オリゲン・ヘリゲル、柴田治三訳 『日本の弓術』 岩波書店 1982

昭和初期に日本に来たドイツの哲学者が日本の弓術の稽古を通して、
その無意味性(射撃をやった方が実戦的)と非合理的な練習方法に
戸惑いながら一見、無意味で非合理にみえるものの中から理性、
理論的なアプローチからでは接近しきれない「もの」へのアプローチを
会得していった過程を、懐かしみながら振り返って記述している一冊。
合気道と産学協同プロジェクトという共に二律背反的な要素を
含んでいるものを続けている僕には非常に興味深かった。

「血なまぐさいことに使われなくなって初めて、その精神を完全な
精浄さのうちに培うことも、付随した目的に惑わされずにそれを
十分に引き立たせることも、可能になって来た。」
「弓術は、弓と矢を持って外的に何事かを行おうとするのではなく、
自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。」
と、言う記述は弓道、剣道、合気道など日本の武道に通じる点だと思う。
ただ体を鍛えたいとか(相対的に)強くなりたいというものを
満足させるものではないから。

「射手の自分自身との対決とは、射手が自分自身を的にしてしかも
自分自身を的にするのではなく、すなわち時には自分自身を射中てて
しかも自分自身を射中てるのではないということであり、したがって
弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に近い。」
という点は、言葉ではとても矛盾してみえるが稽古を通していれば
イヤというほど感じさせられるものだ。
これが理解というよりも実感の世界の話になるのだろう。

「日本人にとては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、
いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには
決して語られも考えられもせず、結局はただ経験したことのある
人間によって経験されうるだけである。」
「日本人の論述はその字面だけから考えるならば、思索になれた
ヨーロッパ人の目には・・・幼稚に見える。ところが日本人は逆に、
ヨーロッパ人の考えには・・・直観に欠けている、と考えるに違いない」
というのはかなり極論しすぎているような感じはするけど、
当時のヨーロッパ人と日本人との思考的アプローチの違いについて
彼自身が武道の稽古を通して実感した正直な感想なんだろう。

「内的発展の先を越さず物事をいわばその自然の重力に委ねる忍耐である。」
っていうのは非合理性の中の合理性ってやつっすね。
よく僕も道場の師範からこれに似たことをやってもらっている(^^)
「体験でしか理解できないものを言葉で説明することができようか?」
という著者自身がこの本を書くときに感じた葛藤は実は
吉本興業プロジェクトを通じて木村常務やT教授、
そして僕自身が感じている葛藤でもあるんだろう。

これはとても短い本だけどヨーロッパ人の言葉による理解と、
日本人の経験による会得という根本的な差異に戸惑いながらも
理解しようと賢明に試行錯誤する著者と弓術師範の姿勢が感動を呼ぶ一冊。

この本をamazonで見ちゃう

1998 1/25
文化論、哲学
まろまろヒット率5

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です