政策科学研究科修士論文口頭試問

別のリサーチプロジェクト所属のはずの佐藤教授も審査委員をやってくれた。
案の定、けちょんけちょんだった(^^;
おかげで「論理性のより一層の一貫性」、「道具については道具論に徹する」、
「しつこいほど見直す」という三点の必要性をあらためて感じられた。

2002 2/14
出来事メモ、進路関係

京極夏彦 『狂骨の夢』  講談社 2000

諸葛孔明って良く考えたらヒキコモリだったのだろうかと、
三顧の礼の伝説をいぶかっているNA-Beっす。

さて、『狂骨の夢』京極夏彦(講談社文庫)2000年初版。
間違いなく僕が手にした本の中で一番気持ち悪い表紙の本(^^;
それなのに読後感は妙にすがすがしかった。
そのギャップが楽しい京極堂シリーズ第三作目。
たぶんこれは京極堂シリーズの特徴である”憑き物落とし”の面が
すごくはっきり出ているからだろう。
特に最後のページ(969page)の最後の台詞によって
読んでるこちら側の”憑き物”も落とされた気分になる。

前作の『魍魎の匣』は境界を越えてしまった人々の話に思えたけど
今回の『狂骨の夢』は執拗を捨てられなかった人々の話に思えた。
生々しく感じられた前回と比べてやけに淡々と読めのは
生体よりも骨の方がやはり何だか”枯れた”感じがするからだろうか。
燃えも腐りもしない骨に執拗を込める人々の哀しい滑稽さが印象深い一冊。

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2002 2/7
小説、文学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『魍魎の匣』 講談社 1999

週末に長野県に行くことになった、らぶナベ@白馬岩岳っていう場所っす。
土地感のある人はおしえてくださいです(^^)

さてさて、『魍魎の匣』京極夏彦(講談社文庫)1999年初版。
『姑獲鳥の夏』がすごく良かったのでその読後感を愉しんでいたけど、
シリーズものとしても読みたくなったので購入した『姑獲鳥の夏』の次作。
『姑獲鳥の夏』を超える分量の厚さと表紙のおどろおどろしさに案の定ちょっと引いたが、
電車の中でブックカヴァーなしに読んでしまうほどハマってしまった。

京極夏彦の作品はある瞬間から読むことがやめられなくなる。
“欠けている気持ち悪さ”をどうしようもなく感じさせられて、
それこそ”憑かれた”ように読んでしまう。
(トイレも我慢してしまうほどの活字体ってめずらしい)
これがまさに”憑きもの”なのだろう。
“憑きもの”の手法を小説自体にも使われているのがわかっているのに、
それにはまる自分がちょっと悔しい。

この作品では間にはさまれている小説やアンケートを関連付けさせていく快感があった。
特に”詫び状”の意味を知ったときの衝撃はすごかった。
ただ読み終えて振返ると『姑獲鳥の夏』よりもう一つイムパクトが足りなく感じている。
理屈っぽい京極堂の前置きが前作のように終結部分で完全に合わさってくれないからだろうか。
だから読み終えて振返る印象は端々で感じたグロテスクなものが多い。
それをちょっと残念に思う僕は彼の作品に美しさを求めているのだろうか?

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2002 2/3
小説、文学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『姑獲鳥の夏』 講談社 1998

今月19日でようやく立ち上げて半年になるのに
既にまろまろさん2万人突破してくれて嬉しいらぶナベっす。

さて、2002年最初に読んだ本をば・・・
『姑獲鳥の夏』京極夏彦著(講談社文庫)1998年初版。

参りました。年初から心地よいほどの敗北感です。
京極堂シリーズはかなり前からその存在や話題性も知っていたけど

魑魅魍魎を題材にした推理小説ってなんか薄っぺらそうで読む気がしなかった。
ただ読書禄を読みなおすと去年は年初からデカルト(『方法序説』)を読み、
その後も法律書などを読みつづけた一年だったので
たまには違った感性と触れようかと思っていた。
そんなときにタイミングよく論理的で冷静な友人が薦めてくれたこと、
どの巻の巻末にも参考文献が充実しているのに好感が持てたことなどのきっかけで
「ものは試し」とシリーズ第一作となるこの本を購入してみた。
購入してからも文庫版の表紙がオドロオドロしくて
「ちょっとなぁ」っと読書を躊躇していたけれど、読んでみると・・・

・・・参りました。
まず精神病理学、民俗学、薬学、量子力学などの科学理論を道具に
超常現象(と言われている物事)を解明していく爽快感にひきつけられた。
この点はウンベルト=エーコの『薔薇の名前』に通じる。
(演出の道具が馴染み深い分『薔薇の名前』よりも共感できるかな)

しかしこの作品最大の特徴は何を置いても「文字の美しさ」だろう。
映像化を強く反対するファンたちがいると聞いたが、
それは配役のイメイジが合わないからだとかいう理由じゃなくて
この作品最大の魅力が文字に込められた美しさにあるからなんだろう。
かつてまだメディアが口伝と書伝しなかった頃、
つまり”言葉”が全てのメディアだった頃の”文字”や”言葉”が持つ
魅力、魔力を現代に生きる僕たちの前にかつてと同じように再現してくれる。

推理小説としてのプロット自体は江戸川乱歩や横溝正史の出涸らしのようなものだけど
この本に出てくる文字と文字から構成される言葉に魅了されて
そんな後から突っ込める部分はお構いなしに引きこまれてしまった。
著者がもっとも表現したかったのは推理でもミステリイでもなく、
“言葉”の持つ美しさなんじゃないだろうかとまで思えてしまう。
推理小説という演出を使って言葉の魅力を語ろうとしているのではないか、と。

気がつけば物語最中に感じる昂揚と終わって感じる哀しさ。
これは日本の伝承物語(メディア)に共通した基本形だ。
いまにいきる僕らにもその日本美を感じさせてくれる物語がここにはある。

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2002 1/8
小説、文学
まろまろヒット率5

まろじぇくとX「イヴの慣習に立ち向かえ」

エェーックス!

(田口トモロヲ風のナレーションで)
それは、日本中が、最も華やぐ夜だった。
クリスマス、イブ。
愛を語らぐ、恋人たちが、街にあふれていた。
街中のイルミネーションが、二人を祝福しているかのようだった。

そんな、街の喧騒の中に、たたずむ男がいた。
「なぜ恋人のいる人間だけが楽しそうなんだ」
男は、思った。
「憲法13条に幸福追求権というのがあるじゃないか」
わけのわからない、理屈だった。
「恋人のいない人間でも楽しめるイヴがあってもいいじゃないか!」
誰もが、その叫びは、むなしく街の喧騒に消えてゆくかに思えた。

これは、社会の慣習に立ち向かった、名も無き人々の壮大な物語である・・・
(西中島みふきが歌う「妄想の星」が流れる)

・・・っと言うわけでそろそろ初のオフ会を開催しようかと思ってまふ。
いまのところ開催予定地は関西のどこか(梅田か難波あたりが有力)、
開催日は当然ながら(?)12月24日にしたいっす。
ただし今年は24日が月曜日なので22日(土)か23日(日)にするかもしれません。
詳細は参加者の希望を集めてから決定します。

また別にツンドラーのリストじゃなくても参加OKですし、
カップルでの参加もOKっす。

まろまろHPの読者(まろまろさん)は趣味も世代もまったく違うので
たぶん集まったとしてもまともな会話が成立しないと思うんですが
そのかみ合わない空間がまろまろして楽しそうです(^^)
好きな本のことなどまろまろと話しましょう。

誰も集まらなかったら集まらなかったでこっそりと痛いイヴの夜を過ごします。
たった一人のOFF会・・・痛いものコレクターとしてそれもまた可也!

希望者がどれだけいるのか知りたいので参加しようかなぁっと思う人は
とりあえず僕の方までメールください。

エェーックスゥ!!

(田口トモロヲの棒読み口調で)
よしなべは、迷った。
「参加したいけど24日は・・・」、「彼女がいることだし・・・」、躊躇の声が相次いでいた。
思い返せば、HPは、立ち上げてまだ半年も経っていなかった。
「やはり一日ずらすべきでは?」、その思いが頭を悩まし続けた。
そんな、迷いの中で、Xmas特別番組の番宣が目に入った。
「X’masをMステや明石屋サンタを観てすごす、多くの不幸な日本人がいるじゃないか。
その人々の声無き声に応えるのが俺たちの仕事じゃないか!」
自らの原点を、思い出した。
そして、決断をした・・・。

・・・っというわけで詳細が決定しました。
○日時は12月24日イヴの夜(>_< )夕方6時~。 ○集合場所は梅田の阪急乗り場手前の広場、別名"BIGMAN前"。 ○プレゼント交換会をするので一次会参加者はプレゼント用の"本"を持ってきてください。  (集合場所の前は紀伊国屋なのでそこですぐGET可能です) ○当日飛びこみ参加OKですが連絡の点から  「もしかしたら参加するかも?」という人は  事前にその趣旨を僕の方まで一報ください。  また、お財布がさみしんぼ倶楽部なら本のプレゼント交換はナニゲに無しにしますので  そういう人がいれば遠慮無く僕の方まで教えてください。 (田口トモロヲ風の投げやり口調で) 運命の日が、来た。 12月24日、クリスマス・イヴ。 皆が、涙を堪えて、必死で笑顔を作ろうとしていた。 そして、本のプレゼント交換会が、始まった。 よしなべは、「自分の原点に環ることができる本」をテーマに選んでいた。 タイトルを明かす直前、ふと、参加者の一人に投げかけてみた。 「貴方にとって原点に環ることのできる本ってどんな本ですか?」 「自分にとっては『ぐりとぐら』」という答えが、返ってきた。 ・・・そのとき、奇跡は起こった。 よしなべが選んでいたプレゼントは、その『ぐりとぐら』だった。 偶然という一言では言い尽くされない出来事だった。 この瞬間から、クリスマス・イヴの夜は、恋人たちだけものではなくなった。 思いは通じる、夢は叶う。 (西中島南方みゆきの歌う「テールスープ、ヘッドフィッシュ」が流れる) ・・・っという訳でオフ会をまろまろとやっちゃいました(^^) いやぁ、ホントにびっくりっす! こんなことってあるんですね、本って不思議です。 その人の外見や見た目の雰囲気からは決してわからない 感性の部分を垣間見ることができるので 本のプレゼント交換会はかなり良いイベントだと気づきました。 これからも機会があれば開催しようと思います。 参加希望者は随時募集っす。 (できるだけ希望者に合わせて開催します) みなさんにとって「原点に環えることができる本」ってなんですか? その本が今回のように誰かにとっても同じものかもしれませんね(^^) 2001 12/24 出来事メモ、まろじぇくとX

鷲田小彌太 『Eureka! 哲学がわかった!』 日本実業出版社 2001

これが2001年最後に読み終えた本になる、
らぶナベ@今年最初に読んだ本がデカルトの『方法序説』だったので
21世紀最初の年は哲学書に始まり哲学書に終わった年になった。
総数は18冊、予備校の課題や院の研究でほとんど通読はできなかった(^^;

さて本題・・・
『Eureka! 哲学がわかった!』鷲田小彌太著(日本実業出版社)2001年初版。
哲学史の流れや主な議論を一通り知りたかったので購入した一冊。
これ系の本はいろいろあって書店で迷ったが、
脳死や情報化といういま現在のテーマに積極的に取り組んでいる
著者が書いた本だという点と索引が充実している点でこの本を選んだ。

哲学や論理(思考法)を誇る人間は自分が一番正しいと思う癖があるからか、
自分の思考の射程を自覚しない幼稚さや見苦しさを感じることがある。
中学の時に一人はいた嫌な教師を見るようで
「こんな風にはなりたくないな」と思ったりすることも多々あるが
この著者はその点をかなり自省していて彼の視点の説得力と好感を感じる。
(本当の思考&論理とはこうではなくてはと思う)

著者は自分の処女作が世に受け入れられなかったことについて
他人のバカさ加減を嘆くでもなく萎縮するでもなく、
「考えは間違ってなくても表現が悪かった」と素直に捉えて
ベストセラーライターになり結果として処女作が哲学の古典となった
ヒュームにかなり好感を持っているようだがその姿勢が伝わってくる。

そのためか現代的なテーマである情報化やネットについては・・・
・考える前の作業(哲学以前)をコンピュータがやってくれるのが情報化社会
 →広く、深く考えられる時代が万人に開かれている

・ネットなどの情報化社会は言葉が飛翔可能な世界
 (言葉だけで解決ができる社会)
 →言葉の生産者になって=哲学者になって
 この社会を真正面からいききと生き抜いてみようではないか
・・・と積極的に捉えようとしている。
この点は今年の夏にHPを立ち上げて僕自身が実感していたことでもあったので
この実感に言葉を与えてくれたのには嬉しかった。
これだけで僕にとっては評価★★★★(^^)

そして哲学の定義については・・・
・哲学とは考えることを考えること(thinking of thinking)

・諸科学はその分野に特有の見方(パラダイム)を持っていて
 科学者たちはそのパラダイムを当然の前提にする
 ←哲学はそのパラダイムのあり方それ自体考察対象にする

・哲学者は言葉のアーティスト、哲学は思考の技術

・哲学(philosophy)の語源はピタゴラスが
 「私はsophos(知ある者)でなくphilosophos(知を愛する者)だ」
 と答えた伝説にある←西周も当初は「希哲学」と翻訳していた

・哲学の最高で根本的課題とは真の存在は何かを問うこと
 +それをどのように知ることができるかを明らかにすること

・哲学することはどんな困難な問題を考えるときも
 考える快楽を持ち続けることである
・・・という風な表現を使って端々で触れている。

また、コラムで『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)の話があったのにも
興味を引かれたが特に本文で紹介した哲学者たちそれぞれの死に様を
巻末付録として掲載していたのは”哲学者”だけに興味深かった。
なかなかツボを押さえた一冊と言える(^^)

以下はその他にチェックした箇所・・・
・どんな鋭利なものも一部の人間の間でしか通用しなければ意味がない
 →哲学は流行を嫌うが流行した哲学が生き残った

・驚きは哲学の始まりと言ったのはソクラテス

・近代西洋は血縁的には無縁に近いギリシア文化を
 自分たちの先祖として自分のものにした
 (エジプト・メソポタミアが当時イスラム圏だっため)

・近代哲学が合理主義と言われるのは人間の理性を正しく発揮できれば
 真理の認識に到達できるという姿勢から→合理主義≒人間主義

・ヒュームは苦労して出版した処女作『人間本性論』が全く売れなかった
 →普通は世のバカさを呪ったりするが自分の考えは間違っていなくても
 その表現が悪かったと考えて広く読まれるような形に書き直して出した
 →ベストセラーになりその結果処女作が哲学の古典とされるようになった

・共に「無意識」に注目しそれを「コントロール」しようとする姿勢を持った
 マルクスとフロイトの共通点を挙げて・・・
 マルクス主義が猛威を振るった時代が「戦争と革命」の時代
 →フロイトの精神分析が猛威を振るう時代が
 「神経症と心のケアの時代」と言われるのは何とも皮肉

・レヴィ・ストロースによれば科学には二種類がある
 =野生の思考(神話的思考)といわゆる科学
 →さらに加えるならコンピュータは科学の産物だが
 その思考法は任意の組み合わせと並べ替えという神話的思考の典型

・歴史は事実の集積ではなく書かれたもの
 →自分を考えるとは自分の物語りを持つこと

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2001 12/24
哲学
まろまろヒット率4

西行法師プレイ「東海を歩く」篇

無事に東海地方から帰ってきた、らぶナベ@色々な情報を色々な方から頂いて感謝っす。
タイミング合わなくてお会いできなかった方はまた次の機会にまろまろしましょう(^^)

東海地方での滞在は結局・・・
津→榊原→松阪→津→名古屋→津
・・・というルートでまろまろ漂浪しました。
感謝の意味も込めて各地の印象をちらっと書いてみます。

『津』
新しくできた駅ビルの「アスト津」が一番の驚き。
駅ビルの上階に公民館やヴォランティア支援センター、青少年交流センターなどがあって
市民が使えるネット端末や談話室が充実していた。
地方都市の駅ビルテナントは大苦戦しているけど発想を転換して
公的機関主導で上階をコミュニティにするという考えは面白い。
完全に高校生や中学生の勉強&ミーティング地帯と化していたのには微笑ましく思えた。
これなら人の流れも生まれて下階テナントにとっても良いのではないだろうか?
今後も注目したい。

『榊原』
旧名「七栗」と呼ばれた温泉地。
東京の熱海、大阪の有馬のように名古屋では近場の温泉と言えば榊原らしい。
いきなり仲居さんに「何も無いですよ」と言われたが
「温泉があるだけすばらしいじゃないか!」と中学生日記のような勇気づけをしそうになった。
思わず湯当たりしてしまった。

『名古屋』
東海銀行名古屋駅前支店の前の歩道橋で僕の友人の知り合いだという
アルゼンチンの弁護士さんにばったりと出会ったのが一番の驚き。
(ベーロンが好きらしい)
また高校生や高校生らしき人たちは多くみかけたが大学生らしき人はあまり見かけなかった。
友人によれば名古屋は教育都市でもあり予備校や塾が充実しているにも関わらず
高等学校以上の教育を受ける世代は名古屋外に出ることが多いそうだ。
東海地方の要であるのに受け皿が少ないのはもったいない印象を持った。
また巨大な都市なのに自主的に若者が集まる広場的なものも少なく感じた。

最後に「西行法師プレイ」と言ってしまったので
それらしく旅の感想をまろまろ歌として表現します。

温泉が

ぽっぽと沸くよ

榊原

自信もちなよ

あるだけ良いじゃん

2001 12/14
出来事メモ、西行法師プレイ

手塚治虫 『ブラックジャック』 秋田書店 全16巻 2000(最終巻初版)

らぶナベ@すばらしい作品っ(*o*)

『ブラックジャック』全16巻・手塚治虫著(秋田文庫)2000年最終巻初版。
中学の頃から手塚作品は『火の鳥』『ブッダ』など好んで読んできたが
なぜかこの作品はつい最近までちゃんと読もうという気持ちにならなかった。
映像化されたものを何度か観ることがあっても今回通して読んでみて
この作品が短編集だということを始めて知ったくらいに手つかずだった。
なぜこの本を通して読んでみようと思ったのか、
自分自身の気持ちに興味があるくらいだ。

読んでみると映像化ではマイルド化されている
この作品の暗い面ばかりが印象に残って仕方ない。
ブラックジャックの天才的な技術を持ってしてもバタバタと死んでいく人々、
たとえ助かったとしても決して救われることのない人々・・・
中には読むに耐えないくらい後味の悪い結末もある。
死亡率絶対100%である生命の寿命を一時延ばすことへの空しさ、
救われない心への哀しさという抽象的なテーマを外科手術という
具体的な演出でえがく手塚氏の手法に完全にはまってしまった。
インパクトのある場面場面で「もし自分が患者だとしたら」、
「もし自分がブラックジャックだったら」と振り返って
全巻読み通すのにずいぶん時間とエネルギーを使った。

そうした読むに耐えないほどの生々しいシーンには同時に
生命としての限界に立ち向かうことへの無力感に悩まされながらも
それでも立ち向かっていくブラックジャックの姿が常にある。
その彼の姿に言い知れない感動をおぼえる、
この感動こそがこの作品の最大の特徴なのではないだろうか?
よく医師(科学)、法律家(規範)、宗教家(真理)としての役割が
世の中のすべての役割の基本だということを聞くことがあるが
この作品が与えてくれる感動はその意味を直接考えるきっかけになった。
また、それは法外な報酬を要求して安易な正義感を振りかざさない
屈折した主人公を通してこその感動なのかもしれないとも思う。

解説の中に「ブラックジャックは手塚氏自身の姿じゃないのか?」
という興味深い問いかけがあった。
手塚氏がブラックジャックを無免許のままにしていたのは
『火の鳥』や『ブッダ』など人間の本質をえぐる作品を創りだしても
「しょせんは漫画じゃないか」と言って片づけられてしまう
中身の伴わない権威主義・先入観に苦しめられて来られたことへの
皮肉だという解釈があるようだ。
確かに医学博士の肩書きがあった彼自身がこの作品を世に出す際には
医学博士(高い評価)の書いた漫画(低い評価)という先入観のギャップが
起こるだろうと予想してそれに対する無言の批判を主人公に投影させた
という考えは面白い見方だなぁっと思った。

そして皮肉ではなく僕の読書録ではこの作品を「文学」カテゴリに置こう(^^)

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2001 11/21
文学、マンガ、自然科学全般
まろまろヒット率5

イェーリング、村上淳一訳 『権利のための闘争』 岩波書店 1982(原本1894)

横浜中華街と神戸中華街(南京町)との肉まんの大きさの違いを
いつも不思議に思う、らぶナベっす。

さて、『権利のための闘争』イェーリング著・村上淳一訳
(岩波書店)1982年初版(原本1894初版)。
国家主義&教条主義の匂いがしたので読むのを躊躇していたが
昔の法学では必読書だったらしくいろいろなところで眼にするので
一度は読んでみようと購入した一冊。
やはり19世紀のドイツで書かれたという時代背景を考慮して読まないと
本質を見失うだろう。これは古典的な学術書すべてに言えることだけど。

この本でイェーリングが言いたいことは序文でカントの言葉を引用した・・・
「自ら虫けらになる者は、後で踏みつけられても文句が言えない」
・・・の一言につきる。

メインの主張だけでなく著者は古代ローマ法の専門家だったみたいで
歴史的な視点として刑法における刑罰の重さの違いに注目することで
その国の生存原理が何かをひもとくヒントになるとしている点や、
政治外交でその国がどういう行動を取るかを知るには
私法の分野でその国の構成員がどういう風に権利主張するのかを
見れば良いとしている点にはかなり興味を持った。
歴史マニアなので歴史を見る視点が一つ増えたことが一番嬉しい(^_^)

ちなみに最初の日本語版は西周が訳して出版している。
そりゃあいろんな法学者に影響を与えていたはずだね(笑)
以下はその他の抜粋&要約・・・
・権利=法(Recht)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である

・刑罰の重さの驚くほどの差違がその国家が何によって
成り立っているのかを見る参考→自国に固有の生存原理を脅かす犯罪を
最も厳しく処罰し、その他の犯罪は対照的に極めて軽い処罰にゆだねている
(神聖国家の冒涜罪、商業国家の偽造罪、絶対王制国家は大逆罪など)

・所有権とは物の上に拡大された私の人格の外縁に他ならない(中略)
理解力ではなく感覚がだけが権利の何たるかを知るために役立つ

・倫理社会秩序の偉大で崇高な所以は、その命令を理解していない者をも
無意識のうちに協力させてゆくための効果的な手段を有していることに存する

・諸国民の政治的教育の本当の学校は憲法ではなく私法である
→ある国民が政治的権利や国際法上の地位をいかに防衛するかを
知りたいならその構成員一人一人が私的生活において
自分の権利を主張するやり方を見ればよい
(古代ローマが動じに最も完成された私法を有していたのは偶然ではない)

・美学にとって最高の主題は常に人間が理念のために立ち上がること
→ただし何が権利=法(Recht)の本質で何が反しているのかを
明らかにしなければならないのは美学ではなく倫理学

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2001 9/30
法学一般
まろまろヒット率3
法務 キャリア