傍観者を当事者に変えていく可能性が、表現の社会的意義だ。
傍観者の無責任さと醜さを批判するだけでは何も変わらない。
「気づき」を与えて当事者に変えていく力こそが、表現(情報発信)の持つ可能性だ。
<松阪市情報政策担当官退任の日に>
2013 3/31
はしり書き
since July 19th, 2001
傍観者を当事者に変えていく可能性が、表現の社会的意義だ。
傍観者の無責任さと醜さを批判するだけでは何も変わらない。
「気づき」を与えて当事者に変えていく力こそが、表現(情報発信)の持つ可能性だ。
<松阪市情報政策担当官退任の日に>
2013 3/31
はしり書き
心に響くかどうかの必須条件は、本気さの裏付けが感じられるかどうかだ。
手軽な手段を使うならなおさら、「よくここまで」と思わせる迫力が最低でも必要になる。
その裏に本気さが感じられない人や言葉、物が誰かの心を響かせることはない。
<ソーシャルメディア関連の講師や情報発信の相談を受ける中で>
2012 11/16
はしり書き
響を奏にしてゆく。
柔らかい響も厳しい響きも、和音も不協和音も、どんな反響でも、感性と知性の調和を持たせれば奏にしてゆくことができる。
<まろまろ記11周年を振り返って>
2012 7/19
はしり書き
信頼はミルフィーユ(mille-feuille)のようなものだ。
重ね合わせなければ意味がないが、脆くて崩れやすい。
この重層性と脆さの両面を忘れてはいけない。
<松阪ソーシャルメディア朝会(朝オフ会)の取材記事が掲載された日に>
2012 6/30
はしり書き
人は過去に支配される奴隷ではなく、過去から学ぶ教え子にならなくてはいけない。
自由意思と可能性を持って未来の糧にしていくことが、過去に対する最大の敬意だ。
<誕生日に>
2012 5/26
はしり書き
転んだら泣けばいい、迷ったら凹めばいい、新しい道を自分の道にすればいい。
失敗することは嫌だし、迷うことは恥ずかしい。
でも、曲線であってもつなげていくことで自分の道となる。
<松阪市情報政策担当官就任の日に>
2011 4/1
はしり書き
絞ることができないのは幼稚、絞った後で広げられないのは老化、その間で試行錯誤できるのが青春。
未熟と老衰の間に生きる活力がある。
<まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」を終えて>
2010 7/19
はしり書き
手軽にやりとりできたとしても、信頼まで手軽に得られると勘違いしてはいけない。
情報通信技術が発展してコミュニケーションのコストが下がっても、時間も労力もお金も使わず、座ったままで信頼を得られると勘違いしてはいけない。
会いたいならば自分から足を使って会いに行く、それさえせずに興味があるとラブコールを送ったり、信頼されたいと願うのはみすぼらしい甘えでしかない。
信頼は手間暇をかけて培っていくものだ。
助言者になりたがる人や、伝統社会で地位がある人、先生と呼ばれる立場の人などにそういう人が多くても、決して影響されてはいけない。
<まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」の会場で阿闍梨餅を受け取って>
2010 7/19
はしり書き
当事者は実際のリスクと引きかえに充実を得る特権があり、傍観者は充実の放棄と引き替えに安全を得る特権がある。
当事者は傍観者を恨んではいけない。
傍観者が充実感を得ることは無く、充実感を得なければ生きる意味を実感することはないからだ。
傍観者は当事者を羨んではいけない。
当事者が完全な安全を得ることはないからだ。
<社会活動=人間関係を振り返って>
2010 5/26
はしり書き