絞ることができないのは幼稚、絞った後で広げられないのは老化、その間で試行錯誤できるのが青春。
未熟と老衰の間に生きる活力がある。
<まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」を終えて>
絞ることができないのは幼稚、絞った後で広げられないのは老化、その間で試行錯誤できるのが青春。
未熟と老衰の間に生きる活力がある。
<まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」を終えて>
手軽にやりとりできたとしても、信頼まで手軽に得られると勘違いしてはいけない。
情報通信技術が発展してコミュニケーションのコストが下がっても、時間も労力もお金も使わず、座ったままで信頼を得られると勘違いしてはいけない。
会いたいならば自分から足を使って会いに行く、それさえせずに興味があるとラブコールを送ったり、信頼されたいと願うのはみすぼらしい甘えでしかない。
信頼は手間暇をかけて培っていくものだ。
助言者になりたがる人や、伝統社会で地位がある人、先生と呼ばれる立場の人などにそういう人が多くても、決して影響されてはいけない。
<まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」の会場で阿闍梨餅を受け取って>
当事者は実際のリスクと引きかえに充実を得る特権があり、傍観者は充実の放棄と引き替えに安全を得る特権がある。
当事者は傍観者を恨んではいけない。
傍観者が充実感を得ることは無く、充実感を得なければ生きる意味を実感することはないからだ。
傍観者は当事者を羨んではいけない。
当事者が完全な安全を得ることはないからだ。
<社会活動=人間関係を振り返って>
友人が困っていると分かっているのに自分から積極的に手を差し出さなければ、積極的に友人関係を解消した方がいい。
人間関係ではあえて白黒を付けない方が良い場合もあるけれど、この場合は積極性を持って白黒を付けた方が良い。
なぜなら、その友人からは恨みを買い続けるリスクがあるだけでなく、結果論として傍観的な立場を取ったことは「信頼できない人物」という記録を後世に残してしまうからだ。
“hold out or break off”
<社会活動=人間関係を振り返って>
単なる知人と友人との違いは、相手のために恥をかくことができるかどうかにある。
自分のスタンスや主義主張は一先ず置いて、恥をかくことができるのが友情だ。
自分の殻から抜け出そうとせず、自分の殻にヒビを入れることさえしない人は、
たとえどんなに友達風を吹かせてきたとしても友人として信頼してはいけない。
寛容とは、何でも許すことでは無く、許す指針を持っていることをいう。
「水に流す」や「忘れる」というのはファンタジーで、それを求めることはアニメやゲームの出来事を現実と錯覚することと変わらない。
許すことは勇気が必要な行為だからこそ、指針を明確化させなくてはいけない。
追記:指針の詳細はまろまろコラム『寛容のメモリ~決別のmemoryと和解の目盛~』で公開。
意見を聞く時は、尊敬する人と軽蔑する人の両方から聞く方が良い。
「こうなりたい」と思う人と接すれば自分を高める機会になるし、
「こうなりたくはない」ないと思う人と接すれば自分の足元を見つめる機会になる。
自分にしかできないこと、今しかできないことは、自分が今すぐできることの中にある。
向上心から自分の外に可能性を広げるだけでなく、自分の中にある可能性を受け入れることも時には必要になる。
それは自分への挑戦だ。
<まろまろ記8周年特別企画のまろまろ茶話会2009にて>
頭が悪いのに小賢しい人と、頭が良いのに不器用な人、は表面的には逆の印象を受けるけど、評価を間違えてはいけない。
人を見る目が無い人は、この二者の評価を間違えてしまっていることが多い。
<人選ミスをする人の共通点を感じて>