戸頃重基 『鎌倉仏教―親鸞・道元・日蓮』 中央公論新社 2002(原1967)

この前、新宿西口の「銀座ルノアール」で打ち合わせしていたら、右隣は不倫カップルが別れ話している席、左隣はゲイのカップルが大喧嘩してる席に挟まれて気になって仕事どころではなかった、
らぶナベ@これが仏教で言う「業」の深さか(>_< )

さて、『鎌倉仏教―親鸞・道元・日蓮』戸頃重基著(中央公論新社BIBLIO)2002(原1967)。

鎌倉仏教の代表的な三人の教祖、親鸞、道元、日蓮を比較しながら、 彼らの思想的模索や独自性を明らかにしようとする一冊。
初版から40年近くたっているので少し古めかしい部分はあるけれど、 さすが名著と言われているだけあって偏りがちになる宗教本の中では バランス感覚を持って書かれているので読みやすいし解釈に説得力がある。

中でも「鎌倉仏教のなかで、法然と親鸞は他力の信仰を求めて生き、道元と日蓮は自力の修行に打ち込んだ。 法然と親鸞とは、この世の価値を究極的に否定し、道元と日蓮は、あの世の実存を否定した」 (信仰の証を求めて)としているのはこの本の一番の根幹部分だろう。

また、興味深かったのは鎌倉新仏教の教祖たちはことごとく比叡山を飛び出した人々だという点だ。
他にも仏教の学府はあったのに比叡山だけが新宗教を生み出す土壌となったのが、 この山が持つ混在性と寛容性だと指摘している点は考えさせられるものがあった。
(高野山はその対局だとしているのは司馬遼太郎の『空海の風景』でも出てきた指摘)

さらに、この本の終章では教祖の後継者たち(教団)が教祖の考えをいかにねじ曲げていったのかを遠慮無く書いているのも興味深かった。
「日蓮が門下に期待した異体同心の教誡は、ほかならぬ門下自身によって裏切られ、 妙教の剣は、謗法ならぬ同信者のあいだで乱用され誤用された」というのは、 確かに日蓮宗系の教団によく見受けられる罵詈雑言合戦を垣間見ると思わず納得してしまう。
(よくあんなヒドイ表現が思いつくなと感心することしばしば)
ただ、このことを著者は嘆くように書いているけれど、 そういう教団が布教したからこそ、教祖たちが今でも取り上げられるというのもある。 これは進化的な論点として興味深かった。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○現世利益の密教は、感覚的な現証をあてこむだけに、反対現証に出会って、容易に人の不信を呼び起こす。 浄土思想が、密教思想のそういう裂け目から生じたことは当然であろう。
<1 日本仏教の夜明け>

○(仏教の学府はたくさんあったが)そのなかでも天台法華宗の総本山比叡山だけが新仏教のスタート・ラインになりえたのは、この山が『法華経』を最高の聖典として崇拝しながら、 それだけにこだわらない混合主義と寛容を宗風としていたからである。
→党派心のいたって強い空海を開山にあおぐ高野山は、元来、真言密教だけにこり固まり、比叡山におけるような教学の多元性を欠いていたからである。
<1 日本仏教の夜明け>

☆鎌倉仏教のなかで、法然と親鸞は他力の信仰を求めて生き、道元と日蓮は自力の修行に打ち込んだ。 法然と親鸞とは、この世の価値を究極的に否定し、道元と日蓮は、あの世の実存を否定した。
<2 信仰の証を求めて>

○感性の立場から易行を説く法然、親鸞に比較して、 悟性や意志を重んずる立場から難行を説く道元は、厳格主義をつらぬいた。
しかし道元の厳格主義には、闘争的な折伏の意味はない。どこまでも、説得を重んずる摂受の方法である。
日蓮の折伏は、受難にたえる業者の難行と、そこから生ずる殉教の精神で信仰がいろどられ、 親鸞や道元にはみられない、宗教的生涯を展開した。
<2 信仰の証を求めて>

○日蓮が門下に期待した異体同心の教誡は、ほかならぬ門下自身によって裏切られ、 妙教の剣は、謗法ならぬ同信者のあいだで乱用され誤用されたのである。
<4 法灯のゆくえ>

○開祖は、それぞれ長年の研究や求道体験の結果、ただひとつの結論にたどりついたのであるが、 後継者の場合は、開祖におけるような研究や体験を省略し、祖師からあたえられた教条的な結論から出発した。
したがって、彼らの発想法には弾力性がなく、 教団のエゴイズムやセクショナリズムがそれに一段と輪をかけ、ただ正統と異端の区別をきびしくして、真理や正義をふくむ主張さえも、 背師異立の邪義として排斥しつづけ、 徳川時代の鎖国思想や、のちの攘夷思想にとけこんだのである。
<4 法灯のゆくえ> この本をamazonで見ちゃう

2005 5/30
歴史、宗教、仏教
まろまろヒット率4

百世瑛衣乎 『超カンタン! 最強メディア ブログ成功バイブル』 翔泳社 2005

最近はよくチャリコロール×シルバーのジャージを着ている、
らぶナベ@ソーシャルネットワーキング上ではジャージーズ主催者でもあります。

さて、『超カンタン! 最強メディア ブログ成功バイブル』百世瑛衣乎著(翔泳社)2005。

12人のブロガー(blogger)たちのインタビューを通して、それぞれの成功の秘訣を紹介する一冊。
図書館で見つけて面白そうだったので大阪との往復の間に読み終えた。

やはりWEBマスターやブロガーのような自分メディアを運営している人たちの話は、
「1人1メディア」を唱える僕としても自分の活動を振り返る良い機会になる。
この本ではインタビューの最後にその人の成功の秘訣を箇条書きにしているのと、
成功の方程式として時系列でblog活動の歴史を紹介しているのが見やすかった。

ただ、選ばれたブロガーのほとんどがブログ・ランキング上位者であって、
ランキング参加していないブロガーの多くが外されているのが気になった。
用語の使い方も少し疑問に思うところがあって、著者はこの分野に馴染みはないのかなと思った。
また、紹介されているブログもここ1、2年のものが多くて、
パーソナル・メディア最大の問題の一つである「どう続けるか?」についての言及が無かったし、
ブログのメリットばかりでデメリットには触れてなかったのも残念。

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2005 5/23
情報・メディア、blog本
まろまろヒット率2

吉本隆明 『最後の親鸞』 筑摩書房 2002

飲み屋さんで合コンしてるテーブルはどんなに遠くからでもすぐわかる
らぶナベ@ああいう場って独特のオーラを発しているのはなぜなんだろう?と思っています。

さて、『最後の親鸞』吉本隆明著(ちくま学芸文庫)2002。

僕に信仰心は無いけれど、我が家は浄土真宗(西本願寺)なので
一度くらいは親鸞ものを読んでみようと友人に勧められて手に取った一冊。
非僧非俗の生涯をおくった親鸞の晩年に焦点を当てて彼の思想性に迫ろうとしている。

興味を持ったのが親鸞の生涯の中で北陸への追放から晩年の京都での著作活動の間にある
北陸と関東での布教時代がよくわかっていないというところだ。
そしてこのことにも関連して、親鸞の伝説を紹介しているのも面白かった。
27個の伝説をリスト化して、各派が自分の都合に合わせてどの伝説を組み合わせたのかが
一覧してわかる「伝説組み合わせ表」が興味深かった。

昔から僕にとって親鸞は「肉を食べるのとHをするのがやめられなかった」(肉食妻帯)ことや、
「良い人だって救われるんだから悪い人が救われるのは当然じゃん」(悪人正機説)などが印象にあった。
実は法然の方がすごくて、これほど有名なのは単に普及度の問題だけでは?という疑問も持っていた。
読んでみてこういう印象や疑問から来る関心をさらに高めてしまった。

以下はチェックした箇所・・・

○現世でたまたま善であるか悪であるかは、時間のとおい過去からやってきた宿縁によるものだから、
本人のせいではない(略)つぎにこのかんがえは、悪人こそは善人にもまして往生の正機をもつのだ、
というように徹底化されていった。
<和讃>

○伝説がつくり出される動機は< 聖化>したいという念慮と、一見これと裏腹な共同の< 必要性>である。
伝説の< 真>は、至上化された愛惜と極端な有用性から成っている。
<親鸞伝説>

○絶対的な距たりを縮めようとする行為は、
遠まわりの善であるという逆説の完成こそが親鸞の教理的な精髄であった。
<教理上の親鸞>

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2005 5/20
宗教、仏教、歴史、エッセイ
まろまろヒット率3
スピリチュアル

辻邦夫 『西行花伝』 新潮社 2002

まろまろコンテンツのblogへのお引越を進めている、
らぶナベ@自業自得とはいえ作業量の多さにくらくらだす(^^;

さて、『西行花伝』辻邦夫著(新潮文庫)2002。

僕は出歩いた先で和歌を一首詠む「西行法師プレイ」というのをやっている。
何気なく付けた名前だったけど、なぜ松尾芭蕉プレイでも小林一茶プレイでも無いのか、
後から振り返ると自分でもいまいちよくわからない。
でも、人からはよく「西行って感じしますよね」とか、
「そりゃあ、まろまろさんは芭蕉より西行でしょう」などのような
しっくり感があるという評価を耳にするので
自分の中にある不可解なものに迫ろうと手に取った一冊。

内容は西行の死後に弟子が西行所縁の人々から彼の思い出を聞き取るかたちで、
伝説につつまれた西行の人生をたどっていくスタイルになっている。
彼が北面の武士として仕えた朝廷内での抗争、
地方レベルで進む律令制度のきしみと武士の台頭、
そして源平争乱という時代の変遷の中での西行の行動や感性を
彼の歌の解釈を通して再現しようとしているのが面白い。

読み終えてみて、なぜ西行法師プレイなのかについて考えてみた。
誰もが自分の中にある願望と現実の姿とのギャップに悩むことがある。
自分の中にある願望が西行への無意識の憧れになり、
実際の姿に対する違和感が空海への近親憎悪になったんだろう。
そんな僕でも後の時代に自分の人生が伝説として語られるなら、
空海のようにではなく西行のように語られたい。
最後に僕が西行の歌の中で一番好きで一番彼らしいと思う一首を引用・・・

風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我思ひかな

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2005 5/14
歴史小説
まろまろヒット率3

水越伸 『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』 紀伊国屋書店 2005

「ソーシャルネットワークとコミュニケーション手法の多様性」というシンポジウムに
パネリストとしてお呼ばれした、らぶナベ@ジャージな海賊が僕です。

さて、『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』水越伸著(紀伊国屋書店)2005。

生物の生息に適した小さな場所を作り、ネットワーク化させるビオトープ(biotope)を
メディア論の隠喩として応用させた「メディア・ビオトープ」を提唱する本。
文章と共に著者の手書きのスケッチや写真がワンセットになっている。

内容はメディアを「伝達」を軸にした矢印モデルでとらえるのではなく、
「共感」と「コミュニティ」を軸にしたドーム・モデルを基本にしている。
ビオトープの特徴となる小ささ、ネットワーク、キット化という点が
WEBサイトやSNSにも当てはまるのので自分の活動やSNSコミュニティを振り返りながら読んでみた。

中でもメディア・ビオトープを形作る要素として
「メディア実践」、「メディア・リテラシー」に加えて
「メディア遊び」を重視している点が興味深かった。
この三つの相互循環によってメディア・ビオトープが形成されるが、
中でもこの「メディア遊び」はその土壌部分に当たるとしている。
読んでいて不敵な知り合いのWEBマスターたちや
からかい好きのSNSネットワーカーたちが思わず目に浮かんでしまった(^^)

ちなみにこの本の趣旨のことは前々から聞いていたので、
早く出版してほしいと著者に会う度に言っていた。
ようやく念願の読書ができたけど、できれば僕の修士論文前に出してほしかった(>_< )

以下はチェックした箇所(一部要約&注目順)・・・

☆メディア・ビオトープを形作る三つの営み・・・
メディア実践(media practice)
   ↑ ↓
メディア・リテラシー(media literacy)
   ↑ ↓
メディア遊び(media play)
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

☆メディア遊びは、体制化・硬直化したメディア社会のありようを突き崩す動き
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

☆ドームを生み出すために必要な要素・・・
1:「出会い」=異なる領域にいながら同じ志の人々を求める
2:「対話」=自分に眠る他者をよみがえらせる
3:「表現・制作」=自明性を突き崩す
4:「可視化」=言語かできないものを言語化しないまま操作可能にする
<メディア・ビオトープを育む>

☆矢印モデルでのコミュニケーション=伝達、メディア=伝達手段
ドーム・モデルでのコミュニケーション=共感の営み、メディア=象徴
<メディア・コミュニティ・人間>

☆(メディアとコミュニティの関係)
メディアはコミュニティを生み出し、維持し、発展させる象徴媒体として働くが、
一方でコミュニティがメディアを支え、そのあり方を枠付ける母体だという、
循環的で、相互依存的な関係
<メディア・コミュニティ・人間>

○メディア研究とメディア業界は、二項対立の図式にかまけるなかで、
新しいメディア表現者の登場を予兆することができず、
さらにはその活動をより広い文脈のなかで位置づけることをせずにいる
<メディア・コミュニティ・人間>

○ビオトープの特徴=小ささ、ネットワーク、複合性、デザインの重視
メディア・ビオトープの特徴=小さなメディア、ネットワーク化、非2項対立、道具立て
<メディア・ビオトープ宣言>

○メディア・リテラシー=媒体素養(by呉翠珍)
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

○硬直し、紋切り型になったメディア・リテラシーとは
メディア・プロパガンダに他ならない
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

○メディア回廊作りに大切なこと・・・
1:バランスを取ることでアイデンティティを保つ
2:組織やグループを越えた一段上の次元でもメディアを作る

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2005 5/5
メディア・ビオトープ、メディア論、社会学
まろまろヒット率4

アーサー・C・クラーク、福島正実訳 『幼年期の終り』 早川書房 1979(原著1953)

今日でちょうど読書日記をはじめて10年になる、らぶナベです。

さて、そんな10周年をかざる一冊は・・・

『幼年期の終り』アーサー・C・クラーク著、福島正実訳(ハヤカワ文庫)1979(原著1953)。

10年前に読書日記をつけはじめた最初の本は、
トルストイの『光あるうち光の中を歩め』だった。
この本はタイトルに引かれて読んだものの、
トルストイの晩年の作品らしく説教臭くてみみっちい話だった。
そこで次の10年はスケールの大きな本でスタートしようと、
古今東西のSF小説の中でも1,2を争うスケールの大きさから
SF文学の金字塔と言われているこの『幼年期の終わり』を手に取った。

物語は人類が宇宙ロケットを開発する直前に突然あらわれた
異星人「オーバーロード」との接触からはじまる。
圧倒的な科学力を持つ彼らオーバーロードと
人類との接触にはどんな意味があるのか?
オーバーロードの目的は何なのか?
その謎を軸に物語は進む・・・

原著はもう50年以上前に書かれたものなので(有人宇宙飛行のずっと前)、
科学技術に関する話はどうしても古めかしく感じてしまうし、
個人的な物語が中心となる前半は少し退屈な感じがした。

ただ、後半は物語のスケール、スピードが激変する。
物語のスポットライトが当たる範囲が急激に広がる感じがして、
がんばってついていかないと取り残されそうになるほど。
大きな話なのに読み終えてみると少し寂しさを感じてしまうという
宇宙規模の進化について想像することができるおもしろい一冊。

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2005 4/8
SF小説
まろまろヒット率4

ジェイムズ・P・ホーガン、池央耿訳 『星を継ぐもの』 東京創元社 1980(原著1977)

安藤美姫の両親はよっぽど自信があったんだなと関心する、
らぶナベ@ネーミングには勇気が必要という例ですな。

さて、『星を継ぐもの』ジェイムズ・P・ホーガン著、池央耿訳
(東京創元社)1980年初版(原著1977年)。
1年くらい前に書店で見つけてタイトルに引かれていたら、
SF小説の最高傑作の一つで推理小説としても読まれていると知って読んでみたSF小説。
(SF小説を読むのは中学の時に読んだ田中芳樹『銀河英雄伝説』以来十数年ぶり)

物語の舞台は近未来。
月面で真紅の宇宙服を着た遺体が発見される。
この遺体は文明誕生前の5万年前のものであることが判明した。
果たしてこの遺体は人類なのか?それともまったく別の生命なのか?
そしてこの遺体と人類とのつがりはあるのか?
この疑問に対して学際的なプロジェクト・チームが挑む・・・

様々な学説が生まれては消え、離合集散を繰り返しながら
科学的推論が進んでいくプロセスが物語のメインとなる
まさに”サイエンス”フィクション。
特に発見された遺体の遺留品から彼の文化を復元しようとする
言語班(言葉)と数学班(単位)の活躍がおもしろかった。

もう30年も前の作品なので、今となっては理論が少し古かったり、
いろんなところで使われるお約束な部分もあったりするけれど、
プロローグから最終章、エピローグへとつながる流れは芸術的。
読み終えたときにはスケールの大きな感動を味わえる一冊。

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2005 4/1
SF小説、科学推論
まろまろヒット率4

陳舜臣 『曼陀羅の人―空海求法伝』 毎日新聞社 上中下巻 1994

カレーマスターのたあぼうさんに連れられて南インド料理なるものを食べてきた、
らぶナベ@確かにドーサ(ドゥーサ)は美味しいです。

さて、『曼陀羅の人―空海求法伝』陳舜臣著(毎日新聞社・上中下巻)1994年初版。
空海の約2年間の遣唐使時代をえがいた歴史小説。
いろいろな場所で評判を耳にしていたのと、
近親憎悪と向き合おうキャンペーンで手に取った一冊。

内容は唐内部での政争、安史の乱から続くミステリーなどが
物語に絡ませてあっておもしろく読めた。
特に空海は密教だけでなく、道教、景教(ネストリウス派キリスト教)、
イスラーム教、マニ教などに接触したという説をもとにして、
空海がさまざまな宗教の寺院を訪れる姿を
作者独自の解釈で描写しているのは興味深かった。

ただ、この小説では空海が密教寺院に近づくために、
自分で自分の風聞を起こしてそれを利用した事実については、
別の人物の力が働いたという風に解釈している。
この解釈で空海の自作自演な胡散臭さがかなりマイルドになったけど、
今に伝わるさまざまな伝説、伝承の種をまいた
彼独自のメディア戦略がえがかれていなかったのは少し残念だった。

ちなみにこの本を読んでいる時に、知り合いの車で0泊2日温泉巡りをした。
たまたま伊豆修善寺に立ち寄ると、その周辺には空海伝説がたくさん残っていた。
またまた縁あさからぬものを感じた読書でもあった。

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2005 3/24
小説&文学、歴史、宗教
まろまろヒット率3

義江彰夫 『神仏習合』 岩波書店 1996

週末に大阪に帰ったら親がまろまろHPの存在を嗅ぎつけそうになっていて焦った、
らぶナベ@「親バレ」を避けるために隠蔽工作に必死です(>_< ) さて、『神仏習合』義江彰夫著(岩波書店)1996初版。 律令時代から始まった神仏習合の過程と、 その原動力となった社会構造の変化を紹介する一冊。 読んでみると、政治的、社会的な構造変化のもとで 仏教と神祗信仰が複雑に絡まっていく過程は、 ダイナミックな歴史読物として楽しめた。 さらにこの本はタイトル通り宗教を取り扱った歴史書だけど、 著者が「信仰は文化の特質が集約的に表現されている」と語っているように 日本文化形成論としても読むことができる。 加えて、普遍宗教(仏教)と基層信仰(神祗信仰)の重なり合わせは、 グローバリゼーションとローカリゼーションとの重なりという視点でも読むことができた。 読んでいて面白い上に、いろんな読み方ができるかなりの良書だと思う。 ちなみに僕は前々から空海に対して近親憎悪のようなものを感じていたけれど (『空海の風景』を読んでからそれは決定的になった)、
この本の中でも神仏習合過程で立ち回った
空海の姿を発見してちょっと複雑な気分になってしまった。

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○神仏習合=神祗信仰と仏教が複雑なかたちで結合し、独自な信仰の複合体を築いたもの
 →普遍宗教と基層信仰の結合の一形態
<序 巫女の託宣>

☆宗教には文化全般の特質が集約的に表現されているはずであり、
 社会構造との有機的関係をもっともダイナミックに把握できる通路
<序 巫女の託宣>

○律令国家は、祭祀のなかに支配の論理をすべりこませることを
 国家的規模で実現することで、はじめて存立しえた
<第2章 雑密から大乗密教へ>

○十世紀末に完成する日本型浄土信仰=論理化された神祗信仰の核をなす
 ケガレ忌避観念と浄土三部経との実質的な結合と複合体
<第4章 ケガレ忌避観念と浄土信仰>

☆キリスト教と仏教との決定的な違い
 =最初から呪術と奇跡を認め、人間しか救済されないとする点
<結 普遍宗教と基層信仰の関係をめぐって>

○仏教はキリスト教の三位一体論にあたるものを作り出すことなしに、
 可能なところから呪術と奇跡の背後にある普遍宗教の教理を打ち出し、
 その理解をすみやかに獲得していった
<結 普遍宗教と基層信仰の関係をめぐって>

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2005 3/9
歴史、宗教、文化論
まろまろヒット率4

紀田順一郎 『翼のある言葉』 新潮社 2003

半ば強引に誘われて連れて行かれたサバイバル・ゲームは、
ニューエコノミーな人たちの社交場にもなっていたのが意外だった、
らぶナベ@ゴルフからサバゲーへ、社交スポーツの構造変革?

さて、『翼のある言葉』紀田順一郎編(新潮新書)2003年初版。

ここしばらく取り組んできたことがようやく一段落したので、
気持ちも落ち着けようと手に取った名言集。
(本郷真砂図書館内を放浪していて発見した一冊)
タイトルの「翼のある言葉」とは、ドイツ語の”Gefluegeltes Wort”の訳。
時と場を超えて胸に飛び込んでくる言葉という意味がある。
その言葉の通り、古今東西の小説や随筆、特に古典的作品から
編者の心に残った言葉を抽出して編集している。

編者が高齢のためか、中には後ろ向きに思えるほど
「昔は良かった」的な解釈を入れるところが気になったが、
編者と同じように書留めたくなる言葉がいくつもあった。

自分を振り返るのに歴史書と名言集は欠かせないような気がする。

以下は、チェックした箇所・・・

☆人生で最もむずかしいことは、自分の幸福にとって厳密に得になること、
 厳密に生き甲斐あることだけをする術を学ぶことだ。
<ヘンリー・ミラー『わが読書』>

☆心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん
<古歌>

☆思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。
 それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。
 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
<魯迅『故郷』>

☆私は あまり人の通っていない道を選んだのだ、
 それが 大きな相違をもらたすことになった。
<ロバート・フロスト『行かなかった道』>

○自分の中にある晴々した気分の源を清らかにして置けば、
 外界の事物も我々の心に沿って来る。
<プルタルコス『倫理論集』>

○私は自分の境遇の、暗い面よりも、明るい面に注意を向けて、
 私に不足しているものではなくて、私が持っているもののことをもっと考えるようになり、
 そのために私は言いようがないほどの慰安を感じることがあった。
<デフォー『ロビンソン漂流記』>

○わたしは引用というものを、疾走する三頭立ての中央の馬を
 左右から助ける副え馬だと理解している。
<エイゼンシュテイン『自伝のための回想録』>

○われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。
<セネカ『人生の短さについて』>

○天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか!
<ジョン・ミルトン『失楽園』>

○断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。
<ラ・ロシュフーコー『箴言集』>

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2005 3/3
名言集
まろまろヒット率3
スピリチュアル