本村凌二 『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』 岩波新書 2005

要望が出たのでMIXIでWEB遺書のコミュニティを立ち上げた、
らぶナベ@キーワードは「天国からもアクセス」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=589241

さて、『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』本村凌二著(岩波新書)2005。

メソポタミアのシュメールからはじまって、エジプト、パレスチナ、ギリシア、ローマと、
実に四千年間を通して多神教から一神教への転換に注目した歴史書。
著者が言うように人類の文明は五千年で、そのうちの四千年は古代に分類されている。
その四千年間の古代人の心性に変化に踏み込もうとした意欲的な一冊。

読んでみると、一神教の誕生と普及にはアルファベット(表音文字)の誕生と普及が関係しているとしている。
一神教が台頭してくる紀元前1000年前後には、ちょうどアルファベットの普及、
古代のグローバリゼーションによる危機と抑圧という環境の変化があり、
そして神の声を失った人々の心性の変化(詳しくは本書(^_-))が、
一神教を受け入れる素地となってきたという主張をしている。

複雑化、多様化する文明はある時点から単純化に転じる傾向があり、
アルファベットという”技術”の普及がその原動力となった・・・
何か現代にも通じるものがあるような気がした。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○ひしめきあう神々のなかでもわが民の神を至高の存在とする意識と
少ない文字種であらゆることを表記しようとする意識とは底流ではつながっているのではないだろうか
→「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書)
<第3章 神々の相克する世界>

○言語とはいわば、この世の現実をなにか象徴的なもので置きかえて表現する方法
<第4章 敬虔な合理主義者たち>

○アルファベットの誕生と普及、危機と抑圧、神の声を見失った人々の心性が一神教を受容する土台になった
<第6章 普遍神、そして一神教へ>

○いわば複雑になるばかりの文明はある時点から単純化に転じる傾向がある
→なかでも文字の単純化とその普及は画期的で認識能力の革命
→あらゆる音声を記すことのできるアルファベットによって全能の神の姿が人々の脳裏に浮かんできても不思議ではない
<エピローグ 宗教と道徳>

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2006 1/30
歴史、宗教史
まろまろヒット率3

早川いくを 『へんないきもの』 バジリコ 2004

見た目と存在感がカモノハシに似ていると言われたことがある、らぶナベです。

さて、『へんないきもの』早川いくを著(バジリコ)2004。

そのものずばり、不思議な見た目や驚きの生態を持った生物を紹介する本。
メスの20万分の1の体積しかないオスが、メスの子宮内で一生をすごすというボネリムシや、
気温150度からマイナス273度(絶対零度)の環境下でも生き残るクマムシなど、
「どうやって進化したんだ?」と思うような不思議な生物が取り上げられている。

紹介文がけっこう面白くて、たとえば海面を50メートルも飛ぶトビイカについては・・・
「それにしても水中の、しかも軟体動物が飛行するのである(略)よほど気合を入れて進化をしたのだろう。
イカは多くを語らぬが、数多くの苦労もあったに違いない」・・・など哀愁を誘うものが多い。

可愛いと定評のある動物を紹介する「かわゆいどうぶつさん」のシリーズでも、
実は激しく集団抗争を繰り広げるプレーリードッグや、荒々しい捕食スタイルを持つアイアイなど、
見た目が愛らしいとされる生物たちの生々しい面を紹介している。

可愛いとか気持ち悪いとかいう価値判断は人間が勝手につくったもので、生物たちにとってはそれが自然な姿なんだ。
そういうことをあらためて思い知らされる一冊でもある。

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2006 1/25
自然科学
まろまろヒット率3

ガブリエル・ストリッカー、鈴木尚子訳 『取締役会の毛沢東―毛沢東の「ゲリラ戦論」に学ぶマーケティング戦略』 バジリコ 2005

『THE有頂天ホテル』は確かに面白いと思った、らぶナベです。

さて、『取締役会の毛沢東―毛沢東の「ゲリラ戦論」に学ぶマーケティング戦略』ガブリエル・ストリッカー著、鈴木尚子訳(バジリコ)2005。

毛沢東の『遊激戦論』(抗日遊撃戦争の戦略問題)を、現代の著名な企業の戦略、マーケティングに当てはめた一冊。
原題は”MAO IN THE BOARDROOM”(2003)。

第1章「ゲリラ戦とは―法則を変えること」で「最も強い者のみが生き残る、のではなく、最も賢い者のみが生き残る」としているように、
確かにどんな有名企業も、最初は小さくひ弱な存在としてスタートし、大きな企業とのゲリラ的な戦いを通して強く大きくなってきた。
そうした企業の戦略、マーケティングの過程はゲリラ戦の理論で分類、分析できるというこの本の視点に興味を持った。
社会主義を目指して戦った毛沢東の戦略を、資本主義の中心である企業戦略に当てはめているという皮肉もちょっと面白かった。

そんな興味深い志向の本だけど、実際に読んでみると各章の項目とその当てはめ事例が
実はあんまり関連してはいないのではないかと思うところもけっこうあったのが残念。

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2006 1/24
経営戦略、マーケティング
まろまろヒット率2

チャールズ・リンドホルム、森下伸也訳 『カリスマ―出会いのエロティシズム』 新曜社 1992

修二と彰の振り付けを練習中の、らぶナベです。

さて、『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 1992。

カリスマの研究書、めちゃ面白かった一冊!
内容は理論編(第2部)でカリスマ研究の歴史、各分野からのアプローチを押さえながら統合理論としてまとめ、
実例編(第3部)でカリスマとその信奉者たちの典型例を取り上げて、
結論(第4部)でカリスマとその信奉者たちとの相互作用は一体何なんなのか、その今日的な意味も含めて答えを出している。
理論の深さ、実例の迫力、結論の説得力、どれを取ってもカリスマの研究の決定版と言える本。

まず、すごいなと思ったのが膨大な先行研究を押さえていているところだ。
たとえば理論編では情念に焦点を当てた哲学者たちとしてヒュームやミル、ニーチェ(2章)、社会学としてのアプローチ、ウェーバー(ヴェーバー)とデュルケム(3章)、
催眠と群集心理学からのアプローチのメスマー、ル・ボン、タルド(4章)、精神分析学からのアプローチとしてのフロイト(5章)などの
カリスマ研究の背景やそれぞれのアプローチを総括しながら、
カリスマ的リーダーシップの病理性を強調する心理学的見解と、カリスマ的集団に積極的な価値を与える社会学的言説との対比をまとめて(6章)、
カリスマ精神の病いなのか、再社会化なのだろうかと問いの下で統合理論化(7章)をしている。

その次の実例編では典型的なカリスマとその信奉者たちの実例としてアドルフ・ヒトラーとナチ党(8章)、
チャールズ・マンソンとそのファミリー(9章)、ジム・ジョーンズと人民寺院(10章)を取り上げている。
著者は文化人類学出身なので、この実例編は本領発揮という感じでとても迫力があった。
ある人物がカリスマ的パーソナリティを持つことになってゆく過程、奴隷化しているのに自分は解放されていると思う信奉者たち、
そしてカリスマと信奉者の相互作用で生まれた集団のダイナミズムが展開し、崩壊していく様が克明にえがかれていて、
単純に生々しい読み物としても読み入ってしまった。
そしてシャーマニズムとの共通点を指摘しながら(11章)、結論につなげるという流れがとても綺麗。

結論(12章)では、現代のカリスマをよく指摘されるような芸能人やスポーツ選手にとどまるだけでなく、
カリスマ的な特徴を帯びた人間関係として、家族(観)とロマンティックな恋愛を挙げているのが面白い。
確かに実例編で出てきたカリスマとその信奉者たちは極端な事例かもしれないけど、
読みながらホストに入れ込む女性や、キャバクラ嬢に振り回される男性を思い起こしていただけに納得。
(実は自分自身の恋愛体験の中にも重ね合わさる面もあった(^^;)

人間関係がもたらす無我と交感の絶頂感(エクスタシー)は魅力的で、時には没頭してしまう。
コミュニケーションの快楽に耽溺する人の性向は決して特殊なものではなく、
人間の本質の一つなんだ、というこの本の主張は説得力があった。
(そこには集団のダイナミズムが生まれる源泉になる)

ちなみに、この本はインターネット普及以前に書かれたものだったので、
現在のネットコミュニティ内でのカリスマ出現に著者はどう思っているのか知りたかった。
また、理論編の第2部はけっこう面白いんだけど、理論的背景とかアプローチを退屈だと思う人は、
訳者が言っているように実例編の第3部から読んでも十分に面白く読めると思う。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○カリスマというものを理解するためには、カリスマ的人物の性格やそのカリスマ的魅力を個々の人間に受け容れやすくさせている諸属性を研究しなければならないばかりでなく、
同時に指導者と信奉者が相互作用をおこなっているカリスマ集団そのもののダイナミズムをも分析しなければならない
<第1章 序説>

○弱く空虚な人間は、服従することによって、ひとつのアイデンティティを、また力と意志という不可欠な幻想を手に入れることができる
→カリスマの信奉者たちは抑圧の中に解放されているという感覚を感じる (Hoffer 1951)
<第4章 催眠と群集心理>

☆自己の解体的幻想による同一化的経験こそが指導者に対する信奉者の愛、自我の境界が消失する超越的な愛の源泉
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○心理学者たちが指導者に焦点をあて、彼らの障害をもったパーソナリティを強調しがちであるのに対し、
社会学者たちは指導者の性格についてほとんど論じることなく、信奉者や彼らを取り巻く環境に関心をもつ
→心理学が信奉者のうちに病理性を見ようとするのに対して、
社会学者は信奉者が普通の人間よりも深い心理学的な生涯を病んでいるわけではないことを証明することに関心をもっている
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○カリスマに対しては大きく分けて二つのアプローチがある・・・
・精神分析学に由来するものでカリスマの感情的強烈さや超越的性格を認めはするが、それに対する価値判断を含み、指導者の個人的特長を過度に強調するもの
・社会学に由来するもので集団の重要性、共同体への参加が人々の願望の対象となりうることをよく認識しているが、
 しかし経験から情念を剥離させ、リーダーシップを閑却し、カリスマ的紐帯の根底にある無意識の衝動を軽視するもの
→どちらのアプローチもカリスマ的経験の一部を教えてくれるが全体ではない
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

☆自我がその価値を減ぜられ、アイデンティティの標識や対象とのきずなを剥奪されながら、それでもなお同時にすべての行為の唯一の正当化根拠とされるとき、
カリスマの啓示や帰依者の共同体的集団への没入によってあたえられる激しさや内的確実感は高度に魅力的
→このようにして高められた相互作用の形式は現実の社会構造に欠けている、交感の感情、エクスタシー的自己喪失、超越、信念をあたえる
<第7章 カリスマの統合理論>

☆カリスマ的な関わりへ導いていく諸条件について統合的図式・・・
・疎外された現代社会とナルシズムの文化が結合して人々にカリスマへの没入を受容させやすくしている
・人格的アイデンティティを遮断することによって人々に自己喪失を用意させる思想改造
→いずれも人格的アイデンティティを脅かし、集団による個人の吸収を促進し、集団形成の指導者に対するエクスタシー的心酔を偏愛するように作用する、
 ある種の技法や社会状況がもつ人格解体的作用に対してまことに弱い存在として人間を描く
<第7章 カリスマの統合理論>

○ヒトラーという恐るべき事実に直面した歴史家や政治学者は、当然のことながら彼や彼の運動からその神秘的な要素を取りのぞこうとするから、
その結果として諸々の偶然の変数が結びつくことで彼に政権の掌握と維持が可能になったという事実を強調することになる
<第8章 「取り憑かれた従者」>

☆カリスマ集団の隠された目的は「成功」することではなく、経験することそれ自体
→だから外的脅威の圧力で集合体経験は強化される
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○(ナチスのSS訓練は)極度の疲労と苦痛、そして屈辱は、男たちの過去とのきずなを切断し、いかなる自律感覚も腐食させる効果を発揮した
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○社会変動が旧来のきずなを切断してしまったところはどこでも、補償としてのカリスマ運動を好む
<第9章 「愛こそわが裁き」>

○主観のうちに生じるエクスタシー的なトランスという変成状態の所有がシャーマニズムの中心
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆シャーマンの役割につくことは、現代においてカリスマとなることと同じく、アイデンティティ解体という初期局面から苦痛に満ちた自己再構成を経て、
他のもっと弱い魂たちを圧しつぶす潜在的な精霊をコントロールして顕在化させる能力をもった変身せる専門家としての再生へ向かう運動
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆カリスマ的啓示は、周縁に追いやられた集団を無視し抑圧してきた社会構造における弱き者の示威運動、反構造の契機、警告のコミュニタスとなる (Turner 1982)
→カリスマの形態は、いかなる社会にあっても、社会構造の中にそれがあらわれることで克服されなければなならい抑圧のタイプと程度を示す
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○逸脱せる集団とその指導者に精神的な変調をきたした者というレッテルを貼ることと、彼らが実際に狂気に落ち込んでいくこととの間には明確な相関関係がある
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆今日におけるカリスマの過剰なあらわれは、交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムが満たしえないでいることの反映
→カリスマとその集団は、その暗さによってわれわれ自身が置かれているディレンマの輪郭をくっきりと縁どる影
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○非日常な無我の状態に到達することのできる一つの方法が、移ろいやすい気質をもったカリスマ的指導者という霊感喚起的な人物によって結合された集団に所属すること
<第12章 今日のカリスマ>

☆恋愛においては、カリスマにおいてと同じように、相手のうちへ自己を喪失することが縮小としてでなく、高揚、エクスタシー、自我の拡大として経験される (Chasseguet-Smigrel 1976)
→恋に落ちることは巨大な革命のエクスタシー感情と変革パターンを小規模で複製する集合運動の最も単純な形態 (Alberoni 1983)
→カリスマも恋愛も強烈な情動喚起的関係における自他の完全な同一化を要求するので同時並行することはできない
<第12章 今日のカリスマ>

☆カリスマとは、世俗的な世界の疎外と孤立の外部にあってそれと対立する根源的な超越の瞬間をもたらす直接的なエクスタシー経験
→無我と交感というモーメントは、われわれ人間の不可欠な条件の一部
→問題はそうしたモーメントがどのような形態をとるかということ
<第12章 今日のカリスマ>

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2006 1/17
カリスマ研究、社会学、心理学、社会心理学、文化人類学、宗教学、思想史、リーダーシップ論、政治学、組織論、コミュニティ論
まろまろヒット率5

エルネスト・チェ・ゲバラ 『ゲリラ戦争―キューバ革命軍の戦略・戦術』 中央公論新社 2002(原著1960)

ジャージ・コミュで突発的にゲリラオフ会を開催した時に「チェ・マロバラ」と名乗ったら、
複数のまろみあんから「チェ・ゲマロの方がいい!」と総括された、チェ・ゲマロ@自己批判プレイです。

さて、『ゲリラ戦争―キューバ革命軍の戦略・戦術』エルネスト・チェ・ゲバラ著(中央公論新社)2002(原著1960)。

ゲリラ戦を駆使してキューバ革命を指導し、その後も各地で戦ったチェ・ゲバラが書いたゲリラ戦の基本書。
最近、まわりで「ゲリラ的な」という表現をよく耳にするし自分でも使うことがあるので、
ゲリラ戦略とはどういうものか、まとまっているものを一度読もうと思って手に取った一冊。

内容はキューバ革命という特殊事例から、ゲリラ戦に共通する一般法則を導き出そうとしている。
同じような目的で書かれた毛沢東の『遊激戦論』(抗日遊撃戦争の戦略問題)と比べると、
ゲリラの戦略・戦術だけでなく、その支援作り、実際の生活面なども書かれてあって、
こちらはどちらかというと革命書に近い。

読んでみると、正規軍ではなく、根拠地をつくりながら移動し、小回りがきいて、相手の意表をつく展開をする・・・
そんなゲリラ戦略に、コンテンツ分野やWEBなどの新しい領域で活躍する個人やコミュニティと共通したものをあらためて感じてしまった。
思わずゲバラ帽ではなくゲマロ帽を作ろうかなと思った(^_-)

以下は、チェックした箇所(要約含む)・・・

○勝てそうでないかぎり、いかなる会戦も戦闘も小衝突もやらない
<第一章 ゲリラ戦の一般原則>

○戦略とは全般的な軍事情勢からみて達成すべき目的およびこれらの目的を達成するための全般的な諸方法の分析
 戦術とは大きな戦略的目的を達成するための実際的方法のこと
<第一章 ゲリラ戦の一般原則>

○住民の絶対的な協力と、その土地についての完全な知識が必要
→この二つの条件は、ゲリラ戦士にとって一瞬間もゆるがせにすることはできない
<第一章 ゲリラ戦の一般原則>

○ゲリラ兵士に要求される基本的特質=柔軟性をもち、あらゆる環境に適応し、
戦闘中にどんな思わぬ事故がおきてもそれを逆用する能力をもつこと
<第一章 ゲリラ戦の一般原則>

○敵の縦隊のどの部分を攻撃する場合でも、先頭隊はかならずたたいておかねばならない
→敵兵は先頭に立つことを嫌がり、敵内部に反乱じみた空気を引き起こすため
<第二章 ゲリラ部隊>

○ゲリラ戦のもっとも重要な特徴のひとつは、敵と味方の間の情報にいちじるしい差違があること
<第二章 ゲリラ部隊>

○テロは無価値→効果を生まないし、人民を革命から離反させ、割りに合わない人的損害を味方にもおよぼす
<第三章 ゲリラ戦線の組織>

○メディア宣伝は、内(ゲリラからの発信)と外(外部に源をもつ)の相互に補い合う二つのタイプの組織からつくる
<第三章 ゲリラ戦線の組織>

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2006 1/13
戦略論
まろまろヒット率3

守屋淳 『逃げる「孫子」―他を凌駕する“兵法”の原点とは』 青春出版社 2004

白蜜派と黒蜜派に分かれるという鍵善のくずきりは、だんぜん黒蜜派だったらぶナベです。

さて、『逃げる「孫子」―他を凌駕する“兵法”の原点とは』守屋淳著(青春出版社)2004。

引くことや撤退すること、つまり「逃げる」ことに注目して孫子を読み解く一冊。
曹操(1章)、毛沢東(2章)、ホー・チ・ミン(と戦ったアメリカの失敗、3章)、
ポーター、ドラッガー、ビル・ゲイツ(現代経営戦略への応用、終章)など、
孫子を参考にして進退を駆使して戦った人々の戦略を解説している。

確かに孫子でもっとも重要な点は、逃げることを恥とせずに柔軟に進退をすることだ。
「立場の弱い者が強者を逆転した陰には、かならずゲリラ戦や状況に合わせた柔軟な進退の存在を見て取れる」
と著者が言っているように、ライバルや環境の変化に合わせていかに柔軟に対応するかが孫子の根幹だ。

読みながら自分のことを振り返ってみると、ここ最近は「絶対に負けられない」と意気込むあまり、
硬直した場面もあったなと反省してしまった。
「意欲」や「こだわり」は大切だけど、時として判断する目を曇らせてしまう。
気をつけたい(^^;

ちなみに、孫子は「ライバル多数の状況を想定」して書かれていると著者は述べている。
その点が「1対1の決闘を想定したクラウゼビッツとの違い」と言っているのは納得。
また、逃げることは「臆病さに陥る微妙なバランス」だが、
「後世の人間や安全な場所にいる第三者たちは強気な決断を支持したがる」というのもうなずけた。

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2006 1/5
戦略論
まろまろヒット率3

多島斗志之 『海賊モア船長の遍歴』 中央公論新社 2001

らぶナベ@本年もよろしくお願いシマウマ。

さて、2006年の最初に読んだ本は、『海賊モア船長の遍歴』多島斗志之著(中央公論新社)2001。

主人公ジェームズ・モアはかつて東インド会社の航海士だったが、不可解な巡り合わせと不運で凋落していた。
そのモアが海賊討伐に出航するアドヴェンチャー・ギャレー号(キッド船長)に乗り込むことから物語がはじまる・・・

海賊ものの傑作と前から耳にしていたので、年始に読んでみた一冊。
17世紀末のインド洋を舞台に、船中での人間模様、過去をめぐる謎をえがきながら、
商船への襲撃、軍艦との海戦、海賊同士の争いなどのメインストーリーが進んでいく。

しっかりした時代考証、個性的な登場人物たちの活躍、海戦での頭脳戦など読みどころは多いけど、
特に印象に残ったのは、主人公モアとマドラス長官トマス・ピットとのやりとりだ。
トマス・ピットの書斎にあったモンテーニュの『随想録(エセー)』の中の、
「物陰で狡猾におこなわれる不正よりも、はっきりと表立ってなされる不正のほうをまだしも許容する」
という一文に「同感なり」という書き込みが添えられていたのをモアが発見するシーンは、
二人の間に芽生えた友情のようなものの背景がわかって印象深い。

上下二段式の長編だけど、展開が早い上に章立てがわかりやすいでサクサク読める一冊。

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2006 1/4
歴史小説、海賊もの
まろまろヒット率3

今井雅晴 『日本の奇僧・快僧』 講談社現代新書 1995

大阪に帰ってみると久々にやしきたかじんをTVで見た、らぶナベです。

さて、『日本の奇僧・快僧』今井雅晴著(講談社現代新書)1995。

仏教史の専門家が、奇僧・快僧として評価されてきた僧たち、
道鏡、西行、文覚、親鸞、日蓮、一遍、尊雲(護良親王)、一休、快川、天海を取り上げている一冊。

読んでみて興味深かったのは、奇僧・快僧と呼ばれる人たちには共通項があると言っている点だ。
それは、1:力強さがある、2:アウトサイダーである、3:学問が深い、というもので、
いわゆる頼もしい知的アウトサイダーとしての存在感が庶民の人気を集めたと指摘している。

また、踊念仏の一遍はわかるとして、日蓮と親鸞も取り上げているのも面白かった。
この二人は現代では聖化、権威化しているけど、確かに奇僧の部類に入る僧たちだろう。
日蓮は一切の妥協を放棄したファイターであり続けたし、
非僧非俗(僧でもなく俗でもない)を自称した親鸞はまさにアウトサイダーだった。

だから僧が制度に組み込まれて俗化が進んだ江戸時代以降は快僧・奇僧が出現していないとして、
(南光坊)天海で終わっているところがこの本の特徴と言える。

生々しくて、まがまがしい、でも頼りがいがある知的アウトサイダーとしての
奇僧・快僧たちの魅力をちょっと感じさせてくれる一冊。

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2005 12/25
歴史、仏教
まろまろヒット率3

黒岩重吾 『中大兄皇子伝』 講談社文庫 上下巻 2004

「浅田真央を浅田真央をトリノへ出してあげたいまとめサイト」に新しい社会運動の姿をかいま見た、
らぶナベ@とりあえず安藤美姫の目はこわいです(^^;

さて、『中大兄皇子伝』黒岩重吾著(講談社文庫)上下巻2004。

社会常識にこだわらずに既得権益と戦い、専制君主的なリーダーシップで改革を断行する、
そんな日本人らしくない歴史人物として織田信長はよく取り上げられるし、彼を主役にした小説やドラマは多い。
でも同じく革命的な人物なのに中大兄皇子(天智天皇)を主役にした物語は少ないと思っていたら、
たまたま見つけたので手に取ってみた歴史小説。

読んでみると上巻のほとんどをかけて、大化の改新にいたる経緯をえがいている。
中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺するのは、正確には大化の改新じゃなくてそのきっかけの乙巳の変だけど、
その過程には国際情勢の変化、中臣鎌子(藤原鎌足)の暗躍などが絡まってきていて
この時代ってやっぱり面白いんだなぁっと再確認することになった。

ちなみに中大兄皇子の女性関係をめぐっては弟から奪った額田王と、実妹の間人皇女が有名だけど、
この小説では間人皇女との関係の方をかなり詳細に書かれてあった。
確かに同父母の妹と関係を持ったことについては中大兄皇子を象徴する事例としてよく挙げられる。
たとえば僕が中学の時に読んだ中大兄皇子の娘、持統天皇を主役にした『天上の虹』(里中満智子)では、
彼が実の妹と肉体関係を持った理由を「自分しか愛せないから」としていた。
この小説では「禁忌をやぶることの快楽にとりつかれたから」と解釈していたのが興味深かった。
二十歳の時に当時は強大な権力を持っていた蘇我入鹿を自分の手で暗殺した時の衝撃が忘れられず、
禁忌をやぶることの欲求にとりつかれてしまったという視点にはちょっと説得力があった。

また、この小説では一人称「吾」で語られるスタイルなので中大兄皇子の視点を想像しながら進行している。
だから新羅の金春秋(武烈王)に対してはある種の尊敬の念を持っていたことや、
厩戸皇子(聖徳太子)は仏教に逃げたとしている評価がちょっとおもしろかった。

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2005 12/19
歴史小説
まろまろヒット率3

佐藤賢一 『王妃の離婚』 集英社 2002

立ち退き問題更新停滞問題が立て続けに解決してきた、らぶナベ@今年のトラブル今年のうちにってやつです(^_-)

さて、『王妃の離婚』佐藤賢一著(集英社)2002。

中世フランス、まだ法学が神学の一部だった頃(カノン法)におこった国王から王妃への離婚裁判を舞台にした法廷もの。
主人公は学問の世界(カルチェ・ラタン)に挫折し、それでも知的な仕事からは足を洗えずに田舎弁護士をしている。
その主人公が圧倒的に不利な王妃側の弁護に名乗りを挙げる、過去の自分に復讐するために・・・

没落した主人公が過去を引きずりながら不利な状況を戦っていくというのは、まさに法廷もののお約束ストーリーだけど、
いきがっていた頃の気恥ずかしさ、引きずり続ける恋、上手く折り合いをつけられない思い出たちの描き方が絶妙で、
読んで自分の古傷がジクジク痛むような気持ちになったほどだ(^^;
この点がこの作品が直木賞(第121回)を受賞した理由のような気もする。

そんな過去と絡めながら進む現在はとても躍動感がある。
国際情勢の影響下で進む生々しい政治的駆け引き(カノン法なので裁判はローマ法王庁管轄)と、
鋭い論理戦を展開しながら不利な状況をつくがえしていく痛快さがとても面白い。
章立ても上手くて、息を飲むシーンが何度もあった。

エピローグの一番最後は必要ないような気もしたが、最後は男女にとっての「救い」とはいったい何なんだろう?っと考えさせてくれる一冊。

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2005 12/12
歴史小説、法廷もの
まろまろヒット率4