吉見俊哉・水越伸 『メディア論』 放送大学教育振興会 2001改訂

カテゴリを一覧で見れるように読書日記ページをリニューアルした、らぶナベ@HIROさんありがとうです(^^)

さて、『メディア論』吉見俊哉・水越伸著(放送大学教育振興会)2001年改訂。
放送大学の「メディア論」講義テキスト。
この本の著者二人の講義に出ることがプレハブ学校に入る楽しみの一つだったのに
二人とも開講が冬学期だったので(いやん)メディア論の概要をつかむために読んでみた一冊。

この本の中で一番興味深かったのはメディア表現で重要になってくる「遊び」とは、
「メディアと人間の関係のしかたを積極的にひっくり返したり、
組み替えたりする、異化作用をともなった営み」としている点だ。
(第12章「新しいメディア表現者たちの台頭」)
確かに僕自身、WEBサイト運営をしていて面白いなぁっと感じるのは、
読書日記や掲示板で書き手と読み手の関係をひっくり返そうとしたり、
その本のカテゴリを自分なりに組み替えたりすることも含まれている。
「限界芸術(Marginal Art)」とも呼ばれるらしいが、ちょっと共感してしまった。

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

○メディア=人間を拡張すると同時に、社会的に枠付ける役割を果たす媒介
<まえがき>

○メディア=私たちの生きる社会的世界の技術論的な次元と意味論的な次元を媒介しながら、
 個別のメディアの布置や編制を可能にしていく、より全体的な構造連関の社会的な場
 →諸々のメディアは何らかの技術的発明の所産として
  社会の外側から直接与えられるのではなく、
  そもそも社会的なプロセスのなかで構成される
<1 メディア論とは何か>

○メディアについて考えるにはメディアの「誕生」そのものを
 問題にするような歴史的な観点が不可欠
  →同時に諸々のメディアが、今日のように再び揺らぎ始め、
  再編されつつある状況もそうした歴史的なパースペクティヴのなかで
  捉え返されなければならない
<1 メディア論とは何か>

☆印刷は、定着した記憶の継続的な蓄積を、その公開化を通じて達成することを可能にした
<1 メディア論とは何か>

○17、18世紀のイギリスのコーヒーハウス、フランスのサロンの特徴=
 1:社会的地位の平等性を前提とし、さらには社会的地位を
  度外視するような行動様式が要求された
 2:これらの場での討論はそれまで自明とされていた通念や制度を問題化していった
 3:これらの場は討論を通じて情報や文化を商品に転化させ、
  そのことで公衆に開かれたものにしていく契機も内包していた
 (ユルゲン・ハバーマス『公共性の構造転換』)
<2 活字メディアの時代>

☆技術的な複製の可能性の拡大は、歴史上はじめて、
 美の基盤を儀式的な一回性から切り離していく
 →美の準拠枠は「礼拝的価値」から「展示的価値」へと重心を移していった
 (ベンヤミン『複製技術時代の芸術』)
<7 メディア論の系譜1>

○マクルーハンの電子メディアがもたらす変容=
 1:電子メディアにより地理的距離が無化され、
  電子的に媒介された同時的な場が至るところに出現する
 2:電子メディアの浸透が、人々のコミュニケーションを線形的で
  視覚的な形態から包括的で触覚的な形態に移行させる
(マーシャル・マクルーハン『メディア論』)
<8 メディア論の系譜2>

○オングのメディア発展史=口承的(oral)、書記的(chirographic)、
 活字的(typographic)、電子的(electronic)のモードが積み重なってきた過程
 →オングの特徴はメディアの変容を表現手段の変化ということにとどまらず、
  思考や記憶の様式、世界観を根底から変えてしまう構造的な契機として捉えている点
 (ウォルター・オング『声の文化と文字の文化』)
<8 メディア論の系譜2>

○スチュアート・ホールのコミュニケーションのプロセス=
 相互に結びついてはいるが相対的な自律性をもって節合される語りの戦略的な布置
 →コミュニケーション過程の一方にあるのは、
  単一の主体としての「送り手」というよりも、
  テクスト生産に向けて節合された諸契機の複合的な過程としてのコーディング
 →ホールの特徴は送り手の意図が「正しく」受け手に伝えられるのが
  コミュニケーションの「正常な」状態だとは考えない点
  (むしろコミュニケーション過程のなかに価値や
  イデオロギーの衝突やねじれを見出そうとしている)
<8 メディア論の系譜2>

○カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
 自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく、
 あくまで階級やジェンダー、エスニシティ、世代、様々な差別の文化政治学が
 葛藤と矛盾を含みながら作動していく抗争的な場としてのオーディエンス
<8 メディア論の系譜2>

☆「メディア・リテラシー」
 =人間がメディアを介して情報を批判的に受容、解釈すると同時に、
 メディアを選び、使いこなして自らの考えていることを表現し、
 コミュニケーションの回路を生みだしていくという、複合的な活動のこと
 →使用活動、受容活動、表現活動から構成される
<11 メディア・リテラシーの回復>

☆メディア表現における「遊び」
 =メディアと人間の関係のしかたを積極的にひっくり返したり、組み替えたりする、
 いわゆる異化作用をともなった営み=「限界芸術(Marginal Art)」
<12 新しいメディア表現者たちの台頭>

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2003 6/12
メディア論、社会学、メディアリテラシー
まろまろヒット率3

ご近所づきあいスタート in 小石川

ときどき挨拶を交していた隣の敷地に住んでいるご夫妻からお食事に呼ばれる。
二人とも奄美列島(徳之島と宝島)の出身なので人を呼んで食事をするのが好きらしく、
食事にはご夫婦のお母さんや子供、孫、親戚まで来ていて賑やかだった。
(献立はもちろん奄美料理→ごはん日記にアップ)
話によると高度成長期に集団就職で奄美から東京に出てきて以来、
家族や親戚は近い場所に住んでいて頻繁に往来しているらしい。
中には小さな赤ちゃんと若いお母さんもいたが、
かつて奄美では地域ぐるみで子供を育てたらしく、
東京に出てきてからもそういう付き合いが続いているらしい。
(奥さんの方もその新米ママのおばあさんに小さい頃お世話になったそうだ)
同郷ネットワークや血縁コミュニティは時としてマイナス面が指摘されることもあるけど、
いろんな意味でこういう繋がりはやっぱり大切なんだなーっと感じた。

また、これが東京に引越ししてからはじめての
=実家以外での生まれてはじめてのご近所さんづきあいになる。
文京区は東京の古い町並みと風土が残っている街だと思っていたけど
実際にこうして食事などにお呼ばれされることになるとは思っていなかった。
これを機会にローカルネットワークも大切にしていこう。

2003 6/8
出来事メモ

佐倉統 『遺伝子vsミーム-教育・環境・民族対立』 廣済堂 2001

毎週一回くらいは我が家でお食事会を開きたいと画策している、
らぶナベ@気分は栗本はるみだす。

さて、『遺伝子vsミーム-教育・環境・民族対立』佐倉統著(廣済堂ライブラリー)2001年初版。
さくら組研究室の文献購読で『ミーム・マシーンとしての私』を発表したのをきっかけに、
ミーム論がどういう風に使われているのかもう少し知りたくなって関連本を探していたところ、
研究室の端っこにひっそりとあったのを見つけたので(研究室長が著者だから当然だけど)
さくさくっと借りてさくさくっと読んだ一冊。

内容はメディア、教育、環境、民族の各問題をミームの視点で論じている。
読んでみると確かにレベルの違う話を統一的に話せる可能性のあるところが
魅力的な理論だけど、進化論のDNAのように「これがミームだ」と言える物質が
見つからないことには信頼して使えない理論のような気がする。
僕がミーム論で興味を感じた文化・技術の自然選択的(不作為的)普及と、
性的衝動と表現衝動との関連についてもあえてミームを使わなくてもよさそうなフレイバーが(^^;
著者もあとがきで「ミーム概念の有効性は、定量的な記述や予測ではなく、
比喩やアナロジーにもとづく問題発見能力にある」と言っているように
ちょっとこましな比喩以外にはあまり使えなさそうな感じがした梅雨のはじめ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○生命体というは、進化することができるシステムという意味
 →自分で変化できるという意味
<1-2 知識という生命体>

○生命の適応能力=自然選択を起こしうる能力→突然変異できる能力と同値
<1-2 知識という生命体>

○生物学的な文化の定義=遺伝子によらず次世代へと受け継がれていく情報の体系
<2-1 利己的な複製子たち>

○ミーム学最大のポイント=文化を進化するシステムとみなす点
 (生物進化論のツールを使える)
<2-1 利己的な複製子たち>

○進化=自己複製するシステム(生命)が累積的に変化していくこと
<2-3 老年期の役割>

○科学はどの価値が正しいのか直接答えを出せないが、
 議論のための共通の場を提供することはできる
<2-3 老年期の役割>

○(自然)選択のメカニズム=1:無方向の変異が生じる、
 2:選択が起こることで適応的な進化の方向が決定される、という二段階の過程
<3-1 伝えることの意味>

○ミーム概念の有効性は、定量的な記述や予測などではなく、
 比喩やアナロジーにもとづく問題発見能力にある
<あとがき>

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2003 6/3
自然科学、進化論、ミーム論
まろまろヒット率3

スーザン・ブラックモア、垂水雄二訳 『ミーム・マシーンとしての私』 草思社 上下巻 2000

『マヤ文明展』でマヤ暦のTシャツ(略して”マヤT”)を買ってしまった、
らぶナベ@展示側の戦略に簡単に乗ってしまう良い顧客です(^^;

さて、『ミーム・マシーンとしての私』上下巻
スーザン・ブラックモア著、垂水雄二訳(草思社)2000年初版。
技術、文化、考え方や理念などのも一種の遺伝子のように、
それ自体が人から人へと媒介していくという考え方=「ミーム論」の本。
(もともとはドーキンスの『利己的な遺伝子』から)

内容は第1の自己複製子=遺伝子に続く第2の自己複製子=ミームが、
人間の言語や脳を形づくり、そして「自己」というものもミームの複合体
「自己複合体(selfplex)」だという仮定をしているかなり挑戦的な一冊。
すごく面白い切り口なんだけど大部分が仮説や仮定の話を前提にしているので、
もうちょっと証拠がないと簡単には納得できない感じがした。
(物証の重視が訴訟法の原則だす(^^))

ただ、僕は『利己的な遺伝子』を読んだときにもメモしたように、
このミーム論という考え方には・・・
1:文化や考え方の普及・発展の不作為性が強調される点と、
2:何かを伝えたいとか表現したいという欲求が本能的なんだと説明できる点で、
(遺伝子を残す→性的衝動へ、ミームを残す→表現的衝動へ)
かなり興味を持っている。
こういう視点でミーム論を扱った本があれば教えてちゃぶだい。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○ミーム=非遺伝的な手段、特に模倣によって伝えわたされると考えられる文化の一要素
 from “The Oxford English Dictionary” of “meme=An element of a culture
 that may be considered to be passed on by non-genetic means, esp. imitation.”
<序文>

○私たちを特別なものにしているのは模倣の能力であるというのが本書の主題
<1 奇妙な生き物>

○私たちの観念が私たち自身の創造したものであり、
 私たちのために働いていると考えるかわりに、それらが自律的なミームであり、
 自らがコピーされることのみのために働いていると考えなければならない
<1 奇妙な生き物>

○その科学理論が有効であるかどうかの基準=
 1:その理論は他の競合する理論に比べてより簡潔ないし包括的に説明できるかどうか
 2:検証可能な予測を導くことができ、その予測が正しいと証明できるかどうか
<1 奇妙な生き物>

○ダーウィンの自然選択=変異・淘汰・保持(遺伝)が要件
 →この三つがそろっていればその種は増加する傾向を持つ
 →ダーウィン主義は「心の助けなしに混沌から構造をつくりだす図式」(Dennet1995)
<2 ミームとダーウィン主義>

○ミーム理論の要点は、ミームを独立した自己複製子として扱うことにある
 →遺伝子のではなく、ミームの複製のためにミーム淘汰が観念の進化を駆動する
  (これが従来の大半の文化的進化の理論からミーム学を分かつ大きな相違)
<3 文化の進化>

○人が考えることを止められないことへの解答=ミームの「雑草理論」
 =除草した庭はすぐに植物が生え、そこには遺伝子の生存競争が始まる
 →空っぽの心にはミームが入り込んで来て、脳内でミームの生存競争をおこなう
<4 ミームの視点から見る>

○「模倣」の定義=ある行為の仕方を、それがなされたところを見て覚える学習
 (Thorndike 1898)
 →他者の観察を通じて環境について学ぶ「社会的学習」(Heyes 1993)とは違う
<4 ミームの視点から見る>

○成功する自己複製子の条件=忠実度・多産性・長寿(Dawkins 1976)
<4 ミームの視点から見る>

○言語の機能=うわさ話→うわさ話は毛づくろいの代用(Dunbar 1996)
 →うわさ話も毛づくろいも社会的集団の結束を維持する機能を果たす
<8 ミームー遺伝子の共進化>

○ミームが生まれて人々が模倣しあうことによって、
 より高度な忠誠度・多産性・寿命のミームが駆動して
 言葉を生み、人間の脳を巨大化させた
 (言語の機能も、巨大な脳もミームのためにある)
<8 ミームー遺伝子の共進化>

○ミームが発生すると生まれる過程=
 1:「ミーム淘汰」(あるミームが他のミームの犠牲のもとに生き残る)
 2:「ミーム模倣力の遺伝的淘汰」(最良の模倣者をよりよく模倣できるものが
   より大きな繁殖性向度を持つ)
 3:「最良の模倣者とつれあいになることの遺伝的淘汰」
<9 社会生物学の限界>

○芸術的な能力と創造性が異性を引きつけるディスプレイとして
 性淘汰を受けてきたという主張があるが(Miller 1998)、
 その理由は創造性と芸術的な表出はミームをコピーし、使い、拡める方法であり、
  すぐれた模倣者の印だから
<10 セックス、セックス、セックス>

○利他主義のトリック=
 1:利他的な行動は自分自身のコピーを拡め、私たちをより利他的にする
 2:利他主義はその他のミームが拡まるのを助ける
 →利他的な好ましい人に入り込んだミームは意地悪な人に入り込んだミームよりも
  よりコピーされやすいだろうという単純な考えに立脚
<13 利他主義のトリック>

○宇宙人による誘拐がミームとしてなぜ普及するのかについて
 1:睡眠麻痺という恐ろしい個人的体験に答えを与えてくれる
 2:西洋人に訴えかけるところがある(神に代わる強大な存在としての宇宙人)
 3:センセーショナリズムに敏感なマスコミと視聴者の存在
 4:反証不可能性が高い(陰謀説によっても防御)
<14 ニュー・エイジのミーム>

○宗教がミームとして成功した理由=
 1:反証不可能性と脅しと約束によって守られている
 2:普及のために美・真理・利他主義のトリックを用いている
 3:人間の心と脳は宗教的な観念にとりわけ感受性をもつように形づくられている
<15 ミーム複合体としての宗教>

○宗教と科学との違い=検証を要求するかどうか(これが科学の核心)
 →宗教は理論を構築した後はそれが検証されることを妨げる
<15 ミーム複合体としての宗教>

○情報は淘汰を受ける自己複製子
 →進化的なアルゴリズムが実行され、それがデザインを作り出す
 (デザインは全面的に進化的アルゴリズム遂行の結果)
<16 インターネットのなかへ>

○伝達が何よりも重要なミームの視点では日本語の複雑な文字体系が生き残るか疑問
<16 インターネットのなかへ>

☆自己は巨大なミーム複合体=「自己複合体(selfplex)
 →ミームにとっては自己の内部に入り込める観念=「私の」考えになれるものが勝者
 →自己はミームの最大の保護者であり、ミーム的社会が複雑であればあるほど、
  自己という保護の内部に入り込もうと戦っているミームがより多く存在している
<17 「私」という究極のミーム複合体>

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2003 6/2
自然科学、進化論、ミーム論
まろまろヒット率★★★

橋爪大三郎 『世界がわかる宗教社会学入門』 筑摩書房 2001

何気に今日が誕生日の、らぶナベ@おちゃめな分裂症:ふたご座O型だす。

さて、『世界がわかる宗教社会学入門』橋爪大三郎著(筑摩書房)2001年初版。
前に読んだ『神道の逆襲』がけっこう面白かったので、
宗教関係の本をもう少し読んでみたいと思っていたところ図書館で発見した一冊。
内容は著者が担当する講義「宗教社会学」の内容を出版化させたもので、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教を網羅的に紹介している。
この本の中で一番面白かったのは大乗仏教で重要な阿弥陀仏は、
実はゾロアスター教の神・アフラマズダなのだという説を紹介していた点だ。
(講義7:大乗仏教とはなにか)
前から大乗仏教、特に浄土宗、浄土真宗は仏教らしくなくて
一神教的だなーっと感じていたので、この説は心情的にかなり納得してしまった。

ただ、網羅的すぎて内容がちょっと簡単すぎるというところや
どうせなら神道や道教も入れてほしかったという点などがちょっと残念だった。
宗教知識の確認や見落としチェックには役立つと思う。
(イスラム法の法源はぜんぶ押さえてなかったのでありがたかった)

以下はチェックした箇所、一部要約含む・・・

○宗教の定義=「ある自明でないことがらを前提としてふるまうこと」
<講義1:宗教社会学とはなにか>

○日本人は儒教を”思想”だと受け取ったが、
 実際は社会を実際に運営するための”マニュアル”
 →この点を理解しない日本人は、儒教を誤解してる
<講義1:宗教社会学とはなにか>

○(ユダヤ教は制服されたエジプトの死者信仰に対抗するため)
 霊魂も絶対に認めない→古代宗教としてとても珍しい点
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○一般に権力に反対する知識人などはたいていすぐ殺されて社会的影響力を持ちにくい
 →一方ユダヤ教では神の声を聞くことのできる預言者を簡単に殺せない
 →権力と知識が分離するダイナミズムは一神教の特徴
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○(神殿での儀式を少なくして日常の行動様式を規定することによって)
 場所、時間に無関係で世界中に散らばっても信仰を続けることが可能
 →これが世界最強の宗教団体を形成できた理由
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○食物規制を厳格に守ると、異教徒を食事に招待できない
 →友人になれないし、ましてや結婚ができなくなる
 →信仰の共同体が次の世代にも再生産される
 (食物規制のねらい)
<column:食べてはいけない>

○預言者の社会的機能=”built in stabilizer”(元はサイバネティックス用語)
<講義3:キリスト教とはなにか>

☆イスラム法の法源=
 ・「クルアーン」(神の啓示=人間との契約)
 ・「スンナ」(ムハンマドの行為・言葉)
 ・「イジュマー」(法学者=ムジュタヒド全員の一致)
 ・「キヤース」(法学者の論理推論→ただし他の判例を拘束せず)
<講義5:イスラム教とはなにか>

○輪廻を信じなければ仏教は理解できないが、日本人は輪廻を信じていない
 →輪廻を信じるなら先祖崇拝はありえない(先祖を祀るのは道教のやり方)
<講義6:初期仏教とはなにか>

☆大乗仏教の阿弥陀仏はゾロアスター教(拝火教)の神「アフラマズダ」が
 仏教化したものという説がある→浄土宗が一神教に近いことの理由の一つか?
<講義7:大乗仏教とはなにか>

○「天」=統一国家の統一権力を可能にする仮設構成体(フィクション)
 →天の思想は先祖崇拝をたくみに転換した儒教的イデオロギー
<講義9:儒教とはなにか>

☆「先祖崇拝」=確定した過去の人間関係によって不安定な現在の人間関係を整序する試み
<講義9:儒教とはなにか>

○朱子学ではあくまで分離していた義/孝を忠=孝と一致させたのが日本朱子学の特徴
<講義10:尊皇攘夷とはなにか>

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2003 5/26
宗教社会学
まろまろヒット率3

菅野覚明 『神道の逆襲』 講談社 2001

ボーっとしていると時々斜視になることに気がついた、
らぶナベ@テリー伊藤には負けないぞ!

さて、『神道の逆襲』菅野覚明著(講談社現代新書)2001年初版。
日本には昔から独自の哲学・思想は生まれなかったという意見があるけれど
(中江兆民の「我日本、古より今に至る迄哲学無し」が有名)、
だからと言って自分たちや世界に対して深く考えることがなかったわけじゃない。
神という概念を使いながら思考していたんだと主張して、
思想史としての神道を読み解こうとした一冊。
そういう意味で「逆襲」本。
著者が倫理学(倫理思想史)の研究者で、なおかつ僧侶でもあるというのも興味深い点。

中でも面白く感じたのが、日本の神さまの性格を考えてみると
人格的な唯一創造主”God”に「神」という訳語を当てたのが、
日本翻訳史上最大の失策と述べているところ(「人はなぜ泣くのか」)や、
笑うことに人間性の本質を見出したアリストテレスに対比させて、
泣くことに本質を見出した復古神道(本居宣長、平田篤胤など)を紹介しているところだ
神さまというものへの接し方から読み解く文化論としても読めるかなり楽しい一冊。

ちなみにこれが生まれて初めてまともに読んだ宗教学関連の本になる。
越してきた家の近くにあるお稲荷さん(沢蔵司稲荷)の宮司さんが実は浄土宗の僧侶だった
ということから日本の信仰に興味を感じたのがこの本を手に取る直接のきっかけだった。
宗教関連本は異様なまでにバイアスがかっていると感じるものが多いので
読むときはかなり値踏みしないといけないのが手を出しにくくしている点だ。
バイアスこそが宗教の価値なのだろうけど、歴史好きの僕のお腹がいっぱいになる(^^;
(客観的とは言わないまでも冷静な視点で書かれた人物伝とかあれば教えてプリーズ)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○(日本人の価値体系の根拠について)
 自己の価値の実現如何は、お客さまである神さまへの接待にかかっている(中略)
 お客さまに良いもの(幣帛)を差し上げ、その見返りないしお下がりで
 豊かに暮らすというのが、日本人の神さまとの付き合いの基本。
<神さまがやって来た>

☆生活に豊かさや活力をもたらす魅力的なありようと、
 一方で私たちの日常そのものを崩壊させかねない測り難い不気味さという
 神さまの両義的性格は、神が外からやって来る客であるということと
 直接に結びついているように思われる。
 →危険と期待、迷惑と楽しみの交差にあるのが、
  来客への接待なのであり、したがって神への祭祀の場なのである。
<神さまがやって来た>

☆それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、
 私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような
 異様なものとして出会われれば、それが神なのだということである。
 (例:名人・達人・奇人・変人を「~の神様」と呼ぶなど)
 →人格的な唯一創造主ゴッド(God)に、神という訳語を当てたことが、
  わが国の翻訳史上、最大の失策。
<神さまがやって来た>

○神道とは、根源的には、神という一つの事件をきっかけに、私たちが歩いてきた道、
 これから歩いていくべき道を探求することに他ならない。
 神は、来って去るまでの時間として、その時間を埋める営みの持続として、経験される。
 この営みが、神を迎え、送る過程たる祭祀の原型である。
<神さまがやって来た>

○一にして二、二にして一を体現することが、五部書における
 (のみならず中世神道説すべての)神道の根本である。
 (中略)ともかくも神道が、天照大神・天皇という軸と、
 ある種不即不離の微妙な緊張関係において生じているということである。
<神道教説の発生>

☆神国という言葉は、(略)日本という国の微妙な内部構造、
 すなわち神と人との独特な緊張関係において統一の成り立っている
 特殊な国情を、第一義的にはあらわしている。
 →神であるということを直ちに神聖なもの、
  優れたもののイメージに置き換えてしまうのは、日本の神のもつ奇しく異しい、
  底知れぬ豊かな奥行きを、痩せ枯れた抽象へとすり替えてしまうことになる。
<神国日本>

○(浦島太郎などの童話にあるように)神に愛される条件は、まずは、景色の反転した中へ、
 怖いもの知らずにやすやすと踏み込んでいけるかどうかということなのである。
 →正直の??p重視
<正直の頭に神やどる>

○朱子学思想の特色は、理気二元論とよばれる形而上学的な宇宙論にもとづいて、
 人間存在や道徳を説明しようとしたところにある。
 →個々の事物の本性と、すべての事物の存在を成り立たせている普遍的な原理が、
  根本的に同一であるとされるのである(これが朱子学の基本命題「性即理」)。
<神儒一致の神道>

○自然科学をモデルとした今日の学問とは違って、近世において学と名のつく営みは
 (略)いわば十全な生の実現をめざす方法であり実践であると考えられていた。
<神道の宗源は土金にあり>

○国学の源流は、近世前期の歌学の世界にある。(中略)
 国学者と称される人物は、上下下手は別として、みな基本的には歌人であった。
<危ない私と日本>

○(本居宣長の考えは)「はかなく女々しき女童」のような揺れ動く情こそが人間の真実であり、
 静寂不動の厳粛なる心は二次的な作為、すなわち「いつわりかざり」である(中略)
 事物の認識においても、もののあわれを知るという、
 心の動きにおいて事物をとらえる感動の知こそがより根源的であり、
 条理の認識はむしろ二次的なものであるとされる。
<人はなぜ泣くのか>
 
○宣長によれば、物のあわれとは、私たちが有限なる者としてあること自体の感知であった。
 (略)泣くことは、私たちの限界の表現なのであり、
 さまざまな喪失としてあらわれる私たちの地平の最もたるものが死なのである。
<人はなぜ泣くのか>

○反省では決して近づけぬ「経験の核心」は、
 これ以上不可解なものはない奇異なるものという意味で、
 それも神と呼ぶことも可能であろう。
<神さまの現在>

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2003 5/15
宗教学、神道、文化論
まろまろヒット率4

ZIZIの「ビッグコロッケカレー」

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ほんの気の迷いでビッグコロッケカレーを頼んだら冗談のようなビッグコロッケがのったカレーがでてきた。友達の協力を得て完食しました、もう当分はカレーもコロッケもいいです・・・
駒場の喫茶店「ZIZI(ジジ)」にて。

本能の強さを感じた講話会

タンジブル・ビットで有名な石井裕MIT教授の講演会(情報学環講話会)に参加する。
講演会の一番最初に出た「2100年(自分が死んだ後)に何を残したいか、
どういう風に思い出されたいか(名前か、業績か、作ったものか)」を考えて
自分のやるべきこと、方向性を決めていくという話には感銘を受けた。
自分の匂い、カケラを残すのが生命としての本能だとすれば、
その本能を感じて行動している時が生命として一番力を発揮できるはずだ。
それを実践している人が研究分野にもいることに勇気づけられた気がした。
講演中もその後の懇親会でも「飢餓感は誰からも教われない」と何度も言っていたが、
自分なりの言葉に置き換えさせてもらえば「衝動は自分で感じるしかない」となるのだろう。

また、この講話会には歌手のUAも参加していた。
ちょうどHPでもNHK教育の「ドレミノテレビ」での彼女の弾けっぷりを
話題にしていたところだったので、奇妙な縁を感じて話しかけてみた。
想像通りあの番組では彼女自身もかなり楽しんでいるということだった。
(気さくにツーショット写真まで撮ってもらって感謝!)
石井教授といい、UAといい、ものつくりはどんなに苦しくても、
基本は楽しまなくてはいけないということをあらためて感じた日でもある。

2003 5/10
出来事メモ、講演会