養老孟司 『バカの壁』 新潮社 2003

肝機能回復のためにゴーヤ茶を飲んでいる、
らぶナベ@水筒を持ち歩いている人間を見かけたら、
もしかしたらそれは僕かもしれません(^^)

さて、『バカの壁』養老孟司著(新潮新書)2003年初版。
家に泊まりに来た人がくれたので読んでみた今年のベストセラー本。
脳解剖学者が書くエッセイ。

「一般に、情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、
と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない(略)あべこべの話です」
→「生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけども、
情報というのはその中で止まっているものを指してる。
万物は流転するが、『万物は流転する』という言葉は流転しない」
(第4章:万物流転、情報不安)と述べているところや、
「組織に入れば徹底的に『共通了解』を求められるにもかかわらず、
口では個性を発揮しろと言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。
要するに『求められる個性』を発揮しろという矛盾した要求が出されている」
→「(教育関係者へ)おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか」
(第3章:「個性を伸ばせ」という欺瞞)っと言い切っているところなどは
勢いがあって肯きながらサクサクと読んでいける。

また、「教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、
結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります」
→「(わたしは)自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている」
(第7章:教育の怪しさ)と述べているところにはすごく共感した。
ときどき僕は人から教え上手とか説明上手と言われることがあるけれど、
それは誤解で、僕は人に「教える」ことはまったくできないと考えている。
ただ、自分が必要だと思ったり大切だと思うことを相手に伝える、
共感することはできると思っていたところだったので、
そういうことを感じている人が他にもいたんだと思ってちょっと安心。

・・などなど、通して読むとけっこう面白いけど、
飲み屋のクダまきおっさんトーキングの色合いが強くなる後半は
ぐぐっと説得力と小気味良さが落ちてしまっている。

ちなみに、河合隼雄(心理学)といい、この本の著者といい、
こういう系のベストセラーを出す人が
心理学や脳科学の分野の人というのが現代的な特徴なのかな?

以下はその他にチェックした箇所・・・

○真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」
それが絶対的な真実であると考えることではなく、
そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢。
→イデオロギーは常にその内部では100%だが、科学がそうである必要はない。
<第1章 「バカの壁」とは何か>

○人間はどうしても、自分の脳をもっと高級なものだと思っている。
実際には別に高級じゃない、要するに計算機。
<第2章 脳の中の係数>

○V.E.フランクルは「意味は外部にある」と言っている。
「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。
<第5章 無意識・身体・共同体>

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2003 10/22
エッセイ、脳科学、科学論、教育論
まろまろヒット率3

佐倉統 『佐倉統がよむ進化論のエッセンス』 トランスアート 2003

オリジナル(原作&アニメ)を知っているだけに実写版『セーラームーン』
いくら仕事でも恥ずかしくて最後まで見れない、らぶナベです。

さて、『佐倉統がよむ進化論のエッセンス』佐倉統編(トランスアート)2003年初版。
進化にまつわる本を紹介しているアンソロジー本で、
情報学環の講義「進化生態情報学」の指定参考図書。
生まれて初めて手に取ったオンデマンド出版物でもある。

内容は生物学の基礎がない人でも進化論に取っ付けるように、
いろいろな本からさわり部分を引用して紹介している。
すごく面白い企画だけど、編者のコメントが少なすぎて物足りなさをかなり感じた。
どうせアンソロジーなんだから、もっとざっくりばっさり切り分けしてほしかった。

ただ、「日本の社会・文化は、まずは韓国や中国やヴェトナムなどと比較すべきであって、
欧米と比較して違いがあったからといって、即日本の独自性だと結論するのは、
論理的にもおかしい。日本ではなくて東アジアの独自性かもしれないのだから」
っと編者が述べているところには(第4部:日本の進化論、今昔)、
研究会で自分に言われているような錯覚を覚えた、反省します(^^;

以下はその他でチェックした箇所・・・

○進化=「変化を伴う由来」=”descent with modification”(Dawin, 1859:123-124)
<第3部 進化と歴史>

○いったん発表された文芸作品は、その後の改定・解釈・翻訳・模倣・ドラマ化
などによる「進化」を行う実体と解釈すべき
(literary accomplishment:Ghiselin, 1980:82-83)
<第3部 進化と歴史>

2003 10/19
進化論、自然科学、アンソロジー
まろまろヒット率2

ベラ・バラージュ、佐々木基一・高村宏訳 『視覚的人間-映画のドラマツルギー』 創樹社 1975(原著1924)

らぶナベ@広場の箱庭師です。

さて、『視覚的人間-映画のドラマツルギー』ベラ・バラージュ著、
佐々木基一&高村宏訳(創樹社)1975年初版(原本1924年初版)。

副指導教官の武邑光裕助教授から借りた本の第三段。
映画がまだ低俗なものとして扱われていた1920年代(白黒&無声映画の時代)に、
映画を芸術として位置づけようと試みた美学書の古典。
新しいものが芸術としてどう位置づけられて来たのか、
その過程を知るという点でも意味のある本。

この本で一番興味を持ったのは何と言っても「雰囲気」について述べているところだ。
「雰囲気は個々の形象の中に圧縮されている霧のような原素材である。
それはさまざまな形態の共通の基体でありすべての芸術の最終的なリアリティである。
この雰囲気がひとたび存在すると、個々の形態が十全でなくとも
それが本質的なものを損なうものとはならない。
この特別なものの雰囲気が< どこからくるか>を問うことは、
すべての芸術の源泉を問うことである」、
「雰囲気はたしかにすべての芸術の魂である。それは空気であり香気である」
(「映画のドラマツルギーのためのスケッチ」より)
・・・まさにビビっと来た。

作品と呼ばれるものは「その雰囲気」を感じさせれば作品として成功なんだし、
作品と呼ばれないものでも独自の雰囲気を醸し出せるものは芸術なんだ。
この本の論旨はまだ美学がその射程にとらえていない
WEB活動や同人活動にも応用可能だと読みながら感じた。

また、この本の紙質、大きさ、分量、文字の配置どれもすごくフィット感があった。
そういう意味も含めてまろまろヒット率5です(^_-)

以下は、その他にチェックした箇所・・・

○理論は芸術発展の舵ではないが、すくなくともコンパスである
 <序言ー三つの口上>

○文化とは日常的な生活素材の完全な精神化を意味する
 <視覚的人間>

○唯一無二であるということがそれぞれの現象の本質であり、
それぞれに存在理由を与えるものである
→それは他のものとの差異によって最も明白になる
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○すべての芸術の存在資格は、代替不可能な表現の可能性を持つものであるという点
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○(覗き見について)我々が何かを見るときには、我々自身がその場にいるのが自然(略)
誰もその場にいないときの事物の様子を見ることは、人間のもっとも深奥の形而上学的憧憬
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○芸術とは本来、削りとることなのだ
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

☆(ウィットについて)それは概念の遊戯であって、
さまざまな概念相互のあいだの隠された思いもかけない関係を解き明かすことである
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

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2003 10/12
メディア論、映画論、美学・文化論
まろまろヒット率5

ヴィレム・フルッサー、村山淳一訳 『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 東京大学出版会 1997

生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにデコードする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコンセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4

村上祥子 『村上祥子の1人分でもおいしい電子レンジらくらくクッキング』 ブックマン社 2001

まろまろフラッグの卓上旗版(まろプチフラッグ)が完成した、らぶナベです。

さて、『村上祥子の1人分でもおいしい電子レンジらくらくクッキング』
村上祥子著(ブックマン社)2001年初版。

一人暮らしをしているのに電子レンジをあまり活用できていないので、
書店で見つけて購入した電子レンジのレシピ本。
買ってから知ったけれどこの著者は電子レンジ使いで有名らしい。

最初に電子レンジマニュアルとして基本的な使い方やコツが載っているのは便利だし、
醤油1:砂糖:1酒:1の割合でつくる「かれいの煮付け」(3分で完成)はけっこう良い。
ただ、レシピの方は鍋やフライパンを使ったほうが早いし簡単だというものも多かった。
油を抑えたいときに使うちょっと特殊なレシピ集になるのかも。

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2003 10/3
料理本
まろまろヒット率2

ジョン・バージャー、伊藤俊治訳 『イメージ―Ways of Seeing 視覚とメディア』 PARCO出版 1986

まろまろHPにわんわんを飼いはじめた、らぶナベ@リンクアイコンとして活躍中です。

さて、『イメージ-Ways of Seeing 視覚とメディア』
ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳(PARCO出版)1986年初版。
副指導教官の武邑光裕助教授が貸してくれた本。
「見る」ということがどういうことなのか、その意味を問いなおした本として
出版されたとき(原本1972年)には衝撃を与えた一冊らしい。
もとはイギリスBBCの番組”Ways of Seeing”をテキストとして構成しなおしたもので、
絵と写真から成るイメージだけの章もあって確かに意欲的な本。
ただしカラーじゃないのがすごーく残念だった。

内容的には追章「見ることのトーポロジー」の中で
フランス語の「”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある」と紹介していたことは
まさにこの本のテーマ性を言いあらわしているように思えた。
(フランス語知らないので新鮮だった)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。
それは、最初にあらわれ、受けとめられた場所と時間から、
数瞬または数世紀も引き離された概観である。
すべてのイメージはものの見方を具体化する。
<1 イメージの変容>

○過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む(略)
芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、
過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
<1 イメージの変容>

○裸(naked)とは単に服を着てないということであるが、
裸体(nude)とは芸術の一形態である。
→裸体(nude)とは絵の出発点ではなく、絵がつくりあげたものの見方。
(ケネス・クラーク『ザ・ヌード』)
<3 「見ること」と「見られること」>

○広告は実は物についてではなく社会関係について語っている。
広告が約束するものは快楽ではなく、幸福なのである。
幸福は外側から他人によって判断される。
うらやましがられる幸福、それこそが魅力と呼ばれるものである。
うらやましがられるということは安心の孤独な形といえるだろう。
→広告イメージはありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、
 かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。
<7 広告の宇宙>

☆仏語の”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある。
<見ることのトポロジー>

○印刷画を一般概念や特定の役割の見地からも見なければならないが、
とりわけ情報の伝達者や受容者に印刷の諸技術が課してきた
限界について私たちは考察する必要がある。
(ウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』)
<見ることのトポロジー>

○(複製によって)オリジナルは人々が入り込んでくる存在の場ではなく、
人々が自らのまわりに呼び入れる表層の場となる。
<見ることのトポロジー>

○見せる操作は世界へ介入するのではなく、世界を見られる形に変える。
見るということが、見る者と世界との相互性を含むものであるということを見えなくする。
<見ることのトポロジー>

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2003 10/3
視覚メディア論、芸術論、美学
まろまろヒット率3

吉田健正 『大学生と大学院生のためのレポート・論文の書き方』 ナカニシヤ出版 1997

いつの間にかYahooに「情報学」と「メディア論」のキーワードでも登録されていてた、
らぶナベ@院入学半年の活動がこういうキーワードでも登録されるようになった原因だけど、
本人の手を離れて独りでに進化していくようなところがネットでの活動の楽しさですな(^^)

さて、『大学生と大学院生のためのレポート・論文の書き方』
吉田健正著(ナカニシヤ出版)1997年初版。
同じ研究室の聖ちゃん(男)が貸してくれた本。
いまさら感もあるし、こういう本は総じて面白くはないけれど、
気づかずに付いた癖や思い込みを発見できるので通して読んでみた。

案の定、デジタルメディア(特にネット上の情報)を引用や注で使うときには、
“…; accessed 26 May 2003.”というようにアクセスした日時も記載するとういうのは
ころっと抜けていたところだったのでこれから参考にしたい(^^;
(8章:注・注記・引用・文献一覧)

また、どうでもいいところかもしれないけど「起承転結」はレポートにはあまり適さないし、
能や浄瑠璃で基本の「序破急」も不適切だと書いていたのには笑ってしまった。
(3章:レポート・論文の構成)

以下はその他にチェックした箇所・・・

○英文なら”A Manual for Writers of Term Papers, Theses, and Dissertations”か、
“MLA Handbook for Writers of Research Papers”が参考になる
<1章 レポートとは>

○「モデル」の意味(Alfred Tarski)=
1:theory formation, 2:sinplification, 3:reduction, 4:extension, 5:adequation,
6:explanation, 7:concretization, 8:globalisation, 9:action, 10:experimentation
<4章 卒業論文と修士論文>

○「科学的」の定義(ベレルソン&スタイナー)=
1:手続公開、2:定義の正確性、3:データ収集法の客観性、4:事実の再現可能性、
5:組織的・集積的なアプローチ、6:説明・理解・予測のための研究
<4章 卒業論文と修士論文>

○レポートと感想文との違い=objective&detached

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2003 9/30
作文指南、学問一般
まろまろヒット率2

竹内郁郎・児島和人・橋元良明 『メディア・コミュニケーション論』 北樹出版 2000(第3版)

TBS系列で再放送していた『愛なんていらねえよ、夏』にちょっと感動した、らぶナベです。

さて、『メディア・コミュニケーション論』竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著
(北樹出版)2000年第3版。
コミュニケーション論の本を探していたらメディア論との関連で構成されている
この本を見つけたので読んでみることになった。

一章ごとに執筆者が違っていて全部で序章+15章とけっこうな分量だったけど、
内容は「薄いやん」っと思うような章もところどころあった。
おかげでメモを残した章がかなり偏っている(^^;
第7章の「マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開」が
この本の一応の中心にはなるんだろう。

また、この本で扱うメディアは新聞、ラジオ、テレビなどの
既存のマスメディアが中心になっていて、ネットや携帯電話などの
新しいメディアへの記述が少なくてちょっと残念だった。

ただ、各章末にそれぞれ3冊ずつ、そのテーマに関係する参考図書を
執筆者のコメントつきで紹介してくれているのはテキストとして役立った。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆メディア・コミュニケーション研究の対象=人間・メディア・社会の相関の磁場、
入れ子状の関係のもとでの社会的相互作用としてのコミュニケーション
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○メディア変容で注目する点→
1:メディアにおける身体の根源性と基本性
2:新たな個別メディアの登場とメディア総体の自己変容
3:道具・機械メディアの独自の系
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○第一次集団(家族や企業組織など)ほど個別間の結合が強固ではなく、
大衆ほどには離散的でもない中間的結合体系=「集合体」(collectivity)
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

☆メディアはそのメディア内容を離れてメディアそれ自体の独自の次元でも
リアリティ形成の力を一定の社会的文脈の中で発揮する
→メディア独自のリアリティ形成力=「メディウム性」
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○社会的格差の中にあるリテラシーを動員した実践が、
コミュニケーションという相互作用によって他者と共有するリアリティを
構成することを通じて、新たな自己、新たな他者との関係形成の一歩を築く
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○群集の特徴(Tarde,J.G.)=情動や集団的感情の模倣を通じての集団的一体感(コミュニオン)
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○文字の特性(Platon)=
1:書かれたものは客観的なモノと化して人工物となる、
2:書くことは記憶能力を衰退させる、
3:書かれたものは読み手に応答することはなく自らを弁護することもない
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○従来のメディアと電子メディアの相違点=
1:遠隔地間の情報伝達を瞬時に行える
2:同時に広範囲の人々に対する情報伝達ができる
3:電気信号によって多様な情報を蓄積、伝達することが可能
<第3章 メディアの今日的生成と諸形態>

○通信機器の普及の特徴=相手も同じ機器を持つ必要があるので
普及が十分ではない時期にはなかなか広まらないが、
普及がある一定数(クリティカル・マス)を超えると
逆にその機器を持っていないことに対して社会的圧力がかかる(吉井,1997)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

☆ある年齢層の行動・意識を調査・分析する際の注意点=
1:「年齢層効果」(特定の年齢層であることの影響)、
2:「時代効果」(調査した時代の影響)、
3:「コーホート効果」(同時代に生まれた集団=コーホートが持つ特性の影響)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

○メディアの公共性の基準(McQuail,1994)
=自由、平等、多様性、情報の質(客観性、均衡など)、社会的秩序と連携、分化的秩序
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○マス・コミュニケーションの社会的機能(ラザーフェルド&マートン,1960)
=1:地位付与の機能、2:社会規範の強化、麻薬的逆機能(潜在的機能)
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

☆マス・コミュニケーションの社会的機能(ラスウェル,1960)
=1:環境の監視、2:環境への反応にあたっての社会の諸部分の調整、3:社会的遺産の世代的伝達
(国家単位で当てはめれば1:外交官、2:ジャーナリスト、3:教育者)
→ライト(Wright,C.R.,1960)はこれに4:娯楽の提供を追加
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○カルチュラル・スタディーズは第一段階では記号論や精神分析のアプローチを導入、
第二段階では社会的な主体としてのオーディエンスに焦点を合わせることで
その構造的な規定性を脱構築するという二重のパースペクティヴを有する
→メディアの基本的契機であるテクスト、テクノロジー、オーディエンスを
 それぞれ独立した変数とみなして議論を進めることは無い
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

☆カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく(略)
様々な差別の文化政治学が葛藤と矛盾、せめぎあいを含みながら作動していく
政治の現場としてのオーディエンスの社会的身体である
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

○メディアと日常生活を分離させてそれぞれの分野の科学性を追及するのではなく、
日常生活や郊外や都市、グローバルな空間システムの作用についての分析と
コミュニケーションについての分析を統合させる
→家庭には、想像される家庭(home)、社会関係の場の家族(family)、
 モラル・エコノミーの場の世帯(household)の三つの次元がある(Silverstone,1994)
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

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2003 9/20
メディア論、コミュニケーション論、社会学、社会心理学
まろまろヒット率3

池上嘉彦 『記号論への招待』 岩波書店 1984

ニュース23の特集「Coccoが再び歌う」を観て感動した、らぶナベです。

さて、『記号論への招待』池上嘉彦著(岩波新書)2003年第37版。
記号論についてのコンパクトにまとまっている本を探していたら、
西垣通教授が講義(学際情報学概論)中でソシュールとパースの両方を
押さえているということでこの本を紹介していたので買って読んでみた。

読んでみると、断片的に耳にしていたこの分野のキーワードが
全体の流れの中でつながっていくのはパズルが完成するようで楽しかった。
また、もともと著者は言語学者なので、言語学で小耳に挟んだ理論が
記号論でどういう風に応用されているのかということも垣間見ることができた。

ただ、記号論の歴史的な経緯や発展についての説明がもっと欲しかったし、
内容面でも個々の概念的なことは納得できるけれど「そっから先が知りたいんや~」
っと感じることも多くて少しまどろっこしかったのが残念。
さらに記述のまわりくどさが読みづらさを助長させていたが、
こういうのは記号論自体の特徴だろうか?

以下はチェックした箇所(一部要約を含む)・・・

○人間の「意味づけ」する営みの仕組みと意義
ーその営みが人間の文化をいかに生み出し、維持し、そして組み変えていくか
ー現代の記号論はこういうことに関心をもっている
<1 ことば再発見>

○ことば(あるいは、一般に記号)による意味づけという営みを通じて、
人間は自らにとって未知のもの、関わりのなかったものを自らとの関連で捉え、
自らの文化の世界の中に組み込み、自らの世界をふくらませ続ける
<1 ことば再発見>

○直感すること、それはすなわち、表現することである(クローチェ『美学』1907)
<1 ことば再発見>

○言語は精神であり、精神は言語である
(フンボルト『人間言語の多様性と人間の精神的発達に対して及ぼすその影響について』1836)
<1 ことば再発見>

☆コミュニケーションとは(略)自分の頭に抱えている
< 抽象的>な広義の思考内容のコピーを相手の頭の中にも創り出す行為
<2 伝えるコミュニケーションと読みとるコミュニケーション>

☆コード=発信者がメッセージを作成し、受信者がメッセージを解読する際に参照すべき決まり
(コードとして重要なのは拘束する力)
→コードを超えようとする使用者と、使用者を拘束しようとするコード
→この対立する両者の間の緊張した関係が破綻に至らぬようとりもっているのがコンテクスト
<2 伝えるコミュニケーションと読みとるコミュニケーション>

○「コード依存型コミュニケーション」→解読がその特徴(発信者中心)
 「コンテクスト依存型コミュニケーション」→解釈がその特徴(受信者中心)
<2 伝えるコミュニケーションと読みとるコミュニケーション>

○仮説的推論の説明・・・
・「演繹」=from 事例 with 規則 to 帰結
・「帰納」=from 事例&帰結 to 規則
・「仮説的推論」=from 帰結 with 規則 to 事例
<2 伝えるコミュニケーションと読みとるコミュニケーション>

☆一般化した捉え方を定着させるのが記号(略)
指示物でなく意味を通例その記号内容とすることによって、
問題となる対象なり事例は特定の空間、時間の制約から解き放たれる
<3 創る意味と創られる意味>

○記号の分類・・・
・有契的で類似性に基づく記号→「イコン」(類像)
・有契的で近似性に基づく記号→「インデックス」(指標)
・無契的な記号→「シンボル」(象徴)
<3 創る意味と創られる意味>

☆記号内容の規定において、その記号と他の別な記号の記号内容の共通性ではなく、
差異を規定するものとして機能している特徴=「示差的特徴」
→共通性を踏まえての差異という「対立」の構造は、意味作用を生み出す母体
<3 創る意味と創られる意味>

○知識体系の表記・・・
・「フレーム」=問題となる事柄について、
関係する人々が平均的に有していると思われる知識を総覧的に示したもの
→スロット(その事柄についての特徴的な項目)+フィラー(項目に与えられる具体的な値)
・「スキーマ」=時間的ないし因果的な関係に基づいて継起する出来事から成るまとまり
<3 創る意味と創られる意味>

☆二つの特徴が共生する両義的な存在の役割=創造という価値
→「物語」では一方の世界から他方の世界への越境という出来事こそが重要
<4 記号論の拡がり>

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2003 9/9
記号論、言語学、コミュニケーション論
まろまろヒット率3

佐倉統 『進化論の挑戦』 角川書店 2003

「まろまろ図書」をメルマガ読者限定ではじめた、らぶナベです。
(根拠条文は著作権法第38条4項)

さて、『進化論の挑戦』佐倉統著(角川ソフィア文庫)2003年初版。
もともとは角川選書(1997年)から出た本の文庫版。
研究室にたくさんあったので物欲しそうに見ていたら著者からもえらえた(^_-)

内容は進化論が生まれた経緯と他分野への広がりの歴史を紹介しながら、
進化論が異分野をつなげる接着剤になる可能性を述べている。
前に読んだ『進化論という考えかた』よりもこちらの方がおもしろい。
各章末にある人物紹介は面白いし、表現も言い切りが多いのでリズムよく読める。
文庫版あとがきで著者も述べていたが、これくらい著者のスタンスを明確に示してもらった方が
(ちょっと問題があっても)こういう本としては勢いがあって読みやすい。

以下はチェックした箇所(一部要約を含む)・・・

○進化=生物の歴史、進化学=歴史をあつかう自然科学
<汝自身を知るためにーまえがき>

☆進化の定義=遺伝する形質の変化→進化過程では変化が累積していくことが重要
→進歩と違って進化は無方向な変化(“進化”よりも”変化”の方が意味が近い)
<第1章 進化と進化論の歴史>

☆古来多くの賢人が取り組んで未だに論じ尽くされていない問題は、
問の立て方か解決へのアプローチの仕方が間違っていると考えられる
・「なぜ人は道徳的でなければならないのか?」という普遍的な問題は、
 →「なぜ人は道徳的ではなければならないと<思う>のか?」と問えば
  倫理学の問題から心理学の領域へ変換できる
 →「なぜ人は道徳的でなければならないと思うように<できている>のか?」と問えば
  さらに自然科学で扱える問題となる
<第4章 人はなぜ道徳的に振舞うのか、また、なぜそうでなければならないのか?>

○脳の守備範囲は遺伝的には誤差範囲(略)遺伝的に大事なところは遺伝子が担当
→脳は遺伝子ではきめ細かな対応ができない時空間尺度、個体の見渡せる範囲や
 生涯で実感できる時間に感受性が高くなるように進化してきた
<第4章 人はなぜ道徳的に振舞うのか、また、なぜそうでなければならないのか?>

○まわりの事態が変えられない場合には
自分の意思決定は正しかったのだと思った方がストレスが少ない
→人の心理傾向は自己正当化するように進化してきた
(ロバート・トリヴァース)
<第5章 ダーウィンとフェミニズム>

○人類社会、特に近代産業革命以降の工業化時代における変化は、
共同体の解体とその役割の個人への委譲とまとめることができる
<第5章 ダーウィンとフェミニズム>

○自分の情報を複製することのできる自己複製子の系統が続けば、
そこにダーウィン的な進化が起こる
(大事なのはどんなものが複製されるかではなく、情報が複製されること)
→この情報一元論的生命観がドーキンス理論の根本
<第6章 ケーニヒスベルクの300年ー進化論と認識論>

☆自律的に適応する能力を持ったシステムならば、
生命や人間の知識だけでなく、あらゆるシステムが選択過程に頼っているはず
→選択過程=無方向の変異生成とあとに続く選択
(ゲイリー・シーコウ)
<第6章 ケーニヒスベルクの300年ー進化論と認識論>

☆ダーウィンが自然選択を着想したときにマルサスの経済学がヒントになり
(略)現代は進化経済学が注目されている
→進化論と経済学はもともと相性がいい
→生命も経済もどちらも自律的に適応する複雑系だから
<第6章 ケーニヒスベルクの300年ー進化論と認識論>

○生命の進化はひとつの認識システムの進化であり、
知識を含む人間の認識システムもまた、ひとつの「生命」と考えることができる
(略)生命は40億年の旅路の果てに、人間の知識・文化という、
もうひとつの「生命系」を誕生させたということなのだろうか?
<第6章 ケーニヒスベルクの300年ー進化論と認識論>

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2003 9/4
進化論、自然科学
まろまろヒット率4