まろまろメルマガ

まろまろメルマガ発行のお知らせ

ここはものすご~っく私的なHomePageなのに2001年7月19日の開設以来、ご好評を頂いて感謝さらに感謝な日々であります(^o^) しかし書いた読書感想文をHomePageにアップするにはどうしてもタイムラグがあり、また「いちいち更新をチェックするのが不便だ」という声も複数お聞きしました。そこで今まで内々でやっていた読書会メーリングリストを改編して 「まろまろ読書会」というメルマガ形式で読書感想文を発行することにします。

詳細

・サンプルは読書日記を見て下さい(参考までにバックナンバー)。 自分の興味に合う読書感想文が送られてくるかどうかはわかりませんので  ある意味でロシアンルーレットなメルマガです。
・発行時期は不定期です。 本を読み終えて感想文を書き終わればまろまろと発行します。 (だいたいの目安は最低でも1ヶ月1冊だと思ってください)
・HPに掲載するのは読書日記だけでなく微妙な話題や近況報告、 はたまたまろまろごはん日記の月次ランキング発表などの実験的な企画も積極的におこなっていきます。
・当然ながらこのHomePageにアップする以上に私的なメルマガになるので、あまり公共性とか普遍的価値とかいう高尚なことは望まないで下さい(笑)
・登録されるE-mailアドレスはこちら側で確認できないようになっていますので、誰が登録されているのか発行者の僕にもわからないようになっています。
・メルマガ読者の人にはメルマガ配信した本の貸し出しもおこなっています。詳しくは「まろまろ図書」にて。

・・・以上のようなことを納得して頂いた方or諦めて頂いた方の中で僕が読んだ本の感想文をリアルタイムで見たいという人、はたまたツンドラーのリストな人や痛いものコレクターな人(用語集参照)などは、まろまろ読書会の購読をまろまろと申し込んで下さいませませ(^^)

注:購読登録をするとウィークリィーまぐまぐなどの広告メルマガも配信されます。 不要な方はこちらから広告メルマガのみの解除も可能です。(“総合版”と”コミュニティ版”の解除でまろまろ以外のメルマガは来ないようになります)

『まろまろ読書会』(ID:0000075418)フォーム

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まろまろ読書日記HP正式スタート

開始から実に一年以上の紆余曲折を経たがようやくスタートを切れた。
これで常備メディアをはじめて持ったことになる。
電子メールを使えるようになってから6年の歳月が流れ、
あまりに遅すぎたといえば遅すぎたHPデビューだが
その分、公開する読書禄や経験談のストックが充実したので良しとしよう。
吹けば飛ぶような小さな小さなメディアだが
これが社会を変える基点になるかもしれない(^-^)
(http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/8932/)

2001 7/19
出来事メモ、進路関係、サイト運営

ある企業間の橋渡し役を再びつとめる―第二次初台会談―

16日の夜にある人からかつて橋渡しをした企業との会合をと話を振られる。
「今さら僕が出るまでもないでしょう」と当初は遠慮もあって乗り気ではなかったが
「会合が中断した間にお互い出世してしまって組織を背負う立場になってしまった。
フリーの立場である君が間に立ってくれた方が角が立たない」と言われたので引き受ける。
それに演出的にも最初に両社の間を取り持った僕が会合が再開される時に再び出てくるのは
面白い演出になるようだ(エンターテイメント業界らしい)。
引き受けたもののこれはタフな仕事になるかなと考えた。
前回さえある企業内では双方の地位についての感情論があったのに
今回は双方だいぶ体制が変わっている。
さらに新体制になってまだ半年くらいしかたっていないのでどういう風に彼に伝わるかは微妙だと考えた。
一晩考え抜いたお伺いメールを翌朝その企業の担当の方に出した。
双方の担当者は二人とも出世したので妙に込み入った話になる今回は僕は行かないでおこうかとも思ったが
ここまでやったんだから最後までやった方が良いという意見もあり一緒に同行することになった。
午後の新大阪発の新幹線で落ち合って東京に向かった。
まさか東京長期滞在から帰ってきて1ヶ月も立たないうちに東京に再び行くことになるとは運命の不思議さを思う。
(しょうもないことで運命を持ち出すようだが東京を発つ時には次に東京に来るのは2、3年後だなと思っていたから)
車内で担当の人と前回のことを思い出して話し合った。前回会合をマネイジするために一緒に東京
に行った時は僕は彼女との間が戻るか戻らないかの時で前日もまったく眠れず精神的に大変だった
ことが印象に残っているが「彼女から気持ちが離れた分成長したんじゃないか」と言われた、ちょっと納得。
本社にて二人がいざ話し合いに入ると以前と同じような熱い空気がありかなりぶっちゃけトークをし始めた。
僕がポスト役を務めたとはいえその場に同席させてもらえたというのは
とてもとても勉強になったし感じることも多かった。

組織としての双方の企業が、そして個人として担当の人たちが会う機会があるのは僕としての喜び
でもあるので(1999年の初会合参照)、
それに僕自身が力になるならこれほど嬉しいことはない。
てっきり軋轢や抵抗があるだろうと思い、いくつかルートも用意して、
さらに僕自身の精神的安定のために『龍馬がゆく』を読み返したりしたが今回は坂本龍馬活躍せず(^^;
全八巻あるはずなのに僕の『龍馬がゆく』はめっちゃ薄い(笑)
しかし僕が蒔いた種は強い根っこがはえていたことを確認できたことは人生の楽しみがまた一つ増えた。
僕もウカウカしてられないなとモティベーションアップにもなったとてもとても有益な出来事だった。
(本当の日記はさすがに非公開)

2001 4/19
出来事メモ、進路関係

34日間にわたる東京滞在

エニックスでお世話になった歩仁内さんや樋口などの元同期に
一年以上懸念だったモンゴル土産を渡す&進路報告と休暇を目的に東京に行った。
基地としては西小山の伊藤の家と若松河田の安藤の家に
泊めさせてもらった。実に様々な場所を歩いた。
沢辺かおりとばったり出会った代官山、青山アパートやパティスリーがうまかった表参道、
4年ぶりに行った原宿と裏原宿、中大の大学院がある市ヶ谷では
ロッカーとノートパソコンを貸し出してくれて情報基地となった。
代々木のオリンピックセンターには2年前にエニックス辞退を決心して以来の訪問だったし
森永留美子がインターンシップ店長をつとめる渋谷と新宿にあるネットカフェを利用させてもらった。
東大駒場前の民芸館、下北沢、銀座、たいめいけんのカレーのためだけに行った日本橋、
上野のアメ横、神田神保町では念願の天丼を食べ古本街にどっぷりと浸かった。
歌舞伎も見に行ったし(松本幸四郎と板東玉三郎の両方を見れた)、
10数年ぶりに行ったTDLではハニーハントを見れた。
恵比寿の裏にある日仏会館にも行った。安藤の実家から箱根に温泉も入りに行った。
実に動いた、そして心の休息をした。
思い起こせば中大の南さんの家にちょうど四年前1997年のこの時期に
長期滞在したがそこでの休暇や東京での経験がその年から始まった
吉本興業インターンシップや就職活動での原動力の一つとなった。
この長期滞在もきっと僕にとって大きな意味を持つことになるだろう。
    ↑
この時期の滞在が2002/9/6の東京大学大学院学際情報学府合格につながる

2001 2/22~3/27
出来事メモ

好きなことしないとイヤなことさせられるからと発言

<2978> inbox, 00/ 6/19 12:33 ps360953@askic.kic.ritsumei.ac.jp から 55行
標題: [ml-dokusyo 214] 好きなことしないとイヤなことさせられるから
期限: 00/12/16 12:33
宛先: ml-dokusyo@ml.ritsumei.ac.jp

らぶナベ@ビリヤードを最近練習しているんだけど
戦略と技術がバラバラでコマッチングっす(;_;)

さてさて、服部・・・
>僕が一番嫌いなものが法律だったから、それをきわめて
>「コツコツ」勉強している君はすごい!!
っていうか単に自分がわかってきたんすよ、最近。
僕って基本がすごく不器用な人間だから(何をやっても不細工になる(^^;)
平均の2、3倍やってようやく「人並み」くらいになるんすよ。
平均以上にやって人並みになる土台から始めるとすると
自分が好きだったり価値を見出さないことを本業にしてしまうと
人より2、3倍の苦痛は感じてしまってもうそれだけで
潰れちゃうかもしれないって気がついてきたんす。
それを防ぐためにも自分が好きと思えたり価値を見出せることは
本気でやらないといろんな意味でよくないなって思ってるっす。
だから努力とかがんばるとかいう語感よりは
ずっと安っぽい消去法のたまものなのです、はい。
そういう僕の性質を知っている人もいるようで法学はまったく手を
着けてなかった分野だったのに僕が弁護士になると決めた時に
お世話になっている人たちは誰も驚かなかったのはこのためみたい。

しかしコンピテンシー理論の文献紹介でさりげなく
恩師の著書をあげているところが服部らしいな(^_^)

そして藤江・・・
> 書名 :「就職!!インターンシップ」
> 監修者:福島直樹・尾形僚
> 発行所:(株)学生援護会
> 発行日:2000年4月1日
この出版社は思いっきり僕に取材しておきながら
(本社まで呼ばれて日記まで提出させられた)
完成した本もくれなかったし出版したこと自体の報告さえ無かったんすよ!!
「もうお前のとこの取材なんか受けてやるか!」って思ってるんだけど
「俺を敵にまわすとどうなるか教えてやる」と決めて
書店に並んでいる『an』の上に『フロム・エー』を置いてやったっす。
(そう、俺は危険な男)

> 号泣?
> 企画通り、インターン生ではじめて東京出張が決まった時、
>彼は泣きながらプロデューサーに電話したらしい、、、
> 、、、らぶナベが泣く、森元首相の当選くらい想像できないなぁ。
>よっぽど嬉しかったんやな。
(笑)これは吉本興業のMプロデューサー(現在関西テレビでやっている
『BAT-Corp』とiモード企画『バトラクション』のプロデューサーでもある)
の誇張がかなり入っているんだけどね(^^;
とにもかくにもやりたいと思えること嫌いじゃないことを
誰からも文句言わせないくらいにきっちりとやっておかないと
そのうち自分が嫌いなことをやらされることになるってことを
気づかせてくれたのがこのインターンシップだったような気がするっす。

ちなみに僕はいまだに自分は参謀タイプだと思っています、はい(^^)

“Quitters never win and Winners never quite”
Yoshihiro Watanabe:School of Policy Science

2000 6/19
出来事メモ

『就職!!インターンシップ』出版

僕の吉本興業インターンシップ日記をもとにした体験記を売りにした学生援護会の本が出版される。
『就職!!インターンシップ』(ISBN:4905582733)
漫画まで載っているが単なるやさぐれ男のような描き方だ。
散々取材しときながら出版しても一報も無いし一冊進呈もないなど
いろいろ不満はあるがこの本が出たことが後々僕にとって
良い方向で重要な意味をもたらしてくれることもあるだろう。

2000 4/1
出来事メモ、インターンシップ

内モンエピソード集

<2796> inbox, 00/ 4/19 19:31 ps360953@askic.kic.ritsumei.ac.jpから 107行
標題: [ml-dokusyo 203] 内モンエピソード
期限: 00/10/16 19:31
宛先: ml-dokusyo@ml.ritsumei.ac.jp

ようやく内モンゴル日記の清書&まとめが終わったので(総数1万4千字)
その中からこの前アップしそこなったエピソードをいくつか
ピックアップするっす(細かいこと知りたけばまたメールください)・・・

「デインジャラスタウン・フフホト」
何だかんだ交渉して内モンゴル最大の都市フフホト(呼和浩特)市から
ツアーと別行動で草原に向かうことになったものの直前に調整したために
これから僕が訪ねていく場所についても便乗させてもらうことになる
人たちについても詳細は直前まで把握できていなかった。
さらに話をつけてくれた人からは「どういう人たちかはあまり
よくわからない、もしかしたらやばいかも」とまで言われていた。
草原に向かう車に乗り込んだ時に初めて一緒に行く人たち(訪ねる家の
娘さん夫婦にあたる内蒙古新聞記者の二人と旅行会社の副社長さん)と
顔を合わせたものの英語がほとんど通じないので独力での意思疎通は
筆談しか方法が無かったが車がとても揺れるのでそれもろくにできなかった。
日本語をある程度話せる旅行会社の副社長さんににお願いして
通訳してもらおうとしたが紹介してくれた人からこの人物は
金の亡者のような人なのであまり信頼のおけないということを
さんざん聞かされていたのでかなり慎重に接することにした。
さぁ、出発しようというのに車の中ではみんなほとんど話さなかったし
車が走り出すとさらにみんな黙りこくってしまってしまった。
そんな中、車は草原に向かうはずなのに急にスピードを上げて
フフホト市内のスラム街のような場所に入って薄暗い路地裏に停まり、
みんな黙って降りていった。そして長い間ほったらかしにされた。
・・・これは話に聞く誘導する役と実行する役が別れた強盗か?
と思い「ここで死ぬのかなぁ」と妙に覚めた気分になってしまった。
どうも僕は普段必要以上に小心な面がある反動からか、
ここ一番になると変に開き直ってしまって自暴自棄のような気分に
陥ることがある。この旅も最初から危険を覚悟して行ったものなので
「念願の内モンゴルに来て死ねるならそれでも良いかな。
どうせなら2、3人は道ずれにしてやろう」と考えているとみんな帰ってきて
いきなり僕が座っている後部座席に大量のビールを置いた。
それから僕にビール缶を渡して「飲め」というジェスチャーをされた。
何じゃそりゃ?と気が抜けたようになりながら飲んでみると
初めて笑顔で話しかけてきた。後で親しくなってからこの時のことを
聞いてみると初対面の人と会ったときには酒で挨拶をするもので
酒を仕入れてから挨拶しようとしただけのことらしい。
(スラム街のような場所に行ったのはそこのビールは安かったためらしい)
・・・危険な街、フフホト市。

「内蒙古大学」
フフホト市にある内蒙古大学を訪問した。
そもそもこの旅は「内モンゴルで教育プログラムをおこなう際に
どのような機関とどのような連係ができるか調査して来い」という名目で
お金が降りていて教授からは「現地で何かする時に日本語が通じる
ポスト役を見つけて来て欲しい」とも言われていたので
内蒙古大学に行くのはいわばお仕事にあたる。
内蒙古大学は中国10大大学という区分に入る総合大学らしく訪問すると
まず日本語学院の張教授という人と事務長さんが出てきてくれた。
一通りこちら側の事情を話してみると「どのようなかたちでも
ぜひ協力したい、私の生徒たちを通訳に使ってくれ」と好感色だった。
やたらと好意的なのも気持ち悪いのでちょっとさぐりを入れてみると
何でも無料だった大学が最近有料化してサーヴィス提供ということを
突きつけられるようになったらしいが内モンゴルに入ってくる日本語は
すべて書き言葉やニュースなどの丁寧語ばかりらしい。
(日本語は丁寧語と日常語との差が激しいので有名な言語)
大学としては日本語を学ぶ学生に対して現地で話されている生の日本語と
接して欲しいと思っているがなかなかnative日本人と接する機会は無く、
特に学生と同じ年代の日本人と接する機会が無いのが悩みの種らしい。
だからどのようなかたちでも同年代の日本の学生と接する機会を
持ちたいと強く願っていたところだというのだ。
また、張教授は初対面なのに正直に中国の大学の現状なども話してくれた。
自然と「この人は信頼できる人だな」と感じることができたので
彼から「授業に参加して欲しい」と言われた時は快諾した。
教室に入ってみると確かに使っている教材はちょっと古い。
実際にこの教育を受けて日本に来るとちょっと
ギャップがあるだろうなということがよくわかった。
学生とも1時間ほど話せたがなかなかに面白い。
これからどういうつながりになるのかは教授会で決まることだが
個人的にも良い体験をさせてもらったと感じられた。

「草原の風」
草原ではこの大地にいることが嬉しくて一人で遠出の散歩をした。
小高い丘の上に立って周りを見渡してみると180度すべて地平線と
雲一つない青空だけの空間に立っていることに気づいた(当たり前だが)。
ふと大声でいろんなことを叫んでみる。
怒り、憤り、悲しみ・・・日本では大声で話す機会の無いことを
思いっきり叫ぶと草原にふいている風がそういうものすべてを
持っていってくれるように思えた。
小高い丘の上は特に風が強かったので思い出の写真などを
草原の風に飛ばして家に帰る。
帰って聞いてみると僕が思いっきり叫んでいた声などは
まったく家の方には聞こえていなかったらしい・・・
と、いうことはあの時僕に何かあって助けを呼んだとしても
誰も助けには来てくれなかったということか、ちょっとどきどきっ(^^;
2000 3/19~25
出来事メモ、海外体験記、インターンシップ

内モンゴル体験記への質問に答えて騎馬民族&中国観を述べる

<2769> inbox, 00/ 4/ 5 06:53 ps360953@askic.kic.ritsumei.ac.jp から 118行
標題: [ml-dokusyo 202] 漢の風、楚の雨、蒙の草
期限: 00/10/ 2 06:53
宛先: ml-dokusyo@ml.ritsumei.ac.jp

モンゴル族のある旗(部族のようなもの)では自分の子供にできるだけ
「イヤな名前」をつけるという習慣があるらしくて縁起が悪かったり
マイナスの意味がある戸籍名を持つ人もいてるらしい。
例えば僕がお世話になった内蒙古新聞の記者の同僚にすごい美人さんが
いるらしいがその人の本名は「ブス」さんというらしい(@@)
他にも「馬糞」くんという名前まであるらしい!
・・・何でもイヤな名前をつければその子に来る不幸はすべて名前の方に
吸収されて本人は逆に幸せになれるという言い伝えがあって、
子供の不幸を避けるためにあえてイヤな名前をつける習慣があるらしいが
「馬糞」という名前がついていること自体、本人にとっては
生まれながらにしてかなりの不幸じゃないのか?と思わず突っ込んだ、
らぶナベ@まだまだ僕は異文化理解が甘いなっす(^^;

>誰も感想寄せないのもさみしいし(登録者は多いのにね)ということと、
相変わらず気づかいの人だね、ありがとっ。
日本に帰ってきたことを実感できてホッとするっす(^^)
ま、でも何も無しでも良いんじゃない?
そもそも読書を含めて知的活動なんてものは個々人差のあるものだし
変に気をまわしてやるものでもないんだから。
(勝手に気が向いたときにやれば良いし気が向かなければずっとなしで良い)
以前は僕も「せっかくMLなんだからみんなも」と思った事もあったけど、
よく考えたらMLがある無しに関わらず僕がやる事は変わらないし
何よりも単にアップするだけでも自分にとってすごく大きなメリットを
もたらしてくれるってわかったからのんびりしているっす(^_^)
中国風に書けば普段の僕の活動は動(=陽)でMLを含めた読み書きは
静(=陰)に当たるものだから静に関しては捉える尺度を
長くした方が良いと思っているっす。

ところで・・・
>なんかNHKの番組のような旅をしてきたようで、うらやましい限り。
いやぁ、確かにマレーシアの熱帯雨林に行った時もそうだったけど
普通の観光では行けないような場所に行けて会えないような人と会えた
体験ができたのが良かったっすよ。日本に帰ってきてから知り合いの
彫師の人に「若い間に旅をしろ。老いてからする話が無くなるから」
という言葉があることを教えてもらったけど
何十年か後でも話せるネタができたっす(^^)
(追加でかかった費用を大学に落とさせることにも何とか成功)

>で、これを読んでいて疑問に思ったわけですが、
>酒に弱い人間は淘汰されてきたのなら、モンゴル人は総じて
>アルコール耐性は高い(分解酵素を保有しているだったっけ??)と
>思われるわけですが、
「淘汰」って言ってたのは遺伝子的な意味ではないと思うよ。
(モンゴロイドは総じて人種的にアルコール耐性は弱いとされているし)
「自分の限界を超えた時にコントロールできないやつは生きていけない」
・・・という風な後天的な意味合いだったと思うっす。
騎馬民族は基本的に移動しながら生活するし、農耕と違って放牧は
近くに寄り添ってはおこなわない。(すぐ草が無くなっちゃうから)
だからもし自分に何かあったときには自分自身で対処できないと
そこで人生が終わってしまう、特に自分の限界を超えるような
「非常の時」でもちゃんと自分をコントロールできるやつじゃないと
隣人と時に何十キロも離れてしまうこともある生活はできないって事っす。
吐かなければ死ぬ時に吐かないような人間は死ぬのが当然・・・
そういうしれっとした厳しさを感じたっす。
これは農耕民族ほどは寄り添っては生きない騎馬民族独特のものだろうけど。
だから結婚の時にモンゴリアンナイフの使い方を見るのもそうなんだろうね、
家族単位でサバイバルするような場合もあるのにろくにナイフも使えない
男には自分の娘はまかせられないと思う事はけっこう自然なことかも。

>モンゴル人全体では、アルコールによって引き起こされる
>トラブルは少ないんでしょうか??
とんでもない!とんでもない!
モンゴルの人は酒癖悪いのでかなり知られているっす。
気に入らなければすぐにケンカするし簡単に人を殴ろうとすることもある。
自分の身は守るし気に入った人間は歓迎するけど気に入らなかったり
自分の敵だと思ってしまった時は躊躇無く実力行使をしてくる。
・・・これも騎馬民族としての特色かな?
もちろん個人差はあるし状況にもよるんだけど総じてこんな感じっす。
これがモンゴルとしての「使い慣れたフライパンについた油のようなもの」
=「文化的特色」みたいっすよ。

>また、北京の自己責任は本当にうまくいっているのか知りたいところです。
単に言葉としての自己責任って感じじゃなくて当たり前の習慣として
御上はあくまで御上で自分は自分って感じを受けたっす。
ただ自分というものの範囲は日本人よりも広いのかなって感じはしたっす。
自分より三代くらい前と三代くらい後まではまさに「自分自身そのもの」で
だから子孫を残せない事が今でも一番の不幸に当たるらしい。
そして今中国社会で中心的になっている世代の三代前といえば何と清朝時代!
清朝から長い動乱の中で辛亥革命→中華民国→軍閥闘争→都市部は日本占領
→国共内線→中華人民共和国と実に御上がころころと変わっているっす。
(ここらへんの経緯はユン・チアンの『WILD SWAN』に詳しい)
さぁ、ようやく社会主義国家になったと言ってみても社会的な意味で
本当に社会主義政策を貫いたのはわずか20年たらずしかない、
さらにそのうち10年間は文化大革命で社会は大混乱に陥っていた。
この20年は徐々に社会主義から自由主義に移行しているって感じっす。
つまり中国では一般的に「最近」に入る三代前から今まで国の枠組み自体が
長期間に渡って一定のものに固まった試しがないんす。
だから僕らが言う国家とか御上というものとはまたかなり違ったニュアンスが
漢民族が捉える国家というものは持っているんだろうなっていうのが
中国に行ってみて感じた違和感の帰ってきてからの僕なりの理由づけっす。
日本に帰ってきてから僕もやっぱり気になってしまって中学の時に読んだ
司馬遼太郎の『項羽と劉邦』上中下巻を一気に読み直してみると・・・
(読み始めると面白いので途中でやめれない(^^;)
「この大陸では古来、村ごと民が餓死するようなことがしばしばあり、
時に村や地域ごとに流民化する。流民化した民は英雄に集まる。
英雄とは飢える時代に民を飢えささない程度に食わせる人間を言う。
・・・本来的な意味での英雄にあたる人間は日本史には存在しない」
というようなことを書いてあったけどまさに僕の中国で感じた
市民と国家との関係はこのようなものだったっす。
だからこそアクの強いリーダーが出てくる土壌があるんだろうね。
中国国民が社会主義を選んだというよりも単に毛沢東という
自分たちを食わせてくれるリーダーを選んだというだけであって
そのリーダーがたまたま社会主義思想を持っていたというのが
正確なところじゃないのかな?
毛沢東は後に権力闘争を激しくおこなって文革で中国全体を恐慌状態に
陥れたけどいわゆる独裁者につきものの強力な秘密警察っていうのは
結局最後まで持たなかった。毛語録などのシンボルを通して
農民自体を直接に率いたって側面が強いのはこのためだと思う。
・・・中国って深いね(^^)
強い違和感を感じながらも何か魅力を感じてしまう。
おかげで以前読んだ時とはまた違った『項羽と劉邦』の読み方ができたっす。
ちなみにこの本の連載当時の題名は『漢の風、楚の雨』らしいくて
そこに中国の多様さ、深さを表そうとしてつけたらしいんだけど
今の僕なら『漢の風、楚の雨、蒙の草』ってするところっす(^o^)

“Try if you complain or Don`t complain if you`re not willing to try”
Yoshihiro Watanabe on School of Policy Science in Ritsumeikan
2000 3/19~25
出来事メモ、海外体験記、インターンシップ

内モンゴル草原記

これまでいろいろ難局&挫折があったが念願の草原で生活する
遊牧の人の家に訪問することができた!(それも大学の費用で(^^))
一時は諦めかけた事もあったが苦しい時こそ
自分にプラスになることをする僕の必勝法はここでも有効だった。
以下、読書会にアップした体験記など・・・

<2754> inbox, 00/ 4/ 1 02:03 ps360953@askic.kic.ritsumei.ac.jp から 135行
標題: [ml-dokusyo 200] 内モンゴル体験記
期限: 00/ 9/28 02:03
宛先: ml-dokusyo@ml.ritsumei.ac.jp

内モンゴルから生還した、らぶナベ@やっぱり大陸&騎馬民族はすごい(^_^)

もともと中華人民共和国内蒙古自治区で砂漠化防止活動をしている日本人が
主催している植林ツアーに便乗させてもらって(その方が何かと安い)
途中、草原で放牧しているモンゴル族を別行動で訪ねるという方針で出発。
ところが大寒波が訪れているということと植林をしている日本人の拠点から
草原が遠いこととでかなり難色を示されて交渉は予想外に難航、
途中の北京でねばって許可をもらい、その日本人の知り合いのモンゴル族の人の、
さらに友達の内蒙古新聞で記者をしている人の奥さんの実家の里帰りに
便乗させてもらうことになった、こう書いてみても実に遠いつながりだ(^^;
内モンゴルの中心都市フフホト(大阪に匹敵するくらいの人口)から
車で道なき道を越えに越えて草原にたどり着いた。
乗った車はおんぼろトヨタ車それも二輪駆動だったがトラックが
横転しているのに誰も驚かない山道をかなりのスピードで越えていった。
ホンの少しのハンドリングミスで即死だろうという道を車で行きながら
「日本車ってヤルなぁ。日本で四輪駆動なんて必要ないよな」
などとしょうもないことに想いを馳せてしまった、
もしあそこで死んでいたら思考がもったいなかったな。
また、新聞記者の人の奥さん(後で聞くとこの人も新聞記者)が車の助手席で
どう見ても何の特徴も無い平原で「右、そこは左!」と
テキパキと指示しているのには驚いた。さすがは草原の民。

草原のお宅に訪問するといきなり「スーテイチエ」という
しょっぱいミルク茶と山羊の乳を煮つめたチーズ状のお菓子を出してくれた。
どうも騎馬民族にとっては客を自分の家に招くことは小さなお祭りで
さらに遠ければ遠いところからの客が良いとのことでかなり歓迎してくれた。
モンゴル語が話されているとは言え、内モンゴルは中国領なので
コミュニケーションは筆談が通じるのでかなり助かった。
ある程度日本語が分かる人がいたのも大助かりで意思疎通は問題なかった。
日本語とモンゴル語は文法的にはハングルや中国語よりも
遙かに近い存在なので単語さえ覚えればマスターするのは簡単らしい。
最初に「酒は弱いのであまり飲めない」と強調していたにも関わらず
噂に聞いたアルコール度数最低40度の酒を振る舞われた。
モンゴル式の乾杯を教えられて最初からがんがんに飲まされた、
テーブルを囲んだ一人が飲もうとする時に回りも合わせて飲まなければ
いけないというルールはかなりつらかった。
もうかなり酒も回ってきたというところで羊を一頭まるまる
塩ゆでしたものをボーンと出されてモンゴリアンナイフを渡された。
モンゴリアンナイフで自分で骨を砕き肉を切りながら食べるようだ、
モンゴルの男は結婚するときに舅の前でモンゴリアンナイフをちゃんと
使いこなして羊を食べられないと「ダメな奴」と思われるらしく
やたらと丁寧にモンゴリアンナイフの使い方を教えてくれた。
(後で聞くと僕は騎馬民族好きする顔立ちらしくどこかの家に
入り婿することがあった時に困らないようにしてくれたようだ(^^;)
羊の塩ゆでは意外にあっさりしていて美味しかった!
塩ゆでしたお湯にお米を入れたスープもうまかったがちょっと引いたのは
噂に聞いていたトマトにやまほど砂糖をかけたものだ。
一度食べてみるとなかなかいけたけど羊の頭なんかよりも
こっちの方がずっと手をつけるのに勇気が必要だった。
総じて美味しかったがその夕食をあてにまた酒を飲まされた(^^;
用を足しに外に行くと星がぐるぐると回っている(三半規管がいかれている)、
ちなみにトイレというものは無くてどこまでも広がる草原と青空の下で
用を足す、とても爽快でこういう生活もあるんだなと思うが
夜は真っ暗なのでちょっと危険。
テーブルに帰ってきて「もう酒はダメだ」と訴えると女主人が
歌を歌ってくれた。聞き入ってみるとどうも酒を勧める歌らしくて
またまた飲まされた(;_;)
家の人が眠りについてようやく眠ることができたので泥のように眠ったが
夜中急に気分が悪くなってしまった、外に出て吐こうと思って駈けたが
戸の開け方がわからずにそのまま床に思いっきり吐いてしまった。
悪い事したなと思ったが真っ暗でどうしようもなくこれで家の人を
起こすのも悪いので次の日の朝に起きてかたずけようと思って眠った。
朝起きると家の人が僕の吐いた物を掃除してくれていた。
寒いので完全に凍っていてほうきの裏でパリンっ、パリンっと割って
ささっと片づけるだけなのでかなり簡単&清潔だった。
そうはいっても悪いので謝ろうとすると家の人も僕を連れてきてくれた
新聞記者の夫婦もすごくニコニコしていて昨日よりもずっと親しげだった。
よくよく話を聞くと騎馬民族にとって客を吐かせるくらいまで
もてなすというのが最高のもてなしらしい。
そしてそこまで飲む客というのは客として一番最高のお返しを
主人にしたということになるらしい・・・なんて身体に悪い文化だ!!
僕はちょっと気に入られたのでモンゴル式の最高のもてなしをしてくれて
それを僕がちゃんと受けたということらしいが「死ぬ人もいるでしょう?」
と聞くと「いる」と平然と答えて「そういう人間は淘汰される」と
涼やかに言ってきた、さすが騎馬民族そういうところはやはりシビアだ。
(もし吐かなければ僕も死んでいただろうし)
そんなこんなで朝食を取ろうとするとまたまた酒を勧められた、
これもお礼らしい(^^;
どんなにか「アルコールの強制は犯罪です」という大学パンフレットを
出してやろうかと思ったことか・・・。
朝食は昨日食べ残した羊の塩ゆでをモンゴリアンナイフで切って
しょっぱいミルク茶にぽんぽんいれて食べたが不思議な感じがした。
さぁ、そろそろツアーに合流しようかと思って出ていこうとすると
「待て!」と強引に引き留められた、「ホーショーロ」という
モンゴリアンバーガーをつくっているそうだ。
話を聞いてみると騎馬民族は自分の家に客が来るとその客を腹一杯に
させないと自分の家から外には出しては行けないという文化があるらしい。
冷静に考えればかなりひどいことをされているんだけどそれが別に
イヤという感じはしなかった、これは騎馬民族が自分も移動するため
来た客とは本当の意味で一期一会ということみたいだ。
だからその人間が食べる一生分の食べ物と酒を振る舞う、
次の日に死ぬことだって普通なんだから。
春先は一番草原が痩せている時期らしく(冬で蓄えは食べ尽くし
羊は子供生むのにそんなに草がまだ生えていないから)
この時期に来る客自体がめずらしいのに日本から来たということで
最大のもてなしをしてくれたということらしい。
僕を送り出すときもふるっている「お前に子供か孫ができたら
また連れてこい」ってさらっと言われた。
時間の進み方が日本人とはまた違うみたいだ、
自分から三代前と三代先はつい「最近」にあたるらしい。
特にモンゴル族は移動する騎馬民族なので珍しい客や気に入った客は
子供たちに語り継いで物語として忘れないようにしているそうだ。

また日の高いうちに羊飼いをさせてもらったが「羊に信頼される」という
ことってあるんだと実感、僕の場合はたまたま信頼されてラッキーだった。
訪問したお家とその一体は女系なので最後の最後まで
「どうだ?お前は騎馬民族としてやっていけるからここらへんの娘を
とらないか?ハーン(大将という意味もあるらしい)になれるぞ」と
薦められた、老後になったら考えても良いかな?(^^)

そんなこんなでモンゴル族の住んでいる草原は草原でスケールの大きな
風景と人間関係を感じたが大陸自体規模が違う!
北京も普通の道に人とチャリが溢れていて人とチャリは信号を守らなくても
良いので好き勝手動き回っている、そこを車がほとんどスピードを落とさずに
通り過ぎる。本当に日本では殺人クラスの道路状況だ。
交通事故で毎日死人が出ているが誰も歩道橋をつくれとか文句は言わない、
「下手なやつは淘汰されるんだよ」現地で知り合った漢民族の人間は
そう平然と話していた、国や誰かになんとかしてもらおうという
意識が基本的に希薄だ。だからこそ自分の血縁を大切にするんだろう。
国が王朝だろうが資本主義だろうが社会主義だろうが関係ない、
それぞれの家族は自分の生活をして上が自分たちを食わせられない
状況になれば(餓死者が大量に出れば)上を変えるだけだ。
だから現地では天安門事件もかなり冷ややかに捉えられている。
「食わしてくれた(餓死者は出ていない)んだから悪いことはない、
あれを起こしたのは西洋型の教育を受けた学生だ」と言い切る人間もいた。
そういわれてみれば歴代の中国の王朝は漢民族以外の征服王朝が多いが
それらの異民族もいまではすべて漢民族に融けてしまっている。
(最近の清朝満州族でさえもう識別できない、ただしモンゴル族だけは例外)
物や数だけでなく時間も雄大な捉え方をしている、
「こんな国を征服しようとしたらダメだな」とふと思った。
『蒼天航路』の世界はまだ生きている。
2000 3/19~25
出来事メモ、海外体験記、インターンシップ