ベラ・バラージュ、佐々木基一・高村宏訳 『視覚的人間-映画のドラマツルギー』 創樹社 1975(原著1924)

らぶナベ@広場の箱庭師です。

さて、『視覚的人間-映画のドラマツルギー』ベラ・バラージュ著、
佐々木基一&高村宏訳(創樹社)1975年初版(原本1924年初版)。

副指導教官の武邑光裕助教授から借りた本の第三段。
映画がまだ低俗なものとして扱われていた1920年代(白黒&無声映画の時代)に、
映画を芸術として位置づけようと試みた美学書の古典。
新しいものが芸術としてどう位置づけられて来たのか、
その過程を知るという点でも意味のある本。

この本で一番興味を持ったのは何と言っても「雰囲気」について述べているところだ。
「雰囲気は個々の形象の中に圧縮されている霧のような原素材である。
それはさまざまな形態の共通の基体でありすべての芸術の最終的なリアリティである。
この雰囲気がひとたび存在すると、個々の形態が十全でなくとも
それが本質的なものを損なうものとはならない。
この特別なものの雰囲気が< どこからくるか>を問うことは、
すべての芸術の源泉を問うことである」、
「雰囲気はたしかにすべての芸術の魂である。それは空気であり香気である」
(「映画のドラマツルギーのためのスケッチ」より)
・・・まさにビビっと来た。

作品と呼ばれるものは「その雰囲気」を感じさせれば作品として成功なんだし、
作品と呼ばれないものでも独自の雰囲気を醸し出せるものは芸術なんだ。
この本の論旨はまだ美学がその射程にとらえていない
WEB活動や同人活動にも応用可能だと読みながら感じた。

また、この本の紙質、大きさ、分量、文字の配置どれもすごくフィット感があった。
そういう意味も含めてまろまろヒット率5です(^_-)

以下は、その他にチェックした箇所・・・

○理論は芸術発展の舵ではないが、すくなくともコンパスである
 <序言ー三つの口上>

○文化とは日常的な生活素材の完全な精神化を意味する
 <視覚的人間>

○唯一無二であるということがそれぞれの現象の本質であり、
それぞれに存在理由を与えるものである
→それは他のものとの差異によって最も明白になる
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○すべての芸術の存在資格は、代替不可能な表現の可能性を持つものであるという点
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○(覗き見について)我々が何かを見るときには、我々自身がその場にいるのが自然(略)
誰もその場にいないときの事物の様子を見ることは、人間のもっとも深奥の形而上学的憧憬
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○芸術とは本来、削りとることなのだ
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

☆(ウィットについて)それは概念の遊戯であって、
さまざまな概念相互のあいだの隠された思いもかけない関係を解き明かすことである
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

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2003 10/12
メディア論、映画論、美学・文化論
まろまろヒット率5

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