フレデリック・グロ、露崎俊和訳 『ミシェル・フーコー』 白水社 1998

らぶナベ@愛すべきは自らの中にある狂気といった感じだね(^^)

『ミシェル・フーコー』フレデリック・グロ著(文庫クセジュ)を読んだです。
卒論は参加観察によって自分自身の行動を研究対象にするということを
吉本プロジェクト責任者のT教授に話していると、
「それならポスト・モダンの流れも一応押さえていないと説得力に欠けるぜ。
文庫クセジュからフーコーの一番良い入門書が出たんだよ!
ぜひ読んで一度見ろよ!!」と強力に推薦されて読んだ本。
予想通りというか案の定というか、
まさに負から始まり負に帰結するといった感じの本。
一変の明るさも希望も感じられないが
分析や思考というものは基本的に負に属するものなのだろう。
(その段階で完結しているだけではいけないんだろうけど)

この本の中で僕がもっとも注目したところは
フーコーが狂気にスポットを当てている箇所だ。
彼の主要著書の一つ『狂気の歴史』の中で述べられている・・・
「『愚神礼賛』を執筆するエラスムスのユマニスムにおいて、
あるいはモンテーニュの懐疑的な思弁において、
狂気はもはや奇想めいた変貌をこうむるべきものと
夢想された世界との関係においてではなく、
理性との関係において捉えられる。」
「狂気の実の置き場は、ここにいたり人間が自己自身と交わす
論争という地平に限定されてしまう。叡智の教訓もその点に位置づけられる。
すなわち、狂気のかけらもないところに、思慮分別のある理性はない。」
・・・という箇所には妙に惹かれた。
そして「自らの狂気と向かい合ったものが真の思慮分別を知る」
とも解釈できるこの記述は僕にとって一つの答えを与えてくれたように
思える。時々、安っぽい社会慣行や狭い道徳観念に凝り固まって結果として
本末転倒な指導を子供に課している親や小・中教師などを
見かけることがあって彼らに対して昔から僕は昔から不思議さと
哀しさが合い混じった複雑な思いを持っていたんだけど。
(自らの親に対してもそう)
彼らは彼らの理性の寄るべき場所を自分の外部の規範や教義などに
完全に依存するだけで自らの狂気と向き合ったことは無いのだろう。
だから例え実際とは隔離していようが狭い範囲だけの慣行に
固執することにもなるのだろう。

そう考えてみると『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマである
「人は心の拠を失ったとき何に頼れば良いのか?」というものについての
答え、僕自身がリーダーとして今までの慣行とは相容れない決断を
あえておこなう時に「何を基準に判断すれば良いのだろうか?」
という問いに対する答えは「自らの中にある狂気を拠とする」
というものにもなるのではないだろうか。
自らの狂気と向き合った人間こそが思慮分別、判断というものを本当に
自分自身のものとして捉え確信を持って実行することができるのだろう。
そういえば『蒼天航路』第14巻(モーニングKC)で曹操が文醜に対して
「おまえという人間を武と智で割ればきれいに割り切れて残るものがない。
おまえたちには心の闇がない」と言い放つシーンがあるけど
これは上述ようなことにも通じるところだろう。

以下この本でその他に目に付いたところ・・・
・『臨床医学の誕生』の中で・・・
「歴史的にみて、もろもろの人間科学は人間みずからの否定=陰画を
検証するという経験のうちに、その出現の条件を見いだしてきた。
人間をめぐる諸科学の実定的真理は、
ゆえに崩落の地点にその基礎を据えられている。」

・権力と法について・・・
「フーコーにとって、権力は所有されない。権力は行使されるのである。」

・『談話と著述』の中の統治について・・・
「国王のイメージは用心深く、気難しい牧人(司牧者)として指示される。
フーコーが古代オリエント社会に範を見いだされるこの権力類型は、
またキリスト教による魂の統治を特徴づけるものでもあり、
ギリシアにおける都市国家の統治とは峻別される。」

・最後に著者が結論的に・・・
「哲学は、われわれを再発見するすべではなく、
われわれを新たに創出するすべをあたえる
もろもろの物語を構築することができる。
形而上学の諸体系はもろもろの政治的虚構に場を譲るのである。」

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1998 11/19
哲学
まろまろヒット率4

リデル・ハート、森沢亀鶴訳 『戦略論―間接的アプローチ』 原書房 上下巻 1986

らぶナベ@こんな差し迫った時期にじっくり一冊の本を読み終えるというのも
なかなか乙なものですな、特に考えながら読まないといけないような
良書は(^^)

さて、そういうわけで『戦略論 上・下』リデル・ハート著(原書房)をば。
佐藤満教授から借りた本。
一回生の時から気になっていていつか読もうと思っていた戦略書の一つ。
著者は第一次世界大戦、第二次世界大戦を経験し、
特に第二次大戦終了直後に作戦制作、戦闘指揮をおこなった
ドイツ将官たちのインタビューを通して現代における戦略論を模索した人物で
クラウゼビッツを批判し孫子への回帰を唱えたことで有名な人。
クラウゼビッツの「敵主力の捕捉と殲滅」という戦略概念が
両大戦をこれほどまでに不毛なものにしたと主張し、
敵の撃破を目指した直接的攻撃ではなく
「間接アプローチ」によって敵を消耗させその意図を挫くという
孫子で言うところの「戦わずして勝つ」ことに戦略の価値を見いだしている。
「間接アプローチ」というのは耳慣れない言葉だが「外堀を埋める」や
「将を得ようとすればまず馬を射よ」のような東洋では
ごく普通に使われて来たメジャーな概念のことなのだけど
ヨーロッパ、特に20世紀の現代戦ではあまり注目されてこなかったので
著者はこういう言葉をあえて使ったようだ。
(やたらと柔術とかの単語も出てくる(^^))

本の構成としてはそのほとんどを歴史的な戦略研究が占めている。
それこそギリシア時代(ペルシア戦争、ペロポンネソス戦争、
フィリッポス&アレクサンドロスの征服)や
ローマ時代(ポエニ戦争、カエサルを中心とした内乱)から
第二次世界大戦(著者にとってはリアルタイムだったので
この記述が一番多かった)、アラブ・イスラエル戦争(第一次中東戦争)まで
ヨーロッパ史を中心に主要な戦争、戦いを見直して
一定の戦略概念を見いだそうととしている。

そうした事例研究を元にしてこの本の結論としては・・・
1:目的を手段に適合させよ(消化能力以上の貪食は愚)
2:常に目的を銘記せよ
3:最小予期路線(又は最小予期コース)を選べ
4:最小抵抗戦に乗ぜよ
5:予備目標への切り替えを許す作戦線をとれ
6:計画及び配備が状況に適合するよう、それらの柔軟性を確保せよ
7:対手が油断していないうちはー対手がわが攻撃を撃退し
又は回避できる態勢にあるうちは、わが兵力を打撃に投入するな
8:いったん失敗した後それと同一線(同一の形式)に沿う攻撃を再開するな
・・・という戦略概念の要約を著者がまとめている。

以下はこの本の中で印象に残った箇所と記述しておくべき箇所・・・
・1866年、1870年のモルトケが指導した両戦闘について
「例外は、例外とならぬ一般の場合の規則を立証する」

・歴史的事例研究の要約として
「常勝の司令官らは天然及び物質的に強固を極める
陣地に立て籠もった敵に直面したときは、
直接的方法でその敵と取り組むことはほとんどしなかった。
状況の必要に迫られてあえて直接的攻撃の冒険を行った場合もあるが、
その結果は彼らの記録を失敗でよごすことになった。(一部省略)」

・レーニンの言葉を引用しながら
「いかなるキャンペーンにおいても敵を精神的に攪乱して、
わが決定的打撃が実行可能になるまでは戦闘を延期しておくことが
もっとも堅実な戦略であり、また攻撃を延期しておくことが
もっとも堅実な戦術である。」

・ヴェルサイユ講和会議でのドイツ海外植民地全没収案についての反論として
第二次大戦のイタリアの例を出しながら
「本国との間を遮断され易い海外領土を欧州大陸の一強国が保有することは、
その国の侵略的傾向を抑止することになり易い。」

・第一次大戦のドイツ革命による終結について
「勝利と敗北の間のバランスは心理的印象のほうに傾くものであり
物理的打撃についてはそれが間接的であった場合にのみ、
そのほうへ傾くものである。」

・クルスク戦車戦、アルデンヌ反抗戦などのナチスドイツ後半の
戦略について拳闘家ジェム・メイスの言葉
「彼らを我に向かって来させよ。
それによって彼らは自らをうち負かされることになる。」を引用しながら
「ドイツは、自分で自分を打ちのめすところまで行った。(中略)
ドイツが勝利の問題を解決しようとして
過度に直接的なアプローチをとったために、
連合側はこの問題を間接的に解決し得ることになった。」

・クラウゼビッツの有名な定義、
「戦争(戦略)とは政治(政策)の一手段である」と
「戦略とは戦争の目的を達成するための手段として諸戦闘を用いる術である。
言い換えれば、戦略は戦争の計画を形成し、
戦争を構成する数個のキャンペーンの取るべき予定のコースを描き上げ、
そしてそれぞれのキャンペーンにおいて戦われるべき
諸戦闘を規整するものである。」についての反論として
「この定義は戦略そのものが、政策の分野
すなわち戦争を遂行すべき最高の分野に冒し入っているが、
もともとこの分野は必然的に政府の責任に属すべきものであり(中略)
その手先たるべき軍事指導者には上述の責任を負わせるべきではない。」
また、「戦略の定義をはっきりと戦闘の使用方法に絞っているところで
戦闘は戦略目的のための手段に過ぎないということになっている点が
おかしい」、
「クラウゼビッツの弟子たちが目的と手段を混合し、
戦争においては一個の決定的戦闘に対して他のあらゆる考慮を
従属させるべきであるという結論に到達することはきわめて起こりやすい。」

・ナポレオンの失敗について
「敵が適時にその地点に増援を行い得ないというのでない限り、
意図した決定的地点における優越的兵力分量は十分なものとはいえない。
また、その地点における敵が単に数的に劣勢であるだけでなく、
精神的にも弱化しているというのでない限り、
我が優越的兵力量も十分であるとはいえない。
ナポレオンはこの保証を軽視したために苦杯をいくつか嘗めた。」

・近代ヨーロッパの戦争目的の一つであった合邦について
「意見の相違を受け入れるよりも
意見の相違を抑圧してしまう方が悪い結果を招く。」

・大戦略の章では結論的に
「弱い者いじめ型や強盗型の人間は自力で立ち向かってくる人間に対する
攻撃を渋るということは個人について考えても共通の経験である。
その渋り方は平和型の人間が自分よりも大きい攻撃者と取り組み合うのを
渋るよりももっとはるかにひどいもである。(中略)
好戦型の人間や国家と真の講和を行うことは困難であるが、
その一方それらの人間や国家を休戦状態に入るよう誘致することは
より容易である。そしてこれは彼らを打破するよりも、
遙かにわが精力を消耗することが少ない。
(中略)サスペンス(未決からくる不安)の状態は辛い(中略)
しかし、サスペンス状態でも戦勝の蜃気楼を追って
国力を蕩尽するよりはましである。」

・付録のアラブ・イスラエル戦争の章では
「真の目的は、戦闘を求めるよりもむしろ
有利な戦略情勢を招来することにあるのであって、
その有利な戦略情勢とは、
それのみで戦いの帰すうを決定できることが最も望ましいが、
それができない場合には戦闘によってその有利な情勢を継続することによって
戦いに決をもたらす底のものであるべきである。」

こうしてみると全体的に少し直接アプローチの弊害を強調し
過ぎじゃないかなと思う所もあったけれど
確かに日露戦争以来の日本軍を見ても
クラウゼビッツの強い影響を受けていて、
敵主力の捕捉と撃破のために無理な進撃を続けて消耗し
その戦略を太平洋戦争でも適用させようとしたきらいはあると思う。
(海軍でも根強く続いた艦隊決戦思想の大元はこれ)
第一次大戦と二次大戦はその双方の将官がクラウゼビッツ理論を学び
その実践の場としてあったという言い方はできるかもしれないと思った。

ps98年度吉本興業インターンシップ事業化プロジェクト政策科学部代表の
(僕の代よりも長い名前になっているよな(^^;)やすなりへ。
そうは言うモノの吉本プロジェクトの基本は直接アプローチっすよ(笑)
あえて突撃戦術を採用でき、直接攻撃ができる人間が行って始めて
間接アプローチの意味があると思うっす。

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1998 11/16
戦略論、歴史
まろまろヒット率5

シンポジウム「インターンシップとコーオプ教育」パネリスト参加

絶望的に遅れそうだったので新幹線&タクシーを飛ばしてもらうという
荒技で何とか間に合わせて参加。
松下電器の人事部長も参加していたがおもしろくなく、
上辺の話だけしているなと思っていたら案の定、
吉本興業のMさんが直球勝負してくるので笑えた。
最後の方で企業側のメリットや学生として企業に「こういうことを貢献した」
という人があればということだったのでこれはここまで話振られていて
話さなくてはいけないなと思い少し長めにはっきりと話した。
まずインターンシップ中におこなった政策提言について「NGKでとて
もお世話になった人(浦上さん)に対して声優産業への進出について
文章で政策提言したが、彼は現在渋谷公園通り劇場の支配人になって
声優企画をおこなっている」、「吉本興業は僕たちの世代をターゲットに
したい。しかしどんなに若くても吉本興業社員は企画を考える最初から
枠にはまってしまっている、そこでターゲットである僕たち自身に
企画を考えさせてみて失敗しても良いからその姿、経緯を見ていく。
これに吉本としての価値がある」、「つい最近ようやく気づいたことだが
『この企画は社会性がありますよ!』とか『ニュースで取り上げられますよ!』
とかいう企画を学生は考えるがことごとく吉本に潰されている。
これは宣伝効果というならばテレビや雑誌などは吉本自身がスポンサー
として金を出しているのでわざわざニュースのネタになるような
宣伝は効果が薄い。宣伝効果というならば学術的書物やこのような
シンポジウムなどお堅いところに吉本興業の名前が出ることの方がはるかに
価値がある。特に吉本興業は教育産業に進出したがっている。
現在掘プロ、ジャニーズ、吉本が三大巨頭だがこと教育に関しては
吉本興業が圧倒的に優位に立っている」・・・そして最後に
「これらを考え合わせると100万円はいただいているが
それ以上の貢献は確実にしていると思います。」とはっきりと述べた。
後になって「もし万が一吉本側から『金を返せ!』と言われても逆に
『おつりはいらないです、取っておいて下さい』と言いますよ。」と
言っても良かったかなと思った。少々生意気だがMさんも
あれだけ本音で話したのでこれくらは許されただろう。
体調が優れなくあまりきっちり発言できたとは思えないが終わってからの
反応を見ているとやはり吉本興業インターンシップの独り舞台だったようだ。
個人的に嬉しかったことはこの一年で電子メールなどの文化に理解を示し、
ロンドンブーツが電子メールを使ってアジア進出することに決定したが
「海外でロンブーが成功すれば渡邊くんのおかげ」と言ってくれたことだ。
終わってからぼーちゃんと話したがMや僕の話に感銘を受けたようだった。
彼女は「好きなことをする」ということに懐疑的でプロジェクトに
社会性を見いだそうとしていたので考えることも多かったのだろう(^^)
こうしてみてみると僕自身の吉本興業インターンシップと
事業化プロジェクトに対する振り返りの良い機会になったように思える。
1998 10/22
出来事メモ、インターンシップ

関学KSCグリーンゼミゲスト出席

あっちゃんから「月曜日は藤江の家に泊まるのでどう?」とお誘いがあったこと
もあって、ふと思い立ちひさびさに関学KSCに行った。
実に1年以上ぶりの三田だったがバス停が変わり、バス運賃も10円アップされ
ていて新三田駅前に大きな建物(駐輪場らしい)が建設中でキャンパスも知らな
い人が多く人も多かったのには時代の流れを少し感じた。
しばらく出会ったあっちゃんや生島、吉屋とだべっているとグリーンゼミの時間
になりあっちゃんに強力に(半ば強制?)でゲスト参加することになった。
さすがに名物ゼミだけにとても刺激的だった。すべてを英語でおこなうこともそ
うだがちゃんと参加者が宿題として自分の研究を書面化してきてそれにグリーン
が激しい突っ込みを入れるという姿に面白みを感じた。
(突っ込みも「stupid!」、「アホ!」などが連発)
やはりゼミナールとはある種の緊張感が無ければいけないなと感じた。

1998 10/19
出来事メモ

ウンベルト・エーコ、河島英昭訳 『薔薇の名前』 東京創元社 上下巻 1990

[Dokusyo-Kai]”IL NOME DELLA ROSA”
らぶナベ@ようやく下巻が図書館に帰ってきたので読めた~!(^o^)
(ずっと気になってうずうずしていたのですっきりした)

『薔薇の名前 上・下』 ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳
(東京創元社)をようやく読み終えました。
著者は元々トマス・アクィナス研究(高校世界史を思い出すな(^^))
をしていたけど今では記号論で有名な学者さん。
それなのに小説を書いてしまい、
それが大ベストセラーになってしまったというちょっとめずらしい人。
(最新作『フーコーの振り子』が書店に並んでいる)

話の内容は14世紀始め(中世からルネサンスへ移行しようかという時期)
のイタリアのある修道院で次々に起こる連続殺人に対して
それを解明しようとするフランシスコ派修道士ウィリアムと
その弟子アドソの視点を通してえがかれている「推理小説」。
この本はウィリアムの弟子、少年アドソがこの事件のずっと後になって
自分の人生が終わろうとする時期に書き残した書物で
それをたまたまウンベルト・エーコが発見したという前書きで
始まっているがこれはどうもうさんくさい(^^)
(14世紀に書かれた割にはあまりにも現代的な感性が読みとれる)

物語の期間はわずか一週間で修道院の中をうろちょろと探検して推理する
二人のお話が中心なのだけれどその中で出てくる異端派の弾圧風景、
教会と世俗の対立(当時アナーニ事件に始まる教会分裂時代の真っ最中)、
当時は高価であった書物を求めることや残すことの労力などは
一つの歴史小説としてだけでみてもとても興味深く読みとれた。
特に主役であるウィリアムが坊さんのくせにやたらと科学的なアプローチ
(当時イスラーム圏から導入されつつあった化学、医学、幾何学など)
を扱いながら真実に近づいていく姿にはカッコ良さを感じた(^_^)

基本は推理小説であるのであまり話の展開にそって書き表せないんだけど
この本には単なる推理小説に留まらない
非常に深い要素がちりばめられている。
この本を通して僕が強く感じるのは神学と哲学、神秘と科学との葛藤
(開き直っているように見えるウィリアムでさえ感じている)。
すべての学問の元となる好奇心、知識欲、真理に近づきたいと思う欲望。
書物を読むということの意味と危険性。
・・・そうしたものが生々しく感じられた。
推理小説という入りやすい割にとても難解なテーマを扱っているという
そういう意味ですばらしく「良い」本。
この本に関してさまざまな解説、関連本が出版されているのにもうなずける。

ちなみに以前ショーン・コネリー主演でこの小説が映画化されたんだけど
それは単なる変態映画のようなイメージを受けたのは僕だけだろうか(^^;
確か関学KSCのあっちゃんがこの本について論評を書いていたはずなんだけど
それ読みたいのでアップしてくれないっすか?

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1998 10/15
小説、歴史、哲学、神学
まろまろヒット率5
ベストセラー

馳星周 『不夜城』 角川書店 1998

これがちょうど僕が大学に入ってから送った1万通目のメール
電子メール使えるようになって最初のうちは確かに嬉しかったとはいえ、
「僕って自分で思っているよりも暇人やな」と感じているっす(^^)

さてさて、僕も『不夜城』馳星周著(角川文庫)を読みました。
あまり読む気がしなかったが藤江に強力に薦められて読み始めた小説。
読み始めてみると緊張感と怠惰性が合わさったような妙な雰囲気に
夢中になってあっという間に読み終えた一冊。
ストーリーの方は藤江が書いたとおりだが、
彼も言っているようにそんな話の展開はあくまで演出であって
(その展開自体も物語としてとてもよくできているんだけど)
この小説を通して印象に残るのは人間の心、
それも生きるために代償として養ってきたそれぞれの中にある闇の部分だ。

ナイフで人を切り裂くことで性的満足を得ることができる人間、
ロリコンハッカー、才能を持ちながら賭博で破滅しつつある風俗ライター、
暴走する兄に体を与えることで安息と力を得る妹、
そして憎悪と媚びを複雑に合わせたような表情をする癖を持つ主人公たち。
・・・こんな人間たちが泥臭い歌舞伎町を舞台に生き生きと
その闇の部分がえがかれているのに思わず魅了された。
安っぽいハードボイルド小説ならこういう登場人物たちは
物語のお約束的な展開に華をそえるだけの存在だが、
そんな安っぽい展開やセリフなどどこにも出てこない。
これほどまでにお約束的行動をしない主人公も僕は見たことがないし
(美形でも何でもないトルエン狂いの男を犯すシーンなんてその典型)
ここまで無気力な雰囲気と力強さを感じさせてくれる主人公も
あまり知らない。

「・・それでも生きる」というテーマがある『もののけ姫』よりも
はるかにこの小説の方が「生きる」ということを考えさせてくれる。
これは僕も心に闇を飼う人間だからか?(^^)
ふと「これを2時間の映画という枠で映像化するのは難しいだろう?」
と感じたが案の定映画の方は安っぽいデキらしい。
(そもそも質の良い角川映画なんて見たこと無いが)

ちなみに僕の住んでいる大国町はちょうど大久保(歌舞伎町の隣町)と
同じような場所で難波中学校出身の僕にはとっては新宿西口近辺、歌舞伎町、
大久保あたりは前から妙に気に入っている場所ではあったんだけど
この小説を読んでますます好きになったっす。
エニックスに働くようになったら大久保に住んでやろうかと考えているっす。
歌舞伎町あたりで堕落した人生送っている僕を見かけたら声かけてねっ(^_^)

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1998 9/22
小説
まろまろヒット率4

渡部昇一 『ドイツ参謀本部』 中央公論新社 1986

「僕の署名の引用当てた人には僕が昼御飯おごってあげましょう」と言って
からメールでいくつか答えが来ているんだけど誰もまだ当たっていない、
第2ヒントは後にこの詩に曲がつけられて有名な歌になっています。
さあ、当ててみよう(^^)

さて、本題の『ドイツ参謀本部』渡部昇一著(中央公論新社)を読んだです。
組織論では必ずと言って良いほど参考文献に昇ってくる、
「スタッフ」に注目した名著。
前々から読みたい読みたいと思っていたがその度に忘れてしまい、
ようやく読み終えることができた。
プロイセン時代からドイツ参謀本部が如何にして誕生し、展開し、
そして衰退していったかを書いている。

これがまためちゃめちゃおもしろい!(^o^)
シャルンホルストやグナイゼナウ(共に参謀本部創設者)がナポレオンとの
戦いを通じて如何に参謀本部という組織を築き上げていったかという
箇所はもちろん戦史オタクとして興味深かったが、
この本の根幹は何といってもドイツ参謀本部を通してスタッフとラインとの
葛藤、スタッフとリーダーとの確執を描こうとしているところだなと感じた。

特にモルトケ時代とシュリーフェン時代の参謀本部を比べて見て
スタッフの数の激増と独立した建造物、組織時代の知名度があがるにつれて
硬直した組織思考になっていったという箇所が妙に印象に残っている。

ちなみに後書きにあった組織体の代表としてヴァティカン、ドイツ参謀本部、
ロンドン・タイムズの三つがヨーロッパでは有名と著者が書いていたが
ロンドン・タイムズってどんな組織なの?
この組織についての参考文献とか知っている人教えて下さい。

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1998 9/19
組織論、戦略論、歴史、政治学
まろまろヒット率4

北野誠・竹内義和・板井昭浩 『サイキック10年ファイル―1988~1998』 清心社 1998

10月にTBS系で始まる『デビルマンレディー』の予告を見て、
「デビルマンなのにレディーとはこれいかに?」と疑問を感じている
らぶナベ@でも庵野監督&GAINAX制作の新番組と共にチェック予定っす(^^)

さて、北野誠・竹内義和・板井昭浩著『サイキック10年ファイル』
(清心社)を思わず買って読んでしまいました。
これはABCラジオで10年も続いているゲッスイ視点を売りにした
ラジオ番組を記録した本です。
どういうことかというと、例えば・・・
「宮村優子の裏ヴィデオ出演疑惑は本当か?」と噂の裏ヴィデオを入手して
宮村女史本人との違いを何週にも渡って分析、議論したり
鉄っちゃん(鉄道マニアの総称)を細かく分類しその行動を解明したり
鈴木邦男(右翼の人)と塩見孝也(左翼の人ね)を同時にゲストに呼んで
「最近呼んだエロ本は何ですのん?」と聴くなどなど
どうでも良い事や「ほっといたれよ!」と思う社会の事象に
突っ込みを入れるというまさにくだらない番組です。

その番組の集大成とでも言うべき本なので当然、今年読んだ本の中では
間違いなく「くだらない度No.1」の本になるんですが
でもそのくだらなさもこれだけの分量に達すると
ある種壮観な気分にさせてくれるものがあります。
どれくらいのものかと言うと、本の厚さはちょうど今図書館から借りている
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前 上巻』(東京創元社)と同じで
カヴァーを付けて並べると見分けがつきませんし
(こんなことをするとあっちゃんに殺されそう(^^;)
文字ポイントはそれより小さいっす。

やはり物事の裏を突っ込んでそれをネタにするというのは笑いの基本であり、
とても大切な事なんだなぁっと素直に思える一冊ではあるのですが
好き嫌いが分かれるでしょう。
当然僕はこういう矮小でくだらない突っ込み大好きです(^_^)
ゲッスイ志を持って物事を歪んだ視点で見たい人にはぜひお薦めですが。

ちなみにこの番組のレギュラーである竹内義和は『パーフェクトブルー』
の原作者で最近書き上げた『シンプルレッド』も映像化が決定していますが
まさにこのサイキック的視点がそのまま小説になったという作品です。
これは万人にお薦め(^_^)

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1998 9/18
ムック本
まろまろヒット率4

高坂正堯 『世界地図の中で考える』 新潮社 1968

そろそろ大学も始まるのでこの「読書会」も念願のML化を本格的に
開始したいなぁって思っている、
らぶナベ@文学部インステテゥートさとー、ちょっとお願いするっす(^^)

さて『世界地図の中で考える』高坂正堯著(新潮選書)を読み終えたっす。
院試対策の為と単純に気に入っているから高坂正堯の本を読んでいるが、
これはこの著者の代表作。
タスマニア島に半年大学講師として訪れた体験から(第一章)
現在世界が直面している問題まで(最終章)ピンスポットから
大局に流れていく書き方は相変わらず読んでいて気持ちが良い。
それ故あまり簡単にはまとめずらい本ではあるが
忘れられない記述部分が多かった一冊でもある。
特に人体に有害なバクテリアを根元から絶滅させようとすることの有害さ
(すでに医学では常識)をイデオロギー論にも用いて
「抵抗とバランス」を重視する着眼点、
アメリカの強さを「不完全性」に求めるあたりの記述が興味深く読めた。

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1998 9/14
歴史、政治学、エッセイ
まろまろヒット率4