梶井基次郎 『Kの昇天』 文藝春秋『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』より 1999

東京でEとYとの会合をマネイジしてきた、
らぶナベ@僕自身前々からあった「EとYが手を組めば
変革期にあるエンターテイメント業界に新しい潮流を創り出せるだろう」
という漠然とした感じを今回、俺自身の存在を通して
実現させることができて少し嬉しいっす。
とにもかくにもEのDNAとYのDNAを配合した種は
植えられたって感じっす、どんな芽が育つかあと数年は楽しめそうだ(^^)

さて、『Kの昇天』梶井基次郎著を読んだです。
(『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』文芸春秋1999年初版より)
彼女に前から奨められていた小説だが読む踏ん切りがつかず
そうこうしているうちに別れてしまい、もしかしたらこのまま
むかついて一生読むこともないかなとも思っていたが
何だかんだで読んでみようと思って読んだ少し曰く付きの小説。

内容は突然原因不明の溺死をしたKの友人を語り手として
彼の死の原因について手紙で述べるという風に物語はえがかれている。
作品中、月がつくりだす自らの影に惹かれてそのことを追求するKの姿が
何とも言えずはかなげであやうい感じを受ける。
特にこの作品が持つ独特のけだるい雰囲気を強く印象づけているのが・・・
「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、
月夜になれば憑かれるんですよ。この世のもおでないというような、
そんなものを見たときの感じ。ーその感じになじんでいると、
現実の世界が全く身に合わなく思われて来るのです。
だから昼間は阿片喫煙者のように倦怠です」
・・・という箇所だろう。

この小説を読んでみてもっとも感じたものは探求とけだるさ、そして危険だ。
この三つのバランスが崩れると死に至るということだろうと感じた。
また、僕が今まで読んだ梶井基次郎の作品はすべて
「実話かな?」と思わせるような自然さがある。
それが何なのかはよくわからないが自然なけだるさと危険性が
作品の根底にあるように思えてならない。

この本をamazonで見ちゃう

1999 9/30
小説、文学
まろまろヒット率3

『降りやまない雨と君のために』

降りやまない雨と 君のために詩をつくろう


「降りやまない雨はない」 なんて言われるのを


気にもとめず


降り続けるこの雨のように


「この愛おしさがいつかは終わる」 なんて思いを


気にもとめず


君を愛するために

< 元カノとの復縁を決めた夜に>

1999/9/23

ある企業とある企業の橋渡し役をつとめる―第一次初台会談―

(どの企業かは今までの読書感想文などから想像してみてください)
内定時代からもしその企業に入ったらもうひとつの企業との橋渡し役をやりたいと考えていた。
内定を辞退して、もうそれもできないと思っていたがひょんなことから
二つの企業の橋渡し役を勤めることになる。

この仕事をしながら『悪党の裔』北方謙三著(中央公論新社)の主役である
赤松円心のように僕も・・・
「あえて天下を取ろうとは思わない、そのために人生を棒に振りたくない。
しかし自らの手で天下を動かしたい。時代を動かす一手を繰り出したい」
・・・という衝動というか願望があることにあらためて気がついた。
でっかい地位につかなくても良いし常に影響力ある存在で無くても良い。
でも局面、局面で僕自身が時代や社会を動かすきっかけになる
何かに対して決定的に重要な役割を果たしたい。
時代や社会という何か大きなものが動く時、僕がそれに対して重要な役割を
果たすことによって僕自身の個性や色をそのきっかけによって
動いた後の時代や社会に少しでも出していけるだろうから。
それによって僕自身の生きる証明にしたい。
時代や社会ってのは自分の全くあずかり知らないところで動くもので
自分はそれに対して完全に無力でどうしようもない存在。
そんな風に世の中を諦めてしまえるほど僕はまだ地位も名誉も実力も無い。
今、そういう諦めをすればその時点で僕は生きる価値を失うだろう。
だからこそ、この小さな存在である僕が社会や時代が動くときに
何かしらの役割を担うことによって生きる証明をしたい。
それが僕が政策科学部にいる理由だしその衝動が僕自身の
「向上心」の一つの原点のなんだ。そう感じた仕事であった。

・・・確かに僕をあれだけ僕を待っても結局入社しなかったということに
対して社内で冷たい視線やその一点を持って攻撃する意見もあっただろうが、
この会合を僕がマネイジしたことでそれらがすべて払拭されたみたいだ。
「内定者の意志を最優先に最後まで待つ」というこの企業の採用方針を
維持して欲しいと僕自身思っていたのでこのことに関しても
僕の手で大きな影響を与えられたのだと感じられた。
(本当の日記はさすがに非公開)

1999 9/22
出来事メモ、進路関係

入江隆則 『太平洋文明の興亡―アジアと西洋・盛衰の500年』 PHP研究所 1997

らぶナベ@これが大学に入ってから1万2千通目のメール、
けっこう忙しいはずなのに意外と暇人のような生活してるっす(^^)

さて、『太平洋文明の興亡~アジアと西洋・盛衰の500年~』
入江隆則著(PHP研究所)1997年初版を読んでみたっす。
政策科学部のT教授が「どうせ(修士論文という)風呂敷広げるなら
でっかく広げてみろ」と買ってきたので借りてみた本。
そのタイトル通りこれまでの太平洋文明を論述し、
これからの方向性を示そうという意図で書かれた本。

意欲的ではあるけど太平洋文明と言うわりにはあまりにも
スポットを当てているのが部分的すぎるように感じる。
また、論の展開を見てみても自分で確信を持てていない
前提を多用しているのでどうも説得力に欠ける。
特にウォーラステインを批判しているのに
彼の「近代世界システム」論を機軸に話を進めていて
この論からの飛躍が見られなかったのが気になった。
さらにいくら最近再評価がなされているとは言え、
鎖国を含めた日本の江戸時代のシステムについて
ちょっと持ち上げ過ぎだなぁとも感じた。
スケールの小さい研究者がスケールの大きい題材に挑戦すると
どうなるかっていう典型的な一冊だろう。

しかしこの本で取り上げられいたミクロネシアなどの地域は
僕には今まで馴染みが薄かったのでこの本の中で参考文献に
使われていたこれらの地域を取り上げていた本には興味を持った。
世界的にも独特なバリ島の生活・社会様式を研究した
クリフォード・ギアツ著『ヌガラー19世紀バリの劇場国家ー』や、
ニューギニア北東部にあるトロブリアンド諸島の伝統的社会に
注目して書かれたブロニスロー・マリノフスキー著の
『西太平洋の遠洋航海者』などは一度読んでみようかなと思った。
南太平洋地域の一部の伝統社会を知るきっかけになったことと、
文化人類学的な興味がちょっとわき起こったこと、
大阪にある「国立民俗学博物館」にまた行ってみようと思ったこと、
・・・ここらへんがこの実少ない本から得たものだろう。

この本をamazonで見ちゃう

1999 9/19
歴史
まろまろヒット率3

チャールズ・エリス、鹿毛雄二訳 『敗者のゲーム』 日本経済新聞社 1999

5070円の時に買ったエニックス株の先週終値は1万600円、
さらに1.5倍に分割されているので(100株→150株に)
50万7000円を投入した株が現在の時価総額159万円になっているっす。
資産を3倍にしてようやく安定した投資戦術を展開できるようになったと
感じている、らぶナベ@自由化スタートの10月から本格化だと踏んでるっす。

さて、『敗者のゲーム』チャールズ・エリス著、鹿毛雄二訳
(日本経済新聞社)1999年初版を読みました。
この本は株式投資関係のHomePageを見ると
必ずと言って良いほど推奨本として紹介されている投資本。
いままで投資関係の本は何だか薄っぺらそうなので読んでこなかったが、
“Winning The Loser’s Game”という原題に妙に引かれたので読んだ一冊。
確かに市場では圧倒的多数が失敗者で圧倒的少数が成功者になる、
つまり統計的に外から見れば市場とは「敗者になるゲーム」でしかない。
(これはどこの世界でもそうなんだろうけど)
それを踏まえた上でその中でも確実に勝っている人間はいる、
彼らを勝たせているのは一体何なのか、何が勝者と敗者を分けているのか、
ということに注目して投資における重点や姿勢を述べている本。

この本は簡単で基本的なことに集中することの必要性を繰り返し述べている。
そしてたとえ正確な答えがすぐには出なくても自分なりに
市場や自分自身への分析や考察を続ける重要性を特に強調している。
(個人投資家にとって一番の危険は市場の変化などの外部要因ではなく
本人が投げやりになり精神的放棄に陥ることだと警告している)
その結論の結び方が面白くて・・・
「問題は『運命の星でなく、われわれ自身の中にある』」として、
投資を学びたいならこの言葉が載っている・・・
「シェークスピア『リア王』を読むことをお薦めする」
・・・と皮肉っているのに笑ってしまった。
そういえば最近、答えがでないからという理由で
問題から眼をそらそうとする姿勢の人を何人か見たことがあるが
それでやっていけるほど人生は甘くないだろうということを
あらためて感じた。人生とは間違いなく「敗者のゲーム」なんだから。
少なくとも問題に向き合わないでやっていけるほど僕は器用でないし
何よりもそれでは決して満足はできないだろうと妙に感心してしまった。

また、この本ではそれに関連して・・・
「その土地に家を建てるためにその土地の気候風土を考える場合も
前の日の天気で判断することはないだろう、投資も同じだ。」
・・・というような表現を使って細かいことにまどわされず
大目標を大切にして、で~っんと構えることを奨めている。

この本はHowto本というより個人投資家への指南書的な内容なので
金融工学的な理論は少なかったがそれだけに説得力があった。
敗れるはずの舞台で勝つことの快感、負けが自然の状態からの挽回、
一度それを体験するとその味が忘れられないんだろう、僕も同じだ(^_^)
この本を読んだ結論・・・
「人生は自分への投資だ、敗者のゲームから逃げるな」。

この本をamazonで見ちゃう

1999 9/9
戦略論、株、経済学
まろまろヒット率4

第11回政策・情報学生交流会

分科会に呼ばれて6日に講師として「学問における革新性」というテーマで講義をおこなった。
初日の晩に彼女と一応の仲直りをして二日目は誘ってもちゃんと話ができなかったのでちなっちゃんと話す、就寝の直前に話ができたので関係悪化にはつながらなかったが少し不快だった。

三日目に講師として講義をおこなった・・・
科学というもの(特に理系)は「いつ、なにが」というより「どのように」
「理系での延々とされる話題、事実とは何か?」
           ↓
実験や理論になったときに「わけてはいけないことをわけてしまう→モデルと現実とは違う」

「各分野出身でそもそも政策を研究してきた教授はいない」→「彼らに答えを求めるのは酷」

「教科書や答えがすでに用意されていてそれが与えて欲しいという考えは新しい学問には向いていない(アダム・スミス、ケインズ)」

「枠組みを与えられたり答えがすでに用意されていると思ったら大間違い」
               ↓
「それをしたいなら私立大学に来た段階で負け」
               ↓
「自分で答えや枠組みを創らなければ人が創った枠組みや答えに服従しなくてはいけない」→ロングバケーションで「いい年して結婚したからといって幸せにしてもらおうと思うのそろそろやめたら?」と同じ事。

「自分が準拠するものへの疑問を自信を持って言うことができなければならない」→「学問も人を愛することも宗教もおそらく根底に流れるものは同じ(龍は汝の中にあり)」

「こんな人間でもチャンスがある、これほどすばらしい学部は無い」
「それは答えが用意されていないという混沌の嵐の中で輝く人間であれ」

・・・結果、ある程度のインパクトを与えられたようで少し安心した。
後々この分科会で講義をしたことが良い方向で意味を持ってくるような予感を感じた。
また、分科会で講義をした結果が・・・
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
・リアルな自己を見つめて、こわすことの覚悟でしょうか。
・紹介してくださった本を読んでみようと思います。
・革新についての話が面白かったです。アウトローの人間が革新をおこす。
よりましな社会を!! not worse society
・渡邊さんとなら21世紀は楽しいものになりそうです。
・大変わかりやすく、情熱が感じられました。
・熱い想い、感じました。
・「欲」と「火事場の馬鹿力」どちらが強いのか考えてみたことはありますか?
質問ですみません。
・ロンバケのセリフを常に心にとめて生きたい!
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
-*-
・・・というものだったので少しうれしかった(^^)

1999 9/4~7
出来事メモ、交流会

K.C.コール、大貫昌子訳 『数学の秘かな愉しみ』 白揚社 1999

『数学の秘かな愉しみ』(原題”THE UNIVERSE AND THE TEACUP”)
K.C.コール著、大貫昌子訳(白揚社)1999年初版を読み終えました。

もともと自分でも笑ってしまうほど数学的センスが無いのに加えて
数学的視点や思考に対して不慣れなために読もうと思った一冊。
この前、大阪に来た北陸先端科学技術大学大学院の南さんに
「数式とか入って無くて簡単に読めて内容も面白いけど
ちゃんと数学的なものの見方が分かる本ないっすか?」
というかなり舐めた条件を提示して薦めてもらった本。

内容の方は普段、単なる数や数式の猥雑さにばかり眼を奪われて
見失ってしまっている数学的な(≒論証的な)アプローチについて
ごく日常のできごとや普段の生活の中の話題から例を使って説明している。
そこから「確率って結局何なのか?」、「統計ってどういうものか?」、
「証明とはどこまでの真実を約束するものか?」という
僕たち素人が考えるいかにも数学的なネタから始まり
そこからさらに「常識とは何を指しているのか?」、
「事実とは何を示しているものなのか?」、
「生きるということはどういうことなのか?」、
「真実とはなにをもって言うのか?」そして最後は「真理とは何か?」
というとても深い話まで展開していく構成になっている。
哲学的技法としての数学を使って一見何のつながりもなさそうな
宇宙の真理と日常の日々を無理なくつなげてまとめているすごい本。
(まさに”THE UNIVERSE AND THE TEACUP”の原題通り)
この本のすごさは何といっても独りよがりな妄想に走りがちな
このような哲学的なネタに科学者たちの悪戦苦闘を紹介することで
決定的な説得力を持たせているところだろう。
数学的思考というスキルを鍛える目的で読み始めたが
純粋な読み物としてとても面白い上に転換ということを考えさせてくれる。
読み終わってみて自分の頭が勝手につくりあげた狭い狭い常識に
いかに凝り固まっていたのかということを痛感させられた。
僕が単にこういう数学的論証に慣れていないから
特にそう感じているだけかもしれないが良い本と言える一冊だろう。
そう思ってふと、読書録を振り返ってみると大学に入ってから
ちゃんと一冊通して読み終えた純粋に理系の本と言えるものを選定してみると
『はじめての統計学』鳥居秦彦著(日本経済新聞社)
『システム科学入門』北原貞輔著(有斐閣ブックス)
『数学的思考』森毅著(講談社学術文庫)
『化学入門』原光雄著(岩波新書)
『図解雑学 算数・数学』大矢浩史監修(ナツメ社)
・・・と、この本を加えてもたったの5冊(全181冊中)。
つまり基礎的知的活動である読書の36分の1しか
数学・理学系の本に使っていないということになる。
「そりゃあダメなのは仕方ないな」とけっこう反省した。

また、内容の方では論理展開の根底には数学が流れている本なので、
部分部分の抜粋はあまり意味が無いだろうけど
それでも一部分だけでもとても興味深かったのは
「何でこんなところに数学が?」の章の中での
物理学者リチャード・ファインマンの言葉・・・
「必要なのは『なぜそれがわかるのか?』とか
『どの証拠に基づいているのか?』『他の何と比較しているのか?』とか、
おそらくすでに頭の中にあった疑問を口に出して言う自信だけである。」
「科学とは自分をいかに騙さないようにするかを学ぶ長い歴史である。」
・・・としているのは僕も意識していきたい気がする。

それだけでなく「当たらない予測を科学する」の章で、
「『理論は予測する』・・・これは現在の予測を指しているのだ。」
「科学予測は、言うなれば天気予報というより
むしろ思考の流れのようなものだ・・・
予測は理解への道を照らす道標であって、ゴールの目印ではないのだ。
・・・つまりどのように、なぜ?を理解するのであって、
いつ、どこに?ではないのだ。」
「科学が特に予測に優れているのは、何といっても
いわゆるパターン認識だろう・・・科学の畠で予測をあまりにも
重要視したことが、おそらく大衆の科学不信を招いたのではないか。」
(物理学者オッペンハイマー)
・・・というものがあった。
これをおさえていないと科学に対する
過度の期待や不信を生んでしまうんだろう。

加えて「偶然、必然、O・J・シンプソン」の章では・・・
「証明とは何かがほんとうかどうかを確かめることではなく、
『その背後にある主張のあいだの論理的関係』を明らかにすることなのだ。」
・・・ということを強調した上で法廷の証拠として科学的実証が
求められることについて科学史家ポーターの主張・・・
「法廷では、科学ではとうてい不可能な基準を要求される・・・
法廷では科学者がまるで機械のようにふるまうことを期待しているけれども、
そんなことをすれば結論などだせたものではない。」
・・・法廷では科学者グループの総意を結論として扱うが・・・
「総意とは、正しい意見というわけではなく、ただの合意にすぎない。」
・・・というのを紹介しているのは科学的実証が証拠として
より認められていくだろう今後も意識して注目していかなくてはいけない点。

「量が質に転換するとき」の章では「覆り点」について・・・
「だがその臨界点に達したとき、ほんのわずかな変化が大々的な効果を
現わすのだ。ただしその決定的な境界に達するまでは、
かなり大きな変化さえも、
がっかりするほどのわずかな効果しか現わさない。」
・・・としているのは何でもやるにはかなりの粘りがいる
ということの科学的証明だろう。

そしてこの本の結論的な部分である「真理の不変性」の章では・・・
「自分が見ているものと、そこで起こっているできごととの関係を
理解するためには、自らの準拠の枠(立場や主観性、見る時の状況など)
の影響を足すか引くかしなくてはならないのだが、
ほとんどの人は自分がそんな準拠の枠などというものを持ち歩いているとは、
まったく意識していない。」・・・と、いままでこの本の中で
科学的試行錯誤を紹介した後に言っているのは説得力がある。
「人々はよく正しいとか間違っているとか言って言い争うけれども、
本当は正誤というより、準拠の枠の違いを言い争っていることが多い。」
「さまざまなものの見方は、見るものが自分の立っている枠の種類と、
自分が見とおしている光景の力を理解している限り、
それぞれがさらに新しい洞察を加えていくことになる。」
「浅薄な真理の逆は誤りだ。だが深遠な真理の逆は、やはり事実である。」
・・・としているのは説得性がある。

また、この「真理の不変性」の章では音楽家兼数学者のロススタインの言葉
「対象性をさがしているときの私たちは『どの面を最も重要と考え、
どの面を関係ないことと考えるかを定義しているのだ。』」に加えて・・・
物理学者ヴァイスコップフの言葉・・・
「科学で美しいものは、ベートーヴェンに感じられる美しさと
まったく同じものなのだ・・・さまざまなできごとのもやのなかに、
突然つながりが見えてくる。それは絶えずわれわれの心の奥底に
ひそんでいながら、一度も結びついたことのない、
複雑なことがらのつながりを表しているのだ。」
「自然の秘密はシンメトリ(対象性)にある・・・ただしこの世界の質感は、
シンメトリの破れの機構からくるのだ。」
・・・というのはとても深いが説得性がある。

それほど主要な箇所ではないが注目してしまったのが、
「こんなに危ないことをしているあなた」の章で・・・
例えばタバコに1万8250箱中、一本ずつタバコ型の爆弾が入っていれば
絶対に発売禁止になる。それは一日に3000万箱ずつ売れるとすると
一日平均1600人が確実に死ぬからだ。しかしそれ以上の人間が
確実にニコチンの害とわかっている原因で死んでいる。
このようなことから心理学者ワインスタインが・・・
「人が自分に降りかかりそうなリスクを何とか小さく見積もろうとする努力は
まさに涙ぐましく、それこそ『独創的』とも言えそうだ。
・・・おそらくこれは自尊心を守ることと関係がありそうだ・・・
『自分がリスクにさらされていることを認めることは、
とりもなおさずストレスを処理できないこと、
つまり他の人ほど強くないことを認めるようなものだからだ。』」
・・・として危機感への対処に心理的防御機能が働くことを述べている点だ。
これに関して人類学者コナーは「おそらく人間の脳は、もともと現代生活の
リスクを念入りに計算するようにはできていないのかもしれない。」
「私たちの知的器官というものは、珍しく強く情に訴えてくるような危険、
突飛で劇的な危険向きにできているのだ。」
・・・としたりしているが僕自身の経験からどう見ても
「このままだとぜったいヤバイやろう?」と思っても本人は
びっくりするほど危機感を受け入れようとしない人を見たことがあるが
これはこういったものなんだなと変に納得してしまった。

笑ってしまったのが「割れた卵はもとに戻るか」の章の
最後の方でクラウジウスの・・・
「生命とは自然に反するふるまいの常として、何か強い力によって、
あるエンジンが正常のふるまいの法則を逆行させえた結果に他ならない。
(熱は普通高温から低温へと流れるものである)」ことから・・・
「なぜ生よりも死に勝ち目があるのかを悟り、
そしてそのゆえに生命には一つ残らず終わりがあること、
それも決して例外がないことを理解したのだった。」
・・・という確信を紹介してその締めくくりとして
ストッパード著の『アルカディア』をさらに引用して・・・
「彼はそのとき突然、ものごとが必然的に向かう方向は
無秩序しかないという、トマシナの数学的発見の重大さに気づいたのである。
・・・『そうですとも』とトマシナは答えた。
『ダンスに行くのなら急がなきゃ。』」・・・として終わっているところだ。

だいたいこういったところに興味を感じたが、
以下はそれ以外でチェックしたところ・・・
「優雅な果実」の章・・・
理論物理学者デーヴィッド・グロスによる言葉
「理由はともかく、自然は根底のレベルでは、必ず美を選ぶものだ。」
「量的な論証と質の高い人生を求める心とが決して矛盾しない・・・
そもそも質と量とを引き離すことはできないものなのだ。」

「何でこんなところに数学が?」の章・・・
物理学者フランク・オッペンハイマー
「ものごとを理解するということはセックスみたいなものだ。
たしかに実用的な目的はあるのだが、人はふつう目的のために
それを実行するわけではない。」
「数学は混乱した関係をはっきりさせるのに役立つ考え方である。
それは世界の複雑さを扱いやすいパターンに書きかえる言語とも言えよう。」

「こんなに危ないことをしているあなた」の章・・・
「切迫した危険は、はるか先にある危険よりずっと強い恐怖を呼び起こす。」
心理学者ツヴァースキーとカーネマンの共同研究
「ほとんどの人はたとえ大きな報酬をふいにしてまでも、
小さな危険を避けるのにやぶさかではない。
『何かを失う危険は同等の利益より、
はるかに強く人の判断を左右するものだ』と。」
「ところが行動にでる場合のリスクと行動しない場合のリスクの
どちらをとるかを判断するとなると今度は逆で、
実際には行動しないほうのリスクが大きいかもしれなくても、
やっぱり行動をとるため冒すリスクのほうがずっと大きく見えるものなのだ」

「男を測る、女を測る」の章・・・
「計測自体、実際にはそんなに簡単なものではない。
どんな場合もまず引き離せないものをむりやり離したり、
数えられないものを測ったり、
漠然としたものを定義したりする必要があるのだ。
おまけに測るという行為は、たいがいその対象物に影響を及ぼすものだし、
ときにはそれを壊してしまうことすらある・・・
何かを計るとき、得失は必ず相半ばするのだ。」

「なぜ惑星はみんな丸いのか?」の章・・・
生物学者グールド「それぞれの体内の時計で計れば、
どんなに大きさの違う哺乳動物でもみな同じ長さの
時間を生きていることになる。」

「干草の山に埋もれた信号」の章・・・
「そもそも事実というのは、それだけが完全に隔離されて汚れもなく、
すぐさま人に鑑賞され、ちやほやされるような便利な形で
現われてくることは滅多にない。」

「どちらからも文句のでない離婚条件」の章・・・
公平な分配について「その要点は、公平な分割といっても
単にものを等分するのではなく、さまざまな『競り手』が、分けようとする
当の対象にどれほどの価値を見ているかを考えることなのだ。」
→政治学者のブラムズと数学者のテイラーが導き出した「勝者調停」
→分割の対象物に各当事者が自分の好みによって100点ずつ割り当てる。

「神は親切な者の味方」の章・・・
囚人のジレンマを繰り返すコンピュータプログラムの対戦トーナメントで
優勝した協力を第一とするプログラムの特徴を一言で言うと・・・
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
さもなければ思い知れ!」
このことを踏まえて政治学者アクセルロッドは・・・
「長い目でみれば『親切でない戦略』は結局自らの成功に
必要な環境そのものを破壊してしまう・・・
戦略の一つが他の成功を羨んでそれを出し抜こうとすると、
たいていの場合結局自分の損になるのだ。」
「他人の成功が、実質上自分自身の成功の必要条件なわけだから、
他を羨ましがっても意味がない。」
ダーウィンの進化論に対するシミュレーションの結果を
微生物学者マーグリスの言葉を引用して・・・
「『適者』が生き残ることが多かったからといって、
必ずしもその『適者』が最も強く、
最も強引で最も多産だったことにはならない。
『適者』とは、あるいは自分の目的達成のため協力を利用することを、
最もよく収得できるものを指している」

「真理の数学」の章・・・
「不変の真理に到達する道は、皮肉にも自らの観点を
鋭く自覚することにある。」

「割れた卵は元に戻るか」の章・・・
確立論に決定的な役割を果たしたニューマンの確率論に対する要点
「偶然という概念全体が、単に無知を婉曲に言っただけのことなのだ。
ただし偶然には規則性がある。」

相関関係について一卵性双生児を別々の環境で育ててみても
似たような育ち方をする実験結果について遺伝学者ローズは・・・
「血が続いていようといまいと、
とにかく対象は同時代に育った人々なのだ。」
・・・そこから「相関関係は、要するにそこに何か関係が
あるかもしれないことを暗示しているにすぎない。
一つのことがもう一つのことを引き起こすという
原因結果の信頼できそうな機構なしには、
相関関係などまずほとんど役には立たない。」
児童保護財団のスミスの言葉「僕らの脳には統計的才能に欠けている」

「偶然、必然、そしてO・J・シンプソン」の章・・・
物理学者リヒター「われわれの社会では、科学的な発表とは、
データの確率的な解釈であることが多い」
→「科学的な真理とは、必ず暫定的なものなのだ。」
これに加えて物理学者ハラリ「どんな計測であれ、
ある意味ではすべて近似値である」、
数学者クライン「矛盾の代価は不完全さだ」
・・・これをさらに展開させて・・・
「そもそも自然の法則も含めた最高の法則が不変であるからには、
法的概念も不変であるべきだと人は考えがちだ。
多数決とか武装する権利のような概念はドグマに凝り固まったあげく、
それが自然の法則が科学の方法に従っているものとして、
正当化されているようにさえ見える。
しかし自然の法則がドグマであることはまずない。
だいいちそれははっきり定義された限界のなかだけに通用するのだ。」
「諸法則が思いがけず新しい情況内で働くとき、
ルールが以前と同じでなくてはならない理由などどこにもない。
だから人間の脳などという複雑怪奇なところに、
単純な論理の法則があてはまらないのは当然だ。
地球上ですら平行線は湾曲した面では交わるのである。」

この本をamazonで見ちゃう

1999 8/27
数学、自然科学、哲学
まろまろヒット率5

リチャード・バック&ラッセル・マンソン、五木寛之訳 『かもめのジョナサン』 新潮社 1977

関西では土曜日の昼間という教育上良くない時間帯にやっている
『愛するふたり、別れるふたり』のとてもよく練り上げられたシナリオに
夢中になっている、らぶナベ@『ここが変だよ日本人』も見てしまうっす。

さて、『かもめのジョナサン』リチャード・バック著、五木寛之訳、
ラッセル・マンソン写真(新潮文庫)1977年初版を読んだです。
この本のタイトルだけは昔からどこかしらで時々眼にしたことがあったので
(カラオケにもこの本の歌が入っていたはず)意識には入っていた。
この前、たまたま家の近くの旭屋難波店に別件で立ち寄った時に
見つけて手に取るとけっこうよさそうだったので買ってみた一冊。
日本では訳者の方が有名か(五木寛之は最近稼いでるから)。

内容は「食べることよりも飛ぶこと」に価値を見出してしまった
かもめのジョナサンが群れから疎外され最後は追放されてまでも
飛ぶことへの追求を続け、その死後に天国に行ってからも
そこで選ばれたかもめとして飛ぶことへのさらなる向上をめざしながらも
かつての自分のような飛ぶことを追求する孤独なかもめや
飛ぶことの価値を見出していないかもめたちに
光りを当てようと現世に帰ってくるというお話。

この本の中で印象に残っているところは、物語の結末の方で
ジョナサンが去った後に彼を崇拝する弟子のフレッチャーが
自分もかつてのジョナサンのように後輩たちに飛行の指導を始めた時・・・
「『では水平飛行から始めるとしよう』
そう言ったとき、彼は即座にあの友が今の自分と同じように、
まさしく聖者なんぞではなかったことを悟ったのだった。」
・・・と、彼が今までジョナサンに対していたあこがれを払拭したところだ。
そしてこの本の中で何よりも「やられた!」と思わされたのが、
上の場面の直後にフレッチャーが・・・
「彼は突然、ほんの一瞬にしろ、生徒たち全員の本来の姿を見たのだ。
そして彼は自分が見抜いた真の彼らの姿に、
好意どころか、愛さえおぼえたのだった。」
・・・というところには強い共感をおぼえた。
本来の姿を見抜いてしまうことは失望でも諦めでも無く
愛することなんだというのがシーンとして表現されていたからだ。

この本は最近の僕の気持ちに共鳴したから素直に読めのだろうが
「真理を知った人間が無知なやつに教えるんや」的な臭いが少し感じられた。
(アメリカ人が好きそうなネタではある)
五木寛之もあとがきの中でこの違和感に関して述べていて
この作品自体よりもこの作品がどうしてアメリカで受け入れられていて
日本ではどう受け入れられるのかということの方に興味を持っているらしい。

また、この本の中でジョナサンが群れから追放されるときに言った・・・
「『聞いてください、みなさん!生きることの意味や、
生活のもっと高い目的を発見しそれを行う、
そのようなカモメこそ最も責任感の強いカモメじゃありませんか?
・・・いまやわれわれは生きる目的を持つにいたったのです。
学ぶこと、発見すること、そして自由になることがそれだ!』」

天国から群れに戻ってきてそこで少しづつ理解を広めながらも
彼を崇拝する人間が出てきたときに・・・
「誤解されるというのはこういうことなのだ、と、彼は思った。
噂というやつは、誰かを悪魔にしちまうか
神様にまつりあげてしまうかのどちらかだ。」
・・・としたようなシーンは印象深い。

この本をamazonで見ちゃう

1999 8/24
小説、文学、寓話
まろまろヒット率5

財部誠一 『シティバンクとメリルリンチ』 講談社 1999

去年から始まった日本型金融ビッグバンは眼に見える形で着々と進行中で
特に今年の10月からはいよいよ株取引の手数料自由化がスタートする。
こうした流れはサーヴィスの種類が豊富になって
僕ら顧客が自分の好みで様々な形態を選べるようになるんだけど
その代わりに「知らなかった」や「教えてくれなかった」は通用しなくなる。
と、いうわけでそれなりに僕もビッグバンの流れや
使っている金融機関の事くらいは調べようと思い読み始めた本。

シティバンクもメリルリンチも銀行と証券会社という違いはあれ、
どちらも法人(ホール)相手ではなく個人(リテール)を相手にしている
現在の日本市場では唯一の外資系金融機関。
1200兆円を超える世界一の個人金融資産が眠っている日本で
この領域をターゲットにするのは当然といえば当然の方針だが
日本独自の金融文化や個人顧客の伝統的な排他性や保守性のために
各国の金融機関は個人をメインターゲットにすることに二の足を踏んでいる。
そうした中で個人を狙って進出してきたシティバンクとメリルリンチは
一体どういう企業文化を持っていてどのような経緯で成長してきたのか、
また日本市場に対してどういう戦略を持って臨んできているのかを
この本では日本金融市場のこれまでの特徴と対比しながら記述されている。

本の中ではシティバンクとメリルリンチの両方とも80年代には瀕死状態で
(シティバンクに到っては米国史上最大の不良債権を持っていた)
そこからはい上がってきた金融機関というのを強調していた。
30万円以上の預金が無いと口座維持費を取られてしまうシティバンクの方は
あまり僕とはまだまだご縁が無さそうなのでさらっと読んだが、
(100万以上預金すると他銀行から引きだしたとしても
24時間ATM手数料無料というのは惹かれるけど)
メリルリンチの方は僕個人の取引証券会社であるのでとても興味深く読めた。
特にこの本を読んで強く印象に残ったのは”Get Rich Slowly”という
メリルの理念だ、これはまさに顧客として感じていたことだった。
普通の証券会社は営業ノルマが細かく設定されているために、
顧客に大したこと無い株を安易に薦めたりすることが多々あるが
メリルの営業にはそのノルマが細かく設定されてはいない。
だから僕の担当の人と話していても他の株を強く薦められることは無い、
求めるならあくまでアドヴァイスという形で株を紹介するという感じだ。
だからとても安心感を持って窓口に立ち寄ることができる。
しかし、この営業方針が日本の顧客に理解されるかどうかは微妙だろう。
基本的にそれは顧客がある程度は自分で学ぶということが前提になるし
顧客の自己責任について他の証券会社よりも強調することになる。
僕のように株を所有することを通して市場や株式を学びたいという人間なら
まさにこれは大歓迎だし小うるさい営業が嫌いという人にも歓迎されるが
「おんぶにだっこ」な感覚を根強く持っている多くの日本の顧客にとって
このやり方は違和感をまだまだ強く感じるだろう。
そこにメリルの苦戦があるように個人的に感じた。

そしてこの本を通して感じたもう一つの大きなこと。
それは各業界で現在進んでいる規制緩和や自由化によって
「結局1社か2社しか生き残らない」と極端には言われている。
(自動車、銀行、旅行代理店、製薬会社などなど)
でもそれはトップの「何でも屋」としては1社か2社が残るというだけで
他の各社がより存在理由やアイデンティティを鋭くしてゆく
(中途半端は消えてゆく)ということだろうと感じる。
まさに「No1か?Only Oneか?」をせまられる構造になるだろう。
もちろんこれは予想というより勝手な臭い的に感じるだけのことで
実際にどうなってゆくのかは確かにはわからないけど
どちらに転んでも僕にとっては生きやすい世の中になっていきそうだ(^_^)

また、他にはこの本の中で株式市場や為替市場に限らず、
市場で最高値で売り最安値で買うことの難しさについて・・・
「大底が形成されるのは売り手がまったくいなくなってしまうからであり、
反対にマーケットが天井をつけるときは買い手が消えてしまうからである。」
・・・としているのは当たり前の話だが思わず熱くなると忘れることだ(^^;

それと日本の不動産を買い始めている外資系企業が導入している、
担保の価格変動をも金融機関の責任に入れる「ノンリコース・ローン」が
本格的に日本の不動産業界で中心になっていけば
ずいぶん不動産業や銀行などによる融資の仕事も
興味深いものになってゆくだろうと感じた。

この本をamazonで見ちゃう

1999 8/19
経営学
まろまろヒット率3

高坂正堯 『文明が衰亡するとき』 新潮社 1981

らぶナベ@今月18日にエニックス株が二部を飛び越して
東証一部に上場されるっす。
今年中に上場はあると思っていたけどまさかこんな早い時期に
それも飛び上場とは予想外っす、めざせ年内1万2千円台!(^^)

さて、『文明が衰亡するとき』高坂正堯著(新潮選書)1981年初版をば。
著者の高坂正堯は近代から現代にかけての日本の国際政治学の中でも
おそらく屈指の存在だろうと思われる国際政治学者。
沖縄返還では佐藤政権のブレインとしてその政策を支える
活躍をするなどの実践経験もある骨太な研究者。
個人的にも彼の今までの著作『国際政治』『世界史の中から考える』
『世界地図の中で考える』『世界史を創る人びと』などを通して
安易な理想主義の問題点を突っ込み、ドライな視点で現実を捉えながらも
だからといって決してすれたり投げやりにならない姿勢に好感を持っていた。
極端に楽観的になったり極端に悲観的になりがちな国際的なネタを
冷静にかつ愛情を持って見つめようとしている姿が伝わってくる書き手。
最近死んでしまったけど僕がもっとも好きな政治学者&物書きの一人。

この本はその彼の著作の中で一番の代表作というべき本。
いつか読みたいと思いながらもなぜか読む機会を見いだせなかった本、
大学院に入って本を読む時間があるというのはとても良いことだ(^^)
内容は誰もが一度は感じたことがある衰退と滅亡への
漠然とした不安、文明の衰亡論をテーマにしている。
衰亡の原因は一つだけではなくまた一直線で衰退するということも
無いために衰亡の究明は複雑になってくる。
だらこそ不安をかきたてられてどうしても安易な結論を出してしまいがちだが
この本はそういう意味では余裕がある書き方をしている。
構成としては古代ローマ、ヴェネツィアの隆盛と衰亡を軸にして
現代アメリカの苦悩と最後に海洋商業国家としての日本が戦後経済大国に
なりえた環境とその状況が変化しつつある今後の姿を示している。

昔から様々な人間を惹きつけてきた、
「ローマはなぜ滅んだか?」というテーマの大元、
古代ローマがどうして隆盛しどのようにして滅んでいったかを
これまで各時代ごとに出されてきた様々な仮説を紹介しながら
えがいているところは特に興味深かった。
確かにその時代その時代の不安がローマ衰亡論には見え隠れして
衰亡論の面白さが伝わってきて説得力がある。
また、様々な衰退要因を克服しながらも衰亡していったヴェネツィアの姿勢は
与えられた状況の中で困難に立ち向かう人間たちのカッコ良さを感じる。
そしてそれは領土も資源も無く海洋に面している
商業国家という点で似ている日本の姿をだぶらせてしまう。
(安易な類似は危険だけれど)

悲壮感が漂いそうなテーマでありながら決して感情的に高ぶったり
安易に悲観論に走らない、だからといって味気なく無いところは
さすが高坂史観だと思わせてくれる。
どうも僕は司馬遼太郎といい、高坂正堯といい、
安易な理想論や無責任な感情論に対して誰にも文句を言わせないほどの
資料調べとそれに基づく歴然とした事実を武器にして批判し、
それだからこその説得力を持って現実に絶望しないで
ユーモアを感じさせてくれる関西人的な書き手が好きなようだ。
(事実、二人とも根っからコテコテ関西人)
時にそれは感情論者や理想論者を逆なでしてしまうのだろうけど(^^;
現実的な視点で軟弱な理想主義を非難しつつも投げやりにならない
骨太な希望論は僕も心がけていきたいものだ。
たとえそれが避けがたい衰亡論のような一見絶望的なものであっても
それが必要だと、そう思わしてくれる名著だった。

以下、眼についた箇所の抜粋・・・
・ある時代に強力であった説というものは、時代おくれとして
簡単に片づけられないものなのである。

・ローマは狭い視野で、勝利の成果をむさぼろうとせず、
寛大に扱ったのであり、それ故、支配を永続させることができたのであった。

・財産の平等が質素を維持するように、質素は財産の平等を維持する。

・土木と法はローマ人がもっとも秀れていたところ

・権力と富を享受しうるようになったローマで、敢えてそれから逃避せず、
しかし、その奴隷にならないよう日毎自らをいさめ誘惑と戦う

・大衆は普通、彼等の属する集団やその価値によって自己を規制している。
そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを
得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが
大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作され易い。

・幸運に臨んでは慎み深く、他人の不運からは教訓を学んで、
つねに最善をつくす

・巧妙な外交をおこなうものは、
契約を破ったりは滅多にしないものなのである。

・よい政治体制とは国内の活力と多様性とを保ちながら、
秩序と安定とを与えるもの

・勝敗の分かれ目はレーンが述べたように
「社会を組織する能力」の差にあった。
(ジェノヴァに勝ったヴェネツィアの要因)

・挫折は自らの限界を悟らせる。そして、人間は知恵を持つようになる。

・幸運に助けられた目ざましい成功と、どうしても克服できない脆弱性、
その二つが通商国家の運命であるというほかない。

・それをしていることを十分に承知している人間の行う偽善は、
有効であるとともに、かつ芸術的に美しい

この本をamazonで見ちゃう

1999 8/17
歴史、政治学、エッセイ
まろまろヒット率5