斉藤勇編・津々井良 『ご機嫌の直し方』 青春出版社 1998

今年一番売れた歌はぶっちぎりで『世界にひとつだけの花』だけど、
僕のまわりでは「オンリーワンにならなくてもいい、もともと一人のロンリーワン
という歌が大流行していた、らぶナベです。

さて、『ご機嫌の直し方』斉藤勇編・津々井良絵(青春出版社)1998年初版。
まろじぇくとXに来た人からもらった本。
様々な人から募集した109個の機嫌の直し方が紹介されている。
中には「ルール違反をする(No.20)」、「皿をたたきわる(No.24)」などの大それたものもあったけど、
僕は箱庭好きのぷちぷちくんなので「自分のやりたいことを10個書き出す(No.46)」、
「いつもの2倍の入浴剤を入れる(No.92)」あたりが手頃だと感じた。

あとがきに「不機嫌は楽な精神状態だから慢性化しやすい」と書かれてあったのには納得。

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2003 12/27
ムック本
まろまろヒット率2

河合隼雄・中村雄二郎 『トポスの知―箱庭療法の世界』 TBSブリタニカ 1993(新装)

奇しくもまろプチフラッグが端っこに撮影されていた、らぶナベです。

さて、『トポスの知~箱庭療法の世界~』河合隼雄・中村雄二郎著、
明石箱庭療法研究会協力(TBSブリタニカ)1993年新装初版。
『箱庭療法入門』に続いて読んだ箱庭療法関係本。
心理学者と哲学者の二人が箱庭療法の事例を通して、
場(トポス)の哲学的なパフォーマンスや科学論を議論している。

「自分で作ることが自分を治癒する」とか「言語化を急ぐと失敗する」という
箱庭療法の特徴は確かに魅力的な話題のネタなんだろう。
言語化を急ぐと失敗するというのは何かを作ろうとするときには共通したことだし、
自分で作って自分で癒すというのはHPを作る僕にとっても興味深かった。
まさに「自作自癒」(新まろまろ用語候補)。

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○患者は自分自身による自己実現の力に頼ることによってみずから治ってゆくもの
(中略)患者の無意識内に存在する自己治癒の力に対して
畏敬の心を持つことが箱庭療法をはじめる出発点(河合)
<箱庭療法と< 私>>

☆イメージこそは、無意識から意識へのコミュニケーションのメディア
→イメージは常に多義性をもち、多くのことを集約的に表現している(河合)
<箱庭療法と<私>>

○ふつう視覚的なものは、触覚性を失って独走することが多いわけですけれど、
その二つが箱庭療法では非常にうまく結びついているために日本では成功した(中村)
<<自由に創ること>の楽しさ>

☆箱庭療法が成功した要因は、箱の大きさがちょうど一つの視野にパッと入ること
→一つのインテグレーションというのを考えて置くようにできている
(中略)置いて表現できて、だれか他人がわかるということは、
人間にとって結局はものすごいこと→わかるだけで何も言わなくたっていいんです(河合)
<豊かなイメージの世界>

☆まったくの自由というのは近代の一つの迷妄であって、
ある形が与えられている、基本的なものがあることによって、
かえって自由になれるんです(中村)
<豊かなイメージの世界>

☆早く言語化してしまうと流れが止まって大失敗する倍が多い(中略)
箱庭はわからないものに身を任してもいいような場を治療者が提供している
→治療者は水路付ける(canalization)役割をしている(河合)
<<癒やす>意味とその動き>

○箱庭のいいところは三次元だということ、それから砂があるということ(河合)
<隣接する領域とのかかわり>

☆箱庭はイメージ表現がはっきりした枠の中で一つの世界を形作っているのが大きな特徴
→箱庭療法の世界は盆栽的な箱庭よりもむしろ都市論の問題の方につながる(中略)
みんな自分の世界、自分の都市を置いているわけだから
単純にこれは何を象徴しているとか言うんじゃなくて、
その人の世界がそこにあるというふうに見ていけばそう簡単な置き換えはできない(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

☆トポスでは、空間と時間が一体化している
→均質的な空間ではなくて独特の雰囲気のある歴史的空間=ゲニウス・ロキ(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○いつのまにか我々の社会の中ででき上がり物質化されているような
あれこれのイメージが用意されている
→箱庭はそれらを組み合わせで表現するというところに、
一見ありきたりなように見えながら、そういうことを通して
一番うまく自分たちの心の中の願望を引き出す仕掛けになっている(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○価値判断を括弧にいれて、見えるかぎりのことを記述する
→そこに表れているいろいろな意味をおのずと浮かび上がらせるようにする(略)
箱庭療法はそのような現象学の方法と非常に近い(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○個別性を組み込むとは、個の人間、時間、場所の要素が加わることによって、
選択可能ないくつもの意味のなかからどれかが選ばれること(中村)
<近代科学と新しい< 知>のあり方>

○コスモロジーとシンボリズムとパフォーマンスという三つの要素は、
別々ものもではなくて互いに結びついて「臨床の知」の原理をなしている(中村)
→シンボリズムで成り立っている世界は否応なしにリゾーム的
(シンボルの多義性=シンボル相互の結びつきに多様な可能性があること)
<近代科学と新しい<知>のあり方>

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2003 12/5
心理学、臨床心理、箱庭療法、哲学、対談
まろまろヒット率4

田中克彦 『ことばと国家』 岩波書店 1981

TBS系列の『新すぃ日本語』にまろまろと通じるものを感じる、らぶナベです。

さて、『ことばと国家』田中克彦著(岩波新書)1981初版。
佐倉助教授に薦められた言語学の本。
方言と別の言語との間の線引きは何をもってするのか、
純粋言語と雑種言語との違いは何なのかなどの疑問から、
ことばにまつわる社会性や歴史的背景を紹介している。
特にことばが政治的、歴史的に形成されてゆくことを紐解きながら、
(口語は文語が崩れたものだと思いがちだが実は口語の方が言葉の本質など)
ことばをめぐる常識の中に隠された様々な偏見を指摘している。

僕自身、日本語空間の中では大阪弁を話していることや
WEB空間の中では日本語でメディア活動をしていることもあって、
自分が使っている言語のマイノリティ性を感じることが多いので
(日本語自体が世界的に見て60分の1の市場規模)
この本の内容はけっこう考えさせられた。
ラジオ、テレビの普及で方言が消えていっているように、
WEBの進展で日本語はより少数派になっていくんだろうか?

以下はチェックした箇所・・・

○言語学というのは、本来実用性を動機としていることばの研究に、
それを無視してアプローチするという矛盾した姿をさらけ出している
<一 「一つのことば」とは何か>

☆あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、
その下位単位をなす方言であるのかという議論は、
そのことばの話し手の置かれた政治状況と展望とによって決定されるのであって、
決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって
一義的に決められるわけではない
<一 「一つのことば」とは何か>

○ことばがくずれていくのは、それが生きている証拠である(略)
死んだことばは決してくずれず、乱れることがない
<二 母語の発見>

○文法はその本性において、ことばの外に立ってことばを支配する道具である(略)
ことばは現実であるのに対して文法は観念であり規範である
<三 俗語が文法を所有する>

☆学説をおぼえておいて、おうむ返しにくり返すことは、
それは科学とは何の関係もない、神秘の教義にしてしまう
→こういう場合はなるべく素朴に、しろうとっぽく具体的に考えてみたほうがよい
<七 純粋言語と雑種言語>

○ことばは、だれもが誤りをおそれず、権威におびえず、自由に使うからこそ、
さまざまな表現がうまれて発展していくのである
<八 国家をこえるイディシュ語>

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2003 11/19
言語学、歴史
まろまろヒット率3

加藤鷹 『究極奥義』 KKロングセラーズ 2001

トップページにある「乞うご期待」を箱庭マスターの気まぐれコンテンツとして
期間限定&予告なしのコンテンツ公開場所にしようと思う、らぶナベです。

さて、『究極奥義』加藤鷹著(KKロングセラーズ)2001年初版。
我が家(まろまろハウス)に泊まりに来た知り合いがおいていった本。
男の間ではカリスマ的な人気を誇る著者による夜の指南書。
ナニゲに眺めていたら最後まで通読しちゃったので読書メモに記録。

「ピッチャーではなくキャッチャーになれ」などの記述にはちょっと笑ってしまった。

読み終えて、こういう本が売れるのは現代的な特性かなとも思ったけど
よく考えたら昔もこういう本はあったのでそうでもないかも。
思わず笑ってしまいそうになるけどけっこう深いテーマだすな。

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2003 11/18
ムック本
まろまろヒット率2

リチャード・ドーキンス、日高敏隆監修 『ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?』 早川書房 上下巻 1993

愛機ThinkPadのHDがおじゃんになっちゃったけどWEBにあげていたのでデータは助かった、
らぶナベ@この本でも生命でも大切なのはハードではなく情報だと言ってました(^^)

さて、『ブラインド・ウォッチメイカー~自然淘汰は偶然か?~』上下巻
リチャード・ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳、日高敏隆監修(早川書房)1993年初版。
ダーウィン主義に対する「生命のような複雑なものは自然淘汰ではできない」とか、
「われわれには創造者がいるのだ」などの批判に一つ一つ反論している本。
この本のタイトル自体からして、かつて生命の複雑さに驚いて
「この世界を作った時計職人がいるに違いない」と考えた昔の神学者に対しての
「時計職人なんていないし、いたとしてもそれは盲目の時計職人」だ
という反論になっている挑戦的な一冊。

本文も「起源を超自然のデザイナーに頼って説明することは、
そのデザイナーの起源を説明しないままにしているのだから、
何も説明していないことになる」(6章)などの記述が満載。

『利己的な遺伝子』のときもそうだったけど、この著者の本は緻密な積み上げと
思い切りの良い大胆さが両立しているからおもしろい。
だからドーキンスは胡散臭いんだ(^^)

ちなみに盲目の(blind)という言葉はあまり適切ではない言葉になってきているので、
この本のタイトルも今後は変わっていくのかな?

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○われわれの存在がそのものが、ぞくぞくするような謎なのだ
→しかも同時にこの謎はすでに明快に解き明かされている
<まえがき>

○われわれの脳は、ほどのどの速度で三次元空間を動く、
ほどよい大きさの物体の世界を把握するためにデザインされている
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

☆時計職人は先の見通しをもっているが自然淘汰は盲目の、意識を持たない
自動的過程であり、何の目的も持っていない
→もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、
それは盲目の時計職人なのだ
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

○複雑=あらかじめ特定でき、でたらめな偶然だけではとうてい獲得されそうにない
何らかの性質をもつこと
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

○物理学の課題=究極の起源と究極の自然法則の問題を解くこと、
生物学の課題=複雑さの問題を解くこと
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

○進化的変化が起こるのに使える時間が途方もなく長いので、
われわれはそれを直感的に把握できない
<2章 すばらしいデザイン>

○現実には淘汰で残る基準は常に短期的に、単純に生き残るか、
あるいはもっと一般的に繁殖に成功するかである
<3章 小さな変化を累積する>

○遺伝子は実際には二つのことをしている
=発生に影響を及ぼすこと、将来に世代に伝えられること
<3章 小さな変化を累積する>

☆自然淘汰は遺伝子を直接に選びはしない
→遺伝子が体に及ぼす効果(表現型効果)を選ぶ
<3章 小さな変化を累積する>

○数学について大切なことは恐怖心を抱かないようにすること
→「こんなやつにもできるんだから誰だってできる」を思い出すこと
<3章 小さな変化を累積する>

○数学者でない人間にとってコンピューターは想像力の心強い友だち
<3章 小さな変化を累積する>

○サスライアリのコロニーは20kgを越える重さをもち、
2000万にも及ぶ口と針を持つ一匹の動物
→哺乳類とはかけ離れた進化物語の頂点
<4章 動物空間を駆け抜ける>

☆兵アリたちは女王アリのために私を覚悟するが、それは母親を愛しているからでも
愛国主義の理想を叩き込まれているからでもなく、
その身体が女王自身の携えている鋳型の原版から打ち抜かれた
遺伝子によってつくられているからにすぎない
<4章 動物空間を駆け抜ける>

☆生きるもののすべての中核に存在するのは、炎でも、熱い息吹でも、生気でもない
→それは情報であり、ことばであり、指令である
<5章 力と公文書>

☆遺伝子の情報技術はデジタルである
<5章 力と公文書>

○種を定義するのはその全構成個体がDNAに関して同じ番地システムをもっていること
→ある生物種の個体間で異なりうるものは、それらの座の内容である
<5章 力と公文書>

☆種の公文書中に自らを垂直的に伝達させる成功率に関して、
ライバルのDNA間に差があることこそがまさに自然淘汰
<5章 力と公文書>

○自然淘汰にできるのは新たな変異のうちのあるものを受け入れ他を拒絶することだけ
<5章 力と公文書>

☆物理的な実態としてのDNA分子そのものは霧に似ていて、
適当な条件下では大変な速さで生成されるが、
長く存在するものはなく数ヶ月以内にすべて壊れてしまう
→しかし分子がその配列によってつくりだすパターンは最も固い岩と同じくらい長持ちする
<5章 力と公文書>

☆すべてはまったく単純で、楽しくなるほど自動的で、意図的ではない
→累積淘汰の基本的要素ー複製、誤り、そして力ーがまず最初に現れたなら、
似たようなことが起こるのはほとんど必然
<5章 力と公文書>

☆ミーム進化は文化的進化と呼ばれる現象に現れている
→文化的進化はDNAにもとづく進化より桁違いに速く進むので
のっとりではないかと思わせるほどである
<6章 起源と奇跡>

○進化はわれわれの脳に1世紀以下の寿命をもった生物にふさわしい、
危険率や実現可能性についての主観的な意識を備えさせた
<6章 起源と奇跡>

○遺伝子が淘汰されるのは遺伝子の内的性質ゆえではなく環境との相互作用による
→ある遺伝子の環境としてとりわけ重要な構成要素は他の遺伝子である
<7章 建設的な進化>

○科学におけるもっとも偉大な進歩のいくつかがもたらされたのは、
頭の言い誰かがすでに理解されている問題といまだに謎の解かれていない
別の問題とのあいだにアナロジーが成立することを見抜いたおかげでもある
<8章 爆発と螺旋>

○ちょっぴり少数派がさらに少数派になり、ちょっぴり多数派がさらに多数派になるとき、
われわれはいつでも正のフィードバックを生み出す秘訣を握っている
→不安定なバランスがあれば必ず任意でランダムな始まりは自己強化されるようになる
<8章 爆発と螺旋>

☆生物のもつ特性=適応的複雑さ
=途方もない規模での統計的な不可能性(適切に了解されたランダムでない生存)
→ゆっくりした斬新的な累積淘汰こそが生命のもつ複雑なデザインの存在を説明する
<11章 ライバルたちの末路>

☆遺伝子は設計図よりも料理法にはるかに似ている
<11章 ライバルたちの末路>

○偶然を飼いならす
=とうてい不可能なものを順序よく配列された
それほど不可能でない小さな構成要素に分解すること
<11章 ライバルたちの末路>

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2003 11/11
進化論、自然科学
まろまろヒット率3

追記:案の定『盲目の時計職人』に改訳されてました(2005.8.1)。

船津衛 『コミュニケーション・入門―心の中からインターネットまで』 有斐閣 1996

最近になって公開している遺書がいろいろなところで取り上げられるようになった、
らぶナベ@この本風に言えば生死間コミュニケーション?(^^;

さて、『コミュニケーション・入門~心の中からインターネットまで~』
船津衛著(有斐閣アルマ)1996年初版。

コミュニケーション論についての議論を網羅的に紹介している一冊。
何となく感じてるコミュニケーション論への違和感を具体化させるために、
メルマガでこの分野の本を募集したときに紹介された本でもある。

読んでみると「うわさ」についての記述に一番の興味を持った。
曖昧な状況の中で状況を把握するために必要なものとしてうわさは発生する。
だから人々がうわさに基づいて行動するのはそのうわさを信じているからではなく、
それが必要だからだし、情報が多すぎても発生するというのは納得(第7章)。

でもやっぱり通して読んでみると全体的に何だか薄いような気がする。
これはメディア論などの本を読むときに感じる違和感にも似ている。
双方向とか強調しながら実は受信者中心で発信者への視点が弱いからだろうか?

ちなみに副題にインターネットが入っているけど、
初版が1996年ということもあって記述がすごく少ない。
(日本におけるインターネット元年が1995年)
やはりこの領域はすごいスピードで変化しているんだなぁ
っとあらためて感じたりもした。

以下はチェックした箇所(一部要約&関心が高い順)・・・

☆「うわさ」
=曖昧な状況に共に巻き込まれた人々が自分たちの知識を寄せ集めることによって
その状況についての有意味な解釈を行おうとするコミュニケーション(ジブタニ, 1985)
→うわさは単なる伝達ではなく人々が状況を規定する過程
→人々がうわさに基づいて行為するのはそれを信用しているからではなく、
それを必要としているから
<第7章 集団行動・社会運動のコミュニケーション>

☆うわさは変化していく状況に適応するために情報が必要であるにも関わらず、
制度的チャンネルが破壊されている場合に生み出される(ジブタニ, 1985)
→情報が多すぎる場合にも発生する
→新しい環境に対処する際に人々がよりいっそう適切な方法を
発達させていく過程に不可欠な要素
<第7章 集団行動・社会運動のコミュニケーション>

☆自己に対する他者の認識と評価についての想像、
それと関連する自己の感情から自我が成り立っている(クーリー, 1921)
→notワレ思うゆえにワレありbutワレワレ思うゆえにワレあり
<第2章 自我とコミュニケーション>

☆「自我は本質的に社会的」
=社会は自我に常に先行して存在し、自我は社会から生まれ、
そこにおける社会的経験と社会的活動の過程において生み出される(クーリー, 1921)
→役割取得(role-taking)を通じて具体的に形作られる
<第2章 自我とコミュニケーション>

☆マスコミは人々の「評価」や「影響」の点ではパーソナルなものにはかなわないが、
「認知」や「情報の流れ」の点では強い力を持っている(ドイッチマン&ダニエルソン)
<第8章 マス・コミュニケーション>

☆「コミュニケーション」
=2人以上の人間が意味を伝達し、その意味の伝達を通じて
互いに共通な意味を有するようになる過程
<第8章 マス・コミュニケーション>

☆「ネットワーク」
=固有の意思と主体性のあるユニットがそれぞれの自由意思で自発的に参加したまとまり
(金子, 1988)
<第5章 集団・組織のコミュニケーション>

○「自己表現」
=自分の気持ち、意志、意見、態度、思考、地位、身分などを他者に向かって表現すること
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○「意味の意識」
=他者の反応と自己の反応、さらにその間の関係を意識していること(ミード, 1973)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「意味のあるシンボル(significant symbol)」
=他者のうちに一定の反応を引き起こすと同時に、
それと同一の反応を自己のうちに引き起こすもの(ミード, 1973)
→これによって人々の共通の意味の世界(universe of discourse)が生まれる
→これは人間特有のもの
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「創発的内省性(emergent reflexivity)」
=他者の態度を通じて自己の内面を省みて、
過去と未来を関連づけながら新たな世界を創造すること(ミード, 1973)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「自分自身との相互作用(self interaction)」
=人間は自我をもつ存在として物事や他者を対象化するのと同じく
自分自身を対象化して自分自身に向かって行為できるようになること
→人間は自分自身とコミュニケーションできる(ブルーマー, 1991)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○社会規範、価値、理想に同調するときに真の自我を感じる「制度的自我」
               VS
そうしたものから解放されたときに真の自我を感じる「インパルシブな自我」
(その中にはさらにインパルス解放型とインティメート型がある)
<第2章 自我とコミュニケーション>

○「鏡に映った自我(looking-glass self)」
=人間の自我は他者を鏡として、鏡としての他者を通じて知ることができること
(クーリー, 1921)
<第2章 自我とコミュニケーション>

○役割コンフリクト=役割内(intra-role)コンフリクト&役割間(inter-role)コンフリクト
<第2章 自我とコミュニケーション>

○「役割距離」
=決められた役割期待とはズレる行為を行って、目的を達成してしまうこと
→他者の期待から相対的に自由で自律性があることを示す(ゴフマン, 1985)
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○「役割形成」
=既存の役割規定の枠を越えて新たな人間行為を展開すること(ターナー)
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○コミュニケーションの私化は結局は非私化をもたらし再社会化に進む
<第4章 電話コミュニケーション>

○「コミュニケーション合理的なもの」
=共通の状況規定のもとで相互の了解と合意が形づくられ、行為の調整がなされるもの
(ハーバーマス, 1986)
<第5章 集団・組織のコミュニケーション>

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2003 11/10
コミュニケーション論、社会学、社会心理学、心理学、教育学
まろまろヒット率3

河合隼雄 『箱庭療法入門』 誠信書房 2000

LOVENABE@a Sand-Player on the AGORA.

さて、『箱庭療法入門』河合隼雄編(誠信書房)2002年第31版。

HP活動と箱庭療法が似てるような気がしたので(まろまろコラム)読んでみた、
30年以上(初版1969年)使われ続けている箱庭療法の定番テキスト。
理論篇と事例篇(9例)から構成されている。

箱庭療法を「思考、感情、感覚、観念、記憶が不可解なほどにからみ合っている」
人の治療として「視覚だけでなく触覚のような感覚の要素」をもって、
「通常の治療に必要とされる解釈や転移なしに治療できる方法」として紹介している。
(第1章:技法とその発展過程)
特に子供に有効であるということを述べているが、
思考、感情、感覚、観念、記憶が複雑にからみ合っているのは
認知科学的に言っても子供に限ったことではないし、
現に事例でも32歳の成人男性(精神分裂症)への箱庭療法による治療を紹介している。

120点も収められている事例の箱庭をぱっと見ただけで伝わってくるものがあって、
確かに言葉では表現できない心情が表現されているというのが視覚的にも納得できる。
事例篇では治療が進んでいくにつれ箱庭の感じが徐々に変わっていくのが垣間見れて、
事例の最後で治療が完了した報告を読むのと同時に
最後の箱庭を見るとうるうる来そうになってしまったこともあった。

また、箱庭を作っている時には「それを見ている治療者の存在が大切」
(第3章:箱庭表現の諸相)という点や、
最初は雑然としていたものが回を追うごとにつれてだんだんとテーマ性や
その人なりの個性がはっきりしてくるところは(事例篇)、
HP(WEBサイト)にもすごく似ているように思えた。

以下は、その他でチェックした箇所(一部要約&重要と思われるもの順)・・・

☆治療的な面から見れば箱庭療法は遊戯療法と絵画療法の中間にある
→被治療者自身が創造の過程に自ら参加し、
結果の意味を直感的にしろ潜在的にしろ把握する度合いは他の投影法の場合より大
<第2章 理論的背景>

☆箱庭の空間配置について・・・
・左側はその人の内的世界・無意識世界、右側は外的世界・意識世界を示すことが多い
・すべてが一定方向に向いているときには、左向きは退行(regression)を、
 右向きは進行(progression)を示すことが多い
(ただしこれらは例外もあるので絶対ではない)
<第3章 箱庭表現の諸相>

☆箱庭の主題になりやすいテーマ・・・
(意識を無意識を含めた)全体性の象徴、全体性の中心としての自己(Self)、
二つの世界の統合、二つの世界の領域の反転、死と再生、領域の拡大、
渡河や出立(人格発展に立ち向かう姿勢を示す)、
行列や川の流れ・動物の行進(エネルギーの流れを表す)、
給油(エネルギーの供給を表すのでガソリンスタンドの模型は大切)、
勢力が均衡している戦闘場面(単なる攻撃性ではなく新しい発展を示す)、
蛇は劇的な変容を象徴する場合が多い、
(ただしこれらは例外もあるので絶対ではない)
<第3章 箱庭表現の諸相>

○まず大切なことは、作品をできるだけシリーズとして見ること
→箱庭の作品を見たとき、それに対して全体として受ける感じ、
印象のようなものを大切にしなければならない
<第3章 箱庭表現の諸相>

○(箱庭療法の有効性について)人間に自由を与えてその内的なものを深く掘り下げた
表現をさせる場合、何らかの制限を必要とする→自由と同時に適切な制限が必要
<第2章 理論的背景>

○箱庭は治療者と被治療者との人間関係を母胎として生み出された一つの表現
=心像(image)=意識と無意識・内界と外界の交錯するところに生じたものを、
視覚的な像として捉えたもの
→心像は具象性、直接性、集約性といった特徴をもっている
<第2章 理論的背景>

○(箱庭療法は)患者が言語を手段とすることなく
保護された場面における象徴体験によって治療が進んでいく(略)
象徴の意味する点を何ら解釈して患者に伝えなくても治療がなされることもある
<第2章 理論的背景>

○統合性=分離、粗雑、貧困、機械的、固定的な要素の少ないこと

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2003 11/4
心理学、臨床心理、箱庭療法
まろまろヒット率4

ヴァルター・ベンヤミン、高木久雄・高原宏平訳、佐々木基一編 『複製技術時代の芸術』 晶文社『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2』より 1996(原著1935)

ASEANと日本の交流関係のお仕事を終えた、らぶナベ@詳細は出来事メモにて。

さて、『複製技術時代の芸術~ベンヤミン著作集2~』
ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編
(晶文社)1996年第26版(原著1935年初版)。

『視覚的人間』の中で雰囲気について語っているのに興味を感じたら、
副指導の武邑助教授が「アウラも押さえなよ」と貸してくれた本。
けっこういろんなところで引用されているのを見かけるので、
一度は読んでみようと思っていたのでちょうどよかった(^^)

内容は複製技術が普及する時代(1930年代)に生きた著者が、
複製技術によって芸術が持っていた一回性の「アウラ」
(いわゆるオーラ)が消えるんだと主張している。

この本から70年近くたったいま、すべてがデジタル化されて
WEBで結ばれようとしている時代を生きる僕にとっては
複製技術の時代にこそアウラが生まれるような気がした。
一回性ではなく数回性こそのアウラ・・・そんなことを感じたナベンヤミンです。

以下は、チェックした箇所・・・

☆アウラ=どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象<3>

○どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」、「ここに」しかない
という芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている
→「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかない
という性格によってつくられる<2>

○複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである<2>

○芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから
ぬけきれないということである<4>

○(複製技術時代の)芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわりに、
(略)政治におくことになるのである<4>

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2003 11/2
美学・文化論、メディア論、思想
まろまろヒット率4

平勢隆郎 『よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔』 中央公論新社 2001

気が付けば15万アクセスありがとう!な、らぶナベだす。

さて、『よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔』
平勢隆郎著(中公新書)2001年初版。
殷周時代の年代の誤解について資料を丹念に読み解きながら解明している歴史書。
天文学と数学を使って検証しているのも特徴的。
ちょうど今年の年初にこの時代を舞台にした『太公望』を読んだところだったので
興味はあったけど、一般向けというよりも
専門家に向けたコメントも多くて新書にしては窓口が狭いかも。
本文よりも余説の方が面白く感じてしまった。

ちなみに僕は著書の講義「中国古代の数と秩序」を取っている。
内容が面白い上に極端に人数が少ない(時に2人だけ)ので
ほぼオーダーメイドで講義をしてもらっている。
前期の「共依存的生滅の論理の探求」に匹敵するくらい濃密度の講義。
そんな静かでマイナーな熱さが感じられるこの講義がナニゲに好きだ。

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2003 11/1
歴史学、中国史
まろまろヒット率2

佐藤郁哉 『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』 新曜社 1992

マリノフスキーっておちゃめさんと思っている、らぶナベだす。

さて、『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』佐藤郁哉著(新曜社)1992年初版。
対象との間合い(距離感)について考えていたら佐倉助教授から「名著だよ」と紹介された本。
著者は暴走族(『暴走族のエスノグラフィ』)や現代演劇(『現代演劇のフィールドワーク』)
へのフィールドワーク研究をしたことで有名な人。

内容は文字通りフィールドワークの概要や考え方について紹介している。
だからといってフィールドワーク至上主義というわけではなく、
サーベイとの対比をしながらそれぞれの一長一短を分析して
それぞれを補い合うよう提言している。
対象との距離感や社会調査法についてのことだけでなく、
仮説や概念のとらえ方についても議論しているので
こうしたことを全般的に通して考えるきっかけになる。

読み終わってからインターンシップで企業現場に飛び込んだり、
産学協同事業に携わったときにこの本を読んでいればとちょっと思ってしまった。
まぁまだ生きてるんだし、次は使えるさ。(自作自演な慰め)

ちなみにこの本の「書を持って街へ出よう」という副題は気に入った。
僕の場合なら「箱庭を持って広場へ出よう」という感じだろうか(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○文化=知識・信仰・法律・風習、その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、
あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体(エドワード・タイラー)
<カルチャー・ショック>

○フィールドワーク=文化的な子供時代の再現
→ただし子供のように白紙の状態からとは違い、
 既に身につけている自分の社会の文化を前提として
 調査地の文化を学んでいくのがフィールドワーカー
<カルチャー・ショック>

○「居心地の悪さ」を感じることこそ「文化」を知るための最良の方法
→フィールドワーカーは「プロの異人」
<カルチャー・ショック>

○エスノグラフィー=
 人類学者が異文化における日常生活を身近に観察し、記録し、
 それにみずから参加し、細部を丹念に記述しながら
 その文化についての話を書き上げる調査のプロセス(Marcus&Fischer, 1986)
→文学と科学の二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、
 また、そうした文章を作るための調査法でもある
<民族誌>

☆フィールドワークとサーベイ
・フィールドワーク→定性的(質的)調査=
 限られた範囲の対象について多様な事柄を調べられる
・サーベイ→定量的(量的)調査=
 広範囲の対象に限定された事柄を調べられる
→一般的にフィールドワーカーvsナンバークランチャーの対立と言われるものは
 この二つのアプローチの違いが原因
<アンケート・サーベイ>

☆サーベイとフィールドワークは対立する二つの方法ではなくて、
本来補い合うべきアプローチ(それぞれの違いは質的ではなく程度の問題)
<事例研究>
→派閥争いではなくトライアンギュレーション(マルチメソッド)でおこなうべき
<トライアンギュレーション>
→複数のモデルを使うのは目的地にたどり着くために何枚かの地図を使うプロセスと同じ
<モノグラフ>

☆信頼性と妥当性の区別が必要=その調査方法が信頼性があっても
 その事柄への妥当性があるとはいえない
<信頼性と妥当性>

○統計データの多くは過去におこなわれたサーベイという
 干渉的な調査結果であることを忘れてはいけない(Maier, 1991)
<トライアンギュレーション>

☆理論の検証(verification)=グランドセオリー(総合理論)と、
理論の発見(discovery)、理論の生成(generation)=グラウンディッド・セオリー
(データ密着型理論)を併用して、理論の生成と理論の検証の双方をめざすべき
<理論の検証と理論の生成>

☆恥知らずに折衷主義=
 その社会に含まれる矛盾や非一貫性をすぐ単純化や抽象化するのではなく、
 (抽象度が高いものはほとんど何でもいえてしまう危険がある)
 ひとつの方法だけではとらえられない事柄は別の方法を使うという姿勢
 (Suttles, 1976)
<恥知らずの折衷主義>

○操作主義(操作的定義の概念)=
操作の手続きで概念を定義することによって、客観化を目指すこと
 →限定概念(definitive concept)と批判される
これに対して感受概念(sensitizing concept)=
研究のはじめに大まかな方向性(問題を検証する手がかりとなる感受の方向)を示す概念
 →調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟性あり
<概念>

○仮説=すでにある程度わかっていることを土台にして、
 まだよく分かっていないことについて実際に調べて明らかにするための見通し
<仮説>

○外国語の翻訳と同じように、ある行為の意味を明らかにするためには、
 その行為が埋め込まれている社会生活の全体の文脈をあきらかにする必要がある
<分厚い記述>

○参与観察(participant observation)=
1:社会生活への参加、2:対象社会の生活の直接観察、
3:社会生活に関する聞き取り、4:文書資料や文物の収集と分析、
5:出来事や物事に関する感想や意味づけのついてのインタビュー
<参与観察>

○インフォーマントとは「客観性を失わないラポール」
(rapport combined with objectivity)が重要
 →ここにフィールドワーカーだけが明らかにできるものがある
<インフォーマント>

○遂行面での知と批評的理解の知とは同じ性質の能力や知識ではない(Ryle, 1949)
<第三の視点>

☆時期尚早のコーディングの誘惑=
 枠組みがあまり早い時期に固まるとその枠組みからはみ出した事柄は
 観測や資料収集できなくなるおそれがあること

・それを防ぐ方法=
1:一般理論や他のフィールドワーカーが書いた民族誌の内容とつきあわせて、
 調査の枠組みの位置づけを検討、確認する作業を怠らないこと
 (理論的な前提に関して視野を狭めないようにする)
2:調査項目に関する網羅的なチェック・リストを作る
 (調べる事柄にバラツキがないかを常にチェックする)
3:網羅的なフィールドノーツをつける
 (ある段階で出来た枠組みにとって都合の悪いデータも記録するように自分にしむける)
4:データの分類だけでなく配列を考える
 (一般的な基準で配列すれば都合の都合の善し悪しに関わらず一緒にリストアップ)
→現場が新しい発想を発見することができる宝庫だとしたら、
分類と配列はその宝庫の扉を開いて価値を何倍にも拡大するカギ
<分類と配列>

☆フィールドワーカーを調査の対象となる社会や文化を計る計測器にたとえれば、
日誌はその機械自体のコンディションをチェックするモニタリング装置
 →日記は自分の置かれた環境の状態を測るだけでなく、
 自分自身のフィールド体験による変容をとらえることができる装置
<フィールド日記・フィールド日誌>

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2003 10/31
学問一般、フィールドワーク、社会調査法、社会学、人類学
まろまろヒット率4