書なのにこの本は戦争学というなじみの薄い内容を
有史以来から核戦争の時代まで戦略、戦術の変遷を
体系だって既述しようとしている珍しい一冊。
このような系統の入門書としてはなかなかの良書だろう。

内容の方は最初に戦略と戦術を・・・
「戦略は、戦場における勝利のためのリスクを最小限にするように
事前に準備し、また戦場における勝利の果実を最大限に活用する策略。」
「戦術は、戦場において最大のリスクに挑戦し、
最大の勝利を獲得するための術。」
・・・と著者なりに定義してから始めている。
また、冒頭部分で日本の平和論には
戦術研究が徹底的に欠けているとしている。
忌むべき病気を研究する医学のように忌むべき戦争を研究する戦争研究が
あまりにもおざなりなことを、こういう本の例にもれず嘆いている。

以下は気になったり印象に残っている点を列挙・・・
指揮官の決断力についての既述の中で、
元の状態の把握、微小変化の発見、何物かの認識、
敵か味方かの識別、真偽の判別、正確な報告の伝達のそれぞれが
80%の精度であると仮定して実際に頭脳に入ってくる情報について・・・
「指揮官は約25%の情報量で決断を求められている。」
・・・と断言しているのはちょっと言い過ぎのような気がしたが
完璧を踏まえてからしか動かない官僚思考型が多い日本の中では
強調したかった点なのだろう。僕も同感してしまう。

戦史の基本中の基本であるカンネーの戦いについては・・・
「この戦闘は戦術の極意をすべて含んでいる。
弱点を見せて敵を中央突破の攻撃に誘い込んで逆に敵に弱点を生じさせ、
歩兵陣の両翼の防御と、中央の歩兵陣の遅滞行動で敵を拘束し、
左翼の騎兵で機動打撃する攻撃。」と述べている箇所は
今まで僕が読んだこの戦いについての説明の中では
一番簡潔でかつ要点をまとめてくれていると感じた。

「戦時向きであり、平時向きであるような武将は、この世に存在しない。」
・・・とチンギス・ハーンが述べていると書いているが
どうもここらへんはうさんくさい。
リデル・ハートの著作あたりからの引用か?

キャプテン・ドレイクの言葉として・・・
「イングランドの防衛線は国境や英国海峡にはない。
大陸側の港の背中にある。」
・・・としている言葉は海洋防衛の基本を示す言葉だろう。
ただこの純軍事的な考えが日本の朝鮮侵略につながっていったという
政治的事実も無視できないと思う。

そして、この本の中でもっとも面白かったのは
ナポレオン戦争以降盛んになった戦史研究についてだ。
一般的に戦闘開始以前の理論戦闘力が優位な側が勝つという考えが
当然のこととされている。(当たり前と言えば当たり前だね)
しかし、過去605の戦例から理論戦闘力の比
(「Force Raito」=「F.R」)を表にしてまとめてみると・・・
理論戦闘力が優勢側の勝利は辛うじて過半数を超える56%で
劣勢側の勝利は36%(残り引き分け)。
また、劣勢側が攻撃したケースが26%あり、
そのうち勝利もしくは引き分けが59%になっている。
事前に相手より三倍以上の兵力整えられれば勝利するなどのような
一般化されている常識は史実からは遊離していると述べている。

また、ソ連のチェモシェンコやドイツのグーデリアンなどに
強い影響を与えたとされるJ・F・フラーの
『機甲戦ー作戦原則第三部の解説ー』を紹介しているのだが
この中で戦いの原則を著者なりの注釈を加えて既述している。
特に・・・
「戦いにおいては、明確な目標を確立し、徹頭徹尾、追求せよ。
(注)当然の話であるが、これほど実行が難しいものはない。」
「敵の作戦計画を破壊するように、機動せよ。
機動の目的は、敵の精神の均衡を破壊することである。
(注)馬鹿な指揮官は、敵の物理的戦闘力を破壊しようとする。
優れた指揮官は、敵の思考力を破壊する。」
「集中の原則・・・(注)わが決勝点に戦闘力を集中しようとすれば、
敵も集中しようと努力する。
要点に対して相対的に優勢な戦闘力を集中するには、
適切な分散によって敵に分散を強要することが必要である。
集中のタイミングは、敵の反応が遅れた瞬間である。」
・・・などは様々な方面にも応用できるものだろうが
以前読んだリデル・ハートの理論そのままといった感じだった。

ロンメルの言葉として・・・
「大胆な作戦は、常に予備と代替の作戦計画を持っている。」
・・・これもリデル・ハートの『戦略論』などに添ったもの。

また、フラーはこの本の冒頭で研究を含めた戦前での準備について・・・
「戦争になって、新しい戦闘教義を創造することは、
よほどの天才でない限り不可能である。」と述べているが
これは戦争だけでなくすべての物事においても通じることだろう。

それとこの本を読むまで意外に理論として認識していなかったのが
航空戦力を砲兵の代わりとして使用するということだ。
ポーランド侵攻戦でグーデリアンを始めとするドイツ軍は
フリードリッヒやナポレオンが砲兵に騎兵を支援させたように
航空戦力に機甲部隊を支援させたとしている。
航空機はその維持費の高さ、防御力の脆弱さ、運用の難しさから
騎兵の後継者とした考えを僕はもっていたが砲兵の後継者としての
運用が現代戦でのデビューでもあったのだということが意外だった。

十七世紀の英国の海軍戦闘訓令の失敗から有事における法の原則を・・・
「決められないことは決めるな!」と言い切っているのは
ちょっと行きすぎだと思う(^^;

冷戦後の戦争作戦については連合作戦には戦闘力の要素を
相互に補完し合う方法(古代ローマ型)と
連合する国々がそれぞれ完全な軍事力の要素を持って連合する方法
(第二次大戦型)があるが、前者はかつて技術的に困難が多いことと
連合部隊内における主権の問題によって崩壊したことになっている。
そのため「戦闘力の要素を補完し合う連合作戦は過渡期の方法であろう。」
と述べているが最近のNATOによるユーゴ空爆などは
前者に位置するものだろうこれからどうなるか見きわめていきたい。

最後に・・・
「名将は、育てられるものではない。育つ環境を与えるだけである。」
・・・というのは軍事教育だけでなく教育すべてに通じる言葉だろう。

この本をamazonで見ちゃう

1999 4/4
戦略論、歴史、政治学
まろまろヒット率3

松浦茂 『清の太祖ヌルハチ』 白帝社 1995

らぶナベ@『彼氏彼女の事情』の最終回らしくない最終回に
またまたGAINAXへブチキレ中っす(わかってたんだけどね(^^;)。

さて、本題・・・
『清の太祖ヌルハチ』松浦茂著(白帝社)1995年初版を読み終わりました。
以前、交流会のOB会に参加した時に京ちゃんに教えてもらった
紀伊国屋新宿店で見つけて松村劭著の『戦争学』と共に
思わず衝動買いした本(また偏った購入やな(^^;)。
中国最後の王朝「清」のおおもと(後金)を創った男として
名前は必ず世界史に出てくるが、いまいちどういう人物なのか
よくわからなかったので「読んでみたい!」無性に思わしてくれた本。

父親と兄が同時に死亡するという振ってわいた跡継ぎからスタートして
数十人に満たない一族郎党と共に女真部をまとめ上げ、
次にマンジュ(満州)族の各部を統一、
最後は中国の明朝と朝鮮の李朝に対してイニシアティヴを
取れるまでになった一人の人間の一人生。
そう考えただけでどんな波瀾万丈の生き方なんだろうと思って
わくわくして読み始めたがどうもいまいちな本だった。
本の分量は結構分厚いがその三分の一をヌルハチ以前の
中国東北部の情勢や周辺民族の動きに割いている。
ヌルハチが飛躍した土壌がそこにあったんだと言いたいようだが、
流れ的につながりが薄く見えて説得力に欠ける。
あまり重要で無いような既述は多いが
(ヌルハチとは直接関係が薄い周辺民族の反乱)、
これは詳しく知りたいと思うような箇所は既述
(マンジュ族を統一する経緯など)はとても簡単で
読みながら怠さを感じつづけた。これは資料が少なかったからしか?
また、ヌルハチ自体の既述にしてもできるだけ客観的に書こうとする意図が
どうも空回りしているように感じた。
全体的に扁平で一本のしっかりした筋が見えてこなかった、
これは一人の人物の伝記としては痛い。
二流の歴史学者が書く人物伝なんてこんなものかなと思った、
あまり面白みがあるとは言えない一冊。

この本をamazonで見ちゃう

1999 3/24
歴史
まろまろヒット率2

沢木耕太郎 『敗れざる者たち』 文藝春秋 1979

らぶナベ@思わず大学院受かっちゃったのでさっそく東京入りしますです、
いろいろ相談したり調整したりしないといけないので。
(それ自体もまた楽しみの一つだ(^^))

さて、そんな中『敗れざる者たち』沢木耕太郎著(文春文庫)
1979年初版を読み終えました。
普段あまり強い調子の言葉を使わない益田@エニックス内定者が
「ぜひ!」と薦めていたので試しに買って読んだ本。
スポーツの世界に「何か」を求め「何か」が足りなかったために
敗れていった者たちをルポしたドキュメンタリー。
ここにえがかれている人物たちは『あしたのジョー』の矢吹ジョーの様に
一瞬の場にすべてを賭けて戦い燃えつきて敗れていった者たちだけでは無く、
「いつか」燃え尽きたいと思いながらも
その「いつか」を見いだせないまま終わってゆく者たちも取り上げている。
そしてそこにこの本の最大のテーマがあるのではないだろうか
という思いが読んでいて強く感じた。
カシアス内藤という何か物足りないボクサーを取り上げた
第一章「クレイになれなかった男」の最後を・・・
「・・・人間は、燃えつきる人間と、そうでない人間と、
いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望みつづけ、望みつづけ、しかし”いつか”はやってこない。
内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも・・・」
・・・という風に結んでいるが、これこそが著者が
最もこの本の中で言いたかったことなんだろうと思った。
燃えたくても燃えきれない歯がゆさ、憤り、
カタルシスの無い本当の意味での敗者たちの話を読んでいく中で
僕自身もある種の焦燥感を感じた。
まだドラマでしか見たことがないが彼の代表作である
『深夜特急』にも共通している、この現代の焦燥感とも言うべきものこそが
著者の特徴なのかなと感じた。

特にその思いは最終章である「ドランカー<酔いどれ>」を
読み終えて確信的になった。
すでにピークを過ぎてしまっているこのボクサー輪島功一が
すべてを賭けて燃えつきる場所として挑んだ王座奪還戦を取り上げている。
一度負けた相手から王座を取り返すことが不可能に近いという
ボクシングの常識、この挑戦自体がプロモーション上の犠牲として
仕組まれたものだという経緯、そのような様々な言い訳ができる
この王座奪還戦に輪島はすべてを賭けて燃えつきた。
そして彼は見事に勝者となった。
彼には「栄光への枯渇感」がありありとあった、
今までこの本を読み通して受けていた焦燥感が
この最終章で見事に昇華されたように感じた。
しかしやはりこの章でも真の主役はこの試合をリングサイドで見ていた
著者とこの試合のチケットを送り招待しても最後まで来なかった
第一章で取り上げたカシアス内藤の二人、
つまり燃えつきたいと望みつづける男たちだったように思える。

エンターテイメント業界にせよ教育機関にせよ、
不安定であっても「燃えつきるほどまでに自分を賭けるられる場所がある」
僕はずいぶん幸せなのかもしれないとこの本を読み終えて感じた。

さあ、僕も燃えつきる場所を選びに東京へ旅立とう(^^)

この本をamazonで見ちゃう

1999 3/4
ドキュメンタリー
まろまろヒット率5

司馬遼太郎 『空海の風景』 文藝春秋 上下巻 1994改版

らぶナベ@最近車を運転することの喜びに再び目覚めてしまい、
車買えるくらい働いてから大学院行っても良いなと
(エニックスで一本プロデュースしたものを出せば買えるかな?)
またまたいい加減なモティヴェーションがわき上がっているです。

さて、『空海の風景』(上下巻)司馬遼太郎著(中央公論新社)1994年改版初版
を読み終わったです、ちょい難しかった(^^;

この本は僕が通っていた阿倍野高校で日本史の教師が
授業中に薦めていた本として印象に残っていた。
しかし当時(高校2年生、若かった(^^;)すでに世界史で受験しようと
決めていたほどの世界史マニアだった僕にとっては「今さら空海なんて」と、
この本はそれほど興味あるものではなかった。
それから6年たったつい最近丸山の四国八十八カ所巡りの締めに
つき合わされて高野山を訪れたのをきっかけに
ふと一度読んでみようと思った一冊。

もはや遠い時代の人間となり伝説に包まれた空海という人物を
できるかぎり眼に見えるかたちで捉えようとするテーマ性を持った本。
当時の東アジア全体を含めた時代背景、環境や情勢など
「彼の生きた風景」から空海という今となっては
不思議な人物を捉え直そうとした野心的な作品。
その死に方に代表される彼の謎の部分までもいつものように
文句付けようのないほどの資料調べと実際の調査から小説化している。

これは司馬作品すべてに共通した視点だが、この空海についても
「弘法大師さまっ!」という全面肯定でもなく
「この裏切り者っ!」という全面否定でもなく、
「お前友達なんかい!」っと思わず突っ込んでしまうほどに
身近な人物として描こうとしている。
(他人の家に土足で入り込むような大阪人らしいふてぶてしさ(^^;)

いきすぎた伝説的な部分といきすぎた否定的な部分をのぞいて
一人の人間空海という人物を見てみるとこれがまた親しみを感じてしまう。
律令国家や天皇を道具として利用しきった日本史上数少ない人物として
描いているこの空海像は最高のペテン師って感じだ。
普遍なるものを求め、自らも抽象化する密教を中国で極めた空海にとっては
小さな日本の小さな律令国家などは取るに足らない存在として
認識せざるおえないものだった。
だからといって彼は老荘のように世を捨てることはせずに
徹底的に俗世を利用した狡猾な姿に痛快感を感じる。
例えば様々な伝説が付け加えられた四国の灌漑工事についても
彼が指揮を取った場所は実は彼の実家である佐伯氏の支配地であり
律令国家の下で私有を認める唯一の抜け道である墾田を開くためである上に
その工事への助力もわざわざ勅命を出してもらってからからようやく
動きだし、わざと通り道してあたかも自分に霊験があるかのように
「演出」する姿には、彼の人生を通すその痛快さん臭さが
端的にかいま見える事例だと著者自身が書いている。
彼が二十代のころ戯曲を書いているように(現存『三教指帰』)
演出家としての側面がもっともその個性の中で強かったように見える。

この時代における密教の役割、奈良六宗系仏教との教義論などは
かなり難解で僕みたいにお経の意味もわからないような人間に取っては
読みづらい箇所も多かったが彼のこの強烈な個性に貫かれた人生が
中心であったので退屈せずに読み通せた。

さて、この本を読み終わって考えたこと・・・
小さなハッタリ野郎やホラ吹きは世間には多いけど
見えもしない実感さえ無いものをさもあるかのように言う宗教家なんて
(イエスにせよガウタマ・シッダールタにせよムハンマドにせよ)
とんでもないホラ吹きでハッタリ野郎だ。
それに比べたらたいていのペテン師はかわいいもんだなと感じる。
・・・ってこんなこと書いたら信心深い人に怒られそうだけど(笑)

この本をamazonで見ちゃう

1999 3/2
小説、歴史、宗教
まろまろヒット率4

ドロシー・カーネギー、神島康訳 『カーネギー名言集』 創元社 1972

このメールがちょうど僕が大学入ってから11111通目の送信メール、
1並びを読書感想で迎えられるのは小さな幸せ(^o^)

『カーネギー名言集』ドロシー・カーネギー編、神島康訳(創元社)
1972年初版を読み終わりました。
たぶん宗教系以外では世界で一番有名な名言、訓辞集の編集家として有名な
デール・カーネギーの死後に奥さんが彼のメモを元に編集した名言集。
原題も”Dale Carnegie`s Scrapbook”となっている。
カーネギーシリーズは服部や藤江などの関学KSC組によく薦められて
以前何冊か読んだが(『人を動かす』、『人生論』など)
けっこうきれいごとばかりで食傷気味な感じを受けたので
それからしばらく遠ざけていたがふと本棚を整理していると
まだ読んでいないこの本が出てきたので気分転換に読んでみた。

この本の中で一番印象に残っている言葉・・・

・大きな悲しみには勇気をもって立ち向かい、
小さな悲しみには忍耐をもって立ち向かえ。
一日の仕事を終えたら安らかに眠れ。あとは神が守って下さる。
→ヴィクトル・ユゴー

それとこの言葉も・・・
・人生で最も大切なことは利益を温存することではない。
それなら馬鹿にだってできる。
真に重要なことは損失から利益を生み出すことだ。
このためには明晰な頭脳が必要となる、
そして、ここが分別ある人と馬鹿者との分かれ道になる。
→ウィリアム・ボリソー

以下、僕がこの本を読みながらチェックした名言・・・

・危険が身に迫った時、逃げ出すようでは駄目だ。
かえって危険が二倍になる。
しかし決然として立ち向かえば、危険は半分に減る。
→ウィンストン・チャーチル

・成功者になるために一番大切なものは、
「自分にもできる」という信念である。
思い切って事に当たらない限り、決して名声も成功も得られない。
→ジェームズ・ギポンズ枢機卿

・人間のできることなら何だってできるという気になれば、
たとえどんな困難にあっても、いつかは必ず目標を達成できる。
これと反対に、ごく単純な事柄さえ、自分にはとても無理だと思いこめば、
たかだかモグラの積み上げた土くれに過ぎぬものが、
目もくらむような高山に見える。
→エミール・クーエ

・次の心得を守れば、十中八九成功するー
自信を持つこと、そして仕事に全力を尽くすこと。
→トーマス・E・ウィルソン

・恐怖の数の方が危険の数より常に多い。
→セネカ

・単に数知れぬ障害を克服する決心をするだけでは駄目だ。
数知れぬ拒絶と敗北に出会っても、障害を克服してみせる決心が必要である。
→セオドア・ローズヴェルト

・最大の名誉は決して倒れないことではない。
倒れるたびに起き上がることである。
→孔子

・大事のためには、いつ何時でも自分の肉体、安寧、
生命さえも投げうつ心がまえのない者は、三文の値打ちもない人間だ。
→セオドア・ローズヴェルト

・本来世の中が不完全なのに、完成ばかり目ざすのは危険である。
最上の方法は、迷わず目前の仕事に着手することだ。
・・・もし本当に最善を尽くしていれば、
失敗を気にかけるひまなどなくなる。
→ロバート・ヒリヤー

・年をとれば額にしわが寄るのは仕方ないが、
心にまでしわを作ってはならない。
→ジェームズ・ガーフィールド

・一度に一つずつ事を行え。
あたかも自分の生死がそれにかかっているかのような気持ちで。
→ユージェニー・グレース

・私は災難の起こるたびに、これをよい機会に変えようと努力し続けてきた。
→ジョン・D・ロックフェラー

・どうすれば物事に熱中できるだろうか。
まず自分の手がけている事柄のどんな所が好きか自分に言い聞かせて、
嫌いな部分は捨てて、さっさと好きな部分へ移ることだ、
それから夢中になって行動する。
→デール・カーネギー

・困難とは作業衣を着た好機会にすぎない。
→ヘンリー・J・カイザー

・困難に会って倒れるようでは、なんじの力はまだ弱い。
→旧約聖書

・人間の偉大さは、不運に対してどのように耐えるかによって、決まるものだ。
→プルターク

・どんな不幸からでも、利口者は何らかの利益を得る。
一方、どんな幸福な人生からでも、愚か者は心を傷つけられる。
→ラ・ロシュフーコー

・今ここで楽しめない人生は、永久に楽しめない。
・・・過去はもはや存在せず、未来は誰にも分からないのだから。
→デーヴィッド・グレーソン

・私が仲よくせねばならぬ人物が二人ある。神とこの私ガーフィールドだ。
この世では私はガーフィールドと共に暮らさなければならない。
あの世では神と共に生きる。
→ジェームズ・ガーフィールド

・報復以上の仕事をしない者は、仕事並みの報酬しか得られない。
→エルバート・ハバード

この本をamazonで見ちゃう

1999 2/14
名言集
まろまろヒット率5

司馬遼太郎 『草原の記』 文藝春秋 1995

らぶナベ@エニックス内定者HomePage・・・
http://home.interlink.or.jp/~d-ike/ENIX99.htm
・・・がモデルチェンジしたので良かったら見て下さいです。
やばいやつらだけどとってもいきいきした面々がいる上に
彼らにはこの読書会にも入ってもらおうと思っているので(^^)

さて、本題・・・
『草原の記』司馬遼太郎著(文春文庫)1995年初版を読んだです。
以前読んだ『モンゴル紀行~街道をゆく5~』(朝日文芸文庫)の
著者が17年後にもう一度モンゴルに行き、
その経験を元にモンゴルというものの全体像を掴もうとした作品。
彼特有の風景、情況から歴史的な視点に発展させるという
少しとりとめのない話の展開から(壮大感はあるんだけどね)
17年前『モンゴル紀行』でガイドをしてくれたツェベクマさんという
剛気な気質が印象的だった女性の半生を追っていく展開だった。
彼女の幼児期に強い影響を与えた日本人女性、満州国崩壊、
内モンゴル自治区独立運動、中ソ国交断絶、
文化大革命によるモンゴル人弾圧と夫との別れと亡命、
26年後に改革開放政策のために彼との再開という生涯三つの国と
四つの草原に住んだ彼女の半生をインタビューを通して紹介している。
また、基本的に馬には帰巣本能が無いと言われているが
モンゴル馬には古くから故郷に帰ってくる話が多い。
最近ではヴェトナム戦争時にハノイに軍事物資としておくられた
あるモンゴル馬が何年もかけてモンゴル高原まで歩いて帰っていったという
話が伝えられている。
この本はこのようなモンゴル馬の帰巣本能とツェベクマさんの半生を
対比させながら結んで終わっている。

本自体の分量も少なく、中身の方も『モンゴル紀行』の続編的な
ものだろうと思って読んだので東京から帰って来る新幹線の中で
この本を読み終えた時は不覚にも感動していた。
(前半と後半のテンションが違うので意外性もあった)
例えるなら『大地の子』みたいな感動を与えてくれたが、
これはさしずめ『草原の子』って感じだろう(^o^)

この本をamazonで見ちゃう

1999 2/8
エッセイ、歴史
まろまろヒット率5

宮崎学 『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた50年』 幻冬社 上下巻 1998

まず最初に、読書なんてものは個人の趣味や興味に依存しるもんなんだから
万人に薦められる本は無いと思いますが、この本は絶対読んだ方が良いです。
いや読むべきだ!(断言)
それぞれの社会事象に大きく関わっているのにも関わらず、
今まで様々な理由で報道されてこなかったり
理論書でも曖昧にしている日本の闇の部分がとても明確に書かれています。
それもこの本に登場する人名のほとんどが実名で
「いまこの人物はこんなことしている」と恐いモノ知らずに書いています。
(ヤクザ組長の息子だからここまでできる)だからとても分かりやすい!
ちょうど今まで社会現象を分析する時にうやむやにしていた部分、
パズルの欠けていたピースをはめてすべてが繋がる思いがします。
社会に出るにしても大学で研究するにしても
そして社会と向きな合う上でもぜひ一読に価する本です。
一つの視点を得る上では非常にすばらしい一冊です。

さてその本とは・・・
『突破者~戦後史の陰を駆け抜けた50年~』宮崎学著
(幻冬社アウトロー文庫)1998年初版
戦後報道されにくかったり研究から外されたりしていた
日本の闇の部分に深く関わってきた人間の自伝。
グリコ・森永事件におけるキツネ眼の男として最有力参考人として
疑われた人物でもある。
以前から様々なところで推薦されているのを耳にして読みたいと思っていたが
この度ようやく文庫化してくれたので購入して読んだ一冊。

1945年まさに新しい時代に京都伏見の土建屋兼ヤクザの組長の息子として
生まれ、そこで幼い時から最底辺の人間たちと接しながら育ち、
戦後混乱期にどのようにヤクザなどの闇勢力が一般の社会に
関わっていたのかということを既述することから始まっている。

大学は早稲田の政経学部に入り、そこで当時の例にもれず
左翼運動関わり日本共産党系実行部隊(民青ゲバルト部隊)の指揮を執る。
早大紛争、東大紛争など当時主要な学生運動に実行部隊として関わり
その運動の経緯や社会的な変動を身を持って体験する。
ここがまた面白い!
当事者があまり口にしたがらない上に今の僕たちからはわかりにくい
当時左翼勢力がいかに行動し、抗争し、内部分裂していったのかを
克明に述べている。
東大安田講堂紛争のことも項を多くさき、抗争の経緯から実際の戦術まで
(どのように校舎占拠部隊と戦ったりデモ隊を潰すのかなど)
きっちり説明してくれている。
例えば左翼勢力の温床として各派の覇権争いがおこなわれていた
大学の寮長大会が乱闘になった時の実行部隊投入について・・・
「人の塊と塊がぶつかり合う場合は二派に分けた側が絶対に勝つ」、
「にらみ合った時は先に突っ込んだほうが勝つ。」
・・・と不良時代からの集団ケンカの理論を証明している。

卒業後週刊現代の記者になり大手新聞社にはできなかった
政治の裏側報道に従事する。
その後資金繰りが悪化する家業に戻り、土建業の社長として再建に奔走する。
ここでは日本経済の根幹部分である建築・土建業に対して
どのように政治家、官僚、ヤクザ、仕事師などの闇勢力が
関わっているのかということを明確にしている。
例えば談合というものが実際どういうもので
どのようなシステムになっているのか
どのようなメリット・デメリットがあるのかということを
当事者経験として語っている。
資金繰りが苦しくなると談合破りや取引踏み倒しペテンなどを通して
手形決算の自転車操業を重ねるが、
この時に資本家打倒を掲げ運動していた学生時代と中小企業の社長として
資金繰りに奔走している時代を比べて・・・
「命懸けの資本家に対して、左翼の方は命など懸けてやしない。
その一点で、端から勝負はついていたのだ。」
・・・と結論づけているのが興味深い。

その間に大手ゼネコン恐喝事件のとばっちりを受けて逮捕されて
拘留中に京都府警と対立した後に結局家業が倒産するが
そこで債権者の激しい追い込みを受け借金返済のためにバッタ屋の用心棒や
新宿愚連隊の伝説的人物を頼ったりして最底辺でうごめく。
その後ヤクザの大抗争(山口組、山一会抗争)の最中
グリコ・森永事件の最重要参考人としてこの事件に関わる。
京都の土地開発に関わった時にヒットマンに銃撃を受けたりする
こともあるなどバブル期に地上げ屋として関わるが、
この項のところでいかに金融がバブル期に闇の部分と関わっていったのか、
どうしてあそこまで不良債権がつもってしまったのかということを
当事者として非常に克明に既述している。
(ここらへんは報道されにくい上にぼやかされる部分なので必読だね)
また、最後の部分で今後の日本の闇勢力の展望をのべているが
これがとても興味深い。
現在おこっている犯罪の傾向が見事に彼の展望通りで説得力があるからだ。

この本は自伝で彼の人生を振り返っているのであって理論書ではないが
その分深く印象に残る箇所もあった。
例えば実家のヤクザ家業について抗争を取り上げた時に・・・
「この社会には必ずグレートマザー的な女性がいる。
その大いなる母が死んでいった男たちの死を癒し、
男たちの勲を語って伝説化・神話化していく。」
・・・としたところには感動的だった。

また、この本の結論だなと思われる箇所・・・
「男というのは土壇場で逃げる男と逃げない男の二種類しかないという
厳たる一面があって、土壇場で試されるのは唯一それなんだということが
よくわかった。これはヤクザも左翼も同じ、
市民だって同じだということを後でたっぷり思い知ることになる。」

この本の決論だと思われる箇所もう一つ・・・
「ヤクザの世界は、三つの言葉を知っていれば渡れる・・・
びびるな。相手の心にとどめを刺せ。自分を捨てろ。
これだけを実行していければ、ヤクザとして生きられる。
いや、これは、およそ自立して生きていこうとする人間に
共通する行動規範ではないのか。」

それとこれはどうでも良いことだが著者が
「社会全体が地表からうごめいた時代」として
1968年の左翼運動の盛り上がりと1988年のバブル絶頂期を
あげているがそれなら2008年は大きな変動期に入るのか?
また、1985年は阪神優勝、山一戦争、グリコ・森永事件と騒然とした年で
1995年は阪神大震災、オウム事件、大阪府・東京都各知事に
タレント当選とずいぶん話題があった年。
じゃあ2005年も騒がしい年になるのかな?(笑)

世の中いろんな視点で見た方が立体的にみえるっていうことを
あらためて実感させてくれる良書。
そして何より読んでいてとても面白い!
さあ、君も今日から突破者だ!(^o^)

この本をamazonで見ちゃう

1999 2/3
ドキュメンタリー
まろまろヒット率5

山本七平 『「空気」の研究』 文藝春秋 1983

らぶナベ@「Something ELse」の次と次くらいの曲は
はたして大丈夫なんだろうかと他人事ながら気になっているっす。

さて、『「空気」の研究』山本七平著(文春文庫 1983年初版)
を読んだです。
以下は感想・・・
政策科学部の講義「政治経済システム論」にて日本的な特徴の一つとして
会議や集まりなどでその場の空気(雰囲気やムード)が
意思決定の重要な働きを果たすという話題が出たときに
担当の宮本太郎教授(太郎ちゃん)が
参考文献であげていたので興味を持った本。

確かに僕自身も論理性や合理性よりもその場の空気(雰囲気)を優先させた
議論の方向や決定に追随したりした経験が何度かある。
論理性や合理性を確認したり詰めたりする会議なのに
論理性や合理性などよりもこの空気を優先させることがある。
でもその場の空気っていったい何なんだろう?
と思うと明確な答えがみえてこない。
そんないい加減なものなのに集団的意思決定の場では
やたらと影響力を持ってくる。
そんなよくわからないものに影響される・・・
よく考えたら実はこれってかなり恐いことなのではないだろうか
と感じてしまった。
また、それだけでなくその空気というもののメカニズムを理解し
展開できる能力があれば会議に臨んでも安心して議論に加わることができるな
と思いこの本の存在を知ってすぐに探し歩いて買ったという経緯のある一冊。
(立命の図書館には無かった)

内容の方は「空気の研究」、「水=通常性の研究」、
「日本的根本主義について」の三部構成になっている。
実際に読んでみるとずいぶんとだらだらとした評論という感想を受けた。
具体例を中心に話を展開させていくのは良いのだが、
その具体例を理論化するという読者が最も欲してる点に関しては
少し消化不良の感がある。
例示と抽象論の間もかなり強引であるような感じを受けるものも多いので、
あまりうまい展開では無いと思った。

しかしやはり第一部の「空気の研究」を中心にペンが冴えているなと
思わしてくれるような展開が読んでいて心地よかった。
著者はこのような空気の具体例として太平洋戦争中の戦艦大和特攻の採否に
関する意思決定の場を選んでいる。
その会議に出席し採決した人々に戦後インタビューをすると
必ずと言っていいほど「あの時の空気ではああせざるを得なかった」
ということを異口同音に発するそうだ。
あげくのはては「当時の空気も知らなかった人間に何がわかるんだ!」
と逆ギレまでする人もいるらしい。
このことについて・・・
「彼が結論を採用する場合も、それは論理的結果としてでなく、
『空気』に適合しているからである。採否は『空気』がきめる。
従って『空気だ』と言われて拒否された場合、
こちらにはもう反論の方法はない。」
として、また・・・
「『せざるを得なかった』とは、『強制された』であって
自らの意志ではない。
そして彼を強制したものが真実に『空気』であるなら、
空気の責任はだれも追求できないし、空気がどのような論理的過程をへて
その結論に達したかは、探求の方法がない。」としている。
このような空気の影響について結論的に・・・
「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である、
一種の『超能力』かも知れない。何しろ、専門家ぞろいの海軍の首脳に、
『作戦として形をなさない』ことが『明白な事実』であることを、強行させ、
後になると、その最高責任者が、なぜそれを行ったかを一言も
説明できないような状態に落とし込んでしまうのだから、
スプーンが曲がるの比ではない。」
と表現している箇所には思わず「うまいこと言うな」と笑ってしまった。

さて、その空気がどうして重視されるのかということに関して
ここからが本番なのにいまいち展開が説得力のあるものではなかった。
僕なりに要約すれば著者は日本的文化には多神教的な臨在感的把握(
「イワシの頭も信心」ってやつね)があり、
対象に感情移入しやすい傾向にあるとしている。
一神教との対比として・・・
「『絶対』といえる対象は一神だけだから、
他のすべては徹底的に相対化され、
すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。(中略)
一方われわれの世界は、一言でいえばアニミズムの世界である。(中略)
この世界には原則的にいえば相対比はない。ただ絶対の対象が無数にあり、
従って、ある対象を臨在感に把握しても、
その対象が次から次へと変わりうるから、
絶対的対象が時間的経過によって相対化できる」としている。

「対象の相対性を排してこれを絶対化すると、
人間は逆にその対象に支配されてしまうので、
その対象を解決する自由を失ってしまう(中略)ものごとの解決は、
対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだ」としている。
そうは言うものの戦時中の戦艦大和特攻のような
今では完全にその正否がわかる例などではわかりやすいが、
いまだに対象の絶対化は根強く残っていてそれを知らず知らずのうちに
我々はやってしまっているという例として・・・
「正直者がバカを見ない世界であってほしい」
→「とんでもない、そんな世界が来たら、その世界ではバカを見た人間は
全部不正直だということになってしまう」
「社会主義社会とは、能力に応じて働き、
働きに応じて報酬が支払われる立派な社会で・・・」
→「とんでもない、もし本当にそんな社会があれば、
その社会で賃金の低い報酬の少ない者は、報酬が少ないという苦痛のほかに、
無能という烙印を押されることになる」という風に例示をしている。
少しひねくれが過ぎるなとは思うがけっきょく綺麗な言葉、
誰も思わずうなずいてしまう大儀名文への服従は
今でも僕らが気をつけていないと思わずしてしまっていることなんだろう。
また第一部の最後の方で補足的に多数決会議について
「正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、
元来、多数決原理の対象ではなく、
多数決は相対化された命題の決定だけにつかえる方法」
としているのは興味深い。

第二部以降で著者は「水を差す」という時に使う「水」というものは
現実であるとしている。ここらへんからだらだらしてくるのだが、
それでも面白いなと思った箇所は・・・
「『当時の情況』という言葉は、現代を基準にして構成した一種の虚構の
情況であって、当時の情況とその情況下の意識を再現させて
それを把握できるわけではない。
(略)時間を超えて過去を計ろうとするなら、過去から現在まで共通する、
情況の変化に無関係な永遠的尺度で一つの基準をつくり、
その計量の差に、過去と現在との違いを求める以外にない。」
「日本は元来、メートル法的規制、人間への規制は非人間的基礎に
立脚せねば公平ではありえないという発想がなく、
まったく別の規範のもとに生きている。」
その場の空気を一瞬にして消し去る水(現実)について戦時中などでは
その水を差す人が弾圧を受けた理由について・・
「舞台の女形を指さして『男だ、男だ』と言うようなものだから、
劇場の外へ退席せざるを得ない。」

また著者の第三部の後ろのほうでこの本のまとめ的な箇所として・・・
「日本人は臨在感的に把握し、それによってその状況に
逆に支配されることによって動き、これが起こる以前にその情況の到来を
論理的体系的に論証してもそれでは動かないが、
瞬間的に情況に対応できる点では天才的」という意見を別の論者の
表現(中根千枝)として紹介している。それは・・・
「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、
それが熱いといくら説明しても受けつけない。
しかし、ジュッといったときの対応は実に巧みで、大けがはしない。」

psよく考えたらこういう文化的なことは中大の総合政策学部とかで
やってることなのかな?
こういうのに関連した授業とかがあったら教えて下さいです→けにー

この本をamazonで見ちゃう

1999 1/28
文化論
まろまろヒット率5