金田善裕 『個人ホームページのカリスマ』 講談社 2002

ブランド戦略論とネット社会論をお勉強しようかとも思っている、、
らぶナベ@お勧めの本知っている人は教えてください(^^)

さて、『個人ホームページのカリスマ』金田善裕著(講談社)2002年初版。
個人でありながらテレビや新聞、雑誌などの巨大メディアに匹敵するHPを作った
14人のHP作成者へのインタビューを通してその方針や人となりを紹介している。
最近、路上ライヴでもミニ演劇でも研究論文の発表でも「発信」行為なら何であっても
全て「ブランドの形成→確立」という視点が重要ではないかと思い始めてきた。
そういう視点でみるとHP作成はブランド戦略そのもののように感じたので購入した一冊。
まだ発展途上のメディアで今後どうなるかはわからないとはいえ、
ここに紹介されている人々は現時点で自らのブランド戦略に成功した人々だ。
そういう視点で読むととても面白かった。
ただ、惜しむらくは「カリスマ」として紹介するからには、
カリスマに必要とされる拭い去れないトラウマを紹介したり(笑)
なぜこの14人を選んだかその選考基準を明確にしてほしかった。

個々のHP作成者へのインタビューはそれぞれ興味深かったが
特に興味を感じたのは普段から普通に見ている「2ちゃんねる」(http://www.2ch.net/)の
玉石混合を恐れずに認容する姿勢(これがおそらくネットで一番必要な姿勢)と、
高校生が作成する「いるこみゅ」(http://www.iruka.ne.jp/commu/)の若々しさだ。
一説には10代のネット利用率は8割を超えているらしい。
当たり前だけどに彼ら自身が作成したり積極的に参加するHPが急速に増えてきている。
10代の頃にネットのような発信可能性の高いメディアがあったらどうなるか・・・
これからの情報化社会を想像してワクワクしたと同時に、
自分が10代だった頃を思い出して今の10代をちょっとうらやましくなった(^^;

以下、チェックしたポイントを興味深かった順で記載・・・
☆(玉石混合について)玉の部分をつかまえる能力さえあれば、石は増えてもいいんです
 2ちゃんねる(http://www.2ch.net/)

☆目指していたのは2ちゃんねるを嫌いな人にも2ちゃんねるを使ってもらおうということ。
 2ちゃんねるを好きな人しか参加できないと、そこでフィルターがかかっちゃう
 2ちゃんねる(http://www.2ch.net/)

☆(HP作成者が一番気にする叩かれる点について)騒がれなくなったらおしまいです
 日記猿人(http://www.iijnet.or.jp/bowwow/)

☆未成熟のジャンルで先駆者がいない。だから前例なんか気にせずに、
 自分でやってしまえばいい。そういった新しいジャンルを作る面白さがある。
 佐野祭(http://www2d.biglobe.ne.jp/~inva/)

☆シンボライズしたものは絶対必要
 ーそれがなければ形のないホームページになってしまう
 日記猿人(http://www.iijnet.or.jp/bowwow/)

○個人サイトの強みは自分の判断で自分のメディアを使って
 自分のメッセージを自由に発信できるところ
 侍魂(http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/)

○(匿名性について)肩書きや自分の状況を考えずに意見が出せる場所があると、
 人がそういう場所でどういう意見を出すかがわかる
 2ちゃんねる(http://www.2ch.net/)

○あっさり読める文字量にするのが第一条件、第二条件がスパッスパッと歯切れよく落とす間
 侍魂(http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/)

○無理をせずにできるものを作るのがコツ
 ReadMe! JAPAN(http://readmej.com/)

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2002 6/14
情報関連、メディア論
まろまろヒット率3

弥永真生 『法律学習マニュアル』 有斐閣 2001

カルボナーラの意味は「炭焼き職人風」、ペスカトーレは「漁師風」など
イタリア料理は職業名をつけたものが多いけど
プッタネスカの意味が「娼婦風」と知って驚いた、
らぶナベ@そんなおおらかさがイタリアンですな(^^)

さて、『法律学習マニュアル』弥永真生著(有斐閣)2001年初版。
以前この著者が書いた商法リーガルマインドシリーズを読んで、
法学者らしからぬ柔軟な記述と広い視点に好感を持ったので購入した学習本。
この本もわかりやすいなぁっと思っていたら著者はもともと経済学部の出身らしい。
学士入学の著者自身が経験したつまずきや戸惑いなどを参考にして
一般の判例から研究論文、海外文献の調べ方(各段階ごとに詳細に書かれている)、
さらにはゼミへの参加の仕方や小論文、答案の書き方まで記載している。
こういう本では躊躇しがちなWEBサイト上の資料記載も積極的におこなっているのも注目。
法学に限らず学問一般の学習に使える箇所も多くて、
今後も何かとお世話になりそうな予感がする一冊。

以下、チェックした箇所・・・
・抽象的な議論をする際には必ず具体的なイメージを描くことが大切
 同時に具体的な事案にぶつかったときに抽象化することも必要
 →極めて抽象的な条文と極めて具体的な事案をなめらかに結び付けるのが腕の見せ所
 (1-2:具体的なイメージを)

・法律学の勉強では批判的態度が大切=自ら考えることがリーガルマインドの前提
 →理論の世界には疑ふことの許されない権威はない
 (1-3:リーガル・マインドとは何か)

・法律学は説得の技術=「結論の妥当性」+「結論への道筋」が大切
 →結論の妥当性とは一人一人の価値観が異なることを意識した上での結論
 (1-5:条文がスタートライン)

・論文は料理に似ている→「テーマ=材料」&「文献=調味料」
 (6-2:テーマの探し方)

・注や参考文献を見ただけである程度その論文の出来栄えを判断できる
 (6-4:引用と注)

・報告原稿に4箇所くらい目標時間を書き込んでおいて、
 もし遅れたら飛ばしてよいところをあらかじめきめておく
 (7-2:ゼミでの報告)

・自分も条文から考察を進めていくのだという心がけが
 法律の勉強を苦痛の暗記科目から楽しい科目に変える秘訣
 (8-1:学年末試験への立ち向かい方)

・答案の書き方・・・
 1:条文を徹底的に引用
 2:条文を正確に活用
 3:自分なりのまとめ&位置付けを示す
 4:積極的な理由付けを示す
 5:各論点のプライオリティを意識
 6:思うよりもう少し具体的に
 7:総論を活用
 (8-3:実際にやってみよう)

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2002 6/13
法律関係、総論(その他)、学問一般
まろまろヒット率4
法務 キャリア

京極夏彦 『今昔続百鬼-雲』 講談社 2001

最近「ナベッカム」と名乗ると5人に1人くらいからはぷちギレされることに
W杯の盛り上がりを肌身で感じるナベッカム@前は知らないって人も多かったし
リアクションもあまりなかったのにW杯が一般に浸透しているしている証拠ですね。

さて、『今昔続百鬼-雲』京極夏彦著(講談社ノベルス)2001年初版。
「多々良先生行状記」という副題のついた妖怪探索コメディ(?)中篇集。
現在出版されている京極堂シリーズはすべて読んでしまったので、
シリーズ外伝的な側面もあるこの本を思わず買ってしまった。
(「黒衣の男も友情出演」という裏表紙にやられてしまった)

内容は妖怪好きの凸凹コンビが不可抗力的に事件を解決してゆくのが微笑ましいが、
最初はコメディだとはわからなかったので軽い記述の連発に少し戸惑ってしまった。
笑うツボにもハマらなかったこともあって早く京極堂シリーズの主役
黒衣の男が登場しないかと期待して読む破目に・・・
どうやら『魍魎の匣』などに代表されるDark&Deepな世界観にだいぶんやられているようだ(^^;

ちなみに以前、京極堂シリーズ好きな知り合いから「らぶナベって多々良先生みたい」
と言われたことがあった・・・僕ってこんなのだろうか?(T_T)
ナベッカムという別名の是非と共に反省する今日この頃。

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2002 6/12
小説、文学
まろまろヒット率3

宮崎正勝 『意外・案外・予想外!ウラ読み世界史』 日本実業出版社 2002

ソート機能をつけたいので読書録をExcelなどでデータベース化しようと思っている、
らぶナベ@いまいちやり方がわからないので知ってる人いたら教えてください“(- -)”

さて『意外・案外・予想外!ウラ読み世界史』宮崎正勝著(日本実業出版社)2002年初版。
高校の頃よく読んでいた歴史雑学系本をふと読みたくなったのと、
初版年が新しいので新事実がわかるかなと思って購入した一冊。
地名や食べ物から歴史を紹介している姿勢に雑学書らしいさを期待したけど
タイトルのわりには真面目な内容でちょっと中途半端な感じを受けた。

それでも・・・
○「リスク」という言葉は「地図のない航海」を意味するスペイン、ポルトガル語が語源
 (アンソニー・ギデンス)

○地名は過去の社会のあり方を現在に伝える重要な情報源という意味で「歴史の化石」
・・・などの記述は興味深かった。

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2002 5/14
歴史
まろまろヒット率2

京極夏彦 『塗仏の宴-宴の始末』 講談社 1998

まろまろ掲示板で寄せられた情報をもとにポップ系展覧会に行って来た
らぶナベ@コメントついでに近くの美味しいお菓子屋さん情報ものっけてます(^^)

さてさて、『塗仏の宴-宴の始末-』京極夏彦著(講談社ノベルス)1998年初版をば。

読んだ感想→「終わるのかよ!」(三村マサカズ風に)

実質上下巻の終わりにしてはあっけな過ぎて何だかすっきりとしなかった。
もともと京極堂シリーズは登場人物が持つこだわりや盲執を
紐解くことによって得られるすっきり感(=憑物落とし)が売りなので
あっけなく終わること自体は別に違和感なく受けとめられるのだけど、
妙に次につなげすぎだなぁっという感覚を持ってしまった。

特にこのシリーズは登場人物の盲執をえがきながら、
あの手この手で読者にも読むことへの盲執を持たせて
物語に引き込む手法を取っているだけに結末に違和感を感じると
その印象だけが強くなってしまうのでちょっと残念。

ちなみに『宴の支度』を読んだときにはこの物語のテーマは自我なのだろうか、
とも思ったけど『宴の始末』を読むと結局は家族論だったようにも思えた。
「もしかしたらー伝説の要らぬ時代には家族もまた要らなくなるかもしれない。
それでも、伝説なき時代にも、やがて新しい伝説を持った家族が生まれるかもしれない」
・・・という鳥口の思いがなんとなくこの本の本質のような気がしたからだ。

また、怪異の最終形態が妖怪だという京極堂の主張・・・
「不可知なモノ、理解不能なモノを読み解き、
統御できぬモノを統御しようと云う知の体系の、
その端末に妖怪は居るのです。
捉えどころのない不安や畏怖や嫌悪や焦燥や
ーそうした得体の知れないモノに理屈をつけ体系化し、
置換圧縮変換を繰り返し意味のレヴェルまで引き摺り下ろしー
記号化に成功した時に妖怪は完成するのです」
・・・はこのシリーズに一貫した個性だなぁっと思ってかなり納得。

とにもかくにも現在出ている京極堂シリーズはこれで全部読んでしまったことになる。
外伝をのぞけば今年中に発売されるという新作まで待たなくてはいけない。
この文字でできた盲執を体験できないのはちょっと残念(^^;

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2002 5/10
小説、文学
まろまろヒット率3

京極夏彦 『塗仏の宴-宴の支度』 講談社 1998

出来事メモ“カテゴリや”まろまろサーチ”のヒット率などを密かに更新してる、
らぶナベ@恥ずかしがりやさんなので静かにがんばってます(^^;

さてさて、『塗仏の宴-宴の支度-』京極夏彦著(講談社)1998年初版をば。

読んだ感想→「続くのかよ!」(三村マサカズ風に)
上下巻とかにしないのは著者のこだわりなのだろうけど、
本が分厚いだけにちょっと面食らった京極堂シリーズ第6段。

結末に触れていないので物語としての評価はまだ下せないけど、
「自己への揺らぎ」がこの本のテーマのような感じがする。
催眠や洗脳など、確かにそういう話はちょっと怖い。
そもそも人格なんていう概念自体がある意味で詭弁でしかなく、
人格という確固とした統一性ある”固体”があるわけじゃい。
それなのに人格の破壊や改造というものに対して恐怖を感じる。
それはやはり自己愛の顕れなのだろうか。
この本を読んでいる時にたまたまHPで知り合った人と、
『山月記』(中島敦)の話をする機会があり
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という言葉を
思い出したから特にそう感じたのかもしれない。
そんな「自己への揺らぎ」の恐怖を感じた『宴の支度』だった。

物語としての感想が書けないので小説などの物語本ではあまり書き残さない
チェック箇所を記録・・・
「底の知れた神秘より、巧妙な詐欺の方がより効果的だ」
by関口巽

「来ると思ったところに来ないのが闘いの基本じゃないか。
来ると思ったところに来るのはお笑いの基本だ!」
by榎木津礼二郎

「非経験的なる観念を、先天的な真理と見做すことは幸運の獲得にはつながらない」
by織作茜

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2002 4/28
小説、文学
まろまろヒット率3

レヴィ=ストロース、川田順造訳 『悲しき熱帯』 中央公論社 上下巻 2001(原著1955)

HPを立ち上げてから興味を持った分野の本をようやく読み終えた、
らぶナベ@引用も長いのでさっそく本題・・・

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著&川田順造訳
(中公クラシックス上下巻)2001年初版(原著1955年初版)
文化人類学の古典。
1930年代当時まだ現存していた南米先住民の生活&風習の研究を通して
不条理にみえる神話や風習にも全体を貫く一定の構造があるのだ
と主張する構造主義を確立したとされる本。
(この視点は様々な分野に影響を与えたので読書カテゴリも豊富)

この本は僕にとっては初めて読む文化人類学本でもある。
HPを立ち上げて以来約9ヶ月の間、ネットビジネスやネットをめぐる
法的問題に触れたり考えたりする機会が必然的にめぐってきていたが
その度に「そもそも今の経済学、経営学や法学の理論や概念では
ネットという存在を捉えきれないのでは」という違和感を感じていた。
そんな中で民俗学や人類学を学ぶ知人の影響もあって
これらの分野の視点がネットを考えるヒントになるのでは
と思って購入することになった一冊。

僕は今まで馴染みのない分野に触れる時にはまず何冊か入門書を読んで
その分野の全体像を把握してから古典や専門書を読むという手法を取ってきたが
(法律関係カテゴリ参照)
この分野についてはいきなり古典から入った。
タイトルフェチの僕にとって非常にひかれるタイトルだったからだ。
この本は何よりもまずタイトルが良い。
学術書なのに「悲しき熱帯」(原題”Tristes Tropiques”)とは素敵すぎ。

学術書とは思えない読みやすそうなタイトルだが実際に読み始めると・・・
「これは学術書なんだ」と思わないとやってられないくらい読みにくかった(^^;
そもそも南米の先住民研究にはなかなか入らないし、
断片的な旅行談や詩や戯曲、はたまた新聞の広告やらがいきなり出てきたりする。
そういう構文上の問題に加えて著者の後向きな姿勢が読みにくさを助長した。
後向きな姿勢であってもそれが根拠に基づいているものであれば納得できるのだけど
訳者も前書で「明らかな飛躍や矛盾はある」とわざわざ断りを入れているほど
根拠がなかったり不必要だったりするものも多くて読んでいて疲れた。
特に当時の発展途上国の人々やイスラム教に対する不理解な偏見は
著者がまだ生きてるだけに訂正しても良いのではと余計な心配までしてしまった。
また著者は皮肉屋さんらしくブラックジョークらしきものがよく出てくるのだけど
21世紀の始めに生きる日本人の僕にはどこで笑っていいのかわからなかった。
やはり正確性を欠くマイナス思考っていうのは付き合いにくい。
この本は「20世紀を代表する本のひとつ」という触れ込みだったが
果たしてこの本が数世紀後も人類を代表する本のひとつ
と言われるのかどうかは疑問に思ったりもした。

構文的にも感性的にも読みにくさを感じていたがせっかく読み始めたのに
途中放棄するのはもったいないので諦めずに読み進めると
第五部「カデュヴェオ族」(上巻254P)からようやく面白くなった、
っというかこれからが本題。
一見、原始的で素朴に生きていると思える文明化されていない社会でも
そこには人間関係や生活様式を含めた厳格な社会システムが存在している。
社会的機能や構造が存在することは政府や法律などの
「高度な社会システム」があるとされる先進国の国家と変わらない。
・・・ということを先住民への調査を通して証明している。
特に着衣を一切せずに移動しながら生きるナンビクワラ族を調査している第七部では
このような考えられる限り一番原始的な社会生活を送っている人々の間でも
機能としての一夫多妻制を利用した社会システムや厳格な掟が存在してるとされる。

僕はこの本を実際に手に取る前から何が「悲しき」なのだろうかと思っていた。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れなくてはならなかった著者の気持ち、
破壊されつつある先住民社会への思いなど、いろいろな解釈があるだろうが
僕はこの第七部を読んで人間関係のわずらわしさというのは
人が誰かと関係を持って生きる限りどのような形の生活であっても生まれるという、
そういう悲哀のようなものが「悲しい」んだなと感じた。
振り返って20世紀初めの日本を見てみても、
無秩序で好き勝手にしているように見えるネット上の掲示板でも
煩わしい関係から逃れようとした人々の集まりでも
(宗教や田舎、海外や不良などの反社会集団に逃げたとしても)
やはり明文&暗黙に関わらず一定のルールや機能的関係が存在している。
そういう「悲しさ」があるのだということを感じる本だと解釈した。

そんなこんなで以下は注目してチェックした部分の引用(注目度順)・・・

☆人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある(略)
ポリネシアの人たちは社会を作って生きていたことにおいて我々以下ではなかった
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

☆全裸で暮らしている民族も私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を違ったところに設定しているのだ(中略)
むしろ平静か興奮しているかのあいだにおかれている
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

☆村を成しているのは土地でも小屋でもなく
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

☆一夫多妻婚とそれに付随する特別の資格は、
首長が責務を果たすために集団が彼に供与している便宜という意味をもっている。
首長一人きりだったならば他の人たち以上のことをするのは極めてむずかしい
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一夫多妻の特権がどれほど性的、情緒的、社会的に見て魅力あるものであろうと、
それだけでは首長の仕事を志望する十分な動機にはならない(略)
一夫多妻婚は、権力のむしろ技術的な条件である(中略)
人間は、みな同じようなものではない。
社会学者が何でもかんでも伝統によって圧し潰されたものとして描いて来た
未開社会においてさえこうした個人の差異は、
「個人主義的」と言われている私たちの文明におけるのと同じくらい
細かく見分けられ、同じように入念に利用されている
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一つの民族の習俗の総体は常に、或る様式を認めることができる。
すなわち習俗は幾つかの体系を形作っている(中略)
観察された、あるいは神話の中で夢想された習俗のすべて、
さらに子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、
健康なまたは病気の人間の夢、精神病患者の行動、
それらすべての一覧表を作ることによって、
丁度元素の場合のように一種の周期律表を描くことが可能になる
<第五部「カデュヴェオ族」”先住民社会とその様式”>

☆人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、
その他の技術を生んだ新石器時代の到来期(中略)
新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである(中略)
文字の出現に忠実に付属していると思われる唯一の現象は、
都市と帝国の形成つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、
それら個人のカーストや階級への位付けである
<第七部「ナンビクワラ族」”文字の教訓”>

☆北米先住民の社会的警察機能について・・・
現地人の誰かが部族の掟に背くようなことがあれば、
彼はその全財産(略)を破壊することによって罰せられる。
しかし同時に(略)罰せられたために蒙った被害を共同で償うべく、
警察が音頭をとらなければならない。
この補償のために罪人は集団に恩を受けたことになり、
彼は贈り物によって集団に感謝の意を表さなければならないが、
この贈り物は警察自身も含む集団の全体が彼に力を貸して集めたものなので、
またもや関係が逆転することになる(略)
贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、
前の無秩序が消えて最初の秩序が回復されるまで続くのである
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

○私は旅や探検家が嫌いだ
<第一部「旅の終わり」”出発”>

○問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、
むしろ人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあった
<第二部「旅の断章」”どのようにして人は民俗学者になるか”>

○或る皮肉屋がアメリカを定義して、野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国だ、
と言った。この定義は新世界の都市にむしろ当て嵌まるかもしれない
<第三部「新世界」”サン・パウロ”>

○都市というものは自然と人口の合流点に位置しているのである。
(中略)都市は自然としては客体であり、同時に文化としての主体である
<第四部「土地と人間」”開拓地帯”>

○聖と俗の二者を対置させることは(略)
絶対的なものでも持続的なものでもないのである
<第五部「カデュヴェオ族」”ナリーケ”>

○或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、
結局のところ生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならない
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

○組織化の弱い社会では(略)傾向も暗幕の了解のうちに留まっているので、
背後に意味を含んだここの行動を総合してかんがえなければならない
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

○気前の良さは大部分の未開民族において(略)権力に本来付随したものである
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○「契約」と「同意」は社会生活を構成する原料
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○人間はその枠の中で位置を変えながら、
彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、
彼が占めるであろうすべての位置を自分と共に持ち運ぶ。
人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである
<第九部「回帰」”チャウンを訪ねて”>

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2002 4/17
文化人類学、社会学、哲学、文化論、組織論、情報関連、歴史、文学、宗教学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『絡新婦の理』 講談社 1996

気がつけば今年に入ってから読んだ本はすべて京極堂シリーズ・・・
彼は”憑物”の手法を読者に使っているのかとも思う、らぶナベっす(^^;

さて、『絡新婦の理』京極夏彦著(講談社ノベルス)1996年初版。
京極堂シリーズ第5段。
このシリーズはいつも文庫版の方を買って読んでいたけど
文庫版が出るのを待ちきれずにノベルス版を購入してしまった。
(ノベルス版と文庫版とでは中身もちょっと変えているとのこと)

『姑獲鳥の夏』をのぞけば今まで読んだ中ではこの本が一番印象深い。
タイトルが好きというものあるけどまず本の構図がすごく綺麗。
最後のページと最初のページをリンクさせるのはごくありふれたことだけど
それがすごく滑らかにつながっているのに魅了された。
展開も犯人像が近くなったり遠くなったりしながら推移していき、
そんなことを忘れるほどのインパクトある展開の後に
突然のようにまたふと顕れる手法にも「うまいなぁ」と思えた。
「どこまでが恣意でどこまでが偶然なんだ?」と、
それぞれ独自に動く因子を蜘蛛の糸に絡めるように操る犯人の残像を
追いかけながら読んでいたので思わず没頭してしまった(^^;

ちなみにこの作品はタイトルからも連想できるように
フェミニズム(今風にいえばジェンダー論)を素材に使っている。
うーん、ホントに挑戦的だ(^^)

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2002 3/25
小説、文学
まろまろヒット率5

京極夏彦 『鉄鼠の檻』  講談社 2001

友人から「ナベを二言で言うなら”自作自演自画自賛”だよね」と言われて、
こいつなかなかうまい表現をするなと納得しながら凹んだらぶナベっす(^^)

さて、『鉄鼠の檻』京極夏彦(講談社文庫)2001年初版。
京極堂シリーズ第4段、半端じゃなく分厚い文庫本(^^;
宗教教義をミステリー小説のネタにする挑戦的な姿勢には脱帽。
それも難解な禅の教義を使うなんて西田幾多郎もびっくりだろう(笑)
解説にも書いてあったがまさに日本の『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)だ。
こうして『薔薇の名前』と比べてみるとややスケールダウンは感じちゃうし、
ラストに向けての緻密な積み上げという京極堂シリーズらしさも
ちょっと欠けてる気もするけれどやはりすごい作品だろう。
面白い小説でありながら禅にも触れることができるお得な一冊。

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2002 2/18
小説、文学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『狂骨の夢』  講談社 2000

諸葛孔明って良く考えたらヒキコモリだったのだろうかと、
三顧の礼の伝説をいぶかっているNA-Beっす。

さて、『狂骨の夢』京極夏彦(講談社文庫)2000年初版。
間違いなく僕が手にした本の中で一番気持ち悪い表紙の本(^^;
それなのに読後感は妙にすがすがしかった。
そのギャップが楽しい京極堂シリーズ第三作目。
たぶんこれは京極堂シリーズの特徴である”憑き物落とし”の面が
すごくはっきり出ているからだろう。
特に最後のページ(969page)の最後の台詞によって
読んでるこちら側の”憑き物”も落とされた気分になる。

前作の『魍魎の匣』は境界を越えてしまった人々の話に思えたけど
今回の『狂骨の夢』は執拗を捨てられなかった人々の話に思えた。
生々しく感じられた前回と比べてやけに淡々と読めのは
生体よりも骨の方がやはり何だか”枯れた”感じがするからだろうか。
燃えも腐りもしない骨に執拗を込める人々の哀しい滑稽さが印象深い一冊。

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2002 2/7
小説、文学
まろまろヒット率4