まろまろ読書日記2周年

1年前の1周年のときも感慨深かったが、今回の2周年はまたひとしおだ。
何しろこのHPをネタに(参考資料でHPごと提出して)大学院も受験したし、
受かっちゃったので悩んだ末に進路も修正した。
HP活動自体としても旗を作った芸術祭への出展などもおこなった。
1年後の自分が東京で暮らしてこういう生活をおくっているとは、
1年前の自分からは想像もできなかった。
振り返ってみると遺書まで書いてるし(^^;
メディアを持つことの意味を個人的体験としてこれほど感じている人間は
あまりいないんじゃないだろうかと思うくらいだ。
理論を追求するあまりに現実を見つめる眼を曇らせて、自分自身の可能性をつぶしている人間もいる中、
臨床分野としての自己メディアを持っていることでどれほど救われているかわからないほどだ。
これからも方針を模索しながらやっていこう、模索を楽しめる人間が人生を楽しめるのだから。

2003 7/19
出来事メモ、サイト運営

研究発表&布陣確立

8日
さくら研究室での研究発表。
研究発表は最初ということもあって、どういう風な発表にしようかと頭を悩ませたが、
まず問題意識がどうして生まれたのか&なぜ情報学環に来たのかについて説明し(持ち時間の半分)、
そこから形成された研究テーマの今後の展開について説明する(残り半分)スタイルにした。
多様な構成メンバーなのでこういう話はあんまり興味ないのかなーって思っていたら、
思いのほか盛り上がって絡んできてもらったことが嬉しかった。
また、終わってから良い研究発表だったという評価も受けた。
研究室で初めて発言(5/6)したときや文献発表(6/3)をしたときも大切な一歩だと感じが、
今回の研究発表は情報学環に来て初めての大きな山だったように思う。
初戦をいいかたちで経験できたのは今後大きな意味合いを持つだろう。

ちなみに発表時にはメディア活動の報告として“まろまろフラッグ”を持ち込み、
参考資料として急死した場合にまろまろHPをどうするかについて書いた“遺言”も添付した。
たぶん東京大学の歴史上、自分の旗と自分の遺書をゼミ発表で使ったのは僕だけだろう。
(またひとつ新しい歴史をつくった、スケール小さいけど(^^;)

9日
次の日に予定されている三者面談で情報を共有するために、
工学部棟に行って8日にした同じ発表を武邑助教授に聞いてもらう。
その際にいくつかのアドヴァイスを受け、研究テーマに関わる参考文献も借りる。

10日
指導教官と副指導教官と僕との三者面談。
すでにかなりの程度共有化されていたので、
この3人が一同に会したのは初めてだったにも関わらず、
問題意識の接点についての話やスケジューリングなどの具体的な話ができた。
前々から指導教官と副指導教官は近い問題意識を持っていると感じていたので
自分が直接面識のないこの二人をつなぐメディアになれたのも嬉しかった。

入学からちょうど3ヵ月、研究発表を終え、指導教官&副指導教官の三者体制も確立した。
それも1年前からは想像すらしなかった、指導教官=佐倉助教授(情報学環)、
副指導教官=武邑助教授(新領域)というベスト布陣を確立できた。
いままでは幸運に恵まれたことも大きいけれど、
せっかく来たんだからこれからも思い切りやっていこう。

2003 7/8~10
出来事メモ、まろまろ研究

まろまろ遺書~万が一のときのために意思を表明してみます~

遺言

<遺言要旨>
生命体としての僕の生命は終わりました。
遺言としてこの「まろまろ読書日記(http://maromaro.com/)」を公開し続けることを希望します。

<使用について>
引用を明記さえしてくれれば、その他のすべての知的所有権(特に著作財産権)は放棄しますので自由に使ってやってくださいな。
技術も日進月歩で変わっていくものでしょうから、その度ごとに自由に変化させていってください。
僕が書いたものが残ればそれでかまいません。フォーマットにはこだわらず、僕の感性が残ればそれでOKです。
ゲストブックも作っておきますので、よかったらどこを使ったとかとかどう思ったかを書き込んでくださいな。

<遺族へ>
宗教的なお葬式もお墓もいらないです。
もしお別れ会を開くなら、参加者は普段着着用で、仕事帰りにでも気軽によってくれるようにしてください。
(24時間スペース借りるとか工夫お願いしますね)

<最後に>
では、さようなら。
無機質な墓碑として静かに眠るよりも、有機的な情報体として生き続けることを望みます。


2003年7月7日 らぶナベ

(注)この遺言は民法967条に定められた要件をすべて満たしていませんが、理解ある遺族と、まろみあんを含む友人たちがモメたりしないことを期待しています。
モメたら祟りますよ(マジで)。

説明

急死したときに意思表示を明確にしておかないと混乱すると思うので遺書を書いてみました。
僕は生物的な遺伝子を残す衝動(性欲)よりも、文化的な遺伝子を残したり、社会的な生きた証を残したりする衝動の方が強いようなので(初台会談『利己的な遺伝子』『ミーム・マシーンとしての私』など)、意思能力のあるうちに死後のための意思を表明をしておきます。

こういうことをしようと思うのは家族が医療現場で働いていることや、阪神大震災経験者ということも影響を与えているかもしれません。
かつては死んだ後は自分の身体を肥料にして木を育てて欲しいと考えていた頃がありました。死んでしまっても自分の養分で生きる木があれば命がつながっているような気がしていたからです。この思惑は後になって法的な面で無理だと判明したのですが、つながりを持ち続けるという意味でもこのWEBサイトを残すほうが意味があると考えています。

メモを中心とした僕のWEBサイトは作品未満の欠片(カケラ)のようなものですが、そんな自分の欠片でも誰かに使ってもらったり共鳴したりしてもらえるなら、つながりが続くような気がします。よく「人間はアナログなもので、ネットやパソコンはデジタルだ」みたいな話を耳にすることがあります。でも、僕たち人間を作っている遺伝子はデジタルな情報(『ブラインド・ウォッチメイカー』)です。それなら僕のアナログな肉体がなくなってしまった後も、デジタルな情報として欠片を残せれば、その欠片を通して生きている人とつながり続けられるなら(『テクノコードの誕生』)、もしかしたらそれは死(=終わり)を意味しないかもしれませんね。

ここらへんは僕が死んでからこのHPがどうなっていくのかが一つの事例になると思います。
こういうことに興味がある人がいたら、考えたり研究したりする際にこのHPの事例を使ってみてください(^_-

ちなみにWEBサイトへの遺書を読むと、その人が自分のWEBサイトをどういう風にとらえているのかがわかるので、WEB-RINGを作ってみようかとも考えています。僕が生きている間に協力者募集中です。

2004年4月25日改訂

掲示板での話題はこちらこちら
MIXIでのWeb遺書コミュニティはこちら

ネットコミュニティお勉強会

巷で話題の『関心空間』を運営する(株)ユニークアイディの前田邦宏社長が
報告をおこなって、ネットコミュニティについて議論するというお勉強会にお呼ばれする。

会場となったRIETIが入っている経済産業省別館に行ってみると、
電力問題で電灯をほとんど消していてまるで廃墟のようだった(^^;
しかし実際の会の方は、参加者もGLOCOM公文俊平所長東浩紀研究員
そして『2ちゃんねる』の西村博之氏と実に熱い顔ぶれだった。

「(関心空間は)パーティに参加したときのような意外な出会いや発見を一番大切にしたい
→あえて一覧性&概観性を伏せた機能」、
「ネットコミュニティの色合いの違いはは街の色合いの違いに近い(白金、歌舞伎町など)
→日常の世界とようやくネットの世界が近づいてきた証拠?」などの
前田社長の報告はWEBサイト運営を通じて漠然と感じていたことの肉付けになった。
また、『関心空間』『2ちゃんねる』という日本を代表する
二大ネットコミュニティのトップが参加していたので、
この二つの違いや共通点についての議論が楽しかった。
懇親会を含めて5時間半の長丁場だったけどおもしろい関心空間だった(^^)
(2ちゃんねるについて前から疑問だった点をひろゆきさんに聞けたのも嬉しかった)

ちなみにこの日は会の後に友達を紹介してくれるというITOに呼ばれて渋谷に行く。
友達が大人数で飲み会をしているという新南口近くのBarに、
二千円の会費を払って入るとなぜかITOも知らない人ばかりだった。
しばらくすると、実はまったく知らない人の結婚式の二次会だと判明(>_< ) 「違います」っといえないスケールの小さい自分なので、 できるだけ知り合い面をして祝杯をあげさせてもらった。 ワンドリンク制だったのでちびちびと飲んでいると、 「ゲイが七割の我々の集まりでもこうしてカップルが成立して・・・」 っという来賓挨拶があった。 一気に残りのお酒を飲み干してあわてて出てきてしまった。 ・・・これも現実世界での意外な出会いの楽しみの一つか?(^^;

2003 6/14
出来事メモ

ご近所づきあいスタート in 小石川

ときどき挨拶を交していた隣の敷地に住んでいるご夫妻からお食事に呼ばれる。
二人とも奄美列島(徳之島と宝島)の出身なので人を呼んで食事をするのが好きらしく、
食事にはご夫婦のお母さんや子供、孫、親戚まで来ていて賑やかだった。
(献立はもちろん奄美料理→ごはん日記にアップ)
話によると高度成長期に集団就職で奄美から東京に出てきて以来、
家族や親戚は近い場所に住んでいて頻繁に往来しているらしい。
中には小さな赤ちゃんと若いお母さんもいたが、
かつて奄美では地域ぐるみで子供を育てたらしく、
東京に出てきてからもそういう付き合いが続いているらしい。
(奥さんの方もその新米ママのおばあさんに小さい頃お世話になったそうだ)
同郷ネットワークや血縁コミュニティは時としてマイナス面が指摘されることもあるけど、
いろんな意味でこういう繋がりはやっぱり大切なんだなーっと感じた。

また、これが東京に引越ししてからはじめての
=実家以外での生まれてはじめてのご近所さんづきあいになる。
文京区は東京の古い町並みと風土が残っている街だと思っていたけど
実際にこうして食事などにお呼ばれされることになるとは思っていなかった。
これを機会にローカルネットワークも大切にしていこう。

2003 6/8
出来事メモ

本能の強さを感じた講話会

タンジブル・ビットで有名な石井裕MIT教授の講演会(情報学環講話会)に参加する。
講演会の一番最初に出た「2100年(自分が死んだ後)に何を残したいか、
どういう風に思い出されたいか(名前か、業績か、作ったものか)」を考えて
自分のやるべきこと、方向性を決めていくという話には感銘を受けた。
自分の匂い、カケラを残すのが生命としての本能だとすれば、
その本能を感じて行動している時が生命として一番力を発揮できるはずだ。
それを実践している人が研究分野にもいることに勇気づけられた気がした。
講演中もその後の懇親会でも「飢餓感は誰からも教われない」と何度も言っていたが、
自分なりの言葉に置き換えさせてもらえば「衝動は自分で感じるしかない」となるのだろう。

また、この講話会には歌手のUAも参加していた。
ちょうどHPでもNHK教育の「ドレミノテレビ」での彼女の弾けっぷりを
話題にしていたところだったので、奇妙な縁を感じて話しかけてみた。
想像通りあの番組では彼女自身もかなり楽しんでいるということだった。
(気さくにツーショット写真まで撮ってもらって感謝!)
石井教授といい、UAといい、ものつくりはどんなに苦しくても、
基本は楽しまなくてはいけないということをあらためて感じた日でもある。

2003 5/10
出来事メモ、講演会

神田祭 with まろまろフラッグ

神田明神を中心とした界隈の神田祭にまろまろフラッグを持って参加する。
東京商工会議所の安藤から誘われて小石川の自宅から東神田までフラッグを持って歩き、
そこで神輿を担いでいた面々と合流してから神田明神に行く。
神田明神では神田祭を生中継する東京ケーブルネットのトーク番組にもゲスト出演(15分間)した。
スタジオにまろまろフラッグを持ち込んだのでフラッグごとテレビに映されたが、
後から考えたらこれがまろまろフラッグの初メディア進出だった。
(ぷちぷちメディアミックス)
また、祭りの間中ずっとフラッグを掲げていたので「まろまろって何?」とよく質問された。
その度ごとにURLを書いた紙を渡しながらサイトの説明をしたが、
高齢な人でもけっこうネットを使えていることに驚いた。
メディアの複合性を考えるきっかけになった一日。

2003 5/10
出来事メモ、サイト運営

「色彩の遺伝子」ゲット

デジタルアーカイブを専門とする武邑光裕助教授(東京大学大学院新領域創成科学研究科)から
日本の古代色を復元したデジタルデータ集「色彩の遺伝子」をゆずってもらう。
たまたま彼の講演(情報学環講話会)を聴きに行った際に、
現在の関心が個人のアーカイヴに移ってきているという話や
「コンテンツよりもコンテキストが重要」という話が出たので
これは共鳴できそうだとこちらの自己紹介をしてみるとあれよあれよという間に
「色彩の遺伝子」のデータを「まろまろ読書日記」に使わせてもらえることになった。

また、データ受け取りの機会にWEBサイトを運営して感じたことについて話をさせてもらうと
同じような視点、問題意識を持たれていたので立場は違えどかなりの意見交換ができた。
(複数のジャンルにまたがるものの視覚的表現の模索、個人による情報発信の重要性など)
このデータ集をもらえたことだけでも、もう今年一年の授業料のもとは取れたと思う(^^)

2003 4/15
出来事メモ

転機は天気だけど天機にしようと思った大阪最後の日

合気道の先輩が東京本部道場への紹介状を書いてくれたので難波で会う。
その先輩は僕が大学受験を失敗して悶々としていたときに
なにかと気にかけて相談にのってくれていた人だ。
進学先もその人がたまたまその時期にその大学と仕事をしていて、
「いろいろな改革をしていてすごく面白いと思うよ」
と言ってくれたのが受験のきっかけになった。
今にして思えば今回の院進学も普段あまり断定的なことを言わないその先輩が
真っ先に「行くべきだ」と言ってくれたのがきっかけのひとつになっているように思う。

その先輩から「一年で一人、何でも話せる知り合いをつくれ」と言われた。
本当にそれができたならすごいことだと思う、挑戦してみよう(^^)
また、「年齢とか経験とか一般論を気にするのはお前らしくない、
お前はお前のやり方で思いきりやれ」とも言われた。

よく考えたら自分はいつも誰かに励まされ続けて進んできたように思う。
今回も励ましをうけて転機をむかえる。
転機は、天気のようにどうなるかわからないものだけど、天機になるようにしたい。
そう思った大阪最後の一日。

2003 3/15
出来事メモ