11月10日から14日までの4泊5日間、東北地方を行脚する。
振り返れば、19歳の時に大阪で阪神大震災を経験したことが、文京区友の会などの地域コミュニティ作りや、
てくてく活動のような地域資料作りに関わるきっかけとなっている。
また、松阪市ホームページ検討委員会委員長や松阪市情報政策担当官として公的な役割を果たすことになったのも、
阪神大震災の経験が原体験として残っていることが大きな要因となっている。
そして、今年発生した東日本大震災は、東京滞在中に経験することなった。
震災発生直後、まだ混乱する東京に友人たちを残して自分だけ移動することには大きな葛藤があったものの、
自分にもできることの中にある自分にしかできないことを考えて、松阪に来ることを決断した。
(「東日本大震災のお悔やみと近況報告」)
自分にもできることの中にある自分にしかできないことの一つが、
被災地から遠く離れた場所にいるからこそできる情報発信だ。
特に防災意識向上や風評被害対策には、情報発信が貢献できる分野なので、
これまでも防災オフ会や復興支援オフ会などを開催してきた。
今回の東日本大震災でも、情報発信分野での貢献をしたいと思っていた。
ただ、具体的に自分に何ができるのか、何をどう取り上げればいいのか、
暗中模索する日々が続いていた。
そんな折に、芹澤高斉・三重中京大学准教授が東北地方に視察に行くとお聞きして、
完全ボランティアで同行させていただくこととなった。
人生で初めて訪れた東北は、まだ復旧作業が続いている中だけれど、復興に向けた足音が聞こえるものだった。
石巻市雄勝町で再開されたホタテ貝の養殖をお手伝いさせていただいたことや、
陸前高田市で一本松の保全活動をされている方のお話をお聞きしたこと、
石巻市で松阪市の知人から依頼された消息確認を古い知人と一緒におこなったこと(※1、※2)などを通じて、
様々な立場の現地の方々と実際にお話しさせていただいたことは、自分にとって大きな経験となった。
現地で異句同音に耳にしたのは「どんな動機でもいいから実際に来てほしい」、「忘れないでほしい」という言葉だった。
これは情報発信分野で貢献したいと思う自分にとっては勇気づけられるものだったし、
被災地から遠く離れた場所から来た自分の気まずさを救ってくれた。
その一方で、言葉にできない経験や気持ちを抱えている方々とお話ししながら、
自分がどう接していいのか、どう関わっていけばいいのか、分からなくなることもあった。
自分に何ができるのか。
その応えは今でも暗中模索の状態にある。
でも、今回東北行脚の中で出会ったみなさん、再会したみなさんが、光を灯してくれた。
少しずつこの灯をつなげていきたい。
以下、東北行脚の主な行程とまろまろ記コンテンツのまとめ。
○11月10日:中部国際空港→仙台空港→仙台市のゲストハウス梅鉢に宿泊
○11月11日:仙台市→石巻市雄勝町でのホタテの養殖お手伝い・大須中学校訪問・雄勝硯の高橋さんと再会→一関市の東横インに宿泊
○11月12日:一関市→陸前高田市での一本松保全活動ヒアリング・松阪市からのボランティアと合流→平泉町の志羅山 旅館に宿泊
○11月13日:平泉町→仙台市で単独行動開始・蒸留所見学→東松島市で箕輪さんと合流し消息確認開始→石巻市で消息確認→仙台市のドーミーンに宿泊
・ニッカウヰスキー宮城峡蒸留所の「シングルカスク宮城峡25年」
○11月14日:仙台市のせんだいメディアテークへのヒアリング・国分町でのヒアリング→東京都
(当日の動向はFacebookのアルバム「東北行脚」にもまとめている)
2011 11/10~14
出来事メモ
※1:2012年1月12日 『夕刊三重』・第1面「40年ぶり文通相手と”再会” 浅沼さん(観光協会職員)、被災の高橋さん(石巻市)と 視察の渡邊さん(市情報政策担当官)捜し当てる」
※2:2012年2月16日 『中日新聞』夕刊・第10面「届いた手紙 被災の文通相手から にじむ苦労に涙 松阪の男性 40年ぶり”再会”」
追記:2012年4月20日から23日まで東北行脚、再びで再訪。