初出馬~一歩を踏みだした初めての選挙~

一歩を踏みだした。

平成19年度文京区議会議員選挙に無所属で立候補した。
利益追求ではなく、非営利で「かけ橋」になる仕事がしかたったからだ。
これまで研究してきたオンラインとオフラインとのコミュニケーション・デザインを臨床医学と同じように社会に還元するため。
そして、地域コンテンツを基点にした文京区友の会に代表される新しい地域ネットワーク活動を政策につなげるため、
「博士が学校にやってくる」、「文京カフェにあつまろう」、「文化の京をつくろう」、の三つを掲げて出馬した。
一歩を踏み出すのは本当に勇気のあることだったけれど、結果は落選だった。

勝たなくてはいけない選挙での落選、まさに受け入れがたい痛恨の敗北だった。
選挙に向けた準備期間、そして選挙期間中の出来事については、ここに載せきれないログがある。
手元にあるログは今後、出来事メモとはまた違った切り口でコンテンツ化するかもしれないけれど、
どの政党にも属さずに自力で出た生まれて初めての選挙は、一言で言えば「忘れられない日々」となった。

検討段階からの厳しいプレッシャー、揺さぶられる出来事も続き、毎日が決断の連続だった。
(政策面ではなくスタイル面だけど新聞報道もされたし、普段なら絶対に会わない人と会う機会も得た)
そして選挙期間中の、初めて拡声器を握って街頭演説したこと、道行く人に一対一で話かけて政策を語ったこと、政党からの嫌がらせ、冷たい反応と暖かい反応・・・
悪いことも良いことも、どれもがこれまでの人生には無かったほどの大きなインパクトを受ける出来事ばかりだった。

確かにつらいことやくるしいことは多かった。
天候面でも1週間しかない選挙期間、それも6日しかない活動期間のうち、3日間が冷たい雨だったのは痛手だった。
傘を差して荷物を持つ足早な人たちに話しかけること、演説することは至難の業だったからだ。
環境面でも活動面でも肉体的・精神的にヘトヘトになる日々が続いた。
でも、決して途中でやめようとは思わなかった。
それは自分のポリシーを表現して伝えていくことに価値を感じていたからだ。
そう思えた原因の一つは、当初想定していたよりも街頭演説に耳をかたむけてくれる人が多かったこと、
一対一で話しかけた時に立ち止まって話を聞いてくれる人が多かったことも影響している。
「選挙という名のパブリック・アート」と言えるかもしれない。

制約の多さやまわりの関心の薄さの中で、工夫も編み出した。
たとえば東京大学の正門に向かって演説する時は、「これは罰ゲームではありません」と笑いを取って
注目を集めてから演説を聞いてもらう方法を身につけりもした(^_^)v。
政策面を訴えることはもちろんだけど、選挙事務所も街宣車も使わなかったので、
「私は街宣車で名前の連呼はしません、こうして政策を語っています」と呼びかけることもした。

そんな困難と工夫の中での選挙期間中にはさまざまな思い出があったけれど、
特に印象深かったのは、スーパー(santoku)の前で演説している時に僕の演説に向けて携帯電話をかざしている人がいたことだ。
帰り際に「つかぬことをお聞きしますが”まろまろ”さんですか?」と話しかけてくれた
その人の話を聞いてみると、その人の旦那さんがまろみあんとのこと。
まったく見ず知らずの人だったけれど、これまでやってきたことのつながりを実感した体験だった。
初対面だったのに声をかけてくれた人や、演説を聞きながら涙を流してくれていた人など、
これまでの人生では経験しなかった出来事の連続だった。

結果として980.103人の人たちの支持を得ることができた。
わざわざ投票所にいって僕の名前を書いてくれた人がこれほどいてくれたことは、とてもありがたく、勇気づけられた。
それだけに、だからこそ、この声に結果で応えられなかったことは大きな悔いを残した。

敗因はまだ分析の途上にあるけれど、現時点では・・・
1:環境面
=早すぎた
→現行制度上は選挙期間中にネットでの活動は一切認められていない
→無党派新住民は急速な増加傾向にあるものの未だ地方選挙の点ではメインになっていない

2:判断面
=プッシュとプルの比重判断ミス
→文京区友の会などのネットコミュニティからの反発に配慮しすぎていて出馬公表を遅らせた
→プル&ブッシュで言えばプルに力点を置きすぎて、最後に必要なプッシュの総量が足りなかった

3:人材面
=最後の人材配置ミス
「地域と大学連携のための公開シンポジウム」までは機能していた情報機動戦が、直前の一週間と選挙期間中の一週間では機能的でなかった
→采配・事務連絡をしながらでは、肝心の街頭演説や一対一の対話に集中しきれなかった

・・・1については、出馬の段階でどうしようもないことなので置いておくにしても、2と3は悔やまれる。
街頭演説、そして一対一での対話には手応えを感じていたので、月火水の3日間が雨でなければ、
そして表現できる期間があと一週間あれば、と思うと自分の判断ミスが口惜しくてたまらない。
まとめると、不利な状況の中で、ゴール前までは進めたのに、最後の最後のフィニッシュの段階でばたついてしまって精度を欠いてしまったというところだろうか。
方向性は間違っていなかったけれど、「足りなかった」。

確かにこの敗因分析の中には、事前に選挙のプロや選挙コンサルを自認する人たちから事前に耳にしたこと点もいくつかあった。
でも、僕は彼らの見解に説得力は感じなかった。
それは、理論と信念の両方から説得性を感じなかったからだ。
まず、彼らが語る言葉はあまりにもブレが大きすぎる上に、母数(N)が少なすぎるので、単なる思いこみや小さな成功体験を語っているようにしか聞こえなかった。
つまり、理論として採用するには説得性が欠けた。
また、単なる思いこみや成功体験でも、それが信念であったなら響いただろう。
でも、矢面に立ってリスクをおかなさい人の語る信念にはやはり説得性がなかった。
だから僕は自分で矢面に立って戦った。

そして負けてしまった。
負けていい経験になったとは言いたくない。
負けて学べることはないと常に思ってきた。
ただ、歴史を振り返れば、源頼朝(石橋山の戦い)、足利尊氏(対北畠顕家戦)、徳川家康(三方原の戦い)も、
ちょうど僕と同じ年頃(30から30半ばくらいの間)に大きな敗戦をしている。
負けを活かさなかった成功者はいない。

また、中国の曹操も僕と同い年くらいに、対董卓戦で大きな負けをしている。
それも同じく無謀な戦いといわれた戦いで負けた。
北方謙三の『三国志』ではこの時の曹操が対董卓討伐連合に対して・・・
「私は戦って負けた。戦わずして負けた諸君に決別を告げる」
・・・と言い放つシーンがある。
僕は戦って負けた。
だから戦わずに偉そうなことを言う人たちとは決別する。
そして決別を告げるのはそうした無責任な人たちだけでなく、足踏みする自分自身の内面との決別だ。
自分の中にある政治性とリーダーシップに目をそらしてきた自分に決別する。

確かに僕は負けた。
勇気を出して一歩踏みだしたら、いきなりつまづいて捻挫してしまった。
そんな僕を理解してくれた人、応援してくれた人に感謝したい。
さようなら、足踏みしていた過去の自分。

2007 4/15~22
出来事メモ、進路関係
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追記:13年後の2020年4月に母校で地域連携担当として勤務する。
足し算でも引き算でもかわない。
自分が思う10を目指せ。

「地域と大学連携のための公開シンポジウム~文京区と東京大学との連携を考える~」開催

僕がコーディネーターとして主体的に関わった「地域と大学連携のための公開シンポジウム~文京区と東京大学との連携を考える~」が、文京シビックセンター最上階のスカイホールで開催される。

地域と大学との間にかけ橋をかける一歩として、こうしたシンポジウムを開催することは去年から取り組んでいたプロジェクトの一つだった。
しかし、ここにいたるまではまさに二転三転の紆余曲折と変遷があった。
それでも、その度ごとにリカバーでき、この時期に開催できたのは、情報機動戦を展開するまろじぇくとXメンバーの協力、文京区友の会の会員の理解、そして参加してくれた人がいたからだ。
(50人定員のところ、61人もの参加者に来てもらえた)

振り返ってみれば再開発に巻き込まれて地域の接点の大切さを感じ、自分なりにできることとして文京区占い文京ごはんをコンテンツ創造し、縁日にも出店した。
その流れで文京区友の会を立ち上げて、mixi文京区コミュニティも引き継ぎ、朝オフなどでご近所さんつきあいの場づくりをおこなってきた。
最近では文京区友の会を基点にして、大学の研究成果を地域に還元するてくてく文京も実現することができた。

今回のシンポジウムでは、こうしたこれまでの活動紹介と、これから取り組んでいく地域貢献プロジェクトについてのプレゼンできたこと、
そしてディスカッションの場がもてたことは、個人的にも良い区切りになった。
場としても、シンポジウム後の懇親会にも想像以上の参加者が来てくれて、情報交換や紹介の機会として盛り上がったのも嬉しいことだった。
シンポジウム、懇親会が終わってからも、二次会でも活気が続いたのは、これまでの活動の区切りであり、次のステップへの盛り上がりとして感慨深いものだった。
躊躇う時期は過ぎたのかもしれない。

2007 4/7
出来事メモ

石原慎太郎東京都知事との対話

石原伸太郎・東京都知事と対話をおこなった。
カリスマブロガーとしてお呼ばれしたものだが、普段なら絶対に行かない。
(そもそもカリスマブロガーってw)

でも、今回は彼にどうしても直接聞きたいことがあった。
それは、「なぜ選挙に出たのか?」ということだ。
小説家として十分な成功を得ていた彼が、なぜ様々なプレッシャーとリスクの大きい選挙に出たのか。
コンテンツは違うけれど、同じ表現者として自分の出馬の前に聞いてみたかったので会うことになった。

彼の応えは「生きている間にいろいろなものが余ってくる。そうやって余ったものを表現するために選挙に出た」というものだった。
そして「石原さんの職業は何ですかと聞かれれば、俺の職業は人生だと答えるようにしている」と語ってくれた。
こうした応えは、出馬を前にした僕にとって強く共感できるものだった。

また、「表現をしてればいつか個人は社会とぶつかる。社会とぶつかれば個人は必ず負ける。
でも俺は敗北はしても敗退はしない」とも語ってくれた。
この言葉はすごく印象に残った。
(この意味を18日後にかみしめることとなった)

正直、彼とは政治スタンスも違うし、ついていけないと思うところもある。
でも、表現者として、そして人生の先人として言いようのない魅力を感じた。

ちなみに僕はバックボーンやスタンスなどから左寄りに思われることもあるけど、話が合うのは極めて右な人が多いことをあらためて確認(w

2007 4/4
出来事メモ

『てくてく文京』が文京区立図書館で閲覧可能になる

文京区友の会会長として携わった、街歩き本をつくろうプロジェクト: 『てくてく文京』が、ついに文京区立図書館で閲覧可能になる。
この「てくてく文京」は、オンラインで流通しがちな現代の街情報と、図書館の地域資料との間に回路を創り出すことを目的としたプロジェクト。
オンラインとオフラインとのコミュニケーション・デザインという僕の修士論文の延長線上にあり、かつ、文京区友の会という僕のいまの関わりと連動したものだ。
メンバーとしては、文京区友の会の新大塚朝オフ会参加者のみなさんが中心となっている。

思えば再開発に巻き込まれて地域の接点の大切さを感じ、自分なりにできることとして文京区占い文京ごはんをコンテンツ創造し、縁日にも出店した。
その流れで文京区友の会を立ち上げて、mixi文京区コミュニティも引き継ぎ、朝オフなどでご近所さんつきあいの場づくりをおこなってきた。
それが今回はこうしたプロジェクトとして成果物が目に見えるようになったことは感慨深い。
図書館の地域資料コーナーに並んだこの『てくてく文京』には、新しいコミュニティ創発型コンテンツの可能性があると確信できる。

2007 2/13
出来事メモ

追記:2011年1月にこの『てくてく文京』をモデルにした『てくてく松阪』を三重県松阪市で実施。

追記:2012年10月にこの『てくてく文京』と『てくてく松阪』を国際ワークショップで発表

追記:2014年6月にこの『てくてく文京』と『てくてく松阪』をモデルにした『てくてく常滑』を愛知県常滑市で実施。

「宮の湯」 (銭湯)

根津の言問通りと不忍通り交差点近くの路地裏にある銭湯。
お風呂の温度は総じて高めで、沸かし湯浴槽より薬湯浴槽の方が温度が高かったのは驚いた。
番台前のソファーにゆとりがあったので、待ち合わせでも館内で落ち合えて湯冷めしないのがGood。

2006 10/29
ぷかぷかお風呂日記、文京お風呂
まろまろヒット率3

講談社大阪取材チームのコーディネイターをつとめる

講談社学術出版部発行の『アースダイバー』編集班からの依頼を受けて、
日本一の和太鼓作りの町・大阪の浪速町(旧渡邊村)を中心としたプレ取材のコーディネイターをつとめる。

取材チームは中沢新一多摩美術大学芸術人類学研究所所長、矢田部和彦パリ第7大学助教授、
講談社の編集者二人、アシスタント一人、そして僕の合計6名という、プレ取材の割には大所帯になった。
(それだけ関心が高いということなんだろう)

実は編集班は、以前から大阪のディープ・エリアについてはかなり調べていたらしい。
確かに駅前や幹線道路沿いを見ればわかるように、いま日本では地方ほど画一化が進んでいて独自の文化は失われつつある。
そんな中で独自の文化が残っているものは、独自の理由がある場合が多い。
今回取材した和太鼓に代表される皮製品や、あぶらかすやさいぼしのような食文化はまさにその一つと言えるだろう。

そんなこんなで大阪の独自文化に注目した編集班だけど、さすがに緊張感のある取材先だとして敷居の高さを感じていたらしい。
そんな折りに、まったくの偶然で僕の再合併した家族(歴史編纂委員会事務局長かつ某団体幹部)の本を編集班が読んでいたこと、
僕の十年来の友人(まろみあん)が編集班にいたことなどの巡り合わせが重なって僕に白羽の矢が立った。
(めぐりめぐって人ってツナガルものですな)
確かに僕ならそれぞれの側の言葉を翻訳できるし、その場に僕が入っていれば摩擦も少ないので、
文化人類学でいうラ・ポールに当たるんだろうと思い引き受けた。

何度か講談社での打ち合わせをした後に(もちろん社食で(^_-))、前日から大阪入りして先行調査
取材当日は現地のお好み焼き屋さんで昼食がてら最終打ち合わせをしてから、解説を受けに行く。
ある程度予想していたこととはいえ、解説には再合併した父親が出てきて大阪の地形の変遷や地域の歴史の説明をおこなってくれた。
(さすがに再合併した家族と一緒の仕事になるなんて、今までやった仕事の中で一番恥ずかしかったものの一つだ(^^;)
解説を受けてからは大阪市立人権博物館を見学、後半は太鼓作りを見学&ヒアリングした。
その後は車で解説を受けた地形の変遷を一通り確認してから、現地の食堂でかすうどんやさいぼしなどのごはんを食べる。
夜も土地勘があるディープ・ゾーンを案内、お茶をしながらフィードバックをして、ようやくホテルに泊まる。

次の日は富田林や千早赤阪村まで車を走らせた取材に同行。
この日は基本的にコーディネイターのお仕事がほぼ終わっているのでかなり気楽なものだった(^^)

ちなみに僕のバックボーンのことが話題になる際には、「人格形成にバックボーンは影響しているのか?」と聞かれることが多い。
闘志だった親とは違って、僕にとっては日本出身とか大阪出身とかいう話と同じような比重のもので、自分ではよくわからない。
たとえば、ガンバるか、それともダメになるか、の二つに一つしかないユダヤ人の気持ちが何となく分かるというくらいだろうか。
今回のコーディネイターの仕事をしてもう一度振り返ってみると・・・

1:アンチ巨人
 →勝ち組嫌いではなくそれに追随する人たちとは合わない

2:格差は生まれてもいいけど、それが固定化するのは疑問
 →だから世襲に対する評価が低い

3:二流のA級より一流のB級好き
 →えせセレブとは肌が合わない

・・・という部分はバックボーンがいくらかは影響しているのかもしれない。
あとは、恐い人たちにスゴまれても、刑法222条を持ち出すまでもなく、
「アウトローにはアウトローのルールがある」と返せることくらいだろうか(笑)。
そんな僕はご先祖様がアウトロー(^_-)

2006 9/7~9
出来事メモ

追記:6年後にこの企画が『大阪アースダイバー』として単行本化する。

まろうさ携帯ストラップ型クリーナー「まろうさフキフキちゃん」完成

まろまろ印の携帯ストラップ型クリーナー「まろうさフキフキちゃん」が完成する。
(画像はこちら)

ここ数年、ごはん日記のコンテンツ創りやアウトプット表示で携帯電話のレンズや画面を綺麗にする機会が増えた。
無造作に拭くと汚れが取れないし、レンズや画面を痛めることもあるので携帯クリーナーの必要性を感じていた。

そこでどうせ使うならと、まろうさロゴとmaromaro.comのURLとが組み合わさった携帯クリーナーをゆうりんさんの協力を得て創造してみる。
クリーナーとしての使いやすさを重視してゴムで伸縮可能にしているなど実用性を高めつつ、
まろまろ感がかもし出されているという自信作。
「一人一ブランド」を提唱する僕の物証の一つとなってくれるだろう。

2006 8/5
出来事メモ、サイト運営

追記;「ほしい」という声が出たのでYahoo!オークションで出品中↓
マイ・オークションをごらんください

夏期集中講座「情報検索のための情報発信論~インターネット情報の特性とその対応~」講師をつとめる

山梨県都留市にある都留文科大学で、夏期集中講座の講師をつとめる。
お題は「情報検索のための情報発信論~インターネット情報の特性とその対応~」。

図書館司書を目指す人のカリキュラムの一環ということもあり、ライブラリアンの役割が変化していることを前提に内容は・・・

1:インターネット情報の特性を事例を使って紹介
 →書籍情報と比較しながら、インターネット情報はコミュニケーションの結果としての情報でうにうにしている点を強調

2:そうしうたインターネット情報にアプローチする検索エンジンの概要を紹介
 →動的に変化しているインターネット情報に対応する検索エンジンの仕組と各社の比較

3:では、どのようなスタンスでインターネット情報を検索&把握すればいいのかの一例を紹介
 →動的に変化している情報に対するには、検索を受動的なものではなくて何を知りたいのか表現する情報発信という意識でおこなう必要性を強調

・・・という構成でおこなった。
(事実紹介7割、方法論3割といった感じ)

講義中は受講生の反応はそれほどでもなく、「届いているかな?」と不安になることも一瞬あったが、
休み時間に書いてもらったフィードバック・ペイパーにはどれも質問や感想がびっしりと書かれてあったので驚いた。
回収した紙に応えるかたちで後半の講義を進めて終える。

講義終了後は質問をしに来てくれた受講生が何人もいたし、晩ごはんを食べる時も講義を聞いた受講生に加えて他の学生も来てくれた。
中には僕の講義を受講した後にバイトに行ってから、また夜11時過ぎからかけつけてくれた受講生までいて熱心さを感じた。
(学生の多くは他県出身者で、だいたいは大学の近くに住んでいるということもあるらしい)
講義中に反応が少ないと感じたのは、どうやら受講生はインタラクション型講義にあまり慣れていないということや、
約20人という人数規模の要素が大きかったようだ。
熱心さが伝わってきて中央線+富士急行を乗り継いで来た甲斐があったと感じた(T_T)

振り返れば、僕はこれまで教育的な立場に立つことや指導的な役割を担うことを意識的に避けてきた。
それは、手軽に人の上に立ちたがる割には自省的で無くなるという、教育者の職業病を小さい頃から見てきたからだ。
(プライドの高さと自己管理能力の低さのギャップに対する嫌悪感)
ただ、ある段階から、そのような役割を担うこと、その適正があることを受け容れるようになりつつある。
今回の出来事はその大きな流れの一つのように感じた。

感慨にふけりながら次の日は受講生から教えてもらった吉田うどん石和温泉を体験して帰る。

2006 8/3
出来事メモ、まろまろ研究

コンテンツ創造科学&Yahoo! JAPAN共同プロジェクト「検索技術と情報ビジネス」

東京大学コンテンツ創造科学とYahoo! JAPANの共同プロジェクト「検索技術と情報ビジネス」の演習を、六本木ヒルズ26階のYahoo! JAPAN本社でおこなう。

前の週まる一週間かけたインプットを終えてからの、この日はブリーフィングも含めて半日がかりでの演習だった。
演習で組んだ相手はプレゼン経験豊かな人物(Disney INC在籍)だったので、僕は主にアイデアやキャッチフレーズ創出と質疑応答での対応の役割を担った。
詳細は非公開だけど、Yahoo! JAPANの既存のサーヴィスを組み合わせたものという趣旨にそって出した「Yahoo! LIFE」(仮)の提案は、
フィードバックの反応もよく盛り上がったものになった。

演習が終わってから東大側とYahoo!側のスタッフが一同に交いして軽いお茶会(茶話会?)をおこなう。
そこでさまざまな部局のスタッフさんたちと話す機会が得られた。
肩肘張らずリラックスした雰囲気の中での集まりだったけど、会話の内容はどれも濃密なものばかりだった。
お互いが一対一で話し合えるこの集まりは、前週とこの半日を使った共同プロジェクトの中で一番充実した時間に思えた。

思えば1995年からネットを使っていた僕は、1996年のYahoo! JAPANスタートから利用している熟練ユーザーになる。
さらに2001年のサイト開設からはWebマスターとして関わり、ディレクトリ登録された時のこともよく覚えている。
そんな同時代を生きた人たちと話す機会は、ずっと対岸にいた人たちと初めて話をした気分になって感慨を覚えた。

2006 8/2
出来事メモ