哲学とはどこで開き直るか

標題: [ml-dokusyo 190] 哲学と結論と開き直り
期限: 00/ 8/ 4 14:48
宛先: ml-dokusyo@ml.ritsumei.ac.jp

椎名林檎が昔ホリプロスカウトキャラバンに応募していたことを知って
(それもBEST4まで残ってた!)「キャラ違うやろ」と突っ込んだ、
らぶナベ@アイドルになってなくてホント良かった(^_^)

さて、ぼーちゃんがアップした・・・
>だから、読書感想文でも書いてみることにしました。
(中略)
>『西田幾太郎哲学講座(永遠の今について)』
・・・について、僕も暇になったのでコメントでもちょっと書いてみまっす。
僕たちの親やその少し上の世代の人にとって哲学と言えば
西田哲学と言うほどこの著者は影響力を持っていたらしいっすね。
僕も団塊の世代と話をしていて哲学的な話に方向が行くと
この人の話は耳することがかなり多いっす。

各哲学論がどうかということはひとまずおいておいて
そもそも哲学というものを大きな視覚見てみると
これは客観的な有形物では無いからそれを捉えようとする
人自身の感情や姿勢によってまったく違ったものなってしまう性質が
あることは無視できない面だと思うっす。
どんなに客観的or科学的or分析的になろうとしても
まさに「永遠に」主観的な感情論の粋を出ない面もあると思うっす。
これは前に読んだ『不安の心理学』生月誠著(講談社学術新書)
1996年初版で不安に対するアプローチについて
書かれてあったことにも通じることなんだろうけど、
(主観的無形物という点では哲学も不安も同じカテゴリ)
哲学に対してあまり感情を抑えて正面から冷静に捉えようとする
科学的アプローチは本末転倒に陥る可能性があるなと思っているっす。
でも、哲学論がすべてそういうものだと言い切ってしまうと
いくら考えても答えが出ないという哲学で言うところの
サスペンス状態に陥ってしまうっす。
この未決状態っていうのが人間にとっては一番気持ち悪い状態だから
(推理小説のカタルシスはこの点をつく)
どこかしらの結論をとりあえずは出すっす。
・・・では、どこで結論を出すのか?
言いかえてみればどんなに冷静になっても最後は感情論の結論を出すという
開き直りをどこでするのかということになると思うっす。
では「どこで開き直るのか?」ということが
その人やその学派の哲学を形作っているんだと僕は捉えているっす。
だから僕は哲学者の意見を聴くときや著作を読むときには
常に「こいつどこで開き直っているんだ?」という視点で
接するようにしているっす。(ちょっとヤなやつかも(^^;)
そして所詮は感情論の粋を出ないことなんだからこちらも開き直って
自分なりのそこへの感想を尺度にして捉えるようにしているっす。
そういう視点で見てみると西田哲学は・・・
>こうして現在は、過去・現在・未来を包んでいると理解した。
・・・そして・・・
>自我へのこだわりを捨てきった絶対無の境地にいたって、初めて世界との世
>界との対立が融解して世界がそのまま自由な自己であると感じられるである。
・・・という風に開き直っているところが共感者を集めているんだなと
感じたっす、いまを生きるしか術のない僕らの状況を肯定している
彼の哲学観には勇気づけられた人も多いだろうから(^_^)

“Making policy as a king top of the world,
Working task as a slave bottom of the world”
Yoshihiro Watanabe:School of Policy Science


読書会MLより。

2000 2/6
まろまろコラム

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