まろまろ掲示板で寄せられた情報をもとにポップ系展覧会に行って来た、
らぶナベ@コメントついでに近くの美味しいお菓子屋さん情報ものっけてます(^^)
さてさて、『塗仏の宴-宴の始末-』京極夏彦著(講談社ノベルス)1998年初版をば。
読んだ感想→「終わるのかよ!」(三村マサカズ風に)
実質上下巻の終わりにしてはあっけな過ぎて何だかすっきりとしなかった。
もともと京極堂シリーズは登場人物が持つこだわりや盲執を
紐解くことによって得られるすっきり感(=憑物落とし)が売りなので
あっけなく終わること自体は別に違和感なく受けとめられるのだけど、
妙に次につなげすぎだなぁっという感覚を持ってしまった。
特にこのシリーズは登場人物の盲執をえがきながら、
あの手この手で読者にも読むことへの盲執を持たせて
物語に引き込む手法を取っているだけに結末に違和感を感じると
その印象だけが強くなってしまうのでちょっと残念。
ちなみに『宴の支度』を読んだときにはこの物語のテーマは自我なのだろうか、
とも思ったけど『宴の始末』を読むと結局は家族論だったようにも思えた。
「もしかしたらー伝説の要らぬ時代には家族もまた要らなくなるかもしれない。
それでも、伝説なき時代にも、やがて新しい伝説を持った家族が生まれるかもしれない」
・・・という鳥口の思いがなんとなくこの本の本質のような気がしたからだ。
また、怪異の最終形態が妖怪だという京極堂の主張・・・
「不可知なモノ、理解不能なモノを読み解き、
統御できぬモノを統御しようと云う知の体系の、
その端末に妖怪は居るのです。
捉えどころのない不安や畏怖や嫌悪や焦燥や
ーそうした得体の知れないモノに理屈をつけ体系化し、
置換圧縮変換を繰り返し意味のレヴェルまで引き摺り下ろしー
記号化に成功した時に妖怪は完成するのです」
・・・はこのシリーズに一貫した個性だなぁっと思ってかなり納得。
とにもかくにも現在出ている京極堂シリーズはこれで全部読んでしまったことになる。
外伝をのぞけば今年中に発売されるという新作まで待たなくてはいけない。
この文字でできた盲執を体験できないのはちょっと残念(^^;
2002 5/10
小説、文学
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