臼井 隆一郎 『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』 中央公論新社 1992

紅茶党だったけど最近コーヒーも飲めるようになってきた、まろまろです。

さて、『コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液』臼井 隆一郎著(中央公論新社)1992。

コーヒーと世界史との関係について書かれた一冊。
内容は・・・
第1章 スーフィズムのコーヒー
第2章 コーヒー文明の発生的性格
第3章 コーヒー・ハウスと市民社会
第4章 黒い革命
第5章 ナポレオンと大陸封鎖
第6章 ドイツ東アフリカ植民地
第7章 現代文化とコーヒー
終章 黒い洪水
・・・となっていて、東アフリカ原産のコーヒーがいかに世界市場に受け入れられ、世界史に影響を与えながら廻って(めぐって)いったのかを述べている。

中でも興味を持ったのが、世界史の中でカフェ(コーヒーハウス)が果たした役割について述べている箇所だ。
公でも私でもない共同領域(公共圏)を生み出し、コンヴァセイション(CONVERSATION)という技術の訓練の場になって、近代社会への扉を開くきっかけの場所の一つとなった経緯が紹介されている。

ちなみに文章の中にダジャレやユーモアが頻繁に出てきて、軽快に読み進めることができる一冊でもある。

以下はチェックした箇所(一部要約&重要と思われる順)・・・

☆イスラーム世界で誕生した「コーヒーの家」の最大の魅力は、(公共浴場に代わる)新種の社交場としての魅力
→公でもなければ私でもない独特な共同領域を形成し、そこで不特定多数の人々と交わる可能性を提供した
<第1章 スーフィズムのコーヒー>

☆旧来の公私の関係を溶かし、新たな近代市民社会の公私の関係を鋳造していくかまどの役目を果たすのが、コーヒー・ハウスに他ならなかった
<第3章 コーヒー・ハウスと市民社会>

☆「コンヴァセイション」という、市民社会で必須の技術を開発するにあたって、十七世紀のコーヒー・ハウスは歴史的な役割を果たした
→コーヒー・ハウスは彼らに異なった意見を交換することから、彼らの公的見解を形成する技術を習得させたのである
→コーヒー・ハウスは「一ペニー大学」とも言われていてた
<第3章 コーヒー・ハウスと市民社会>

○巡礼。それは巨大な商品輸送機関であり、情報伝達機関である
やがてその運搬と交換にイスラーム世界の豪商やヨーロッパ諸国の商人資本家が関与してくることによって、コーヒーは近代の商品交換社会の代表的商品として世界市場に登場する
<第1章 スーフィズムのコーヒー>

○豪商に必須の能力は、商品交換によって結合される共同体のそれぞれの価値観の差異から利益を捻出できることである
<第2章 コーヒー文明の発生的性格>

○商品フェティシズムと、自然と人間の搾取とは、同じメダルの両面である
コーヒーという商品は地球を一枚のメダルにして、華麗なフェティシズムと陰惨な搾取とを繰り広げた近代の典型的な商品であった
<終章 黒い洪水>

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2007 5/21
歴史、グルメ、カフェ本
まろまろヒット率3
カフェ 開業

渡辺淳 『カフェ―ユニークな文化の場所』 丸善 1995

交流スペースとしてのカフェの歴史で一本論文(position paper)でも書こうかと思う、まろまろです。

さて、『カフェ―ユニークな文化の場所』渡辺淳著(丸善)1995。

17世紀から20世紀初頭までのパリのカフェの歴史を紹介する一冊。
内容は・・・
第1章 ニューモード、カフェの出現
第2章 十八世紀―カフェの本格的開花
第3章 十九世紀―カフェの発展と変遷
第4章 二十世紀―カフェの新展開
・・・という章構成になっていて、作家や芸術家などの文化人たちの出会いのと創造の場という意味合いで、
カフェを「ユニークな文化発祥の場」と位置づけている。

確かに「フランス文化は大体において、カフェとキャバレーの文化」(ピエール・ギラール)と言われるように、
文化とカフェをつなげるエピソードは豊富にある。
「カフェは社会を映す鏡」(ジャン・デティエ)とは言い得て妙だと思った。
(ちなみに本来のキャバレーの意味はショー風俗店ではなく居酒屋に近い意味合い)

また、諸説あるものの、「イギリス初のカフェ(コーヒーハウス)は、首都ロンドンではなく、
大学町オックスフォードに1650年に生まれたとされる」というのは興味深かった(第1章)。

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2007 5/20
歴史、グルメ、カフェ本
まろまろヒット率3
カフェ 開業

手塚治虫 『火の鳥7,8 乱世編』 角川書店 上下巻 1986

まろまろ@自作自演で告知すれば、今月5月26日は僕の誕生日です。
お誕生日会は東京の四谷三丁目にあるスープカレーのお店なので、まろみあんの人で興味ある人いたらよかったらどうぞです↓
http://mixi.jp/view_event.pl?id=18468004&comm_id=12678
http://mixi.jp/view_event.pl?id=18467413&comm_id=779245

さて、『火の鳥7,8 乱世編』手塚治虫著(角川書店)上下巻1986。

平安時代末期、山奥で暮らす木こりの弁太とその許嫁おぶうは、
ふとしたきっかけで源氏・平氏の両方の陣営に分かれて源平合戦に巻き込まれていく・・・
手塚治虫の代表作『火の鳥』シリーズの乱世編。

もともと手塚治虫の『火の鳥』は、小さい頃に何編か読む機会があった。
たとえば、詳細は忘れたけど太陽編のラストに感動したことをかすかに覚えている。
でも、この乱世編はこれまで読んだことがなかった。
実は『火の鳥』は毎回内容が激重なので、読んでいて幼心に胸が苦しくなることが度々あり、
途中でシリーズを通して読むことを断念したので全体像を把握していない(‘_’)

今回、選挙を終えた僕が「まるで三方ヶ原の戦いの後の徳川家康や石橋山の戦いの後の源頼朝だ・・・」
とつぶやいたことを聞いた友人が「源頼朝が出てくるよ」と言って貸してくれたので十数年ぶりに読んでみた。

読んでみると、案の定、プロローグから救いの無い話で重たかった(>_< ) でも、ラストはほんの少し希望が残された終わり方だったのでちょっとホッとした。 手塚治虫の気合いが伝わる一冊。

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2007 5/15
マンガ本
まろまろヒット率3

司馬遼太郎 『俄―浪華遊侠伝』 講談社 1972

まろまろ@エンゲルチュをまろまろ用語集にアップしました。

さてさて、『俄―浪華遊侠伝』司馬遼太郎著(講談社)1972。

幕末から明治期にかけて活躍した、大阪の任侠・明石屋万吉をえがいた歴史小説。
タイトルになっている「俄」(にわか)とは、路上などでおこなわれた即興劇のことで、
晩年の主人公が自分の人生を振り返って「わいの人生は一場の俄のようなもんや」と語っていることに由来する。

実はこの本は以前、ご近所さんつながりで知り合った研究者のみあこさんから「まろまろさんと主人公がかぶる」と紹介されたもの。
その時は興味を感じたけれど、ちょうど一歩を踏み出す準備で読むことができなかった。
一段落して凹んでいる最中に、「どうぞ」と送ってもらえた一冊。
まさに手に取った段階で人情もの俄ですな(T_T)

読んでみると・・・実にいきあたりばったり(‘_’)
主人公は任侠の親方(親分)、賭場師、侍大将として鳥羽伏見の戦いに参加、米相場師、福祉施設責任者、消防隊の統括者などなど、
激動の時代の中で、場当たり的に、でも力強く生き抜いていく。
(庶民の視点からの明治維新という読み方もできる)

金に固執しない質で苦労もするけれど、意地や度胸のおかげで何だかんだ生き残ることができた主人公。
そんな不器用だけど俄を演じきった主人公の最後には思わずほろりとさせられた。
確かに僕の俄もこうして誰かに感動を与えられるものであれば嬉しいと感じて読み終えた。

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2007 5/14
歴史小説
まろまろヒット率4

塚本青史 『光武帝』 講談社 上中下巻 2006

一歩踏みだしたら、いきなりつまずいて捻挫した、まろまろです。

さてさて、『光武帝』塚本青史著(講談社)上中下巻2006。

後漢を打ち立てた光武帝(劉秀)を主役にした歴史小説。
光武帝は中国史上屈指の名君、それも王朝の開祖としては一番か二番目に挙げられる人物として知られている。
慣用句になったエピソードも豊富にある人物だけど、なぜかこれまで物語として取り上げられることが少なかった。
そんな光武帝を主役にした歴史小説ということで期待して読んでみた。

・・・なのに読み終わってみると残念な感想を持ってしまった。
有名なエピソードはほとんど入っていないし、フィクションに大きな分量を割いていてそれが面白くない。
政略・戦略面がほとんど取り上げられていなかったのもがっかりしてしまった。
(特に後漢をたててからのエピソードが豊富なのにそれが一切えがかれていない)
上中下巻もある長編小説なのにもったいなく感じた一冊。

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2007 4/30
歴史小説
まろまろヒット率1
売れ筋 本

陳舜臣 『弥縫録―中国名言集』 中央公論新社 1986

まろまろ@「地域と大学連携のための公開シンポジウム」を開催することになりました。

さてさて、『弥縫録―中国名言集』陳舜臣著(中央公論新社)1986。

中国史で有名な歴史小説家による中国名言集。
日本でも馴染みが深い、名句や慣用句の由来を紹介している。

読んでみると、一般的な用語でも由来とはニュアンスが違っているものも紹介されていたのが面白かった。

たとえば、「君子豹変」(『易経』)は手のひらを返すという意味ではなく、
「大人虎変、君子豹変、小人革変」という風に、美しく変わる鮮やかさを讃えているものだという。

ほかにも、「巧者は余有り、拙者は足らず」(『史記』)という句には、
時間でも何でも、足らない足らないと言っている人は確かにいまいちな人が多いのでよく理解できた。

また、「有終の美を飾る秘訣は謙にあり」(『易経』)とは、
いま取り組んでいるプロジェクトの上で肝に銘じようと心に決めた言葉だったw

このように、興味深い句もあったけれど、初版が1980年(読売新聞社)ということもあって、
時事ネタや考え方が中途半端に古いのが玉に瑕か。

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2007 3/30
名言集
まろまろヒット率3

和来路の「ポテトサラダ」、「豚ばらと小芋の煮込み」、「牛すじ煮込み」

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左:ポテトサラダ→和来路の定番メニュー。安定感あふれる味わい。
中:豚バラと小芋の煮込み→豚バラと小芋の相性抜群、一番美味しく感じられた。
右:牛すじ煮込み→牛スジ煮込み。モツ煮とはまた違ってオイリーでやめられなくなる味わい。

文京区友の会夜オフで茗荷谷の居酒屋、和来路におとずれる。直前までポタリングオフだったこともあり、塩気のあるおつまみが特に美味しく感じられた。味はもちろん、雰囲気もよくてチェーン店ではない古き良き居酒屋ですな。
茗荷谷(東京都文京区小石川5-4-8)の「ふぁみりい呑み喰い処 和来路(わらじ)」にて。

西垣通 『デジタル・ナルシス―情報科学パイオニアたちの欲望』 岩波書店 1997

文京区友の会会長として携わった街歩き本プロジェクト「てくてく文京」第1回分が文京区の図書館で閲覧できるようになった、
まろまろ@関わったものがかたちになるってやっぱり良いですな(^_^)v

さてさて、『デジタル・ナルシス―情報科学パイオニアたちの欲望』西垣通著(岩波書店)1997。

世界史の視点で現代を振り返れば、情報化社会(の始まり?)と評価される時代に位置することはほぼ間違いない。
その情報化社会の基礎をつくった情報科学の研究者たち、
バベッジ、ノイマン、チューリング、シャノン、ウィーナー、ベイトソンの業績を、
単なる研究成果だけでなく心理的・人間的な側面から評価する情報科学評論書。

読んでみて一番興味を持ったのは、原初版は携帯電話やインターネットが普及する以前の1991年なのに・・・
「情報機械は、人間の欲望と深くかかわりながら、思考=神経系の動きを代行するエロティックなマシン」、
「デジタル・ナルシスたちは情報機械なしには生きていけない」と看過しているのはまさに達観だと感じた。
確かにいまのSNSやblogはデジタル・ナルシスたちのエロティックな感覚があふれる空間という見方もできるだろう。

また、各研究者の評論では、ノーバート・ウィーナー(ウィナー)とフォン・ノイマンとの対比がおもしろかった。
何しろ僕は前々からウィナーを好きな人とノイマンが好きな人は、見事に正反対のキャラクターを持っていると感じていたので・・・
「ウィーナーのまなざしは数学的体系そのものでなく、その背後にひろがるカオスをみすえていた」、
「ところがノイマンの興味は物理的対象ではなかった(略)位置や運動量を記述する、演算子の形式的体系を構築すること自体が目的だった」
・・・としているのは「なるほどー」と思わず笑ってしまった(^_^)

以下はその他でチェックした箇所(一部要約含む)・・・

○人間と機械とを分けるのは”質”ではなく、せいぜい”程度”の違いだという呪文が、チューリングの全生涯を通じて唱え続けらている
<2 機械との恋に死す>

○応用数学がロマンティシズムと交錯するのは、それが「新しい精神によって因習・旧弊を打破する爆薬」とみなされる瞬間
→現実はダイナミックに変転するカオスだが、数理モデルは静止したコスモス(略)
 前者を後者のうちに写像して、はじきだした答をもっともらしく提示するのが応用数学のレトリック
<3 階差に神はやどる>

○情報科学とは不思議な学問である(略)
それは本質的に「自分は自分を見きわめがたい」という奇妙なパラドックスをかかえこんでいるから
<7 デジタル・ナルシス>

☆どうやら人間は「ものごとを記号化・形式化する烈しい希求」を持っているらしい
→抽象化とは、一回性のある個々の出来事の豊かな具体性を切り捨てることによって成立する(略)
 それは常に”力”にたいする欲望を隠している
<7 デジタル・ナルシス>

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2007 2/19
情報科学
まろまろヒット率3

今井雅晴 『捨聖 一遍』 吉川弘文館 1999

まろまろ@各地で朝オフが盛んになってきています、ビバ!早起き!

さて、『捨聖 一遍』今井雅晴著(吉川弘文館)1999。

遊行と踊り念仏で有名な一遍の生涯を追った伝記。
最近、一遍がつくったとされる・・・
「こころより こころをえんと こころえて こころにまよふ こころなりけり」
・・・という歌を知り、この歌が妙に印象深かったので彼の人生も知りたいと思って手に取った一冊。

そもそも鎌倉仏教の開祖たちの中で、一遍の生涯はよくわからない部分が多い。
それは一遍が死ぬ直前に、自分の関連書籍を燃やしてしまったからだ。
この一点からも分かるように、こだわりを捨てることを掲げて「捨聖」と呼ばれた一遍の人生には独特のにおいがある。
彼の人生を読んでみると、「こころより こころをえんと・・・」の歌は、そんな一遍のにおいを感じるものとしてしっくり来た。

ただ、捨てるはずの遊行が結果的に時衆(後の時宗)を引き連れることになり、
自分自身が信徒の固執の対象になったことの苛立ちや悲しさが伝わってくる
晩年のエピソードは読んでいてちょっと切なくなった。

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2007 1/22
宗教、歴史、仏教
まろまろヒット率3
スピリチュアル

ブルース・バートン、小林保彦訳 『誰も知らない男 なぜイエスは世界一有名になったか』 日本経済新聞社 2005(改訳)

気がついたらデート&恋愛ブログとして紹介されていた、まろまろ@「一人歩きしてこそのブランド」とか言いながらも皮肉を感じますな(^^;

さて、『誰も知らない男 なぜイエスは世界一有名になったか』ブルース・バートン著、小林保彦訳(日本経済新聞社)2005(改訳)。

キリスト教を創設した、ナザレのイエスの実像は信仰によって歪曲されている。
彼の実像は、神学がつくりだしたイメージの弱々しく清い聖人ではなく、
実際は力強く、社交的で、ユーモアとリーダーシップに満ちあふれ人物だった。
それは信仰に包まれたイエス像とはまったく違う、”誰も知らない男”なのだ・・・

広告代理店BDO(BBDO)の創業者による、イエスの再評価本。
原題は”The Man Nobody Knows: A Discovery of the Real Jesus” (1924)。
イエスを聖人としてでなく、世界一の広告名人ととらえて、
彼の宗教活動からビジネスのエッセンスを抽出しようとしている意欲作。

特に著者は広告ビジネスの第一人者なので、イエスの広告戦略分析に注目していて、聖書を広告の教科書だと評価しているのが面白い。
たとえば、著者はイエスの広告を1:「イエスは良い広告がニュースであることを知っていた」、
2:「イエスは説教によってではなく奉仕をすることで広告をした」という2点の特徴があることを指摘している。
また、イエスが得意とした例え話からも1:「文章は圧縮する」、2:「言葉は単純にする」、3:「誠実に語る」、
4:「繰り返し伝える」(評判は繰り返しである)という4点の広告理論を導き出している。

信仰心のあまり無い人間からするとごく普通のことかもしれないけど、この本を20世紀前半のアメリカで出した著者の挑戦がすごいなと感じた。

以下はその他のチェックした箇所・・・

○神学が、イエスは生まれながらにして全知全能だったと決めてしまったために、
その生涯が実に味気ないものになってしまった
<第一章 人の上に立つ者>

○重大な任務を負っている人間は、忙しさの中で実にうまく自分を介抱するものだ
→いつでも自分の時間を作り出せるということが、偉人の一つの条件なのかもしれない
<第三章 社交家イエス>

○今は市場の代わりに新聞や雑誌がある(略)記事欄は現代の往来である
<第五章 彼の広告>

○イエスのたとえ話は、広告の教科書どおり→冒頭の一文を読めばその光景が目に浮かぶ
<第五章 彼の広告>

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2007 1/12
宗教、歴史、キリスト教、ビジネス書
まろまろヒット率3