渡邊義弘@松阪ソーシャルメディア朝会(朝オフ会)が新聞記事に取り上げられました。
(2012年6月30日 『中日新聞』朝刊・第22面 「地域の活性化へ朝会で情報交換 松阪市職員渡辺さんフェイスブックで呼び掛け 出勤前手軽な交流」)
さて、『社会とは何か―システムからプロセスへ』竹沢尚一郎著(中央公論新社)2010。
“社会”という概念は、どのような歴史的要望で発明され、発見され、成立して来たのか。
その変遷をたどりつつ、フランスの移民問題と水俣病問題の実例を通じて”社会”とは何かを問う一冊。
“社会”は明確なシステムではなく、様々な多様な個人と集団がせめぎ合うプロセスであることを明らかにしている。
無意識のうちに使うことが多い”社会”とは何かを見つめ、考える機会になる一冊。
以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・
☆社会とは明確な境界のあるシステムではないし、自律的な単位でもない
→歴史的存在としての人間が、他者とともにより良き集団的な生を築くにはどうしたらよいかを考え、それを実現しようとして作り出した観念であった
<はじめに>
○(デュルケームとパーソンズの社会学)社会を等質的な閉じたシステムとするその社会学は、
形式的な整合性をなにより優先する、裂け目もなければ当事者の顔も見えてこない、無機質の社会像を呈していた
<第3章 社会の科学の成立―社会主義と社会学>
☆文化の創造によって社会的に承認を得ようという試みは、個別化を前提にした営みであるがゆえに、
一部のスターとなる成功者は生むとしても、集団としての達成につながるものではない
→文化による社会統合の試みは、広範な連帯を打ち立てることが困難であるがゆえに、
集団の次元では失敗することが宿命づけられている
<第4章 社会と文化―文化の名による排除から社会統合へ>
☆生活の質が脆弱化にさらされ、しかも政府が無力化しつつあるとの意識をもつ人々の多くは、
国境に代わる境界によって自集団の外枠を明確化した上で、そのなかに同胞と住まうことで落ち着きを得ようとする傾向がある
→そのために活用されているのが文化であり、文化の壁を高く掲げることで自他の区別を絶対化し、他者に対する排除を強化してきた
<第4章 社会と文化―文化の名による排除から社会統合へ>
○マルチカルチャリズム(多文化主義)は、ひとつの国家のうちに複数の文化集団の存在を認める点では開放的・多元的な思想だが、
それぞれの文化集団のうちに単一性を求めている点では、閉鎖的・一元的な発想
→マルチカルチャリズムの思想が抱える根本的な課題は、各文化集団の自律性を強調するあまり、
複数の文化集団のあいだでどのように対話とコミュニケーションの回路を切り開くかを理論化できない点
<第4章 社会と文化―文化の名による排除から社会統合へ>
☆社会は、それを構成するすべての部分が機能的に連関しあう等質的なシステムではなく、
多様な諸個人と多様な構成原理をもつ諸集団が、自分たちの生の環境をより良きものにするべくせめぎ合う場であり、
そうした行為がおこなわれるひとつの競合的なプロセスであると考えるべき
<第5章 社会と共同体―複数性の社会へ>
○生活の共同とたがいの身体への関心、そして深い情緒性にもとづいた複合的な関係性のみをコミュニティと呼ぶべき
→権力作用による抑圧や排除、あるいは葛藤、抵抗や交渉などの相互作用がくり広げられる状況あるいは現場
<第5章 社会と共同体―複数性の社会へ>
○コミュニティとは、生活の共同に根ざすがゆえに強固なつながりをもつ人間の結合
→それゆえに、外部に対しては閉鎖的な性格を帯びざるをえない
→しかし、それが公共圏に結びついたとき、外部の社会へとつながっていくこができた
<第5章 社会と共同体―複数性の社会へ>
☆強固な団結と持続性をもつコミュニティと、外部に向けての開かれと情報発信力をもつ公共圏が結びついたことで、
水俣病の運動はわが国では例外的な永続性と広がりをもつ運動体となることができた
<第5章 社会と共同体―複数性の社会へ>
○社会がその力を枯渇することなく、新しい力を生み出しつづけることができるのは、
内部に多様で異質な要素を抱え、そこに生じる軋轢や齟齬が私たちにより良き生とは何かをつねに問い質しているため
→そのように多様性と複数性を有している点にこそ、社会のもつ可能性と自己変革の能力を認めるべき
<第5章 社会と共同体―複数性の社会へ>
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2012 7/1
社会学、社会学史
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