京極夏彦 『陰摩羅鬼の瑕』 講談社 2003

らぶナベ@40度近い高熱からようやく解放されつつあるっす。

さて、『陰摩羅鬼の瑕』京極夏彦著(講談社ノベルス)2003年初版。
京極堂シリーズ最新作のミステリー小説。
この京極堂シリーズは去年読んで以来、ハマッてしまって何度も読み直している。
特に第1作目の『姑獲鳥の夏』を読んだときはかなりの衝撃を受けて、
いまの学校に通うことになるきっかけのひとつになったくらいだ。
(人生のボタンかけまちがえた?(^^;)
そんな京極作品は今回5年ぶりの新刊ということで、
発売日(8/8)当日に意気込んで買って読んでみた。

感想は・・・ちょっと生ぬるい(^^;
このシリーズはたとえ犯人がわかっていても、
その動機やトリックが衝撃的で毎回驚かされるものなのに
今回は犯人も動機もトリックもすぐにわかってしまってぜんぜん驚きがなかった。
前作の『塗仏の宴』(支度始末)を読んだときも感じたが、大丈夫だろうか京極夏彦。

とはいえ、今回のテーマはハイデガーによる存在と時間の認識論と、
儒教の死生観を絡めながら生と死の概念について扱っている。
ちょうど遺書を書いたときだったのでテーマ的にはすごく興味深かった。
生と死の認識の「瑕」が語られる最後のシーンでは、
展開も結末もわかっていても「きゅん」っとなってしまった。
まだまだやれるぞ、がんばれ京極夏彦!

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2003 8/21
小説
まろまろヒット率3

ケンタロウ 『ケンタロウの基本のウチめし』 オレンジページ 2002

らぶナベ@福岡帰りですばい。

さて、『ケンタロウの基本のウチめし』ケンタロウ著(オレンジページ)2002年初版。
またまた買ってしまったケンタロウの料理本。
彼の料理はちょっと味付けが濃い&油っこいんだけど、
コンパクトさがあって一人暮らしでは何かと重宝してしまう。
特に「豆腐のドライカレー丼」や「もやしとエリンギのキムチあえ」は、
簡単、安い、旨い上にモテナシ料理としても使えて便利。
我が家に来る友達に出しても喜んでもらえるので、作る頻度も高いレシピ。

野菜の下ごしらえや調味料についてのページもあって、
彼の本は毎度のことながら構成も心憎い一冊。

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2003 8/8
料理本
まろまろヒット率3

武邑光裕 『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』 東京大学出版会 2003

メルマガ読者からもった意見をもとに遺書ページに説明文を加えた、
らぶナベ@進化学会でもひょっこりブース出展したんすけど意外と食いつきありました。

さて、『記憶のゆくたて-デジタル・アーカイヴの文化経済』
武邑光裕著(東京大学出版会)2003年初版をば。
メディア美学者によるデジタル・アーカイヴの概要書。
前半はデジタル・アーカイヴの各国の取り組みや現状の問題点を述べて、
後半(第9章以降)はアーカイヴを通した日本の歴史の再解釈という構成になっている。

この本の主要テーマである記憶と記録との関係についての考察と、
その間に文化を見出す視点は、まろまろHPとも関係していてとても面白かった。
また、後半部分で日本最大規模の文化情報アーカイヴとして
『万葉集』を捉えなおしているのは興味深かった。
この歌集は、いつ、誰によって、何の目的で編集されたのか判明していない。
最後の編者は大伴家持らしいけど、どういう過程を経て編集されたのかも分かってない。
中身も正史には残りにくい、当時の国家を批判した歌(山上憶良)や、
政争に敗れた人(大津皇子)の歌まで入っているし、
詠み人の構成も天皇、貴族から、正史には出てこない女性や下級役人、防人までと実に多様だ。
そんなことから「『記紀』と『風土記』を戦前の国定教科書とすれば、
『万葉集』はネット上にある無数の個人サイト」(第9章”記憶のゆくたて”)
というような著者の表現には思わず笑いながらうなずいてしまった。

ちなみに著者は研究科が違うけど、僕の副指導教官になってくれた人でもある。
こういう話が秋からもできると思うと、夏休みが明けるのもちょっと楽しみだ(^^)

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○デジタル・アーカイヴ=物質から真理を還元し、
 そこから離脱することによって得られた電子の記憶庫
 →ここに託されるべきものは神話としての無責任な森ではなく、
  明確に未来に資する森である必要がある
<まえがき>

○(スウェーデンの『ニルスの不思議な旅』について)
 この事例はわれわれに記憶の利用目的を提示している。
 まずそれは忘却に立ち向かうこと。
 そのためには記憶は単に陳列されるだけではなく
 しかるべき文脈の中に配置される必要があるということ。
 忘却に立ち向かうことは記憶を継承することと同義なのであり、
 この作業はたんに自発としてあるのではなく、
 きわめて意識的かつ能動的なものであるということが重要なのである。
<第1章 記憶の外在>

○(写真出現による絵画の影響について)
 写実から印象へ、その後の連なるシュルレアリズムの巨大な運動は、
 複製の特権を科学技術に剥奪された絵画がみずからの存在をかけて
 あらたな地平を切り開こうとしていく産みの苦しみの姿。
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆デジタル・アーカイヴが構成されいている要素の特徴・・・
 ・デジタル情報の特徴=流動性、一過性、非物質性、変容性
 ・コンピュータによる論理的処理=離散性、規約性、有限性
 ・ミュージアムやアーカイヴ=固定性、安定性、永続性、無限性
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆物財としての情報記号を何らかの価値に変換する仕組みが生成され継承されるとき、
 記録ははじめて記憶となる。いいかえれば記憶とは、
 無機物にすぎない記録に意味による経験的認知などが作用する
 意識的かつ能動的な作業である。
 そして、かかる記憶を生成し継承する作業が何らかの目的を帯びて
 集団規模で行なわれる現象が、文化の本体なのではないだろうか。
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆デスクトップでは得ることのできない多層的な情報との連結性、
 実態とヴァーチュアルな情報環境全体の相互に織りなす多彩なインタラクションこそ、
 まさに次世代のアーカイヴに課せられた空間的特性。
 →次世代の情報探索にとっては、内容よりもコンテクスト(文脈)が優先する。
<第4章 文化記憶の社会資本>

☆文化はまた、人間の文明が関与できないもうひとつの価値の苗床である。
 もうひとつの価値とは共感である。これによって共同体が維持され、
 また、他者とのコミュニケーションが発生する。
<第4章 文化記憶の社会資本>

○社会を有機的統合を保つひとつの身体と考えた場合、情報系は脳神経系にあたるだろう。
 脳神経系を流れるものの実体は情報である。
 生物の神経系は神経自体とそこを流通するインパルスによって成り立ち、
 社会の情報系は道路や通信回線、通信衛星波などの基盤
 =インフラストラクチャーを流通する内容=コンテントによって成り立つ。
<第4章 文化記憶の社会資本>

○文化とはつねに時代の中で変化と転移をもたらすものである。
 伝承の中に埋没してしまうものは「文化財」とはいえても「伝統」とはいわない。
 「伝統」とは伝承そのものが時代のあらたな要請を受け入れ、
 時代に鋭くその意味を訴え、変容をも恐れない変異のプロセスだからである。
<第5章 電網の中の文化経済>

○情報財を軸にしたデジタル・アーカイヴが情報の消費文化へと浸透する時代に、
 あらゆる情報財も無体情報としてのブランド空間の中で大きな変容を遂げようとしている。
 →所有から共有へと転換されるのは、モノに込められたイメージや情報、
  そしてそこから派生する知覚や社会文化の記号、表徴との連鎖を形成する官能でもある。
<第6章 離散するアーカイヴ>

○「信頼」とは、固定化を意味しない。
 信頼が固定されることなどあり得ないからだ。
 ブランド価値は、つねに時代を切り開き、時代やその先端的な文化と折り合いながら、
 ブランドを生み出す基盤となった独占的な価値やその所有権を、
 広く公共的な価値へと高めていくことに不断の努力を惜しまない。
 ーそうした意志のもとに更新されていくものである。
<第6章 離散するアーカイヴ>

☆デジタル形式によるアーカイヴとは、
 (略)本来離散し、流動するもの(デジタル)と、固定的で永続性を担保する(アーカイヴ)という
 ふたつの大きく異なる特性が合成することによって生じた展開である。
<第9章 記憶のゆくたて>

○『記紀』と『風土記』を戦前の国定教科書とすれば
 『万葉集』はさながらウェブの情報空間に偏在する無数の個人サイトの感がある。
<第9章 記憶のゆくたて>

○「本歌取り」=先人の歌を受け、それを独自の作風に構成する作法。
<第9章 記憶のゆくたて>

○地理的概念とは景観という無数のアフォーダンスとしての
 情報群によって構築される記憶にほかならない。
 景観という記憶群は「行動する」というわれわれの動物としての特性にかかわる
 もっとも原初の基本情報でもあるから、われわれの脳がこれに適応するのもすばやい。
 違和感を憶えるのはほんの一時期にすぎず、よほど意識的にならないかぎり、
 突如出現した光景であっても需要されてしまうものである。
<第10章 記憶の編纂と反転>

○意識が記憶の断片に生命を吹き込み、その記憶がまた意識をもって継承され発展する。
 この動きのダイナミズムこそが文化と呼ばれるものの本体なのではないだろうか。
<第10章 記憶の編纂と反転>

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2003 7/31
情報関連、デジタル・アーカイヴ、文化論
まろまろヒット率4

P.コブリー&L.ジャンス、吉田成行訳 『FOR BEGINNERS 記号論』 現代書館 2000

sigmarion3を買ったけどWindowsCEの使い方がいまいちわかってない、
らぶナベ@情報もっている方いたら教えてください_(._.)_

さて、『FOR BEGINNERS 記号論』P.コブリー著・L.ジャンス絵・吉田成行訳
(現代書館)2000年初版をば。
ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』)やレヴィ・ストロース(『悲しき熱帯』)など、
記号論に縁のある人たちの本はいくつか読んだことがあったけど、
だからといって記号論って一体どういうものかいまいちよくわかってなかった。
とりあえず概略を知りたいと思って入門書を探していたら、
同じプレハブ学校に通うtantotが貸してくれた本。
ナニゲに恐い絵で有名な現代書館の『FOR BEGINNERSシリーズ』の一冊でもある。

内容は記号論の議論を学派ごとに時系列的に追っているが、
いまいち何のこっちゃわからない議論もあった。
(“FOR BEGINNERS”じゃないじゃーん)
そういうときは論者の性格や人生などに注目してしまった。
自業自得とはいえパースはかわいそうな人生だとか、
シービオクは突っ走っていたんだなぁっとかとか・・・歴史好きの悪いところですな(^^;

以下はチェックした箇所・・・

○記号論=記号の分析や記号体系の機能作用に関する研究

☆ソシュールによる言語記号の定義
 =シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)が恣意的に結びついているもの

☆パースによる記号の定義
 =表象(Representamen)は対象(Object)との関係をもち、
  対象は解釈項(Interpretant)との関係を伴うという
  三つの関係から構成されているもの

○シャノンとウィーヴァーのモデルの強みは、
 複雑性の程度を情報過程に組み込んでいるという点

○ユーリイ・ロイトマンによる文化の定義
 =文化とは、人間社会の多様な集団によって獲得され、保持され、
  伝達される非遺伝的な情報の総体
→ロイトマンによる情報理論と文化記号論の合体はサイバースペースを予見

☆ウンベルト・エーコの開かれた作品論=
・「閉ざされたテクスト」=送り手は受け手に自分自身の決断を下す機会を提供するが、
 結局はそういう機会を閉ざしてしまう(推理小説の結末など)
・開かれたテクスト=送り手は受け手を導いて、受け手が自分自身の判断を下し、
 有利な地点から以前の動きを(再)評価することを認容する
→あるテクストを読む際に起こることは「具体化」の過程に他ならない

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2003 6/23
記号論
まろまろヒット率2

マリリン・バーンズ&マーサ・ウェストン、左京久代訳 『考える練習をしよう』 晶文社 1985

『マトリックス・リローデッド』の影の主役はエージェント・スミスだと思う、
らぶナベ@痛いものコレクター的には彼のもの悲しさに注目です(^^)

さて、『考える練習をしよう』マリリン・バーンズ著、
マーサ・ウェストン絵、左京久代訳(晶文社)1985年初版。
悩んだときや問題にぶつかったときに、
凝り固まりがちな頭の中をほぐす練習をする目的で作られた絵本。
研究計画を考える際の頭の柔軟体操になるかと思って、
研究室で見つけて読んでみた一冊。

いきなりここで問題・・・
「1人の男の子が、歯医者に出かけた。その男の子はその歯医者の息子だったけれど、
その歯医者はその男の子の父親ではない。どういうことだ?」(*)
(ヒント→この問題は「頭が勝手に歩きだしたら」という項にあり)

推奨は「10歳以上のみんな」っと書かれているが、20代の僕が読んでも参考になる(^^)
「こどものためのライフ・スタイル」というシリーズの一冊らしい。
ちょっとこのシリーズに興味を持ってしまった。

以下はチェックした箇所・・・

○頭の体操でたいせつなことは、自分のあらゆる感覚を使うことなんだ(略)
 問題を解決できる人間になるには、使えるものは何でも利用しなくちゃ
<1 自己流でかんがえちゃだめだ>

○どうして問題をかかえこんじゃったのかな?
 (略)いろんなふうに問題はとびこんでくる(略)
 でも、問題があるぞってきみがはじめておもう瞬間はある。
 すでに問題をかかえちゃった以上、それがいつだったのか、
 はっきりわかっているはずだ
<2 問題にぶつかったらどうするか>

(*)歯医者さん=お母さんでした、先入観の問題ですな(^_-)

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2003 6/19
絵本、問題対処
まろまろヒット率3

吉見俊哉・水越伸 『メディア論』 放送大学教育振興会 2001改訂

カテゴリを一覧で見れるように読書日記ページをリニューアルした、らぶナベ@HIROさんありがとうです(^^)

さて、『メディア論』吉見俊哉・水越伸著(放送大学教育振興会)2001年改訂。
放送大学の「メディア論」講義テキスト。
この本の著者二人の講義に出ることがプレハブ学校に入る楽しみの一つだったのに
二人とも開講が冬学期だったので(いやん)メディア論の概要をつかむために読んでみた一冊。

この本の中で一番興味深かったのはメディア表現で重要になってくる「遊び」とは、
「メディアと人間の関係のしかたを積極的にひっくり返したり、
組み替えたりする、異化作用をともなった営み」としている点だ。
(第12章「新しいメディア表現者たちの台頭」)
確かに僕自身、WEBサイト運営をしていて面白いなぁっと感じるのは、
読書日記や掲示板で書き手と読み手の関係をひっくり返そうとしたり、
その本のカテゴリを自分なりに組み替えたりすることも含まれている。
「限界芸術(Marginal Art)」とも呼ばれるらしいが、ちょっと共感してしまった。

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

○メディア=人間を拡張すると同時に、社会的に枠付ける役割を果たす媒介
<まえがき>

○メディア=私たちの生きる社会的世界の技術論的な次元と意味論的な次元を媒介しながら、
 個別のメディアの布置や編制を可能にしていく、より全体的な構造連関の社会的な場
 →諸々のメディアは何らかの技術的発明の所産として
  社会の外側から直接与えられるのではなく、
  そもそも社会的なプロセスのなかで構成される
<1 メディア論とは何か>

○メディアについて考えるにはメディアの「誕生」そのものを
 問題にするような歴史的な観点が不可欠
  →同時に諸々のメディアが、今日のように再び揺らぎ始め、
  再編されつつある状況もそうした歴史的なパースペクティヴのなかで
  捉え返されなければならない
<1 メディア論とは何か>

☆印刷は、定着した記憶の継続的な蓄積を、その公開化を通じて達成することを可能にした
<1 メディア論とは何か>

○17、18世紀のイギリスのコーヒーハウス、フランスのサロンの特徴=
 1:社会的地位の平等性を前提とし、さらには社会的地位を
  度外視するような行動様式が要求された
 2:これらの場での討論はそれまで自明とされていた通念や制度を問題化していった
 3:これらの場は討論を通じて情報や文化を商品に転化させ、
  そのことで公衆に開かれたものにしていく契機も内包していた
 (ユルゲン・ハバーマス『公共性の構造転換』)
<2 活字メディアの時代>

☆技術的な複製の可能性の拡大は、歴史上はじめて、
 美の基盤を儀式的な一回性から切り離していく
 →美の準拠枠は「礼拝的価値」から「展示的価値」へと重心を移していった
 (ベンヤミン『複製技術時代の芸術』)
<7 メディア論の系譜1>

○マクルーハンの電子メディアがもたらす変容=
 1:電子メディアにより地理的距離が無化され、
  電子的に媒介された同時的な場が至るところに出現する
 2:電子メディアの浸透が、人々のコミュニケーションを線形的で
  視覚的な形態から包括的で触覚的な形態に移行させる
(マーシャル・マクルーハン『メディア論』)
<8 メディア論の系譜2>

○オングのメディア発展史=口承的(oral)、書記的(chirographic)、
 活字的(typographic)、電子的(electronic)のモードが積み重なってきた過程
 →オングの特徴はメディアの変容を表現手段の変化ということにとどまらず、
  思考や記憶の様式、世界観を根底から変えてしまう構造的な契機として捉えている点
 (ウォルター・オング『声の文化と文字の文化』)
<8 メディア論の系譜2>

○スチュアート・ホールのコミュニケーションのプロセス=
 相互に結びついてはいるが相対的な自律性をもって節合される語りの戦略的な布置
 →コミュニケーション過程の一方にあるのは、
  単一の主体としての「送り手」というよりも、
  テクスト生産に向けて節合された諸契機の複合的な過程としてのコーディング
 →ホールの特徴は送り手の意図が「正しく」受け手に伝えられるのが
  コミュニケーションの「正常な」状態だとは考えない点
  (むしろコミュニケーション過程のなかに価値や
  イデオロギーの衝突やねじれを見出そうとしている)
<8 メディア論の系譜2>

○カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
 自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく、
 あくまで階級やジェンダー、エスニシティ、世代、様々な差別の文化政治学が
 葛藤と矛盾を含みながら作動していく抗争的な場としてのオーディエンス
<8 メディア論の系譜2>

☆「メディア・リテラシー」
 =人間がメディアを介して情報を批判的に受容、解釈すると同時に、
 メディアを選び、使いこなして自らの考えていることを表現し、
 コミュニケーションの回路を生みだしていくという、複合的な活動のこと
 →使用活動、受容活動、表現活動から構成される
<11 メディア・リテラシーの回復>

☆メディア表現における「遊び」
 =メディアと人間の関係のしかたを積極的にひっくり返したり、組み替えたりする、
 いわゆる異化作用をともなった営み=「限界芸術(Marginal Art)」
<12 新しいメディア表現者たちの台頭>

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2003 6/12
メディア論、社会学、メディアリテラシー
まろまろヒット率3

佐倉統 『遺伝子vsミーム-教育・環境・民族対立』 廣済堂 2001

毎週一回くらいは我が家でお食事会を開きたいと画策している、
らぶナベ@気分は栗本はるみだす。

さて、『遺伝子vsミーム-教育・環境・民族対立』佐倉統著(廣済堂ライブラリー)2001年初版。
さくら組研究室の文献購読で『ミーム・マシーンとしての私』を発表したのをきっかけに、
ミーム論がどういう風に使われているのかもう少し知りたくなって関連本を探していたところ、
研究室の端っこにひっそりとあったのを見つけたので(研究室長が著者だから当然だけど)
さくさくっと借りてさくさくっと読んだ一冊。

内容はメディア、教育、環境、民族の各問題をミームの視点で論じている。
読んでみると確かにレベルの違う話を統一的に話せる可能性のあるところが
魅力的な理論だけど、進化論のDNAのように「これがミームだ」と言える物質が
見つからないことには信頼して使えない理論のような気がする。
僕がミーム論で興味を感じた文化・技術の自然選択的(不作為的)普及と、
性的衝動と表現衝動との関連についてもあえてミームを使わなくてもよさそうなフレイバーが(^^;
著者もあとがきで「ミーム概念の有効性は、定量的な記述や予測ではなく、
比喩やアナロジーにもとづく問題発見能力にある」と言っているように
ちょっとこましな比喩以外にはあまり使えなさそうな感じがした梅雨のはじめ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○生命体というは、進化することができるシステムという意味
 →自分で変化できるという意味
<1-2 知識という生命体>

○生命の適応能力=自然選択を起こしうる能力→突然変異できる能力と同値
<1-2 知識という生命体>

○生物学的な文化の定義=遺伝子によらず次世代へと受け継がれていく情報の体系
<2-1 利己的な複製子たち>

○ミーム学最大のポイント=文化を進化するシステムとみなす点
 (生物進化論のツールを使える)
<2-1 利己的な複製子たち>

○進化=自己複製するシステム(生命)が累積的に変化していくこと
<2-3 老年期の役割>

○科学はどの価値が正しいのか直接答えを出せないが、
 議論のための共通の場を提供することはできる
<2-3 老年期の役割>

○(自然)選択のメカニズム=1:無方向の変異が生じる、
 2:選択が起こることで適応的な進化の方向が決定される、という二段階の過程
<3-1 伝えることの意味>

○ミーム概念の有効性は、定量的な記述や予測などではなく、
 比喩やアナロジーにもとづく問題発見能力にある
<あとがき>

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2003 6/3
自然科学、進化論、ミーム論
まろまろヒット率3

スーザン・ブラックモア、垂水雄二訳 『ミーム・マシーンとしての私』 草思社 上下巻 2000

『マヤ文明展』でマヤ暦のTシャツ(略して”マヤT”)を買ってしまった、
らぶナベ@展示側の戦略に簡単に乗ってしまう良い顧客です(^^;

さて、『ミーム・マシーンとしての私』上下巻
スーザン・ブラックモア著、垂水雄二訳(草思社)2000年初版。
技術、文化、考え方や理念などのも一種の遺伝子のように、
それ自体が人から人へと媒介していくという考え方=「ミーム論」の本。
(もともとはドーキンスの『利己的な遺伝子』から)

内容は第1の自己複製子=遺伝子に続く第2の自己複製子=ミームが、
人間の言語や脳を形づくり、そして「自己」というものもミームの複合体
「自己複合体(selfplex)」だという仮定をしているかなり挑戦的な一冊。
すごく面白い切り口なんだけど大部分が仮説や仮定の話を前提にしているので、
もうちょっと証拠がないと簡単には納得できない感じがした。
(物証の重視が訴訟法の原則だす(^^))

ただ、僕は『利己的な遺伝子』を読んだときにもメモしたように、
このミーム論という考え方には・・・
1:文化や考え方の普及・発展の不作為性が強調される点と、
2:何かを伝えたいとか表現したいという欲求が本能的なんだと説明できる点で、
(遺伝子を残す→性的衝動へ、ミームを残す→表現的衝動へ)
かなり興味を持っている。
こういう視点でミーム論を扱った本があれば教えてちゃぶだい。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○ミーム=非遺伝的な手段、特に模倣によって伝えわたされると考えられる文化の一要素
 from “The Oxford English Dictionary” of “meme=An element of a culture
 that may be considered to be passed on by non-genetic means, esp. imitation.”
<序文>

○私たちを特別なものにしているのは模倣の能力であるというのが本書の主題
<1 奇妙な生き物>

○私たちの観念が私たち自身の創造したものであり、
 私たちのために働いていると考えるかわりに、それらが自律的なミームであり、
 自らがコピーされることのみのために働いていると考えなければならない
<1 奇妙な生き物>

○その科学理論が有効であるかどうかの基準=
 1:その理論は他の競合する理論に比べてより簡潔ないし包括的に説明できるかどうか
 2:検証可能な予測を導くことができ、その予測が正しいと証明できるかどうか
<1 奇妙な生き物>

○ダーウィンの自然選択=変異・淘汰・保持(遺伝)が要件
 →この三つがそろっていればその種は増加する傾向を持つ
 →ダーウィン主義は「心の助けなしに混沌から構造をつくりだす図式」(Dennet1995)
<2 ミームとダーウィン主義>

○ミーム理論の要点は、ミームを独立した自己複製子として扱うことにある
 →遺伝子のではなく、ミームの複製のためにミーム淘汰が観念の進化を駆動する
  (これが従来の大半の文化的進化の理論からミーム学を分かつ大きな相違)
<3 文化の進化>

○人が考えることを止められないことへの解答=ミームの「雑草理論」
 =除草した庭はすぐに植物が生え、そこには遺伝子の生存競争が始まる
 →空っぽの心にはミームが入り込んで来て、脳内でミームの生存競争をおこなう
<4 ミームの視点から見る>

○「模倣」の定義=ある行為の仕方を、それがなされたところを見て覚える学習
 (Thorndike 1898)
 →他者の観察を通じて環境について学ぶ「社会的学習」(Heyes 1993)とは違う
<4 ミームの視点から見る>

○成功する自己複製子の条件=忠実度・多産性・長寿(Dawkins 1976)
<4 ミームの視点から見る>

○言語の機能=うわさ話→うわさ話は毛づくろいの代用(Dunbar 1996)
 →うわさ話も毛づくろいも社会的集団の結束を維持する機能を果たす
<8 ミームー遺伝子の共進化>

○ミームが生まれて人々が模倣しあうことによって、
 より高度な忠誠度・多産性・寿命のミームが駆動して
 言葉を生み、人間の脳を巨大化させた
 (言語の機能も、巨大な脳もミームのためにある)
<8 ミームー遺伝子の共進化>

○ミームが発生すると生まれる過程=
 1:「ミーム淘汰」(あるミームが他のミームの犠牲のもとに生き残る)
 2:「ミーム模倣力の遺伝的淘汰」(最良の模倣者をよりよく模倣できるものが
   より大きな繁殖性向度を持つ)
 3:「最良の模倣者とつれあいになることの遺伝的淘汰」
<9 社会生物学の限界>

○芸術的な能力と創造性が異性を引きつけるディスプレイとして
 性淘汰を受けてきたという主張があるが(Miller 1998)、
 その理由は創造性と芸術的な表出はミームをコピーし、使い、拡める方法であり、
  すぐれた模倣者の印だから
<10 セックス、セックス、セックス>

○利他主義のトリック=
 1:利他的な行動は自分自身のコピーを拡め、私たちをより利他的にする
 2:利他主義はその他のミームが拡まるのを助ける
 →利他的な好ましい人に入り込んだミームは意地悪な人に入り込んだミームよりも
  よりコピーされやすいだろうという単純な考えに立脚
<13 利他主義のトリック>

○宇宙人による誘拐がミームとしてなぜ普及するのかについて
 1:睡眠麻痺という恐ろしい個人的体験に答えを与えてくれる
 2:西洋人に訴えかけるところがある(神に代わる強大な存在としての宇宙人)
 3:センセーショナリズムに敏感なマスコミと視聴者の存在
 4:反証不可能性が高い(陰謀説によっても防御)
<14 ニュー・エイジのミーム>

○宗教がミームとして成功した理由=
 1:反証不可能性と脅しと約束によって守られている
 2:普及のために美・真理・利他主義のトリックを用いている
 3:人間の心と脳は宗教的な観念にとりわけ感受性をもつように形づくられている
<15 ミーム複合体としての宗教>

○宗教と科学との違い=検証を要求するかどうか(これが科学の核心)
 →宗教は理論を構築した後はそれが検証されることを妨げる
<15 ミーム複合体としての宗教>

○情報は淘汰を受ける自己複製子
 →進化的なアルゴリズムが実行され、それがデザインを作り出す
 (デザインは全面的に進化的アルゴリズム遂行の結果)
<16 インターネットのなかへ>

○伝達が何よりも重要なミームの視点では日本語の複雑な文字体系が生き残るか疑問
<16 インターネットのなかへ>

☆自己は巨大なミーム複合体=「自己複合体(selfplex)
 →ミームにとっては自己の内部に入り込める観念=「私の」考えになれるものが勝者
 →自己はミームの最大の保護者であり、ミーム的社会が複雑であればあるほど、
  自己という保護の内部に入り込もうと戦っているミームがより多く存在している
<17 「私」という究極のミーム複合体>

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2003 6/2
自然科学、進化論、ミーム論
まろまろヒット率★★★

橋爪大三郎 『世界がわかる宗教社会学入門』 筑摩書房 2001

何気に今日が誕生日の、らぶナベ@おちゃめな分裂症:ふたご座O型だす。

さて、『世界がわかる宗教社会学入門』橋爪大三郎著(筑摩書房)2001年初版。
前に読んだ『神道の逆襲』がけっこう面白かったので、
宗教関係の本をもう少し読んでみたいと思っていたところ図書館で発見した一冊。
内容は著者が担当する講義「宗教社会学」の内容を出版化させたもので、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教を網羅的に紹介している。
この本の中で一番面白かったのは大乗仏教で重要な阿弥陀仏は、
実はゾロアスター教の神・アフラマズダなのだという説を紹介していた点だ。
(講義7:大乗仏教とはなにか)
前から大乗仏教、特に浄土宗、浄土真宗は仏教らしくなくて
一神教的だなーっと感じていたので、この説は心情的にかなり納得してしまった。

ただ、網羅的すぎて内容がちょっと簡単すぎるというところや
どうせなら神道や道教も入れてほしかったという点などがちょっと残念だった。
宗教知識の確認や見落としチェックには役立つと思う。
(イスラム法の法源はぜんぶ押さえてなかったのでありがたかった)

以下はチェックした箇所、一部要約含む・・・

○宗教の定義=「ある自明でないことがらを前提としてふるまうこと」
<講義1:宗教社会学とはなにか>

○日本人は儒教を”思想”だと受け取ったが、
 実際は社会を実際に運営するための”マニュアル”
 →この点を理解しない日本人は、儒教を誤解してる
<講義1:宗教社会学とはなにか>

○(ユダヤ教は制服されたエジプトの死者信仰に対抗するため)
 霊魂も絶対に認めない→古代宗教としてとても珍しい点
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○一般に権力に反対する知識人などはたいていすぐ殺されて社会的影響力を持ちにくい
 →一方ユダヤ教では神の声を聞くことのできる預言者を簡単に殺せない
 →権力と知識が分離するダイナミズムは一神教の特徴
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○(神殿での儀式を少なくして日常の行動様式を規定することによって)
 場所、時間に無関係で世界中に散らばっても信仰を続けることが可能
 →これが世界最強の宗教団体を形成できた理由
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○食物規制を厳格に守ると、異教徒を食事に招待できない
 →友人になれないし、ましてや結婚ができなくなる
 →信仰の共同体が次の世代にも再生産される
 (食物規制のねらい)
<column:食べてはいけない>

○預言者の社会的機能=”built in stabilizer”(元はサイバネティックス用語)
<講義3:キリスト教とはなにか>

☆イスラム法の法源=
 ・「クルアーン」(神の啓示=人間との契約)
 ・「スンナ」(ムハンマドの行為・言葉)
 ・「イジュマー」(法学者=ムジュタヒド全員の一致)
 ・「キヤース」(法学者の論理推論→ただし他の判例を拘束せず)
<講義5:イスラム教とはなにか>

○輪廻を信じなければ仏教は理解できないが、日本人は輪廻を信じていない
 →輪廻を信じるなら先祖崇拝はありえない(先祖を祀るのは道教のやり方)
<講義6:初期仏教とはなにか>

☆大乗仏教の阿弥陀仏はゾロアスター教(拝火教)の神「アフラマズダ」が
 仏教化したものという説がある→浄土宗が一神教に近いことの理由の一つか?
<講義7:大乗仏教とはなにか>

○「天」=統一国家の統一権力を可能にする仮設構成体(フィクション)
 →天の思想は先祖崇拝をたくみに転換した儒教的イデオロギー
<講義9:儒教とはなにか>

☆「先祖崇拝」=確定した過去の人間関係によって不安定な現在の人間関係を整序する試み
<講義9:儒教とはなにか>

○朱子学ではあくまで分離していた義/孝を忠=孝と一致させたのが日本朱子学の特徴
<講義10:尊皇攘夷とはなにか>

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2003 5/26
宗教社会学
まろまろヒット率3

菅野覚明 『神道の逆襲』 講談社 2001

ボーっとしていると時々斜視になることに気がついた、
らぶナベ@テリー伊藤には負けないぞ!

さて、『神道の逆襲』菅野覚明著(講談社現代新書)2001年初版。
日本には昔から独自の哲学・思想は生まれなかったという意見があるけれど
(中江兆民の「我日本、古より今に至る迄哲学無し」が有名)、
だからと言って自分たちや世界に対して深く考えることがなかったわけじゃない。
神という概念を使いながら思考していたんだと主張して、
思想史としての神道を読み解こうとした一冊。
そういう意味で「逆襲」本。
著者が倫理学(倫理思想史)の研究者で、なおかつ僧侶でもあるというのも興味深い点。

中でも面白く感じたのが、日本の神さまの性格を考えてみると
人格的な唯一創造主”God”に「神」という訳語を当てたのが、
日本翻訳史上最大の失策と述べているところ(「人はなぜ泣くのか」)や、
笑うことに人間性の本質を見出したアリストテレスに対比させて、
泣くことに本質を見出した復古神道(本居宣長、平田篤胤など)を紹介しているところだ
神さまというものへの接し方から読み解く文化論としても読めるかなり楽しい一冊。

ちなみにこれが生まれて初めてまともに読んだ宗教学関連の本になる。
越してきた家の近くにあるお稲荷さん(沢蔵司稲荷)の宮司さんが実は浄土宗の僧侶だった
ということから日本の信仰に興味を感じたのがこの本を手に取る直接のきっかけだった。
宗教関連本は異様なまでにバイアスがかっていると感じるものが多いので
読むときはかなり値踏みしないといけないのが手を出しにくくしている点だ。
バイアスこそが宗教の価値なのだろうけど、歴史好きの僕のお腹がいっぱいになる(^^;
(客観的とは言わないまでも冷静な視点で書かれた人物伝とかあれば教えてプリーズ)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○(日本人の価値体系の根拠について)
 自己の価値の実現如何は、お客さまである神さまへの接待にかかっている(中略)
 お客さまに良いもの(幣帛)を差し上げ、その見返りないしお下がりで
 豊かに暮らすというのが、日本人の神さまとの付き合いの基本。
<神さまがやって来た>

☆生活に豊かさや活力をもたらす魅力的なありようと、
 一方で私たちの日常そのものを崩壊させかねない測り難い不気味さという
 神さまの両義的性格は、神が外からやって来る客であるということと
 直接に結びついているように思われる。
 →危険と期待、迷惑と楽しみの交差にあるのが、
  来客への接待なのであり、したがって神への祭祀の場なのである。
<神さまがやって来た>

☆それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、
 私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような
 異様なものとして出会われれば、それが神なのだということである。
 (例:名人・達人・奇人・変人を「~の神様」と呼ぶなど)
 →人格的な唯一創造主ゴッド(God)に、神という訳語を当てたことが、
  わが国の翻訳史上、最大の失策。
<神さまがやって来た>

○神道とは、根源的には、神という一つの事件をきっかけに、私たちが歩いてきた道、
 これから歩いていくべき道を探求することに他ならない。
 神は、来って去るまでの時間として、その時間を埋める営みの持続として、経験される。
 この営みが、神を迎え、送る過程たる祭祀の原型である。
<神さまがやって来た>

○一にして二、二にして一を体現することが、五部書における
 (のみならず中世神道説すべての)神道の根本である。
 (中略)ともかくも神道が、天照大神・天皇という軸と、
 ある種不即不離の微妙な緊張関係において生じているということである。
<神道教説の発生>

☆神国という言葉は、(略)日本という国の微妙な内部構造、
 すなわち神と人との独特な緊張関係において統一の成り立っている
 特殊な国情を、第一義的にはあらわしている。
 →神であるということを直ちに神聖なもの、
  優れたもののイメージに置き換えてしまうのは、日本の神のもつ奇しく異しい、
  底知れぬ豊かな奥行きを、痩せ枯れた抽象へとすり替えてしまうことになる。
<神国日本>

○(浦島太郎などの童話にあるように)神に愛される条件は、まずは、景色の反転した中へ、
 怖いもの知らずにやすやすと踏み込んでいけるかどうかということなのである。
 →正直の??p重視
<正直の頭に神やどる>

○朱子学思想の特色は、理気二元論とよばれる形而上学的な宇宙論にもとづいて、
 人間存在や道徳を説明しようとしたところにある。
 →個々の事物の本性と、すべての事物の存在を成り立たせている普遍的な原理が、
  根本的に同一であるとされるのである(これが朱子学の基本命題「性即理」)。
<神儒一致の神道>

○自然科学をモデルとした今日の学問とは違って、近世において学と名のつく営みは
 (略)いわば十全な生の実現をめざす方法であり実践であると考えられていた。
<神道の宗源は土金にあり>

○国学の源流は、近世前期の歌学の世界にある。(中略)
 国学者と称される人物は、上下下手は別として、みな基本的には歌人であった。
<危ない私と日本>

○(本居宣長の考えは)「はかなく女々しき女童」のような揺れ動く情こそが人間の真実であり、
 静寂不動の厳粛なる心は二次的な作為、すなわち「いつわりかざり」である(中略)
 事物の認識においても、もののあわれを知るという、
 心の動きにおいて事物をとらえる感動の知こそがより根源的であり、
 条理の認識はむしろ二次的なものであるとされる。
<人はなぜ泣くのか>
 
○宣長によれば、物のあわれとは、私たちが有限なる者としてあること自体の感知であった。
 (略)泣くことは、私たちの限界の表現なのであり、
 さまざまな喪失としてあらわれる私たちの地平の最もたるものが死なのである。
<人はなぜ泣くのか>

○反省では決して近づけぬ「経験の核心」は、
 これ以上不可解なものはない奇異なるものという意味で、
 それも神と呼ぶことも可能であろう。
<神さまの現在>

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2003 5/15
宗教学、神道、文化論
まろまろヒット率4