まろまろフラッグ

  まろじぇくとXから生まれたまろまろ印ののぼり旗のこと。

  せっかく作ったこともあって企画後もときどき持ち歩いているので

  出来事メモ読書日記にもよく出てくるキーワードである。

  持ち歩いた日は検索エンジンで「まろまろ」と検索して来る訪問者が急増することから、

  言葉やブランドがどういう風に普及&定着していくのか、  
  
  その過程を知るきっかけになるのではないかと注目されている。
  
  たまに学校にも持って行ってそのまま授業にも出たりすることもあるが、

  怪訝に思われても「メディア論の実験です」っというと許してくれるという、

  実に理解ある先生の多い学校でホッとしている。

  室内利用も簡単にできる卓上旗ヴァージョン(まろプチフラッグ)も完成したので、
  
  まろまろできたり読書ができるお守りとして配布することもある。

  オンラインとオフラインとの水路付け(canalization)をする「パッチ表現」や、

  「コミュニケーショナル・アート」としての可能性も取り立たされている。

  カタカナなことはさておき、そんなこんなな、まろプチフラッグの写真はこちら

  各地に散らばったまろプチフラッグの様子やまろまろフラッグの目撃情報が寄せられる

  まろまろフラッグ放浪記もある。

  

  活用例:恥ずかしさという人間性さえ克服できれば人ごみの中での待ち合わせに便利

読書日記の日記~メモのメモ~

『メモのメモ』を読んだ人から「読書日記はどう考えてるの?」という質問が寄せられたので
今回はメモの中でも特に読書日記に焦点を当てたコラム。

最初に自分が読書日記を残すことになったきっかけから書くと、
メモを残さないと「もったいない」と感じたからだ。
(かなり不純な動機だす)

本を読んでいると、読書という行為=文字から音や映像を再現するというのは、
音楽を聴いたり映像を観るよりもエネルギーと時間が必要なんだなぁと感じることがある。
特に自分は集中力が散漫な方なので、一冊の本を読みきるまでに手間と隙がかかってしまう。

そうやって苦労して読んだ本なのに、読んだ次の週くらいからもう、
「あの台詞はどの本にあったっけ?」とか「この本は読み終えたんだっけ?」などと
本棚をひっくり返す経験を何度も繰り返していた。
さらに、本は物(ハードウェア)なので、無くしたり、人に貸したり、引越したり、
様々な理由から物理的に手元から消えてしまうことがある。

そんなときでもタイトルと著者と出版社、読み終えた日時(引用するなら出版年もあるとグゥ)、
そして読んだ時の心のひっかかりさえ残しておけば、
たとえ忘れたり、本を無くしたりしても、それほど右往左往しなくてもよくなる。
メモとしての読書日記を読み返せば内容は思い出すし、手元にない本でも引用できる。
特に人は頭の構造からして「記憶しよう」、「忘れないようにしよう」と思っても
すっかり忘れてしまう(いやん)ということがよく起こるので、
思い出すきっかけになるこの読書日記の効果は絶大なものだ。
読書日記を書き残す労力はたいへんだろうと思われることもあるけれど、
読書日記をつけると安心して忘れられるので、逆に読書に集中できるようになった。
(この「まろまろ読書日記」で一番得をしている読者は自分自身だったりする)

そして、読書日記を残すようになって気づいたことがある。
読書で一番大切なもの、それは物としての本ではなく
その本を読んで感じた自分の気持ちだということだ。
その本に書かれてある文字ではなく、その文字を通して感じた自分独自の気持ち、
それこそが本当の意味での「コンテンツ」だと思う。
本に書かれた文字は印刷物なのでたとえ手元から無くしたとしてもいくらでも手に入るけど、
読んだとき、そのときの自分の気持ちは一度無くすともう手に入らない。
もちろん意識の底に残ったり何らかのかたちで影響を残すものだけど、
まったくゼロから思い出した気持ちの記憶は、
それ自体がかなり変わっている可能性が高かったりする。

読書日記はその本を読み終えたときの自分の気持ちを再現できる。
時にはそれがすごく恥ずかしいことだけど(メモのメモ)、
自分の気持ちを再現できるのは自分で残したメモしかない。

そんなこんなで今日も読書日記出来事メモを書き残している。
名前は残ってないけど文字を作った人たちは偉大だ。

☆掲示板での話題はこちら

2003 7/3
まろまろコラム

お供え膳食わぬは男の恥

  「据え膳食わぬは男の恥」ということわざに出てくる「据え膳」とは、

  仏壇や神棚、お墓にお供えされている膳だと思っていたという、

  言葉や物事を勘違いして覚えることの多いらぶナベ勘違い集のひとつ。

  意味を考えたらすぐにその間違いに気づきそうなものだが、

  「そんな罰当たりなことにあえて挑戦するような猛々しさ」と、  
  
  「干からびて不味そうなお供え膳をあえて食べるようなストイックさ」が
  
  男として必要なんだという”べき論”的なことわざだと解釈して納得していた。

  お墓参りや法事のときに出てくるお供え物を見るたびに、

  「こんなものを食べないといけないなんて男になるって大変なんだなぁ」

  っと幼心に思っていたものである。

  この勝手な解釈の間違いに気づいたのはつい最近のことである。

  一度意味づけをしてしまうとなかなかその間違いに気づきにくいという一例である。

  類似例:「人生にあまり理由を求めすぎてはいけない」など

P.コブリー&L.ジャンス、吉田成行訳 『FOR BEGINNERS 記号論』 現代書館 2000

sigmarion3を買ったけどWindowsCEの使い方がいまいちわかってない、
らぶナベ@情報もっている方いたら教えてください_(._.)_

さて、『FOR BEGINNERS 記号論』P.コブリー著・L.ジャンス絵・吉田成行訳
(現代書館)2000年初版をば。
ウンベルト・エーコ(『薔薇の名前』)やレヴィ・ストロース(『悲しき熱帯』)など、
記号論に縁のある人たちの本はいくつか読んだことがあったけど、
だからといって記号論って一体どういうものかいまいちよくわかってなかった。
とりあえず概略を知りたいと思って入門書を探していたら、
同じプレハブ学校に通うtantotが貸してくれた本。
ナニゲに恐い絵で有名な現代書館の『FOR BEGINNERSシリーズ』の一冊でもある。

内容は記号論の議論を学派ごとに時系列的に追っているが、
いまいち何のこっちゃわからない議論もあった。
(“FOR BEGINNERS”じゃないじゃーん)
そういうときは論者の性格や人生などに注目してしまった。
自業自得とはいえパースはかわいそうな人生だとか、
シービオクは突っ走っていたんだなぁっとかとか・・・歴史好きの悪いところですな(^^;

以下はチェックした箇所・・・

○記号論=記号の分析や記号体系の機能作用に関する研究

☆ソシュールによる言語記号の定義
 =シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)が恣意的に結びついているもの

☆パースによる記号の定義
 =表象(Representamen)は対象(Object)との関係をもち、
  対象は解釈項(Interpretant)との関係を伴うという
  三つの関係から構成されているもの

○シャノンとウィーヴァーのモデルの強みは、
 複雑性の程度を情報過程に組み込んでいるという点

○ユーリイ・ロイトマンによる文化の定義
 =文化とは、人間社会の多様な集団によって獲得され、保持され、
  伝達される非遺伝的な情報の総体
→ロイトマンによる情報理論と文化記号論の合体はサイバースペースを予見

☆ウンベルト・エーコの開かれた作品論=
・「閉ざされたテクスト」=送り手は受け手に自分自身の決断を下す機会を提供するが、
 結局はそういう機会を閉ざしてしまう(推理小説の結末など)
・開かれたテクスト=送り手は受け手を導いて、受け手が自分自身の判断を下し、
 有利な地点から以前の動きを(再)評価することを認容する
→あるテクストを読む際に起こることは「具体化」の過程に他ならない

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2003 6/23
記号論
まろまろヒット率2

締めの「そば湯」

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知人に連れらてわかりにくい場所にある和風ダイニングへ。名物のそばは美味しかったけどほかの料理にウニを多用するのはいかがなものか?締めはやっぱりそば湯ですな。
渋谷の和風ダイニングにて。

マリリン・バーンズ&マーサ・ウェストン、左京久代訳 『考える練習をしよう』 晶文社 1985

『マトリックス・リローデッド』の影の主役はエージェント・スミスだと思う、
らぶナベ@痛いものコレクター的には彼のもの悲しさに注目です(^^)

さて、『考える練習をしよう』マリリン・バーンズ著、
マーサ・ウェストン絵、左京久代訳(晶文社)1985年初版。
悩んだときや問題にぶつかったときに、
凝り固まりがちな頭の中をほぐす練習をする目的で作られた絵本。
研究計画を考える際の頭の柔軟体操になるかと思って、
研究室で見つけて読んでみた一冊。

いきなりここで問題・・・
「1人の男の子が、歯医者に出かけた。その男の子はその歯医者の息子だったけれど、
その歯医者はその男の子の父親ではない。どういうことだ?」(*)
(ヒント→この問題は「頭が勝手に歩きだしたら」という項にあり)

推奨は「10歳以上のみんな」っと書かれているが、20代の僕が読んでも参考になる(^^)
「こどものためのライフ・スタイル」というシリーズの一冊らしい。
ちょっとこのシリーズに興味を持ってしまった。

以下はチェックした箇所・・・

○頭の体操でたいせつなことは、自分のあらゆる感覚を使うことなんだ(略)
 問題を解決できる人間になるには、使えるものは何でも利用しなくちゃ
<1 自己流でかんがえちゃだめだ>

○どうして問題をかかえこんじゃったのかな?
 (略)いろんなふうに問題はとびこんでくる(略)
 でも、問題があるぞってきみがはじめておもう瞬間はある。
 すでに問題をかかえちゃった以上、それがいつだったのか、
 はっきりわかっているはずだ
<2 問題にぶつかったらどうするか>

(*)歯医者さん=お母さんでした、先入観の問題ですな(^_-)

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2003 6/19
絵本、問題対処
まろまろヒット率3

『マトリックス・リローデッド』(映画)

駒場の授業に出た帰りに渋谷の東急文化村パンテオンに観に行く。
東急文化村で映画を観るのははじめてだったが、ここは今月いっぱいで閉鎖らしい。
内容はいくら三部作の真ん中でもあれはないだろう。
真剣なシーンでも外国人の子供の団体が爆笑するシーンまであった。
エージェント・スミスが主役になりつつあるなー(^^;

2003 6/16
もろもろ鑑賞、映画
まろまろヒット率3

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ネットコミュニティお勉強会

巷で話題の『関心空間』を運営する(株)ユニークアイディの前田邦宏社長が
報告をおこなって、ネットコミュニティについて議論するというお勉強会にお呼ばれする。

会場となったRIETIが入っている経済産業省別館に行ってみると、
電力問題で電灯をほとんど消していてまるで廃墟のようだった(^^;
しかし実際の会の方は、参加者もGLOCOM公文俊平所長東浩紀研究員
そして『2ちゃんねる』の西村博之氏と実に熱い顔ぶれだった。

「(関心空間は)パーティに参加したときのような意外な出会いや発見を一番大切にしたい
→あえて一覧性&概観性を伏せた機能」、
「ネットコミュニティの色合いの違いはは街の色合いの違いに近い(白金、歌舞伎町など)
→日常の世界とようやくネットの世界が近づいてきた証拠?」などの
前田社長の報告はWEBサイト運営を通じて漠然と感じていたことの肉付けになった。
また、『関心空間』『2ちゃんねる』という日本を代表する
二大ネットコミュニティのトップが参加していたので、
この二つの違いや共通点についての議論が楽しかった。
懇親会を含めて5時間半の長丁場だったけどおもしろい関心空間だった(^^)
(2ちゃんねるについて前から疑問だった点をひろゆきさんに聞けたのも嬉しかった)

ちなみにこの日は会の後に友達を紹介してくれるというITOに呼ばれて渋谷に行く。
友達が大人数で飲み会をしているという新南口近くのBarに、
二千円の会費を払って入るとなぜかITOも知らない人ばかりだった。
しばらくすると、実はまったく知らない人の結婚式の二次会だと判明(>_< ) 「違います」っといえないスケールの小さい自分なので、 できるだけ知り合い面をして祝杯をあげさせてもらった。 ワンドリンク制だったのでちびちびと飲んでいると、 「ゲイが七割の我々の集まりでもこうしてカップルが成立して・・・」 っという来賓挨拶があった。 一気に残りのお酒を飲み干してあわてて出てきてしまった。 ・・・これも現実世界での意外な出会いの楽しみの一つか?(^^;

2003 6/14
出来事メモ

まろみあん

  まろまろ訪問者の呼称。世界表記は”maromian”。

  HP開設当初は訪問者を「まろまろさん」と呼ぼうと画策していたが

  最近はらぶナベ本人が屋号のように「まろまろさん」と呼ばれることが多く、

  訪問者の呼称を新たに創る必要性が出たため考案された用語である。

  普及した方を採用する進化論の自然淘汰(natural selection)理論によって  
  
  もう一方の呼称案「まろまろっ子」(maromarocco)”との併用が長らく続けられたが、
  
  訪問者による使用率が圧倒的に優勢になったため
  
  まろまろコラムをきっかけに「まろみあん」に統一された。

  そこはかとない脱力感と、ぬぐいされない痛さを兼ねそなえるという

  HPのコンセプトを体言していることから登場頻度の高い用語の一つである。

  ちなみにまろみあんな集いはmixiコミュニティでも存在している。

  応用例:「パイレーツ・オブ・マロミアン」(from 『WEBと海』)など