中途半端なスケベ心は破滅を招く、一度に一つだけできたならそれでいい。
すべてを一度にしようとすると何一つできないことが多い、
多様性はあくまで一つずつの積み重ねでしかない。
一日一つ、一週間で一つ、一月に一つ、一季節に一つ、一年で一つ、
そして一生に一つのことができればそれは成功なのだろう。
2003 1/20
はしり書き
since July 19th, 2001
中途半端なスケベ心は破滅を招く、一度に一つだけできたならそれでいい。
すべてを一度にしようとすると何一つできないことが多い、
多様性はあくまで一つずつの積み重ねでしかない。
一日一つ、一週間で一つ、一月に一つ、一季節に一つ、一年で一つ、
そして一生に一つのことができればそれは成功なのだろう。
2003 1/20
はしり書き
10年ぶりに復活したドラマ『高校教師』では今回も京本政樹は変態役なのかと思う、
らぶナベ@ソニンがご無体なことされるのかな?
さて、『図解雑学 社会心理学』井上隆二&山下富美代著(ナツメ社)2001年初版。
院の準備のために社会心理学の入門書を探していたところ、
HPにときどき遊びに来てくれているよしぞおさんに紹介してもらった本。
彼女は専攻が社会心理学で専門が自殺論という実に熱いテーマを持っている人。
紹介してもらったこのナツメ社の図解雑学シリーズは雑学とかいいながら
内容はけっこう手堅いし図解があって理解しやすいので
僕も他分野で何度かお世話になっている。
内容は個人レベル、対人レベル、集団レベル、社会レベルの四つの段階ごとに
社会心理学の基本的な考え方を紹介しているが、
やはり社会レベルでのテーマ紹介が面白かった。
特に流行は「独自性への要求」と「同調性への要求」との緊張関係から
生まれるという考え方はおもしろいと思う。
(独自性への要求→同調性への要求→再び独自性への要求へと循環)
そうだとしたら流行を生み出す人はこの二つのジレンマに悩む人かもしれない。
この本は「社会心理学が扱うテーマについてざっと知ることができる」として
紹介してもらったけれど、あまりに網羅的でちょっと物足りなさを感じた。
もう一冊、体系的な教科書を紹介されたので
そちらも読んでから社会心理学の入門はひとまず一段落としよう。
以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・
○社会心理学=人の社会行動が社会的な要因によってどのように影響されるか、
その影響過程を明らかにすることを目的とする科学
○社会心理学での「集団」=
1:メンバーが互いに影響を受け合う(社会心理学者は特に相互作用に注目)
2:メンバーの関係が一定期間継続する
3:メンバーは共通の目的がある
4:メンバー間に地位や役割がはっきりしている
5:メンバーが集団に属していることを自覚している
→「集団」と「群集」との違い=集合期間が定期か一時期か、
役割が分化しているかしていないか、相互作用が強いか弱いか
○「集団極性化」=個人の時よりもよりも集団の時の決定がより極端になること
→他者の存在が自説の強化と確信になるため(J・ストーナー)
○群集心理の特徴=1:一体感、2:無責任性、3:無名性
→群集は「乱集(モップ)」と「聴集」に分かれる
☆流言
・流言の広まる度合い=事態の重要性×情報の曖昧さ
・流言の特徴=
1:平準化→情報が要約されて平易化する
2:強調→情報の中からある要素が飛び出して強調される
3:同化→伝え手と聞き手がもっている知的、感情的な条件でゆがめられる
(G・オールボルトとL・ボストマン)
☆流行=「独自性への要求」と「同調性への要求」との拮抗から生まれる
→独自性への要求から新たなものが生み出され、それが広まり、
同調性への要求から受け入れられ、再び独自性への要求が生まれる
○ブランド品に代表される「威光効果」=持つことで優越感を感じる暗示
→暗示のかかりやすさ=「被影響性」
→被影響性が高い人=1:自主性に欠ける人、2:権威に影響されやすい人
2003 1/20
社会心理学
まろまろヒット率3
近頃TIPNESSに出没する、らぶナベ@見かけたら声かけてくださいな(^^)
さて、『王家の風日』宮城谷昌光著(文春文庫)1994年初版。
商(殷)から周に王朝が変わる紀元前11世紀の古代中国を舞台にした小説。
商を支えようとした箕子を中心に商王朝の滅亡をえがいている。
前に読んだ同じ著者の『太公望』が商を倒す周側の視点だったので、
この『王家の風日』と『太公望』はちょうど舞台の裏表の関係になる。
(こちらの方が先に出版されている)
この本の主役的な存在である箕子は太公望にもっとも警戒された人物なので、
太公望の頭脳戦がもっと読みたいと思った僕は思わず手にとってしまった。
何しろこの本の主役的な存在である箕子は、
太公望にもっとも警戒された人物だからだ。
期待して読んでみると太公望の出番自体はそれほど多くないけれど、
冷酷非情なまでの合理主義は存在感抜群だった。
できれば『太公望』ではも彼のそういう非情な面も織り込んでほしかった。
2003 1/15
小説、歴史
まろまろヒット率2
セブンイレブンで売っている「牛乳シャーベット」は
何気に美味しいと思う、らぶナベです。
さて、『アフォーダンス-新しい認知の理論』佐々木正人著
(岩波科学ライブラリー12)1994年初版。
初めて読んだアフォーダンス(生態心理学の基本概念)の本。
情報は環境から受ける刺激を脳で処理して意味のあるものへと作られるのではなく、
情報はその人をとりまく環境そのものの中にあるという考えを提唱した
ギブソンの研究過程を追いながらアフォーダンスの考え方を紹介している。
この本では視覚と触覚についての記述がメインになっているが、
著者も後半で述べているようにアフォーダンスは
言語や芸術などの他の分野へも応用されるものなので興味深かった。
特に知覚について「五感」のように個々の感覚器官に注目するのではなく
複数の知覚システムの束とみなす考えは新鮮だった。
確かにこれだと盲目の人が自由に歩けることが不思議じゃない。
また、変化の中にある不変を知覚することを重視する考え方(不変項)も面白かった。
なんだかよくわからない非現実的な芸術作品を観て、
なんだかうまく説明できないけどそこに現実的なものを感じたとき、
その作品の中に不変項があるのだという視点はちょっと楽しい(^^)
この不変項という考え方は前に読んだ『日本人と日本文化』で
ドナルド・キーンが「矛盾を見ればその人が何を考えているのかわかる」と
言っていたことと何か通じるような気がする。
さらにこれは前提として述べられたことだけど、
「人は記憶を語るときに記憶と過去を表現するメディア(映像や文字)と混同しがち。
思い出されることはビデオに映っているような文字通りの過去じゃないし、
会話は文字に書き写された言葉とは違う」
という趣旨のことがエピローグに書かれてあった。
これは僕自身ときどき完全に忘れていることなのでハッとさせられた。
ちなみに著者とは院の説明会と二次試験の口頭試問で
少しだけ言葉を交わしたことがある。(単に試験官だっただけだけどラッキー)
そのときは個性的だけど温和な印象を受けて好感が持てたのを覚えている。
この本の最後で「あせらなくてもいい。情報は環境に実在して、
お前が発見するのをいつまでも待っている」(あとがき)という
著者自身に向けられた言葉を発見したときに会った時の印象が思い返された。
これも不変項か?(^^)
以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・
○「フレーム問題」=ある行為に関連することとしないことを
効率的に見分けるにはどのようにすればよいのかという問題(主にAI領域)
<プロローグ なぜいまアフォーダンスなのか?>
○デカルトの「こころ」とは、感覚刺激を統合し、判断し、推論し、
意味をつくりだすメカニズム(略)いわゆる「中枢」
→環境からの入力が「点運動」のようなものであるという仮定が、
知覚理論への「有能なこころ」の概念の導入を招いた
<プロローグ なぜいまアフォーダンスなのか?>
○「ゲシュタルト」=「感覚要素の総和以上のもの、総和とはことなったもの」
(エーレンフェルス)
<1 ギブソンの歩み>
☆知覚者が対象の変化から見ているのは「形(form)」ではなく、
対象そのもの、それのリアルな「姿(shape)」
→姿は、形からではなく、それ自体は形をもたない「変形」から知覚される(略)
知覚ににとっては「変化という次元」こそが問題
(「変化」のなかに埋め込まれている「不変」の知覚)
<1 ギブソンの歩み>
☆ギブソンが捜し求めた「知覚の刺激」の本質=環境の中で、動き回って、
何かを見ようとしている観察者がその全身の動きとともに発見するもの
<1 ギブソンの歩み>
☆「生態光学(エコロジカル・オプティックス)」=環境に充満している光=包囲光
(ambient light)を視覚の基礎にすべきであるという考え
→包囲光の「異質性」=「包囲光配列(ambient array)」」
<2 情報は光の中にある>
☆「不変項(インバリアント)」=変形から明らかになる不変なもの
→見るということで観察者が行っていることは、
包囲光配列から不変項をピックアップすることである
<2 情報は光の中にある>
○不変項=
1:構造不変項→恒常的に保たれている性質を知覚すること
2:変形不変項→生じている変化がどのような変化であるか特定すること
→動くものが何であるか特定するのが構造不変項、
その動きがどういうものであるのか特定するのが変形不変項
<2 情報は光の中にある>
☆環境に満ちているのは、「持続と変化」である
→生態光学はそこが「情報に満ちた海」であることを示した
<3 エコロジカル・リアリズム>
☆生態学的認識論は、情報は人間の内部にではなく、人間の周囲にあると考える
→私たちが認識のためにしていることは、
自身を包囲している環境に情報を「探索」すること
<3 エコロジカル・リアリズム>
○「生態学的測定法(エコ・メトリクス)」=物理的絶対値ではなく
生き物を基準にして表した値
<3 エコロジカル・リアリズム>
☆アフォーダンス=「動物との関係として定義される環境の性質」(ギブソン)
=環境が動物に提供する「価値」
=物理的な性質ではなく「動物にとっての環境の性質」
→アフォーダンスが環境の中に実存することを強調するギブソンの理論
=「エコロジカル・リアリズム(生態学的実存論)」
<3 エコロジカル・リアリズム>
○感覚器官をもとにした古典的分類「五感」は多様な知覚体験を説明できない(略)
五は感覚器官の種類の数ではなく「環境への注意のモード」の種類と考えるべき
=「基礎的定位づけシステム」「聴くシステム」、「触るシステム」、
「味わいー嗅ぐシステム」、「視るシステム」
<4 知覚するシステム>
☆知覚システムの特徴
1:”複数の知覚システムの獲得する情報は
「等価」であるので「冗長」であることが多い”
→盲目の人が自由に移動できるのは神秘的なことではなく
「視るシステム」以外でもピックアップ可能な情報を知覚しているから
2:”動きが固定されていない”
→知覚システムの動作を洗練し、分化していくことが学習
→「わざ」を可能にするのは知覚システムの束
<4 知覚するシステム>
☆ギブソニアン(ギブソンの後継者たち)の主張
=「運動研究の単位を変えよう」
→関節などの要素でなくマクロな「結合」を単位に
<5 共鳴・同調の原理>
○運動系は、身体の内部に閉じて組織化しているのではなく、
環境の中の情報とも協応の関係を結び、
知覚情報をもそのシステムの一部としている
<5 共鳴・同調の原理>
○「タウ(τ)」=行為の制御に利用されている視覚情報
=「衝突・接触」のアフォーダンス
<5 共鳴・同調の原理>
○知覚と行為の協応を、ギブソニアンは「知覚と行為のカップリング」と呼ぶ
<5 共鳴・同調の原理>
☆画家が遠近法で描いた絵も、抽象画も、もしそれが私たちに
何らかのリアリティーを伝えることができるならば、
そこには知覚された不変項が記録されていると考えるべき
<エピローグ リアリティーのデザイン>
○「あせらなくてもいい。情報は環境に実在して、
お前が発見するのをいつまでも待っている」
(略)研究だって知覚行為の一種なんだから
<あとがき>
2003 1/12
アフォーダンス、心理学、認知科学、情報関連
まろまろヒット率4
“まろじぇくとX”の参加者からの声が掲示板にアップされた(ここ)、
らぶナベ@二人きりでも楽しんでもらったようでちょっと嬉しいっす(^^)
さて、『日本人と日本文化』司馬遼太郎&ドナルド・キーン談(中央公論新社)1984年初版。
司馬遼太郎(小説家)とドナルド・キーン(日本文化研究家)との日本文化談義の本。
出身地の影響もあってか(司馬=大阪、キーン=ニューヨーク)、
どちらも教養を明るさや洒落っ気で包む人なので、、
日本文化を語るときについてまわりがちな陰険さがなく
楽しそうな対談の様子が文章に落とし込んでも現れている。
「それは言い過ぎやろ」と突っ込んでしまうところもあるけれど、
キーン氏が”あとがき”で書いていたように
面白いおっちゃんの会話を横で立ち聞きするような気分にさせてくれた。
特に「第5章:日本人のモラル」、「第7章:続日本人のモラル」では
日本がどれだけ儒教の影響を受けたのかということについて、
二人の相違点が明確に出てきてその対立が面白かった。
また、最後には「日本的なものとしてがんばりすぎると、
変なものになってしまう(もっと自然でいこう)」
・・・っと同意して終わるのも二人の対談らしくて思わず笑ってしまった。
手軽だけど侮れない本。
ちなみにWEBサイト英語化プロジェクト(まろぷろ)で何かとお世話になっている、
ニューヨーク在住の市川文緒さんはキーン氏のお弟子さん。
そんな遠い人とお話できるなんてネットってすごい(いまさら(^^;)。
以下は、チェックした箇所(気になった順)・・・
・人間というのは、矛盾があればあるほどおもしろいですね。
矛盾があれば、その人間が何かを考えているということがわかります(キーン)
・徳川時代は鎖国だったから、当時の日本人がみんないっしょに
秘密を言い合って楽しんでいたというような気がします(略)
江戸文学には普遍性がなかったと言えます(キーン)
→2ちゃんねるで盛り上がるスレッドもそんな感じだ(ナベ感想)
・日本の歴史を眺めておりますと、あらゆる面に外国文化に対する愛と憎、
受容と抵抗の関係があるように思われます(キーン)
・日本人は原理というものには鈍感(司馬)
・もしも日本的な趣味を一つだけに絞ろうと思ったら、
私は東山時代の文化じゃないかと思います(キーン)←司馬も同意
・南宋の文化は、日本にいちばん影響を与えたと思います。
そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。
感情的であって、あまり雄大なテーマはとり上げない(キーン)
・古い伝統を作るには、十年くらいかかる(略)
逆に言えば、十年ぐらいかけると伝統を創りだすことができる(キーン)
・日本人はいつも何が日本的であるかということについて心配する(略)
意識して特徴を出そうと思ったら、むしろ本居宣長のような、
なにか不自然なものになるんじゃないか(キーン)
→大賛成です(略)あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、
いやらしいものになる(司馬)
・恥ずかしいことはできないということだけで社会の安寧秩序が保てる。
その程度のことだけで保てる社会というのは、不思議な国で、
ぼくがいつも日本を不思議だと思うのは、この点なんです(司馬)
・日本はひじょうに不思議な国になります。英雄のいない国です(キーン)
・政治というものはひじょうに男性的なものですけれども、
ぼくら日本人というのは、
政治を男性的にとらえにくい感覚をもっているのじゃないか(司馬)
2003 1/10
文化論、対談
まろまろヒット率4
年末年始は小説、特に歴史小説を読みたくなる、
らぶナベ@自分を重ね合わせて振り返りたいからかな?
(特に去年は考えることや岐路に立つことが多かったからか)
さて、そんなわけで2003年第1弾『太公望』宮城谷昌光著(文春文庫)2001年初版。
知り合いのJACKから「陰謀マニアだったらオススメ」と言われて(ここ)
手に取った中国古代を舞台にした歴史小説。
中学か高校の時に読んだ『夏姫春秋』以来、久々の宮城谷作品。
(当時は思春期の少年にとってはきわどいシーンもあってどきどきした)
内容は商(殷)末から周はじめにかけて活躍した太公望の人生をえがいている。
紀元前11世紀という今となっては神話と伝説が錯綜する時代の物語なので
(孔子などの諸子百家のさらに600年以上前の時代)
著者の様々な解釈が織り込まれていて読んでいる方としても想像力が膨らむ。
特にこの時代は文字が占いの道具(甲骨文字)からコミュニケーション手段に
移りつつある時代でもあるので文字というものの重たさを感じさせてくれた。
太公望は後の中国で兵法の祖とされるほどの合理主義者だったけれど、
その合理主義的な思考は文字による教育を受けなかったからだとする
著者の解釈は興味深かった。(ちょっと逆説的な匂いがあるのが味噌)
遠い時代だからこそのそんな解釈は面白いけれど、
太公望を武術の達人にするのはちょっとやりすぎのような気もしたし、
商との戦いや斉の建国などは太公望の本領発揮の部分なのに、
前半部分に比べて妙に記述が薄い気がしたのがちょっと残念。
もっと太公望の頭脳戦が読みたかった。
以下は、思わずチェックした箇所・・・
・まっすぐなものがみえない人は、どこかで成長がとまるような気がする。
(略)大木をみればよい。
・この世に生まれた者は、かならず死ぬ。
だが、死は人生の到達点でありながら、それは願望でも目的でもない。
生きるということは、すべて途中である。その途中こそがたいせつではないのか。
・大事を成すには、小事をつみかさねてゆくしかない。
しかし小利を求めてはならない。
小成は大成のためには、つまずきにすぎない。
・危難というのは両刃の剣である。
危難に殺されるか、危難を新生面にかえるか、である。
・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、
すでに失敗しているといってよい。
-まず、自分の目と耳とを信ずることだ。
・素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。
それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わせれば、
うまさを引きだすことができる。
・卑賤の者をあなどるのは小人の癖
・めざめつづけている男がなした偉業を、夢をみる者たちは、奇蹟と呼ぶ。
呂望は夢のむこう側かこちら側にしかいない。
・大きくなりたかったら、自分より大きな人にぶつかったゆかねばなりません。
(略)形をもったままぶつかってゆけば、その形は毀れましょう。
が、形のない者は、毀れるものがないのですから、
恐れることはありますまい。
・時代の狂気を否定しようとする者に、時代の常識に慣れた人が狂気みるのは、
古往今来、かならずあることであり、それは革命者の奕々たる宿命である。
2003 1/8
小説、歴史
まろまろヒット率3
前者は失敗しても救いはあるが、後者は失敗すると救いがない。
大きい方が失敗の損害が少ないというめずらしいものじゃないだろうか。
どちらにしても無自覚に使うと自分を滅ぼしてしまうものだろうけれど、
どうせ半分も成功しないものならば大きな打算で失敗したい。
2002 12/28
はしり書き
エェーックス!
(田口トモロヲ風のナレーションで)
インターネット、それは新たなコミュニケーションメディアだった。
21世紀はじめ、オンライン上ではさまざまな話題が話され、
活気あふれるその風景は現実のコミュニティと見紛うばかりだった。
しかし、オンラインとオフラインには未だ大きな隔たりがあった。
オンラインで気軽に知り合えたとしても、
オフラインで気軽に会うということにはならなかった。
その大きな原因のひとつが「実際に会ったことがない」ということから来る、
会うまでの事前調整の煩雑さと心理的な躊躇だった。
お互いを認識できないために、オフ会を開催する際にも出欠確認を事前に取り、
待ち合わせ時刻、場所も厳密に決めておかなくてはいけなかった。
その上さらにその場で相手を探すのには時間的、心理的エネルギーが必要とされた。
そんな中、「これでは気軽に集まれない。
オンラインとオフラインはいつまでたっても交わらないじゃないか」、
そうつぶやくひとりのホームページ運営者がいた。
ホームページ開設一年にして、自身が運営するホームページを元手に
大学院に合格した男だった。
WEBサイト運営をキャリアにしたその男は、
誰よりもオフラインとオンラインとの間の距離を敏感に感じていた。
「オンラインとオフラインを無理に混合することはない。
でもオフラインとオンラインとの行き来がもっと気軽にできていいはずだ」
その声はむなしくオンラインとオフラインとの間に横たわる、
深く大きな谷に消えていくかに思えた。
そんなとき、いつも読む歴史小説を紐解いて気づいたことがった。
「かつては広い戦場でも集合しやすくするために旗印を利用していた」。
「そうだ、まろまろ旗印を作ろう!」
こうして、メンバーの事前確認もお店の事前予約も必要としない、
ただ旗印を目標に集合するという機動的オフ会運用が発案された。
これはオンラインとオフラインとの距離に挑戦した、
小さくも壮大な実験の記録である。
(西中島みふきが歌う『妄想の星』が流れる)
・・・っということでこのプロジェクトに参加しませんか?
集合日時:12月24日(あえてイヴ!)、7時半~8時までの30分間
集合場所:新宿東口アルタ前か向かいの広場
24日間に合うように製作を依頼している、
白地に黒文字の「まろまろ」フラッグを持っています。
持ち物:本のプレゼント交換をするので本を持ってきてください。
本の置き場所に困っている人も多いので新品ではなく
家にあるいらなくなった本を交換し合いましょう。
(経済学でいう”パレート最適”プレイ)
お店をどこにするかは集まった人数とメンバーの趣味によって決めます。
(お友達を連れてきてもらってもOKです)
事前確認は要りませんがあえてイヴの日に実行するので、
仕事の関係などでこの時間に集合場所に来れないという人は、
事前に僕の方まで連絡ください。
事前に渋谷などの方が良いという人がいたら機動的に場所も変更します。
平日かつイヴということで人が思いっきり少ないかもしれないですが、
実験的要素が強いのでそのときはそのときでまろまろしましょう。
また、大阪生まれ大阪育ちネイティヴ・ナニワニアンな僕には
未だに東京の地理やお店が詳しくありませんので、
お店情報も教えいただけるとうれしいです。
エーックス!
雨は、降らなかった。
三日前の予報では降水確率60%、前日では50%だったにも関わらず、
東京に雨は降らなかった。
新宿に向かう地下鉄の構内で、車内で、すれ違う人々のすべてが、
らぶナベが掲げるまろまろフラッグに注目していた。
「商品の宣伝でもないし、サークルやクラブでもなさそう・・・」、
「名詞なのか、形容詞なのか・・・」。
ただ”まろまろ”と書かれた旗にはそう不思議に思う視線が注がれていた。
小さな子供が「まろまろー!」っと指差して声を出すこともあった。
「あえて正式名称じゃなく”まろまろ”だけでよかった」、
「宣伝効果としての面ならこの旗は成功だな」、
待ち合わせ会場への道すがら、らぶナベは自分のメディア戦略に得意気になっていた。
意気揚々と向かった新宿。
しかし、そこは薄っぺらな慢心を打ち砕く、寒く、厳しい戦場だった・・・
エーックス!
らぶナベは、一人でたたずんでいた。
新宿アルタ前、三段式ポールで2.7mに達するまろまろフラッグは
風に大きくなびきながらその威容を誇っていた。
しかし、人は、誰も来なかった。
地盤のない東京で、連休明けの平日、年末最終週の第一日、
そしてクリスマス・イヴ・・・この悪条件の中で
あえて事前確認を放棄する実験OFF会。
開催前に寄せられた参加できないことを残念がるメール、
条件の悪さを心配して止める友人たち。
そんな中で「状況が悪いほど気軽さの実験になるじゃないか」、
「どうせ実験するなら状況を作り出すことに挑戦したいし、
俺は一人でもOFF会をする」っと、意気込んで強行したOFF会。
不思議そうに目の前を通り過ぎていくカップルたちを見ながら、
後悔が頭をよぎり始めた。
宣伝になってもオンラインとオフラインとの間を取り持てなければ意味がない。
やはりオンラインとオフラインとの間の溝は深いのか、
その間に架け橋をかけるのにはもっと条件も準備も必要なのか・・・
「きっと誰も来な~い、一人きりのクリスマス・OFF♪」、
気がつけば山下達郎の『クリスマス・イヴ』の替え歌を口ずさんでいた。
そんなとき。
「ちょーカッコいいー!」、という声が耳に入った。
その方向を見ると一人の女性がこちらに歩いてきていた。
「ホントに一人でもやるんですね」、「nice!」
明るくハツラツとした雰囲気と口調に、時おり出てくる英単語の明瞭な発音。
それは彼女が海外生活が長いだろうことを、容易に想像できるものだった。
追い討ちをかけるように衝撃の一言が発せられた。
「Calforniaから来ました~」
「カリフォルニア(発音が日本語)から!?」
その女性はアメリカの大学院からまろまろ掲示板に遊びに来たことのある、
Shihoさんだった。(発言はこことここなど)
たまたま数日前に帰国していて、家族でのXmasパーティを抜け出して来たという。
参加者一人だけということに申し訳なさを感じたものの、
彼女もそのつもりだと主張したので、二人だけでOFF会を開催。
(二人だけというところが実にまろまろ)
まろまろフラッグを喫茶店のテーブルにたてかけ、
本の話、英語の話、日本と米国との違いの話、
HPの見やすさについての話、さまざまな会話が繰り広げられた。
オフラインだけでは、滅多に出会えない、遠い人との出会い。
オンラインだけでは、なかなかは感じ取れない、
雰囲気からの感覚的なコミュニケーション。
それはまさにオンラインとオフラインとの有機的連動だった。
たった二人だけのOFF会、それはかけがえのない一歩になった。
帰りの電車の中で、らぶナベの手には本の交換会の時にそえられていた、
クリスマスカードとアメリカのキャンディが握られていた。
思いはとどく
たとえ海を越えてでも
(西中島みふきの曲がながれる)
・・・っというわけで今年も”まろじぇくとX”は無事終了しました。
いやー、痛いものコレクター的に一人だけのOFF会でもいいと思っていたんすけど、
参加者がいてくれて本当にうれしかった。
それも普段は絶対に知り合えないような人ですから余計でした(^o^)
ちなみに参加者からの感想はこちら。
今朝になってから参加するつもりだったけど急用や
タイミング的に行けなかったという人たちからメールが寄せられました
事前確認とってないからゼロかもしれないし多数かもしれないんすよね。
でもしばらくはこのスタイルでやっていこうと思います。
オンラインでのキレと、オフラインでのコク、
この二つを機動的に行き来する実験はまだ続けます。
もし街のどこかでまろまろフラッグを持って歩いている僕を見つけたら、
気軽に声をかけてくださいな(^_^)
2002 12/24
出来事メモ、はしり書き、まろじぇくとX
2002年は実績が見えずに、焦ったり不安になることが多い年だった。
そんな中で自分を見失いそうになったときに口ずさんだ言葉。
この年の最後に開催したOFF会でそのことをまた強く感じた。
(詳細は“まろじぇくとX”)
「ゆっくり成長する人間は限界がない」ということもどこかで聞いたことがある。
2002 12/24
はしり書き