司馬遼太郎 『空海の風景』 文藝春秋 上下巻 1994改版

らぶナベ@最近車を運転することの喜びに再び目覚めてしまい、
車買えるくらい働いてから大学院行っても良いなと
(エニックスで一本プロデュースしたものを出せば買えるかな?)
またまたいい加減なモティヴェーションがわき上がっているです。

さて、『空海の風景』(上下巻)司馬遼太郎著(中央公論新社)1994年改版初版
を読み終わったです、ちょい難しかった(^^;

この本は僕が通っていた阿倍野高校で日本史の教師が
授業中に薦めていた本として印象に残っていた。
しかし当時(高校2年生、若かった(^^;)すでに世界史で受験しようと
決めていたほどの世界史マニアだった僕にとっては「今さら空海なんて」と、
この本はそれほど興味あるものではなかった。
それから6年たったつい最近丸山の四国八十八カ所巡りの締めに
つき合わされて高野山を訪れたのをきっかけに
ふと一度読んでみようと思った一冊。

もはや遠い時代の人間となり伝説に包まれた空海という人物を
できるかぎり眼に見えるかたちで捉えようとするテーマ性を持った本。
当時の東アジア全体を含めた時代背景、環境や情勢など
「彼の生きた風景」から空海という今となっては
不思議な人物を捉え直そうとした野心的な作品。
その死に方に代表される彼の謎の部分までもいつものように
文句付けようのないほどの資料調べと実際の調査から小説化している。

これは司馬作品すべてに共通した視点だが、この空海についても
「弘法大師さまっ!」という全面肯定でもなく
「この裏切り者っ!」という全面否定でもなく、
「お前友達なんかい!」っと思わず突っ込んでしまうほどに
身近な人物として描こうとしている。
(他人の家に土足で入り込むような大阪人らしいふてぶてしさ(^^;)

いきすぎた伝説的な部分といきすぎた否定的な部分をのぞいて
一人の人間空海という人物を見てみるとこれがまた親しみを感じてしまう。
律令国家や天皇を道具として利用しきった日本史上数少ない人物として
描いているこの空海像は最高のペテン師って感じだ。
普遍なるものを求め、自らも抽象化する密教を中国で極めた空海にとっては
小さな日本の小さな律令国家などは取るに足らない存在として
認識せざるおえないものだった。
だからといって彼は老荘のように世を捨てることはせずに
徹底的に俗世を利用した狡猾な姿に痛快感を感じる。
例えば様々な伝説が付け加えられた四国の灌漑工事についても
彼が指揮を取った場所は実は彼の実家である佐伯氏の支配地であり
律令国家の下で私有を認める唯一の抜け道である墾田を開くためである上に
その工事への助力もわざわざ勅命を出してもらってからからようやく
動きだし、わざと通り道してあたかも自分に霊験があるかのように
「演出」する姿には、彼の人生を通すその痛快さん臭さが
端的にかいま見える事例だと著者自身が書いている。
彼が二十代のころ戯曲を書いているように(現存『三教指帰』)
演出家としての側面がもっともその個性の中で強かったように見える。

この時代における密教の役割、奈良六宗系仏教との教義論などは
かなり難解で僕みたいにお経の意味もわからないような人間に取っては
読みづらい箇所も多かったが彼のこの強烈な個性に貫かれた人生が
中心であったので退屈せずに読み通せた。

さて、この本を読み終わって考えたこと・・・
小さなハッタリ野郎やホラ吹きは世間には多いけど
見えもしない実感さえ無いものをさもあるかのように言う宗教家なんて
(イエスにせよガウタマ・シッダールタにせよムハンマドにせよ)
とんでもないホラ吹きでハッタリ野郎だ。
それに比べたらたいていのペテン師はかわいいもんだなと感じる。
・・・ってこんなこと書いたら信心深い人に怒られそうだけど(笑)

この本をamazonで見ちゃう

1999 3/2
小説、歴史、宗教
まろまろヒット率4

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