京極夏彦 『魍魎の匣』 講談社 1999

週末に長野県に行くことになった、らぶナベ@白馬岩岳っていう場所っす。
土地感のある人はおしえてくださいです(^^)

さてさて、『魍魎の匣』京極夏彦(講談社文庫)1999年初版。
『姑獲鳥の夏』がすごく良かったのでその読後感を愉しんでいたけど、
シリーズものとしても読みたくなったので購入した『姑獲鳥の夏』の次作。
『姑獲鳥の夏』を超える分量の厚さと表紙のおどろおどろしさに案の定ちょっと引いたが、
電車の中でブックカヴァーなしに読んでしまうほどハマってしまった。

京極夏彦の作品はある瞬間から読むことがやめられなくなる。
“欠けている気持ち悪さ”をどうしようもなく感じさせられて、
それこそ”憑かれた”ように読んでしまう。
(トイレも我慢してしまうほどの活字体ってめずらしい)
これがまさに”憑きもの”なのだろう。
“憑きもの”の手法を小説自体にも使われているのがわかっているのに、
それにはまる自分がちょっと悔しい。

この作品では間にはさまれている小説やアンケートを関連付けさせていく快感があった。
特に”詫び状”の意味を知ったときの衝撃はすごかった。
ただ読み終えて振返ると『姑獲鳥の夏』よりもう一つイムパクトが足りなく感じている。
理屈っぽい京極堂の前置きが前作のように終結部分で完全に合わさってくれないからだろうか。
だから読み終えて振返る印象は端々で感じたグロテスクなものが多い。
それをちょっと残念に思う僕は彼の作品に美しさを求めているのだろうか?

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2002 2/3
小説、文学
まろまろヒット率4

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