『メモのメモ』を読んだ人から「読書日記はどう考えてるの?」という質問が寄せられたので
今回はメモの中でも特に読書日記に焦点を当てたコラム。
最初に自分が読書日記を残すことになったきっかけから書くと、
メモを残さないと「もったいない」と感じたからだ。
(かなり不純な動機だす)
本を読んでいると、読書という行為=文字から音や映像を再現するというのは、
音楽を聴いたり映像を観るよりもエネルギーと時間が必要なんだなぁと感じることがある。
特に自分は集中力が散漫な方なので、一冊の本を読みきるまでに手間と隙がかかってしまう。
そうやって苦労して読んだ本なのに、読んだ次の週くらいからもう、
「あの台詞はどの本にあったっけ?」とか「この本は読み終えたんだっけ?」などと
本棚をひっくり返す経験を何度も繰り返していた。
さらに、本は物(ハードウェア)なので、無くしたり、人に貸したり、引越したり、
様々な理由から物理的に手元から消えてしまうことがある。
そんなときでもタイトルと著者と出版社、読み終えた日時(引用するなら出版年もあるとグゥ)、
そして読んだ時の心のひっかかりさえ残しておけば、
たとえ忘れたり、本を無くしたりしても、それほど右往左往しなくてもよくなる。
メモとしての読書日記を読み返せば内容は思い出すし、手元にない本でも引用できる。
特に人は頭の構造からして「記憶しよう」、「忘れないようにしよう」と思っても
すっかり忘れてしまう(いやん)ということがよく起こるので、
思い出すきっかけになるこの読書日記の効果は絶大なものだ。
読書日記を書き残す労力はたいへんだろうと思われることもあるけれど、
読書日記をつけると安心して忘れられるので、逆に読書に集中できるようになった。
(この「まろまろ読書日記」で一番得をしている読者は自分自身だったりする)
そして、読書日記を残すようになって気づいたことがある。
読書で一番大切なもの、それは物としての本ではなく
その本を読んで感じた自分の気持ちだということだ。
その本に書かれてある文字ではなく、その文字を通して感じた自分独自の気持ち、
それこそが本当の意味での「コンテンツ」だと思う。
本に書かれた文字は印刷物なのでたとえ手元から無くしたとしてもいくらでも手に入るけど、
読んだとき、そのときの自分の気持ちは一度無くすともう手に入らない。
もちろん意識の底に残ったり何らかのかたちで影響を残すものだけど、
まったくゼロから思い出した気持ちの記憶は、
それ自体がかなり変わっている可能性が高かったりする。
読書日記はその本を読み終えたときの自分の気持ちを再現できる。
時にはそれがすごく恥ずかしいことだけど(メモのメモ)、
自分の気持ちを再現できるのは自分で残したメモしかない。
そんなこんなで今日も読書日記や出来事メモを書き残している。
名前は残ってないけど文字を作った人たちは偉大だ。
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2003 7/3
まろまろコラム