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さて、『ローマ人の物語17,18,19,20 悪名高き皇帝たち』塩野七生著(新潮文庫)全四巻2005。
元首制を完成させたアウグストゥスに続く、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの4人の皇帝、
いわゆる「ユリウス・クラウディウス朝」の時代をえがいたシリーズ第7段。
タイトルにあるようにこの4人の皇帝はとても評判が悪い。
ネロはキリスト教徒を最初に弾圧したローマ皇帝として暴君の代名詞にされているし(例:暴君ハバネロ)、
ティベリウスとカリグラは、その変態伝説が一人歩きしている。
僕も10代前半の頃に読んだカミュの戯曲『カリギュラ』や、
ドキドキしながら借りた映画『カリギュラ』からこの二人は変態皇帝のイメージが強かった。
こうした悪評は後の時代の誇張が入っているし、ティベリウスにいたっては根拠の無いものだ。
カプリ島で繰り広げられたとされる変態プレイは、後に伝説化して色々な物語にも出てくるけど、
単に根拠が無いだけでなく、ティベリウスのプライドの高さや潔癖すぎるほどの性格からは対極にある。
たとえばティベリウスは元老院から何度も提案された自分の神殿の建設を、
「このわたしを後世はどのように裁くであろうか(中略)
もし評価されるのならば、それこそがわたしにとっての神殿である」と言って断っている。
(変態プレイについては当時のローマ人の憧れが噂話として流通したのだろうと著者は書いている)
ティベリウスを含めた4人の皇帝たちは、後の時代につながる功績をいくつも残しているし、
大きな失策もほとんど無いので、後世に言われるほどの悪帝ではないというのが著者の主張だ。
では、彼らはなぜそんなに後世の悪名が高いのか。
それについてはローマの歴史家が彼らを悪く書いた理由について、
「なぜ、自らもローマ人であるタキトゥスやスヴェトニウスは、ローマ皇帝たちを悪く書いたのか」
という付記で著者が種明かしをしているので内容は読んでのお楽しみ。
ただ、この4人は元からして前回のアウグストゥスや前々回のユリウス・カエサルに比べると評価の難しいリーダーたちなので、
支持を得られなかった複合的な理由について、ところどころに著者が自分の見解を示しているのが面白い。
たとえば「民主制は政治のシロウトが政治のプロに評価を下すシステム」だから、
リーダーは「政治のプロとしての気概と技能は保持しながら同時にシロウトの支持を獲得する高等な技が必要」なのに、
この4人の皇帝はシロウトに対してアピールすることが下手だったり、端から意欲が無かった。
また、「賢帝と悪帝の境目は、公人と私人のバランスをいかにうまくとるかにかかっていた」のに、
このバランスを崩した(特にティベリウスを除く3人)。
そしてこの本の中で一番印象深かったのは著者が、
「歴史に親しむ日々を送っていて痛感するのは、勝者と敗者を決めるのはその人自体の資質の優劣ではなく、
もっている資質をその人がいかに活用したかにかかってくるという一事である」と述べているところだ。
確かにこの4人を見ているとすごく説得力のあるものだと感じるし、自分自身も振り返る機会になった。
他にも『寛容について(De Clementia)』でセネカが述べた、
「同情とは、眼の前にある結果に対しての精神的対応であって、その結果を産んだ要因にまでは心が向かない(略)
寛容は、それを産んだ要因にまで心を向けての精神的対応であるところから、知性とも完璧に共存できる」なども目にとまった。
評価が分かれる人物たちを取り上げているだけに、印象深い記述が多いシリーズ第7段だった。
2005 11/3
歴史、政治
まろまろヒット率3
追記:全巻へのリンク(☆は特に印象深い巻)・・・
『ローマ人の物語8,9,10 ユリウス・カエサル~ルビコン以前~』 ☆
『ローマ人の物語11,12,13 ユリウス・カエサル~ルビコン以後~』 ☆