らぶナベ@愛すべきは自らの中にある狂気といった感じだね(^^)
『ミシェル・フーコー』フレデリック・グロ著(文庫クセジュ)を読んだです。
卒論は参加観察によって自分自身の行動を研究対象にするということを
吉本プロジェクト責任者のT教授に話していると、
「それならポスト・モダンの流れも一応押さえていないと説得力に欠けるぜ。
文庫クセジュからフーコーの一番良い入門書が出たんだよ!
ぜひ読んで一度見ろよ!!」と強力に推薦されて読んだ本。
予想通りというか案の定というか、
まさに負から始まり負に帰結するといった感じの本。
一変の明るさも希望も感じられないが
分析や思考というものは基本的に負に属するものなのだろう。
(その段階で完結しているだけではいけないんだろうけど)
この本の中で僕がもっとも注目したところは
フーコーが狂気にスポットを当てている箇所だ。
彼の主要著書の一つ『狂気の歴史』の中で述べられている・・・
「『愚神礼賛』を執筆するエラスムスのユマニスムにおいて、
あるいはモンテーニュの懐疑的な思弁において、
狂気はもはや奇想めいた変貌をこうむるべきものと
夢想された世界との関係においてではなく、
理性との関係において捉えられる。」
「狂気の実の置き場は、ここにいたり人間が自己自身と交わす
論争という地平に限定されてしまう。叡智の教訓もその点に位置づけられる。
すなわち、狂気のかけらもないところに、思慮分別のある理性はない。」
・・・という箇所には妙に惹かれた。
そして「自らの狂気と向かい合ったものが真の思慮分別を知る」
とも解釈できるこの記述は僕にとって一つの答えを与えてくれたように
思える。時々、安っぽい社会慣行や狭い道徳観念に凝り固まって結果として
本末転倒な指導を子供に課している親や小・中教師などを
見かけることがあって彼らに対して昔から僕は昔から不思議さと
哀しさが合い混じった複雑な思いを持っていたんだけど。
(自らの親に対してもそう)
彼らは彼らの理性の寄るべき場所を自分の外部の規範や教義などに
完全に依存するだけで自らの狂気と向き合ったことは無いのだろう。
だから例え実際とは隔離していようが狭い範囲だけの慣行に
固執することにもなるのだろう。
そう考えてみると『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマである
「人は心の拠を失ったとき何に頼れば良いのか?」というものについての
答え、僕自身がリーダーとして今までの慣行とは相容れない決断を
あえておこなう時に「何を基準に判断すれば良いのだろうか?」
という問いに対する答えは「自らの中にある狂気を拠とする」
というものにもなるのではないだろうか。
自らの狂気と向き合った人間こそが思慮分別、判断というものを本当に
自分自身のものとして捉え確信を持って実行することができるのだろう。
そういえば『蒼天航路』第14巻(モーニングKC)で曹操が文醜に対して
「おまえという人間を武と智で割ればきれいに割り切れて残るものがない。
おまえたちには心の闇がない」と言い放つシーンがあるけど
これは上述ようなことにも通じるところだろう。
以下この本でその他に目に付いたところ・・・
・『臨床医学の誕生』の中で・・・
「歴史的にみて、もろもろの人間科学は人間みずからの否定=陰画を
検証するという経験のうちに、その出現の条件を見いだしてきた。
人間をめぐる諸科学の実定的真理は、
ゆえに崩落の地点にその基礎を据えられている。」
・権力と法について・・・
「フーコーにとって、権力は所有されない。権力は行使されるのである。」
・『談話と著述』の中の統治について・・・
「国王のイメージは用心深く、気難しい牧人(司牧者)として指示される。
フーコーが古代オリエント社会に範を見いだされるこの権力類型は、
またキリスト教による魂の統治を特徴づけるものでもあり、
ギリシアにおける都市国家の統治とは峻別される。」
・最後に著者が結論的に・・・
「哲学は、われわれを再発見するすべではなく、
われわれを新たに創出するすべをあたえる
もろもろの物語を構築することができる。
形而上学の諸体系はもろもろの政治的虚構に場を譲るのである。」
1998 11/19
哲学
まろまろヒット率4