中谷彰宏 『面接の達人98 バイブル版』 ダイヤモンド社 1996

どうすれば受かるかというような就職するための就職本は嫌いで
中谷彰宏はさらに大嫌いなのだが、NTTに内定した友達(磯野)から
薦められて本までもらったので読まなくては悪いと思い
しぶしぶながら読み始めた一冊。
案の定、ところどころにおりばめられているこの本自体の売り込みや
自慢話が鼻についたが、それ以外は意外と考えさせられた一冊。
単なる個々のノウハウについてではなく、どう考えていくのかどういう
準備心構えが求められるのかというものを示そうとしている。
実際に初めてのセミナーと面接を受けた直後に読み終えたので
含蓄のある章が多かったと感じた。
就職の事前準備や練習に限ればこの本は最適の本だろう。

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1998 2/27
就職関連
まろまろヒット率3

アランジ・アランゾ 『どこへいくカッパくん』 ベネッセコーポレーション 1997

一度発見したときは見送ったが、そのあまりにも表現力豊かで退廃的な印象が気に入ってしまい、
購入に踏み切った大人の絵本。カッパくんのふらふらした日常を写真でつづっている。
この本の広告ポスター(カッパくんがタバコをすいながら
「ま、いろいろあるさ」とつぶやいている)にもひかれた(^_^)

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1998 2/27
絵本
まろまろヒット率3

初就職活動

お台場のフジテレビにて初めてのセミナーと面接。
それほど入りたい企業では無いのだが、日時が早かったことと
難関であるということ、そして本社社屋それも東京でやるということで
緊張感も高いものとして良い練習にもなるので、
このフジテレビを初戦の相手に選んだ。
反省点としては20分の志望理由書記入時間に漢字間違いをしたこと。
5分間の面接で「殺傷事件を起こす少年達には何が足らないと思うか?」と
聞かれたときに「熱くなれる場所がない」と答えたのは、
「現代の若者は決して閉塞しているのではない」という僕の前の発言と
矛盾してしまったこと。一言「だからフジテレビがその場所を提供すべきだ」
のようにつなげられれば良かった。
もしくは「認められる場所を提供すべきだ」と言うべきであった。
しかしながら初めての体験としては意外に面白く、
かつ今後このセミナー&面接を経験したことは利用できると思う。

1998 2/26
出来事メモ、進路関係

司馬遼太郎 『歳月』 講談社 1971

G.A体験のため東京出張したときに南さんの家で中大の長坂京ちゃんと
司馬遼太郎の話で盛り上がり、彼女が「一番好き!」と言っていたので
気になって読んだ本。
身分が低く餓死寸前の状態から非常に鋭い論理性を持って時勢の波に乗り
佐賀藩を代表する人物にまでなり、明治政府でも司法郷、参議を歴任。
日本の法整備の基礎を気づきあげる。
しかし征韓論にやぶれると、なし崩し的に佐賀の乱の首謀者となる
江藤新平の話。誰よりも弁が立ち、自らも自分の論理性の正しさに
自信を持っていたのに対人関係や高等な政治的視点が欠落していた人。
これは彼の政敵で、最後に彼を自滅に追い込み当時日本士族には
適応されなかった死罪を強引に適応して新平を殺した大久保利通の陰湿な
するどさにくらべると何か滑稽ささえ感じてしまう。
どこか憎めなくて、ある種爽快な感じを与えてくれる
他の司馬作品の主人公たちと比べて彼はどうも
「ううん」とうなってしまうような可愛げの無さがある。
・・・京ちゃんは彼のどこが良いんだろう?
実際の女を前にしても漢詩で表現しないと自分が欲情していると認められ
ないようなところが意外に可愛いと感じるのか?(笑)

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1998 2/15
歴史、小説
まろまろヒット率 3

伊藤光利 『ポリティカルサイエンス事始め』 有斐閣 1996

らぶナベ@フィギアスケート男女ペア(フリー)を見て
思わず芸術心を呼び覚まされてしまったっすぅ!(^o^)

さて、本題・・・
『ポリティカルサイエンス事始め』伊藤光利編 有斐閣ブックス
「政策形成論」のテスト勉強のために購入した政治学の入門書。
知り合いから「何でいまさら?」と言われたりもしたが通して読んでみると
なかなか引きつけられる点も多かった。
実はテスト直前に必要な部分だけを読んでほっらかしにしていたのだが、
後になるほど端折り読みや読み飛ばしがどうも気持ち悪くなってきて
ちゃんと最初から最後まで通して読んでみた。
(こういうところが元文学部志望者の弱いところ(^^))
もともとこの本は『日本の政治』(有斐閣)の簡単版として
書かれたものなので、事前に上記の本を読んでいる僕には
特に新しく得たものは無かったが「ここでこういう風な表現をしているんだ」
とか「ああ、この人ってこんなこと言っていたんだ」という風に
感じたことがけっこうあった。
D.イーストン「政治とは稀少資源の権威的分配である」
ヴェーバーによる政治家の資質「情熱、責任感、判断力」
D.ベル「国家は大きな問題には小さすぎ、小さな問題には大きすぎる」
・・・などは特にそう。
そして最終章(第12章:政治改革)はこの本のまとめ的な役割を
担っているが、そこで説明された「多数決型デモクラシー
(合意のなかの対立)」モデルと「合意型デモクラシー(対立のなかの合意)
」モデルの違いは政治学の本質的部分でもあるうえに
現代の他の問題にも有効な視点を与えてくれると思う。

それとヴェーバーが権力について述べている物理的強制力、物的報酬、
正統性という三つの要素は教師の力問題に適応できるんじゃないかな?
例えば、この三つを有していた教師が何らかの理由でこの三つの有力な
権力を維持できなくなってきた・・・その背景は・・っていう風に。
まあ、そういうことは政治学のゼミで教育問題をやるという
「開拓者」なしおやんのお仕事になるんだろうけど。

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1998 2/11
政治学
まろまろヒット率3

マルクス・アウレリウス・アントニヌス、神谷美恵子訳 『自省録』 岩波書店 1956

ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(相変わらず長い名前!)
が自らの行為、感情について自省するために記述したと思われる本。
元々人に見せるためのものではなく、自らの反省と励ましに
記述したものなので「どうしてそういう考えにいたったのか?」という
個々の前後関係や背景が全く書かれてない。
また、欠落している箇所や読み方不明の箇所も多い。
そのためにこの本は一見、単なる教条主義的説教本に見えてしまう。
これは僕がやりたい参加観察としての視点から見れば決定的な欠陥になるが、
彼自身が内的人格と向き合うために使った言葉や表現は
その背景が不明確でも何か心打つものがある。
この本の中で「君」と呼びかけている箇所は実は自分自身に投げかけている
言葉だということ、強大な権限と責任を常に意識しながらも自らの力量の限界
と理性の破綻を必死で止めようとした葛藤は十分に伝わってくる。

たとえ一冊の本として完全ではなくても、卒論で参加観察を書く僕にとっては
パックス・ロマーナを築き上げた五賢帝最後のローマ皇帝として
執務に奔走しながらストア派哲学者としての視点から自らの行動を見直し
記述したこの本は非常に興味深いものだ。このような彼の姿勢は学ぶ点が多いと思う。
ちなみにほとんど意味も分からない点も多いこの本の中で
僕の心をどこかしらとらえてしまった記述を・・・
「遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは
君を忘れてしまうであろう。」
「行動においては杜撰になるな。会話においては混乱するな。
思想においては迷うな・・・人生におていは余裕を失うな。」
ところでこうやって誰にも見せないように影でこそこそ文字を
書きながら自分を励ましたり反省したりと
・・・彼ってけっこう性格暗いんとちゃうん?(笑)

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1998 2/5
エッセイ、哲学
まろまろヒット率4

オリゲン・ヘリゲル、柴田治三訳 『日本の弓術』 岩波書店 1982

昭和初期に日本に来たドイツの哲学者が日本の弓術の稽古を通して、
その無意味性(射撃をやった方が実戦的)と非合理的な練習方法に
戸惑いながら一見、無意味で非合理にみえるものの中から理性、
理論的なアプローチからでは接近しきれない「もの」へのアプローチを
会得していった過程を、懐かしみながら振り返って記述している一冊。
合気道と産学協同プロジェクトという共に二律背反的な要素を
含んでいるものを続けている僕には非常に興味深かった。

「血なまぐさいことに使われなくなって初めて、その精神を完全な
精浄さのうちに培うことも、付随した目的に惑わされずにそれを
十分に引き立たせることも、可能になって来た。」
「弓術は、弓と矢を持って外的に何事かを行おうとするのではなく、
自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。」
と、言う記述は弓道、剣道、合気道など日本の武道に通じる点だと思う。
ただ体を鍛えたいとか(相対的に)強くなりたいというものを
満足させるものではないから。

「射手の自分自身との対決とは、射手が自分自身を的にしてしかも
自分自身を的にするのではなく、すなわち時には自分自身を射中てて
しかも自分自身を射中てるのではないということであり、したがって
弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に近い。」
という点は、言葉ではとても矛盾してみえるが稽古を通していれば
イヤというほど感じさせられるものだ。
これが理解というよりも実感の世界の話になるのだろう。

「日本人にとては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、
いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには
決して語られも考えられもせず、結局はただ経験したことのある
人間によって経験されうるだけである。」
「日本人の論述はその字面だけから考えるならば、思索になれた
ヨーロッパ人の目には・・・幼稚に見える。ところが日本人は逆に、
ヨーロッパ人の考えには・・・直観に欠けている、と考えるに違いない」
というのはかなり極論しすぎているような感じはするけど、
当時のヨーロッパ人と日本人との思考的アプローチの違いについて
彼自身が武道の稽古を通して実感した正直な感想なんだろう。

「内的発展の先を越さず物事をいわばその自然の重力に委ねる忍耐である。」
っていうのは非合理性の中の合理性ってやつっすね。
よく僕も道場の師範からこれに似たことをやってもらっている(^^)
「体験でしか理解できないものを言葉で説明することができようか?」
という著者自身がこの本を書くときに感じた葛藤は実は
吉本興業プロジェクトを通じて木村常務やT教授、
そして僕自身が感じている葛藤でもあるんだろう。

これはとても短い本だけどヨーロッパ人の言葉による理解と、
日本人の経験による会得という根本的な差異に戸惑いながらも
理解しようと賢明に試行錯誤する著者と弓術師範の姿勢が感動を呼ぶ一冊。

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1998 1/25
文化論、哲学
まろまろヒット率5

佐藤満 『政策科学と政治過程論』 立命館大学「政策科学」 1993

政策形成論のテスト勉強のために必要に迫られたことと、
4日につっちーと会ったときにラスウェルの話題が出たことをきっかけに
読み直した佐藤満教授の論文。
主にサバティールのまとめた政治学の中で政治過程論がいかにして
政策過程論に移行してきたのかを解説した論文。
一番根幹となる部分は「政策とは政治過程のアウトプットであり、
あくまで政治過程の従属変数である。
故に政策自体を分析するのではなく、政治過程を分析することが最優先」
とした今までの政治過程論に対して、ロウィが今までの独立変数
(政治過程)と従属変数(政策)を逆転させることによって
より深い議論ができると打ち出した政策過程論について述べている部分
(アリーナアプローチの大元がこれ)。
なんだ、そんなことかと単純に思うかもしれないがこれを押さえていないと
政策形成論はわからないぞということだろうか。
独立変数はあくまで政策でそれによって従属変数たる政治過程が
変化するという視点は政策形成論を語る上で外せないから。
また、ラスウェルの政策科学の定義「その自体の政策問題に関係するデータを
取りそろえ解釈を与えつつ、政策形成と政策執行の過程を説明することに
関わる学問」というのは今でも有効なのだろう。

1998 1/8
政策学、政治学
まろまろヒット率3

原光雄 『化学入門』 岩波書店 1974

波瀾万丈の1997年最後に読み終えた本。
藤江の家に行ったときにもらった化学の入門書。
化学入門とは言っても著者の書いているように化学成果の羅列ではなく
「化学的アプローチ」について説明している。
とても興味深い本だが、初版が昭和28年と古いせいか旧態漢字が
使われていたのが読みづらかった。
第一部:化学の対象と内容、第二部:化学と社会、
第三部:化学の方法の三部構成だが第一部で化学的思考について語り、
その事例として歴史的発見の経緯を述べているという書き方。
歴史オタクの僕としては各発見経緯も楽しく読めた。
そして印象に残った点としては「純粋自然科学の目的は二段構えに
なっている・・・自然現象の客観的反映という当面の目的と、
社会的有用性とい究極の目的とである。この二つの目的はたがいに
密接に関連しているのであって、前者は後者なしにありえず、
後者も前者なしには有効的ではありえないのである。」という箇所は
自然現象を社会現象に置き換えればまさに政策学の目的となる。
そして「観察に多く依存しているような分科は、進歩がおそい。
これに反して、実験によって新しい個別的事実がどんどん発見されるような
分科は、進歩がはやい。」という箇所は社会科学にとって耳の痛い話だ。
このような自然科学の実験主義の性格もいくらかは
政策学に取り入れるべきだとあらためて思う。

1997 12/30
化学、自然科学、学問一般
まろまろヒット率4

司馬遼太郎 『燃えよ剣』 新潮社 上下巻 1972

新撰組副長として京都中を震撼させ、幕府瓦解後も戦い続けた土方歳三の小説。
『峠』が予想以上に当たりだったので「幕末ものを続けてもう一冊」と思い読んだ本。
この本は一般に知られている坂本龍馬像が『竜馬がゆく』から
主に来ているのと同じように土方歳三の一般像の基本になっている。
後書きでも司馬遼太郎は『竜馬がゆく』とこの『燃えよ剣』で
男の生き方の典型を描きたかったと述べているように、
この二冊を読み比べるとまた深いものを感じてしまう。
(連載時期もだいたい同じだったらしい)
単純な感想としては「男くさいなあ」だ。
土方歳三はほんとうに男くさい生き方の典型だろうと思う。
僕の知りうる限り彼を好きという人間もたいていは男くさい(笑)
思想、信条などの議論を軽蔑し、性格は寡黙で無愛想。
自らの腕だけを信じ、剣の腕と戦術指揮においては
右に出る者がいない天性の喧嘩の達人。
戦いによる「男の生き方」を常に追い求め、榎本武揚らと共に
蝦夷共和国設立時の中心メンバーとなりながらも政治には
まったく興味を示さず、ただ戦うことだけに生き甲斐を見いだし
絶望的な状況下でも平然と戦い続ける。
蝦夷共和国首脳陣に降伏の意志があることを見て取るや、
死に場所を求めて一人で新政府軍の防御陣に突撃、
一時は防衛ラインをずたずたにするほどの戦果ををあげるが
ミエニー銃による一斉射撃を受けて死亡。
印象に残っているのは最後に突撃をするときに新政府軍の幕僚から
所属を聞かれたときに蝦夷共和国陸軍奉行(最後の役職)ではなく、すでに
崩壊して形も無くなっている「新撰組副長 土方歳三」と答えたことだ。
(結局これが遺言となる)
・・・こいつもむちゃな生き方や(^^;
でもなにかそこに「感動」があると思える。
そんな僕も男だからか?

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1997 12/19
歴史、小説
まろまろヒット率5