神岡学 『よわむしのいきかた。』 大和書房 1999

6月に東京に行った時に新宿の紀伊国屋で並んでいるのをちらっと見て以来、
気になって大阪に帰ってきてから差がし続けていたいわゆる大人の絵本。
最初この本を見たときはいかにもクレヨン描きの表紙の絵と
ひくつなタイトルにあざとさを感じて買って読もうとは思わなかったが
時間がたつにつれてどこか気になり続けたという
なかなかに自己アピールのうまい一冊。

内容は表紙を見たまんま。
「よわむし」という主役(いもむしに顔をつけたという感じの絵)が
生きていくお話、こういう本の例にもれずちょっと説教くさかったり
自己弁護の一生懸命さが時々うさんくささを醸しだしているが
それでも読んでいてまろまろした気分にさせてくれる。

例えばつらそうなみのむしの絵の側に「キミはふかれている。」
花をくわえているよわむしの側に「ボクはうかれてる。」
と書かれているページは変に脱力感を感じさせてくれる。
また、「思いやりとかやさしさとか我がままに生きるなら必要だよな。」
というページにも妙に納得してしまった。
最後らへんで・・・
「大きく見える世の中なんて、ボクみたいにちっちゃいもんが
いっぱいかさなってできているんだ。大手をふっていこう。」
・・・としているのはこの本の「らしさ」の結論か?

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1999 8/12
絵本
まろまろヒット率3

梶井基次郎 『檸檬』 文藝春秋『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』より 1999

らぶナベ@今日は祇園祭りっす

さて、ふと『檸檬』梶井基次郎著を読んだです。
(『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』文芸春秋1999年初版より)

言うまでもなく梶井基次郎の処女作で代表作の短編。
最近この作品に出てきた八百屋「八百卯」がフルーツパーラーに変わって
まだ京都にあることを知って作品自体に興味を持っていたところに
文芸春秋から梶井基次郎と中島敦の短編を一冊にした文庫が出たので
これは良い機会だと思って買って読んだ一遍。
読んでみると・・・やっぱり怠惰だ、けだるさや脱力感を感じる。
だからといって暗くじめじめしていないし、イヤさを感じないのは
最後は爆弾にまでなってしまう鮮やかな檸檬がこの作品の柱だからか?

この作品を通して感じるけだるさとあざやかさ、
この対比っていうのは大阪人である僕が
京都という街から受ける複雑な感じに似ているかもしれない。
そういえば梶井基次郎も十歳までは大阪で育っていた。

ま、とりあえずまだ現存する「八百卯」に行った後は
丸善の画集コーナーで檸檬プレイをしてみよう(^^)

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1999 7/16
小説・文学
まろまろヒット率5

追記:約8年半後の2007年12月27日に実現&うっかり再読

福嶋康博 『マイナスに賭ける!』 KKベストセラーズ 1998

僕が去年内定していて現在株を所有している、
株式会社エニックスの社長である福嶋康博の本。
大学院の講義で使うことになるかもしれないので株主総会でもらった本。
いかにも企業トップの出しそうなタイトルと出版社にかなり引いたが
「まぁ社長が書いた(?)本なんてこういうものだろう」と読んだ一冊。

内容は予想通り自分の半生と成功談と成功した考えが書かれていた。
彼とは最終面接も含めた採用過程で三度会って少し話をする機会があって
後で聞くとどうも彼に気に入られて採用が決定したそうだが
僕自身彼には憎めないというか好感を持っていた。
ただ、それを本にすると薄っぺらくなってしまうなという感じだ。
そうした中でそれでも印象に残った箇所が・・・
「まわりの人には常識であっても、自分が心から納得できるものでなければ、
自分にとっては”不自然”なこととしか思えない。
つまり、自然さとは自分が納得できるかどうかということなのである。」
・・・というものだ、確かに強く納得できる。

また・・・
「私は不安のために行動を起こしているのである。」や、
「小さなことをやるのも、大きなことをやるのも苦労はそう変わらない。
だったら高い目標を持って、自分自身を信じて大きなターゲットで
ナンバーワン目指してチャレンジしたほうがずっとやりがいがある。」
・・・のような意見・・・
「自分が正しいと思ったことは三回では主張し続けろ。」
・・・というところは直接彼から聞いたことがあるだけに印象深い。

そしてやっぱり慎重だなと思ったのが、
訴訟を起こすときも勝つことではなく
「どういう情況になるとウチは負けるのか?」と負ける条件を並べて
それらを確実に潰していこうという姿勢だ。

事業に関しては・・・
「事業をやるならば、玄人よりも素人のほうが当たることが多い。
玄人はアイデアがでてきても業界の常識に縛られてしまって
簡単にダメだと判断してしまうからである。素人ならば、
いいと思ったことを素直に実行するから施工する可能性が高い。」

「企画マンとしての固定概念を打ち破るような発想は、
ゼロから考えるところにあるといえる。」

「自分は強いから勝つことになっているという自然体で臨んだからである。」
・・・などは彼らしい(エニックスらしい)意見。

「周囲の人間が悲観的に振れている現代では、
マイナス思考で物事を考えている人が多い。
その常識に照らして合わせて考えるクセをつけてしまうと、
どんどんマイナス思考へのスパイラルに陥ってしまう。
そこで、世間の常識というモノサシ自体が本当に正しいものかどうかを、
疑うことからはじめることをおすすめしたい。」
・・・とは成功者だから言えることだがそれだけに言う価値があるだろう。

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1999 7/11
経営学
まろまろヒット率2

塩野七生 『マキアヴェッリ語録』 新潮社 1992

僕はいい加減な人間だからどんなものにフリーライドすることになっても
良いと思うけど自分の人生に対してだけはフリーライダーには
ならないでおこうと思っている、らぶナベっす。

さて、そういうことも考えさせられた『マキアヴェッリ語録』
塩野七生著(新潮文庫)1992年初版の感想をば。
著者はヴェネツィアをえがいた名著『海の都の物語』で有名な作家。
女流作家には珍しくドライな視点と綿密な資料による裏付けを持ち、
だからと言って小さくまとまってはいないという
(彼女の描く男たちはみんなカッコ良い!(^^))
現在生きている歴史小説家の中では一番信頼できる本を出してくれると
僕が勝手に独断と偏見で思っている作家の一人。
現在はイタリアに住んでいて毎年一冊づつ、『ローマ人の物語』を出版している。
これも歴史に残る名著になりそうな流れ、いつかは読破してやろう(^_^)

この『マキアヴェッリ語録』自体はマキアヴェッリの本の完訳でも
要約でも解説でもない「抜粋」という形を取ってまとめられている。
抜粋集からさらに抜粋するというのも変な感じだが、
この本の中で一番僕が印象に残り気に入ったのが・・・
☆天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。
『手紙』
→これはまさにマキアヴェッリらしいというかルネサンス期の
時代空気そのままといった感じの言葉、カッコ良いので気に入った(^^)

それと我が意を得たりと思った・・・
☆困難な時代には、真の力量(virtu)をそなえた人物が活躍するが、
太平の世の中では、財の豊かな者や門閥にささえられた者が、
わが世の春を謳歌することになる。
『政略論』
→つまり現代は僕が活躍できる可能性がちゃんと用意されているってこと、
生まれてくる時代は間違わなかったなとニヤリとできた箇所(^o^)

その他でこの抜粋集からさらに僕が抜粋したものが以下、
例のごとく「☆」重要と思い「○」が単なる抜粋、
「→」はそれに対する僕のコメント、
「☆」の抜粋に関しては印象深いものから順番を変えた・・・

☆決断力に欠ける人々が、いかにまじめに協議しようとも、
そこから出てくる結論は、常にあいまいで、
それゆえ常に役立たないものである。
また、優柔不断さに劣らず、長時間の討議の末の遅すぎる結論も、
同じく有害であることに変わりない。
・・・多くのことは、はじめのうちは内容もあいまいで不明確なものなので、
これらをはじめから明確な言葉であらわすことはむずかしい。
だが、いったん決定しさえすれば、
言葉など後から生まれてくるものであることも忘れてはならない。
『政略論』
→時々忘れてしまうが緊急の時には決して忘れてはいけないところだろう。

☆なにかを為しとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、
自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、
それに合わせるようにしなければいけない。
時代と情況に合致することを怠ったり、また、
生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、
生涯を不幸のうちにおくらなくてはならいないし、
為そうと望んだことを達成できないで終わるものである。
これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、
望むことも達成できるのだ。
『政略論』
→時代性を読みとる力が決定的な差になるという彼らしい言葉だろう。

☆幸運に微笑まれるより前に、準備は整えておかねばならない。
『戦略論』
→これは雌伏の時を過ごしている僕にとっては忘れてはいけない言葉。

☆運命が、われわれの行為の半ばは左右しているかもしれない。
だが、残りの半ばの動向ならば、運命もそれを、
人間にまかせているのではないかと思う。
『君主論』
→ドライな視点が決してギスギスしている訳じゃないということを
教えてくれる言葉。

☆人の為す事業は、動機ではなく、結果から評価されるべきである。
『政略論』
→彼の現実主義的な特徴はこの一言に要約されているだろう。

☆思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、
力だけならば、実行に移したことも継続することはできない・・・
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』
→バランスってやつ。

☆必要に迫られた際に大胆で果敢であることは、
思慮に富むことと同じと言ってよい。
『フィレンツェ史』

☆運命がなにを考えているかは誰にもわからないのだし、
どういうときに顔を出すかもわからないのだから、
運命が微笑むのは、誰にだって期待できることであるからである。
それゆえに、いかに逆境におちいろうとも、
希望は捨ててはならないのである。
『政略論』

☆(大事業を提唱する際の危険性を避ける方法として)
つまり提唱者は自分であるということを明示してはならず、
そのうえ、提唱する際にも、やたらと熱意をこめてやってはならない。
この種の配慮は、たとえあなたの考えが実行に移されても、
それは彼等が自身で望んだからであって、
あなたの執拗な説得に屈服したからではないと、思わせるためなのである。
・・・第一は、危険を一身に負わなくてもよいということである。
第二は、もしもあなたの提唱する考えが容れられず、
代わりに他の人の案がとりあげられ、それが失敗に終わった場合、
今度はあなたが先見の明があったということで賞賛される・・・
『政略論』
→ちょっとせせこましい気もするが一考する価値はある、
なにしろでかいことをやるのには体力と時間と精神力がかかるから
こういうスタンスで参加しても良いのだろう。
ちょっとスケールは小さくなるだろうけど(^^;

○個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。
しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』

○君主(指導者)は、それをしなければ国家の存亡にかかわるような場合は、
それをすることによって受けるであろう悪評や汚名など、いっさい気にする必要はない。
・・・たとえ一般的には美徳(virtu)のように見えることでも、
それを行うことによって破滅につながる場合も多いからであり、
また、一見すれば悪徳のように見えることでも、その結果はと見れば、
共同体にとっての安全と反映につながる場合もあるからである。
『君主論』
→ここらへんはいかにもマキアヴェッリらしい

○思慮深い人物は、信義を守りぬくことが自分にとって不利になる場合、
あるいはすでに為した当時の理由が失われているような場合、
信義を守りぬこうとはしないし、また守りぬくべきではないのである。
『君主論』

○人間というものは、自分を守ってくれなかったり、
誤りを質す力もない者に対して、忠誠であることはできない。
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』

○わたしは、愛されるよりも怖れられるほうが、
君主にとって安全な選択であると言いたい。
なぜなら、人間には、怖れている者よりも愛している者のほうを、
容赦なく傷つけるという性向があるからだ。
『君主論』

○共和国において、一市民が権力を駆使して国のためになる
事業を行おうと思ったら、まずはじめに人々の嫉妬心を
おさえこむことを考えねばならない。
・・・第一は、それを行わなければ直面せざるをえない困難な事態を、
人々に納得させることだ。
・・・第二の方策は、強圧的にしろ他のいかなる方法にしろ、
嫉妬心をもつ人々が擁立しそうな人物を滅ぼしてしまうことである。
・・・人々の嫉妬心が、善きことをしていれば自然に消えていくなどとは、
願ってはならない。邪悪な心は、どれほど贈物をしようとも、
変心してくれるものではないからだ。
『政略論』

○君主は、自らの権威を傷つけるおそれのある妥協は、
絶対にすべきではない。たとえそれを耐えぬく自信があったとしても、
この種の妥協は絶対にしてはならない。
なぜならほとんど常に、譲歩に譲歩を重ねるよりも、
思いきって立ち向かっていったほうが、たとえ失敗に終わったとしても、
はるかに良い結果を生むことになるからである。
『政略論』

○優秀な指揮官とは、必要に迫られるか、
それとも好機に恵まれるかしなければ、けっして勝ちを急がないものである。
『戦略論』

○武装していない金持ちは、貧しい兵士への褒賞である。
『戦略論』

○思慮に富む武将は、配下の将兵を、
やむをえず闘わざるをえない状態に追い込む。
『戦略論』

○人は、大局の判断を迫られた場合は誤りを犯しやすいが、
個々のこととなると、意外と正確な判断をくだすものである。
・・・つまり、大局的な事腹の判断を民衆に求める場合、
総論を展開するのではなく、個々の身近な事柄に分解して説明すればよい。
『政略論』

○民衆というものは、はっきりとした形で示されると
正当な判断をくだす能力はあるが、理論的に示されると、
誤ること多し、ということである。
『政略論』

○衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、
常に態度を変えないものである。
『政略論』

○どうすれば短所をコントロールするかが、成功不成功の鍵となってくる。
『政略論』

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1999 7/10
名言集、哲学
まろまろヒット率5

秋山駿 『信長』 新潮社 1996

最近、文春文庫から現代日本文芸館シリーズとして
『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』という本が出版されたっす。
タイトルからもわかるとおり、これは中島敦と梶井基次郎の代表的短編を
一冊の文庫にまとめたという実に小憎ったらしい戦略の文庫本っす。
一冊の本にすると短すぎるけど手元にはおいておきたい作品を
うまく入れているという(僕なら『山月記』=中島と『檸檬』=梶井っすね)
この出版社側の意図に見事にハマってしまい自分用とプレゼント用に
二冊も買ってしまった、らぶナベ@ちなみに『檸檬』の舞台になった
あの八百屋さんはまだ京都に現存するらしいっす。

さて、『信長』秋山駿著(新潮社)1996年初版をば。
前々から様々なところで評価を受けていたので気になっていた歴史評論本。
実際に読んでみると評判以上の大作で大当たりの一冊!(^o^)
けっこうな分量がありその上小説ではなく評論という取っつきにくそうな
雰囲気を持った本だけどこれは読んでおくべきと断言できる本っす。

以下は具体的な内容・・・
主に『信長公記』を元にして織田信長の革新性や天才性を考察している本。
彼に対する評論や小説は多いがこれはひと味もふた味も違う。
「モデルを持たなかった真の創造者」という視点で信長の行動を追っていき、
その革新性や創造性を支えた精神とはいったい何だったのかということを
プルタークやヴァレリー、モンテスキュー、スタンダール、デカルト
などからの引用を多様しながら紐解こうとした実に野心的な評論。
「それは持ち上げすぎやろ」とか「ホンマかいな」という突っ込みは
いくらでもできるが、それが事実かどうかということよりも
いまを生きることの意味や時代を切り開く価値について考えさせられる
歴史書というよりは創造性や革新性を信長を通して考える哲学書的な本。
野間文芸賞や毎日出版文化賞をもらっているのも
そういう側面があるからだろう。

この本の中で僕がもっとも印象に残り、
かつ信長についてとても的確に表現していると思われる箇所がここ・・・
☆リアリストは、現実を掴む。しかし、単なるリアリストは、
現実を超えない。現実の方が彼より強いから。
したがって、根底からの新しい創造などというものは無い。
これに反して、非凡なリアリストは、現実を掴むと同時に、
もう一つの見えない手、現実否定の刃を持った手で、
これを撃つのである。現実を割る。
・・・したがって非凡なリアリストは、その存在の一端で絶えず、
無、というか、非現実なものに触れているはずである。
信長が好んだという「人間五十年・・・夢幻の如くなり」の詩曲は、
そんな彼の生の深処に木霊するものであったろう。
(第四項「行動のエピソード」より)

もう一つ・・・
☆「・・・行動を制するものは精神力である。
天分が芸術の領域で作品に独特の肌ざわりを創り出すように、
精神力は行動に活力と生命を与えるのである。
事業というものに生命の息吹きを与えるかくのごとき精神力の持ち主は、
結果の責任を一身に負う気魄の人である。
困難が精神力の人を引きつけるのである。
なぜならば、彼が自己を表現できるのは困難に立ち向かう時をおいて
他にないからである。困難に打ち勝つか否かは彼だけの問題である。」
(比叡山焼き討ちについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)
・・・というのはぞくぞくするくらいに納得できる。

さらにこの本の根幹である信長(革命家)と他の戦国大名
(例え優れていても単なる時代の追随者)との違いについて・・・
○信玄と信長とでは、戦争の方法が違う、あるいは、
戦争をする意味つまり原理が、違っているのだ・・・
信玄は、自分の家が大切な男だった。
・・・これに反して、信長は・・・いわば、生まれ育った場処の否定、
自分の家の否定、ということになる。
・・・天下、という観念、あるいは「天下布武」という思想は、
こういう自分の家否定、のところから出発する。
信玄にはこれが無かった。

○信玄や謙信の場合は、結局のところ、自分がそこに起って
生きているところの、現在の、日常生活というものが基礎になっている。
信長はそれとは反対のことをしている。彼の土台は、戦争である。
戦争は、自分を主人公にして場面を変化させるものだ。
あるいは現実を動かす。そういう戦争の精神が基礎であって、
日常生活はそこから割り出される。だから日常生活も改変される。

○彼等の誰一人として、「天下」などという観念を抱いてはいないのだ。
仮りに天下といっても、それは漠然たるイメージであって、
観念の明晰さを持っていない。
・・・彼等には、天下という理想が無かった。
仮りに彼等の一人に天下を与えてみよ。
何も為ることが思い浮かばず、ただ右往左往とうろうろするだけだろう。

・・・このようなことを展開をしながら・・・
☆反信長同盟には、中心がない。
力がそこから発してそこへと帰着する球心点を欠いている。
したがって統一がない。
これに反して、信長軍では各武将が、
一つの中心から各方面に一斉に放射される力のヴェクトルのように、
統一の形状を成している。
・・・信長軍は到る処で現状を改変しようとするシンボル、
生き生きと動く信長という、一つの理想があった。
それが統一の根拠となる。
・・・以来、十年ばかり、周囲はすべて敵であり、
天下の反信長勢を相手に、信長軍が、いわば孤軍奮闘することになる。
天下を(敵として)相対する信長軍は、何を以ってその重さを持ち堪えたのか。
それはやはりー天下布武、という理想だと考えていい。
(なぜ織田勢が長年敵勢に包囲されながら崩壊しなかったかについて)
・・・としているのは爽快感さえある。

また、このことに関連することで・・・
☆「人間は弱いがゆえに、目的に完全性を求め、弱いがゆえに、
精神がうっ屈するがゆえに、無限に願望をふくらませ、
自分の無力さをしっているがゆえに、偉大な行動に参加を求めるのである。
指導者は人間のこの曖昧模糊とした願いに堪えてやらねばならない。
この偉大さというダイナミズムを利用せずしては
なんぴとも人に自分の意志を強要することは不可能である。」
(比叡山焼き討ちや一向一揆との戦いになぜ信長の配下武将が
従ったかについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)

☆「暗澹たる、並々でなく責任の重い問題への只中にあって
みごとに快活さを保つといふことは、決して些細な芸当ではない、
とはいへ、快活さ以上に必要なものがどこにあらう?
・・・力の過剰こそ初めて力の証拠である。」
(信長の全行動についてニーチェの『偶像の薄明』を引用して)
・・・などの箇所が印象深い。

他にも・・・
☆野望は自己の肥大化であるが、理想は自己一身の献身を要求する。
野望はそれを抱いた人の死で熄むが、理想は抱いた人の死を超えて生きる。
理想は、天下布武というようなものでなければならぬ。
偉大な将帥の本質とは何であろうか。
それは理想を、己の精神の内密の秘密と化し、
己の日常の生の波動と化している人のことだ。
理想を一秒の休みもなしに刻々の火と化している精神力の人のことだ。
戦術の巧妙とか戦術眼の確かさなどは、佐官クラスの器量に過ぎぬ。
(長篠の戦いで優れた人物とされた武田勝頼が挫折したことについて)

☆「カエサルは多数の成功を収めたが、天性大事業に対する名誉心が
強かったために、骨を折つて果たした仕事を味はふ気持ちにはならず、
それらが将来の仕事に対する燃料と自信を与え、
一層大きな事業に対する計画と名声に対する欲望を生じ、
現在の名声は用が済んだものと見て、自分自身の功績を他人の功績のやうに
考へて絶えずそれを凌がうとし、既に果たした仕事を向ふに廻して
将来の仕事に抱負を懸けた」と『プルターク英雄伝』を引用して・・・
独創の人の戦争は、実は、その始源は自分との戦争から始まる。
彼は、絶えず間断なく、かつて在った自分、そこに在る自分を、
乗り越えようとする。
(本能寺の変直前の信長について)

☆「剛胆とは、大きな危難に直面した時に襲われがちな胸騒ぎ、狼狽、
恐怖などを寄せつけない境地に達した、桁はずれの精神力である。
そして、英雄たちがどんなに不測の恐るべき局面に立たされても
己を平静に持し、理性の自由な働きを保ち続けるのは、この力によるのである。」
(本能寺での軽装備について『ラ・ロシュフーコー箴言葉』を引用して)

☆「彼らが殊に注意して糺明するのは、どういふ点でその的は自分たちより
秀れているのだらうかといふことだつた。
そして、まづそれを自分のものにした。
・・・戦は彼らにとつて一つの考察であり、平和は実習だつたのである。」
(美濃攻略の過程をモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』から引用)

☆「天才とは己が世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である。」
(「本能寺の変」でスタンダールの『ナポレオン』を引用して)
・・・などはしっかりとメモを取る価値のある箇所だろう。

以下はこれら以外で気になった箇所の抜粋・・・
○戦闘において、自分の軍勢を敵より常に到る処で二倍にすることにあった
(スタンダールがナポレオン戦法について述べたことを引用して)

○二千の兵を、無意識に義元と妥協しているような人々から切り離して、
何処へ往ってもいいような一個の流動体と化して行動させた
ーそこに合戦の鍵があった、と思う。
(桶狭間の戦いの革新性を述べて)

○なるほど、われわれにとっては町を歩きながら「瓜をかぶりくひ」
するのは、普通の行為普通の光景だろうが、そこに信長が参加すると、
あるいは信長を中心にそれが行われると、異なった光景が出現する・・・
・・・信長が、新しい世界異なった世界へ入っていくのではない。
単身先頭をきって駆ける信長が、常に到る処で、自分の周囲に、
新しい世界異なった世界を出現せしめているのだ、と。
(「うつけぶり」から彼の革命性を読みとって)
              ↓
○「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がさうしている、
それが貴様の強みぢやないか」
(ランボオの『地獄の季節』から引用して)

○剛毅な心だけが、人の精神をリードして、新しい現実を創り出させるのだ。
(尾張統一戦での信長の苛烈な戦いぶりをスタンダールを引用して)

○発進する思考と、考え込む思考との違いがある。
この信長の行動と見えるもの、実は、
それが「剛毅な心」というものの表現なのであり、
あるいは、そこから発する思考のスタイル、といってもいいものだ。
・・・その思考の尖端に居座っているのは、現実そのものの真と偽を、
厳しく弁別、検証する力だ。
・・・現実の真偽の弁別を、いったい何がするのか、ということだ。
(疑問を自らの行動で確かめようとする傾向を指して)

○自分の家を捨て、いわば城も捨て、ことによったら「死のふは一定」で、
自分さえ捨てることのできる信長が相手だと、勝ったところで・・・
戦争の採算が取れぬ・・・これは危険な男だ。
(なぜ信玄が強大化する前に信長を討とうとしなかったかについて)

○「言葉固有の目的は、聞く人に信念の念を起こさせることにある」
(斉藤道三が信長を信じた根拠についてプルタルコスからの引用して)

○「諸君は、幸福の一致ばかり説くが、しかし誰も、
不幸を一致しようとは言わぬではないか」・・・「友」とは何か
ーそれは、不幸と死を、一致する相手のことである。
(信長と家康の関係をトゥーキュディデース『戦史』から引用して)

○「余は恒に二年後のみに生きて居る。
かういふ男に取つては現在といふものが存在しなかつたのだね。」
(このようなことをヴァレリーの『固定観念』からの引用して)

○これは見られる所のものを、見られる所のものに、
形と運動に還元することではないのか。
(上洛後の行動についてヴァレリーの『オランダよりの帰途』から引用)

○自己から発しての一尺度の創造。これが信長の本質である。
(貨幣統一と宗教宗論を起こした原因について)

○危急の瞬間、人は三十分もあれば最高の判断を下す。
(浅井長政の離反時の信長の行動について)

○「難局に立ち向かう精神力の人は自分だけを頼みとする。」・・・
「英雄とは、自己を信じるといふ道を選んだ人間でなくして何であらう。」
(比叡山焼き討ちについてド・ゴールの『剣の刃』、
アランの『デカルト』からそれぞれ引用をして)

○自分の心のかたちになぞらえて他人の心理を読む者がいる(信玄)。
人間通である。が盲点がある。
よく似た心が隣接すれば必ず反撥するということに。
自分が人とはまったく異なった生き物だと思うゆえに、
人間機械でも洞察するように他人の心理を読む者がいる(信長)。
これも人間通であるが盲点がある。
洞見されたと知ることによって変態してしまうほど、
人の心は不合理なものであることに。
(信玄、信長それぞれの人間観について)

○「最も簡単なものが通常最もすぐれたものである」
(鉄船の発明についてデカルトを引用して)

○信長の武辺道には、単に現実の局面その場その場での、
勇猛心や憶隠の情の発揮だけではなく、戦争における行為の一貫性、
あるいは生の態度の明晰さ、というものが必要であった。
(反乱を起こした荒木村重の武辺道と信長の武辺道との違いについて)

○第一。ふと好奇心を発したら、直ちにそれを確かめる。
・・・第二。信長の精神の内部にあっては、精神のもっとも高級な問題と、
これとは対極的なもっとも日常的な現実の些細事とが、
見えない直線で直結している。
・・・第三。徹底性、あるいは完結性。
(信長の日常の態度から彼の精神の三つの面を割り出して)

○もし、信長が、単なる大軍の軍司令官だとしたら、
かなり以前に石山本願寺という本拠を撃滅しただろう。
しかし、こんな「本拠」の撃滅は、相手が宗教戦争を仕掛けてくるのでは、
たいして意味がない。
相手の「中枢」を撃たねばならぬ。中枢とはこの場合、
対信長戦争の無意味化であり、朝廷の斡旋による和睦の成立にあった。
(なぜあれほど激しく戦った本願寺を撃滅せずに和睦したかについて)

○なるほど、時間の余裕があれば、光秀の態度は賢明であろう。
まず言葉を発し、用意してから、行動に移る。
だが火急の一瞬、信長は恒に、言葉より前に行動を発した。
行動こそが言葉であった。
(信長を倒した光秀がなぜあれほど早く滅びたかについて)

・・・ふぅ、この本とにかく価値ある大作です。

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1999 7/1
歴史、エッセイ、哲学
まろまろヒット率5

株主総会初体験

らぶナベ@いま南新宿にある小田急プラザのおトイレの中っす、
ここは清潔だし広いし静かだしなおかつ便座の横に電源まであって
さらにタダというすばらしいスポットっす。
今後も使わしてもらいましょう、名付けて「寄生虫プレイ」(^^)

さて、ついさっき東京に来た目的である
エニックスの株主総会に参加してきました。
以下は体験記・・・
朝10時から新宿住友ビルでおこなわれた
第19回株式会社エニックス定時株主総会に参加する。
ちょうど会場になったこのビルは一年前に99年度エニックス新卒採用の
説明会&筆記テスト&作文提出がおこなわれた場所だった。
あの時は吉本興業インターンシップ事業化プロジェクトのまさに佳境で
その日の午後に京都リサーチパークで木村常務へのプレゼンが入ったために
(第二期インターンシップ生選考会でもあった)
直前まで悩んだ末に泣く泣く筆記テストの最中に途中退出するはめになり、
かなりやけくそ的な気分でこのビルを後にしたことを思い出した。
まさかあの時には一年後に株主としてこのビルに来ることになろうとは
まったく思いもしなかった。
(採用も半分以上投げていたしそんなに好きな企業でもなかった)
・・・我ながら「僕の人生ってよくわからないな」とあらためて思った。

実際の総会の方は株主が50人弱(会場入り口で出席票が渡されるでわかる)、
役員7人くらい、監査役5人くらい、会場STAFF8人くらいの
総勢約70人ほどでスタートした。
始めは日本の企業らしく実に形式的に進行して行った。
最初に今総会と株主議決権の説明、次に監査役からの監査報告、
そして社長からの第19期(1998.4.1~1999.3.31)営業報告がおこなわれた。
社長からの報告は株主に郵送されてきた資料そのまま棒読みだったが、
最後の項目である「会社が対処すべき課題」については
資料に書かれていないことも口答で発言していた。

次に行われた株主からの質問、意見では思った以上に発言が多かった。
「サクラか?」とも思ったが双方ポイントの合わない答弁もあったので
そうとも言い切れないようだ。
ちなみに質問する時には入場時に渡された出席票の番号と
名前を言ってから発言することになっているらしい。
株主が5人ほど質問したが執行部側の答弁は
常に明快で見ていて安心感があった。
たとえば「プレステ2のプラットホームで開発できるソフトハウスは
数えるほどしかないらしいがエニックスは大丈夫か?」という質問には
「それほどまでにソフトハウスが開発困難なプラットホームならば
プレステ2のハード自体の底下げにもなることを考えてもらえばわかる」
として「現在4つプレステ2でのプロジェクトが立ち上がっている」
と明言した姿は見ていてカッコ良かったが「ドラクエ7の発売時期はいつ?」
という質問に対しては社長が「冬とだけお答えします」と開き直ったように
自信を持って答えた姿には会場から失笑が生まれた。
また、裁判で争われている中古ソフト販売についての著作権問題についての
質問もあったが特に印象に残ったのが前期から始めた株式取引法である
マーケットメイク銘柄の不便さについての不満がかなり出たことだ。
主に購入時の値幅の大きさについてだったがこれには僕も同感した。
これに関連する東証二部上場については「ここではお答えできません」と
出てきた質問の中でたった一つだけ答えなかったことが気にはなるが、
まぁ大丈夫だろう。
最後の質問でおばちゃんが「私ゲームとかのことはよくわからないんですけど
みんながやっているように違法コピーしてるんですけど
それはいけないんですか?」という実にわけのわからない質問をして
(違法コピーって自分で言っとるやんけ!)
社長がかなりキレ気味だったのが見ていて実に微笑ましかった。
意外に突っ込んだ話もするんだなと感心しながら営業報告は終わった。

次に(1)今期配当金30円、(2)株数増大、(3)新株引受権
(ストックオプション)の導入の三つの決議事項についての
決議がおこなわれた。
それぞれの決議案について「異議なし!」と会場からかけ声があがるのが
まるでお祭りのようなでもあった。
この中で「異議あり!」と叫ぶ総会屋はけっこう根性あるよなとも思った。
・・・ちなみにストックオプションについては最小でも800株も
付与されるのを資料で見てちょっとだけ辞退を後悔しそうになった(笑)
結局トータル50分ほど、日本の企業としての平均的な株主総会だった。

終わってから社長の本『マイナスに賭ける!』(KKベストセラーズ)を
もらうために総務の人とひさびさに話すと
最初僕だと気づいてもらえずに「どきどきした!」と言われた。
(田中さん好きだったのに(;_;))
やっぱりスキンヘッドはこれっきりやめにしよう(^^;

とにもかくにもこれが僕の株主総会初体験、
今後これが基準として株主総会を見ていくことになるだろう。
こんな会社とめぐり会えてありがたやありがたや。

1999 6/25
出来事メモ

J.G.マーチ&H.A.サイモン、松田武彦・高柳曉・二村敏子訳 『オーガニゼーションズ』 ダイヤモンド社 1977

さて、『オーガニゼーションズ』J.G.マーチ/H.A.サイモン著、土屋守章訳
(ダイヤモンド社)1977年初版をば。
『経営行動』から10年後に書かれた本。
基本的に『経営行動』の理論をもとに肉付けをしたという感じがある。
それ故理論自体は『経営行動』の焼き直し的な匂いを感じた。
なかなかに難解だが著者の特徴として第一章で結論的なことを述べ、
各章の終わりにもその章での結論を項をさいて書かれているので
歯ごたえはあってもうんざりするものではなかった。
これは著者が理系に強く傾いているからか?

具体的な内容の方は最初に組織のメンバーに関する一般的な三つの命題・・・
(1)組織のメンバーは受動的な器械であるという命題
(2)組織のメンバーは態度、価値、目的を組織に持ち込むという命題
(3)組織のメンバーは意思決定者かつ問題解決者であるという命題
・・・を挙げてそれぞれに考察を加えていくという構成になっている。
第一章はこの問題提起、第二章は(1)の命題に関する考察、
第三章~第五章は(2)の命題に対して考察し、
第六章から第七章は(3)の命題に対して考察している。
(全七章完結)

以下は重要と思われる箇所の抜粋・・・
第1章”組織内行動”
<社会制度としての組織の重要性>
☆組織の特徴を二つあげて・・・
「組織のメンバーそれぞれを取り巻いている環境としての他の人々は、
高度に安定し、予測可能なものとなる傾向がある。
組織が環境に対し調整のとれた方法で対処することができる能力を
もっている理由は、すぐ後に論じられる組織の構造的諸特徴とともに、
この予測可能性があるからである。」
                ↓
「組織は相互作用する人間の集合体であり、われわれの社会の中では、
生物の中枢の調整システムと類似したものをもっている最大の集合体である。
しかしこの調整システムは、高等の生物有機体にある中枢神経系統ほどには
とても発達していないといえるー組織は、猿よりもミミズに近い。
それにもかかわらず、組織内の機構と調整の高度の特定性こそ、
ー複数の組織間、ないし組織されていない個人間の拡散した多様な関係と
対比してみればー生物学における個々の有機体と重要性において比較可能な
社会学的な単位として、個々の組織を特徴づけているものである。」

第2章”「古典的」組織理論”
<結論>
○古典的組織理論(科学的管理法)の限界についての結論を・・・
「古典的組織理論は組織内行動に対する理論全体の
ごく一部分のみを説明しているにすぎない・・・」
            ↑
「(1)理論の基礎となる同期に関する過程が不完全であり、
したがって不正確である。
(2)組織内行動の範囲を規定するに当たって、
利害の組織内コンフリクトがもつ役割を、ほとんど認めていない。
(3)複雑な情報処理システムとしての人間の限界のために
人間に課せられている諸制約条件がほとんど考慮されていない。
(4)課業の認定と分類における認知の役割に対して、
意思決定における認知の役割とともに、ほとんど注意していない。
(5)プログラム形成の現象をほとんど重視していない。」

第3章”動機的制約ー組織内の意思決定”
<集団圧力の方向>
「個人の生産への動機づけに作用を及ぼすものとしての個人の諸目的は、
彼が入りうる集団(組織を含めて)に対する彼の一本化の強さと、
その集団圧力の方向との二つを反映しているものである。」

<結論>
○動機づけに及ぼす影響を三つの関数に絞って・・・
「(a)個人にとっての行為の代替的選択肢の喚起作用
(b)喚起された代替的選択肢の個人によって予期された結果
(c)個人によってその結果につけられた価値」

第4章”動機的制約ー参加の意思決定”
☆「組織の均衡」理論について・・
「均衡とは、組織がその参加者に対して、
彼の継続的な参加を動機づけるのに十分な支払いを整えることに、
成功していることを意味している。」
            ↓
<組織均衡の理論>
「(1)組織は、参加者と呼ばれる多くの人々の
相互に関連した社会的行動の体系である。
(2)参加者それぞれ、および参加者の集団それぞれは、組織から誘因を受け、
その見返りとして組織に対して貢献を行なう。
(3)それぞれの参加者は、彼に提供される誘因が、
彼が行うことを要求されている貢献と、(彼の価値意識に照らして、
また彼に開かれた代替的選択肢に照らして測定して)等しいか
あるいはより大である場合にだけ、組織への参加を続ける。
(4)参加者のさまざまな集団によって供与される貢献が、
組織が参加者に提供する誘因をつくり出す源泉である。
(5)したがって、貢献が十分にあって、その貢献を引き出すのに足りるほどの
量の誘因を弓よしている限りにおいてのみ、
組織は「支払能力がある」ー存続しつづけるであろう。」

<結論>
「誘因ー貢献の差引超過分は、二つの主要な構成部分をもっている。
すなわち、組織を離れる知覚された願望と、
組織にとどまるために放棄している代替的選択肢の効用
(すなわち組織から離れる知覚された容易さ)である。
移動の知覚された願望は、現在の職場についての個人の満足と、
組織から離れることを含んでいない代替的選択肢に対する彼の知覚との、
二つのものの関数である。」

第5章”組織におけるコンフリクト”
<コンフリクトに対する組織の対応>
「組織はコンフリクトに対し、次の四つの主要過程によって対応する。
すなわち、(1)問題解決、(2)説得、(3)バーゲニング、
(4)「政治工作」である。」
           ↓
「これらの過程の最初の二つのもの(問題解決と説得)は、
決定についての公的一致とともに、私的一致をも確保する試みを示している。
このような過程を、われわれは分析的過程と呼ぶ。
公私ともの一致ではない後者の二つ(バーゲニングと政治工作)を、
われわれはバーゲニングと呼ぶことにする。」
●バーゲニング(bargainning)がかぶっているやん!!
           ↑
「・・・バーゲニングは、意思決定過程としては、
潜在的に分裂的な結果をある程度もっている。
バーゲニングは、ほとんど必然的に、
組織の中の地位および権力体系に緊張を与える。
もし、より強い公式の権力をもっているものが優勢になれば、
これは組織の中の地位および権力の差違を、
非常に強いものとして知覚することになる
(これは一般的にはわれわれの文化の中では逆機能的である)。
そのうえ、バーゲニングは、組織の中の諸目的の異質性を、
承認し合法化する。目的の異質性が合法化されてしまえば、
組織内ヒエラルキーにとって利用できたかもしれない
コントロール技法が、利用できなくなってしまう。」

「組織の中のほとんどすべての争いは、
分析の問題として規定されることとなる。
コンフリクトに対する最初の対応は、問題解決および説得になる。
このような対応はそれが不適応にみえるときにすら持続する。
共通の目的が存在していないところでは、
それが存在しているところと比較して、
共通の目的に対するより大きなあからさまの強調がある。
また、バーゲニングは(それが起きたときには)、
しばしば分析的な枠組みの中に隠蔽される。」

第6章”合理性に対する認知限界”
<組織構造と合理性の限界>
「組織の構造と機能の基本的特色が生じてくるのは、人間の問題解決過程と
合理的な人間の選択とがもっている諸性質からであるということであった。
人間の知的能力には、個人と組織とが直面する問題の複雑性と比較して
限界があるために、合理的行動のために必要となることは、
問題の複雑性のすべてをとらえることでなくて、
問題の主要な局面のみをとらえた単純化されたモデルをもつことである。」
●ここは『経営行動』の理論そのまま

第7章”組織におけるプランニングと革新”
<個人および集団の問題解決>
○ケリーとチボーの問題解決過程に対する集団の作用・・・
「(1)数多くの独立の判断をプールしておく効果
(2)問題の解法に対して直接の社会的影響によってなされる修正」
            ↓
○(1)について個人の問題解決能力に対して集団がもっている優位性・・・
「(a)エラーの分散、(b)よく考慮された判断の際立った影響力、
(c)自身のある判断の際立った影響力、(d)分業」
            ↓
○(2)について直接の社会的影響力によってなされる修正の種類・・・
「(a)集団メンバーは全体として、どの個人メンバーよりも可能な解法もしくは
解決への貢献を、より多く利用することができるであろう。
(b)個人の集団メンバーに対して、多数はの意見に同調させようとする圧力。
(c)集団の環境は、孤立した個人に比較して努力と課業完遂とに向けての
動機づけをを増加させたり現象させたりするであろう。

(d)集団メンバーは、自分の考えを他の人に伝える必要のために、
自分の考えを鋭くし明確化しなければならなくなる。
(e)集団の解法を出すために、個々人の解法を組み合わせたり
重みづけすることからくる作用。
(f)集団の環境は、程度はさまざまだがわずらわしさを生じさせる。
(g)集団の環境は、相違を刺激したり疎外したりする。」

<目的構造と組織構造>
○目的構造と組織内単位のヒエラルキーとの関係について・・・
「(1)手段ー目的ヒエラルキーの高いほうのレベルでの目的は、
操作的ではない。」
(2)手段ー目的のヒエラルキーの低いほうのレベルでは、
目的は操作的である。
(3)手段ー目的ヒエラルキーにおいて目的が操作的になっているレベルの
もっとも高いところから一つか二つ下のレベルでは、
個々の行為プログラムを認識することができる。」

<限定された合理性の原則>
○フォン・ミーゼスとハイエクの分権化擁護論・・・
「人間のプランニング能力の現実的な限界を所与とすれば、
分権化されたシステムは、集権化されたものに比較して、
よりよく作動するものである。」

1999 6/22
組織論、経営学
まろまろヒット率4

京都の高尾に蛍を見に行く

たまたま蛍を見に行くことになった。
想像していた以上にたくさん蛍が光っていてとても幻想的だった。
何となく僕もその蛍を見て救われた気がした。
はじめて蛍を見たときはその少ない光り方にがっかりしたけど
本物の方がずっと良いことに気づいた。
蛍は綺麗なものだ。

1999 6/15
出来事メモ

ルイス・セプルベダ、河野万里子訳 『カモメに飛ぶことを教えた猫』 白水社 1998

(京都の)高尾に蛍を観にいくと思っていた以上にたくさん飛んでいて
都会育ちの僕にとってははじめて本物を見たときにはがっかりした蛍も
「やっぱり本物の方が良いな」とあらためて思えたのがよかった、
らぶナベ@しかし文化の違いか英語で蛍を表す”firefly”、”glowfly”などは
ちょっと風情が無いなと思っているっす。

さて『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ著、河野万里子訳
(白水社)1998年初版の読書感想をば。
もともとこの本は去年の夏休みくらいに京大の書籍部で見かけて以来、
そのタイトルに惹かれて(たぶんカモメ=海猫に引っかけているんすね)
「どんな本なんだろう?」とずっと気になっていた本。
しかしそれからの怒濤のような日常と読むべき本たちに追われるあまり
この本の存在自体もすっかり忘れてしまっていた。
しかし最近マキアヴェッリやら歴史小説やら空に賭ける男たちの本など
生臭い本ばかり読んでいて汚れてしまっている自分に気づき
「これはいかん!ピュアな自分を取り戻さねば!!」と思ったところ
偶然別の本を買うために立ち寄った帰り道の書店で再び巡り会ったので
購入に踏み切ったヨーロッパで評判になっているらしい寓話。

こういうかたちでこの本のを読んでみることになって
運命の巡り合わせと言うのか、そういう言い方が綺麗すぎるなら
嗅覚というものなんだろうか、とにかくそういうものを強く感じた。
なぜならこの本は僕が現在進行形的に感じていることを
寓話の形式をとって書かれていたからだ。
その気持ちはあるのにうまく表現できなかったり、
それを伝えたい相手に伝えきれずに焦燥感を感じたりしてたことを
ちょうどテーマにしている本だったからだ。
内容をよく知らないでたまたま購入したまったくの偶然なのに
いま別の角度から見つめて表現したいことにスポットが当たっていた。
この本が僕を呼んだのか・・・読書って時々不思議なことがある。

この物語りはハンブルクで暮らす猫ゾルバ(なかなかカッコ良いやつだ)が
ひん死のカモメと成り行きで三つの約束事をすることから始まる。
それは「私がいまから生む卵は食べないで」、
「ひなが生まれるまで面倒を見て」、
そして「ひなに飛ぶことを教えてやって」(んな無茶な!)の三つだ。
このゾルバと「港の猫の誇り」を持つ仲間の猫たちと
カモメのひなフォルトゥーナが飛べるようになるまでの
試行錯誤や模索、葛藤を描いている。

この話の中でフォルトゥーナがゾルバたちと同じ猫になりたいと渇望し
そのために傷つき自分自身やゾルバたちからの愛を見失いかけていた時に
ゾルバが彼女に語りかけたシーンが特に印象に残っている・・・
「たとえきみがカモメでも、いや、カモメだからこそ、
美しいすてきなカモメだからこそ、愛してるんだよ。
・・・きみは猫じゃない。きみはぼくたちと違っていて、
だからこそぼくたちはきみを愛している。」
「そのうえきみはぼくたちに、誇らしい気持ちでいっぱいになるようなことを
ひとつ、教えてくれた。
きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、
尊重し、愛することを、知ったんだ。
自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、
違っている者の場合は、とてもむつかしい。
でもきみといっしょに過ごすうちに、
ぼくたちにはそれが、できるようになった。」
「いいかい、きみは、カモメだ。そしてカモメとしての運命を、
まっとうしなくてはならないんだ。だからきみは、飛ばなくてはならない。」

そして最後の場面でフォルトゥーナが飛び立った時にゾルバが言った・・・
「最後の最後に、空中で、彼女はいちばん大切なことがわかったんだ。
・・・飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願った者が、
全力で挑戦したときだけだ、ということ。」

ってこんな読書感想書いている僕ってかなり恥ずいやつやな。(^^;

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1999 6/10
小説、寓話
まろまろヒット率5

池宮彰一郎 『島津奔る』 新潮社 上下巻 1998

ドラマ『古畑任三郎』が最近自虐的なネタが増えてきているので
見る度に痛々しさを感じる、らぶナベ@古畑に「何でもありなんです」
や「トリックに穴があるのは前からです」とか
劇中で言わせるなんてそろそろいっぱいいっぱいだな(^^)

さて、『島津奔る』上下巻、池宮彰一郎著(新潮社)1998年初版をば。
戦国武将、後に大名として戦国末期から江戸時代初期の転換期に生きた
島津義弘を主人公にした小説。
彼の人物紹介としては当初彼の兄、義久の元で島津家No.2として
常に前線最高司令官を務めて薩摩統一戦を成功に導き、
続く外征では九州統一の一歩手前まで島津を導いた中心人物。
豊臣政権に屈してからは義久の引退を受けて島津家当主に就任。
当主として二度の朝鮮出兵に参加し特に二度目の慶長の役の末期、
豊臣秀吉死後の日本軍総退却時には追撃してくる李氏朝鮮と明の連合軍を
退路が無く兵力差30倍、かつ他家の協力も無いという絶望的な状況で
島津家お家芸の迎撃作戦「釣り伏せ」で壊滅(泗川の戦い)する。
帰国後の関ヶ原の戦いでは西軍に与して戦場に参加するも
終始積極的には戦わず、戦いが決着してから千数百の軍勢で
数万の東軍の中心を突いて中央突破退却をしたことは有名。
・・・このように生涯を通じて戦場では常に劣勢な状態から
卓越した戦術と作戦指導で不利な状況を打破してきた点が注目されている。
彼について国内では「鬼島津」、国外では「石曼子(シーマンズ)」
と当時から怖れられたように猛将のイメージがいままで強かったが、
(最近の『信長の野望』では戦闘能力90の大台を軽く突破)
実はそれだけでなく彼は卓越した政治的感覚と大局的な視点を持った
人間だったんだという興味深い切り口でこの小説では彼を画いている。
その証拠として西軍(負け側)に与して戦いながら
唯一島津家だけが領地を減らされなかったこと
(東軍に与してガンバって戦っても潰された家は多いのに)
戦後交渉の中ではさらに加えて琉球領有まで幕府に認めさせたこと
そして最後まで徳川家康が「徳川家の敵は西から来るだろう」と恐れたほどに
強力な薩摩藩の基礎を彼が創ったということだ。
そういう政治家:島津義弘としての視点でこの小説は書かれている。
そのためにこの本は朝鮮半島から撤退しようとしている
泗川の戦いからスタートしている。
(猛将島津義弘を画くなら九州統一は避けられないのに敢えて飛ばしている)

彼と僕とは名前がまったく同じで前から親しみを感じていたんだけど
読み進んでいくうちに圧倒されるほどのカッコ良さを感じた。
戦国時代が終わり戦争経済終焉後の不況にあえぐ当時の日本にあって
(バブル後のいまの日本を対比させているのが興味深い)
その次に来るべき経済体制を見通したヴィジョンを持ち
自らのそのヴィジョンに賭けた彼の姿は爽快な泥臭さがある。

純粋に面白いと言える小説だけあって印象深いシーンが多かったが
特に泗川の戦いに臨む直前に義弘がいなくなりそれを咎めた参謀に対して・・
○「匂いじゃよ、匂いを嗅いで廻るとじゃ。」
(中略)ー戦には匂いがある。
(中略)義弘は作戦計画の不備欠陥を感じとると、
ひとり戦場予定地に赴き、その匂いに浸って心気を澄ます。

また、豊臣政権を支えた官僚石田三成らを指して・・・
○吏僚の本文は、為政者から与えられた業務を、
いかに過怠なく遂行するかにあり、能力とは、
それをいかに能率よく行えるかにある。
従って、吏僚の持つ本能的な性格は、
極めて短期的な展望しか持てないように規制されている。
目の前の事態、困難な状況の打開には役立つが、
長期的な展望にはまったく不感症といっていい。

そして何より島津家の命運がかかった関ヶ原の戦いの準備段階で
どちらに与するか微妙になりかつ不利な状況が増えてきたのに対して・・・
○「・・・わしの一生は悪じゃった(中略)世に戦ほどむごい悪は無い・・」
(中略)「そのくせなあ(略)よいか、これは構えて人に言うな・・・
世の中に、悪ほど面白か事は無かと思うとる。
わしはな、戦と道ならん色恋ほど好きで困るもんは無か・・・
まことの悪の悪よ」
・・・と笑うシーンなどは特に印象深い。

今まで戦国時代で一番好きな人物は真田昌幸だったが
この小説を読み終えてみて島津義弘も双璧として加わった。
「なんだかんだやっても生き残った」&「自分の生き方に満足して死んだ」
人間という僕の好嫌基準にもバッチリ当てはまっているからだ。

以下はその他にこの本の中で印象に残っている箇所・・・
○「まず、敵の反抗を迎え撃ち、遠く退けて敵が陣を立て直す隙に
風の如く去る。負け戦の退き方の要諦はそこにある・・・」

○「世の中には、与する相手にはふた通りある、
正義だが戦下手な者と、心延え悪ではあるが戦上手な者とだ。」
(中略)「わしは、どちらとも組まん・・・組むならツキのある者を選ぶ」

○「戦いうものはな、好悪の思いでやってはならぬ。
(中略)たとえ相手が正義を言い立てておっても、
必ず打ち破って未来の道を切り開く、
それが国のまつり事を担うものの第一のつとめである」

○「所詮戦はツキと運・・・勝てる筈の戦に負けることもあれば、
勝ち目のない戦に勝つこともある・・・
そんなあやふやなものに命を賭けられるか、
戦の要諦は戦うと見せかけて、戦わずに相手を屈服させることにある」
(これだけは徳川家康の台詞)

○「戦の要諦はな、兵数の多寡や兵の強弱を計算する事でない。
敵の心のうち、味方の心の動きをおし量る事にある・・・」

・・・最後に読み終えた感想を一言で・・・
僕も別に天下を取らなくても良いから天下人以上に
活き活きと時代の荒波の中を奔る人生を送りたいものだ(^_^)

この本をamazonで見ちゃう

1999 6/5
小説、歴史
まろまろヒット率5