元祖一条流がんこ十二代目がんこの「ワンタン麺」

今日は「ゆらぎ」をやっている友達と本郷裏通り探検ランチツアー(同行者募集中)。裏通りで見つけた暖簾も看板もない店に突入。外からはBarっぽかったけど中はラーメン屋さんでした。有名な暖簾分けがあるらしく、暖簾分けされた中では唯一のワンタン麺。餃子のようにジューシーなワンタンがけっこう好きかも。
本郷(文京区本郷3-28-13)の「元祖一条流がんこ十二代目 がんこ」にて。

リチャード・ドーキンス、日高敏隆監修 『ブラインド・ウォッチメイカー―自然淘汰は偶然か?』 早川書房 上下巻 1993

愛機ThinkPadのHDがおじゃんになっちゃったけどWEBにあげていたのでデータは助かった、
らぶナベ@この本でも生命でも大切なのはハードではなく情報だと言ってました(^^)

さて、『ブラインド・ウォッチメイカー~自然淘汰は偶然か?~』上下巻
リチャード・ドーキンス著、中嶋康裕ほか訳、日高敏隆監修(早川書房)1993年初版。
ダーウィン主義に対する「生命のような複雑なものは自然淘汰ではできない」とか、
「われわれには創造者がいるのだ」などの批判に一つ一つ反論している本。
この本のタイトル自体からして、かつて生命の複雑さに驚いて
「この世界を作った時計職人がいるに違いない」と考えた昔の神学者に対しての
「時計職人なんていないし、いたとしてもそれは盲目の時計職人」だ
という反論になっている挑戦的な一冊。

本文も「起源を超自然のデザイナーに頼って説明することは、
そのデザイナーの起源を説明しないままにしているのだから、
何も説明していないことになる」(6章)などの記述が満載。

『利己的な遺伝子』のときもそうだったけど、この著者の本は緻密な積み上げと
思い切りの良い大胆さが両立しているからおもしろい。
だからドーキンスは胡散臭いんだ(^^)

ちなみに盲目の(blind)という言葉はあまり適切ではない言葉になってきているので、
この本のタイトルも今後は変わっていくのかな?

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○われわれの存在がそのものが、ぞくぞくするような謎なのだ
→しかも同時にこの謎はすでに明快に解き明かされている
<まえがき>

○われわれの脳は、ほどのどの速度で三次元空間を動く、
ほどよい大きさの物体の世界を把握するためにデザインされている
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

☆時計職人は先の見通しをもっているが自然淘汰は盲目の、意識を持たない
自動的過程であり、何の目的も持っていない
→もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、
それは盲目の時計職人なのだ
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

○複雑=あらかじめ特定でき、でたらめな偶然だけではとうてい獲得されそうにない
何らかの性質をもつこと
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

○物理学の課題=究極の起源と究極の自然法則の問題を解くこと、
生物学の課題=複雑さの問題を解くこと
<1章 とても起こりそうもないことを説明する>

○進化的変化が起こるのに使える時間が途方もなく長いので、
われわれはそれを直感的に把握できない
<2章 すばらしいデザイン>

○現実には淘汰で残る基準は常に短期的に、単純に生き残るか、
あるいはもっと一般的に繁殖に成功するかである
<3章 小さな変化を累積する>

○遺伝子は実際には二つのことをしている
=発生に影響を及ぼすこと、将来に世代に伝えられること
<3章 小さな変化を累積する>

☆自然淘汰は遺伝子を直接に選びはしない
→遺伝子が体に及ぼす効果(表現型効果)を選ぶ
<3章 小さな変化を累積する>

○数学について大切なことは恐怖心を抱かないようにすること
→「こんなやつにもできるんだから誰だってできる」を思い出すこと
<3章 小さな変化を累積する>

○数学者でない人間にとってコンピューターは想像力の心強い友だち
<3章 小さな変化を累積する>

○サスライアリのコロニーは20kgを越える重さをもち、
2000万にも及ぶ口と針を持つ一匹の動物
→哺乳類とはかけ離れた進化物語の頂点
<4章 動物空間を駆け抜ける>

☆兵アリたちは女王アリのために私を覚悟するが、それは母親を愛しているからでも
愛国主義の理想を叩き込まれているからでもなく、
その身体が女王自身の携えている鋳型の原版から打ち抜かれた
遺伝子によってつくられているからにすぎない
<4章 動物空間を駆け抜ける>

☆生きるもののすべての中核に存在するのは、炎でも、熱い息吹でも、生気でもない
→それは情報であり、ことばであり、指令である
<5章 力と公文書>

☆遺伝子の情報技術はデジタルである
<5章 力と公文書>

○種を定義するのはその全構成個体がDNAに関して同じ番地システムをもっていること
→ある生物種の個体間で異なりうるものは、それらの座の内容である
<5章 力と公文書>

☆種の公文書中に自らを垂直的に伝達させる成功率に関して、
ライバルのDNA間に差があることこそがまさに自然淘汰
<5章 力と公文書>

○自然淘汰にできるのは新たな変異のうちのあるものを受け入れ他を拒絶することだけ
<5章 力と公文書>

☆物理的な実態としてのDNA分子そのものは霧に似ていて、
適当な条件下では大変な速さで生成されるが、
長く存在するものはなく数ヶ月以内にすべて壊れてしまう
→しかし分子がその配列によってつくりだすパターンは最も固い岩と同じくらい長持ちする
<5章 力と公文書>

☆すべてはまったく単純で、楽しくなるほど自動的で、意図的ではない
→累積淘汰の基本的要素ー複製、誤り、そして力ーがまず最初に現れたなら、
似たようなことが起こるのはほとんど必然
<5章 力と公文書>

☆ミーム進化は文化的進化と呼ばれる現象に現れている
→文化的進化はDNAにもとづく進化より桁違いに速く進むので
のっとりではないかと思わせるほどである
<6章 起源と奇跡>

○進化はわれわれの脳に1世紀以下の寿命をもった生物にふさわしい、
危険率や実現可能性についての主観的な意識を備えさせた
<6章 起源と奇跡>

○遺伝子が淘汰されるのは遺伝子の内的性質ゆえではなく環境との相互作用による
→ある遺伝子の環境としてとりわけ重要な構成要素は他の遺伝子である
<7章 建設的な進化>

○科学におけるもっとも偉大な進歩のいくつかがもたらされたのは、
頭の言い誰かがすでに理解されている問題といまだに謎の解かれていない
別の問題とのあいだにアナロジーが成立することを見抜いたおかげでもある
<8章 爆発と螺旋>

○ちょっぴり少数派がさらに少数派になり、ちょっぴり多数派がさらに多数派になるとき、
われわれはいつでも正のフィードバックを生み出す秘訣を握っている
→不安定なバランスがあれば必ず任意でランダムな始まりは自己強化されるようになる
<8章 爆発と螺旋>

☆生物のもつ特性=適応的複雑さ
=途方もない規模での統計的な不可能性(適切に了解されたランダムでない生存)
→ゆっくりした斬新的な累積淘汰こそが生命のもつ複雑なデザインの存在を説明する
<11章 ライバルたちの末路>

☆遺伝子は設計図よりも料理法にはるかに似ている
<11章 ライバルたちの末路>

○偶然を飼いならす
=とうてい不可能なものを順序よく配列された
それほど不可能でない小さな構成要素に分解すること
<11章 ライバルたちの末路>

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2003 11/11
進化論、自然科学
まろまろヒット率3

追記:案の定『盲目の時計職人』に改訳されてました(2005.8.1)。

『マトリックス・レボリューションズ』(映画)

結末を知るためだけに座席が綺麗という”VIRGIN CINEMAS 六本木ヒルズ”で観る。ここは上映前の注意事項がVIRGIN GROUPらしくて好感。
しかし肝心の映画の内容は・・・ZIONでの緊張感ある戦闘に比べてMATRIXでの安っぽいカンフーアクションは相変わらずいかがなものか。
一番気になっていた前作で用意された道具立てがぜんぜん機能してなくて「ワシャワシャ兄弟自滅してるじゃーん!」っ思ってしまった。
ちなみに最後のテロップでの”ZION UNIT”とかUNIT制にしているのが前作同様興味を持っていたが、ほかにも同じところを見てる人がいて笑ってしまった(^^)

2003 11/10
もろもろ鑑賞、映画
まろまろヒット率1

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かめやの「天玉そば」


今日は新宿に来たのでよく行く思い出横丁へ。薄暗くてごてごてしてナニゲに故郷を思い出すスポット。これまたよくいく「かめや」で天玉そばを食べる。かき揚げ天ぷらと温泉卵がのっていて、稲荷寿司をつけても450円。有名な店らしいけどジャンクな香りがするのも故郷と同じにおいですな。
新宿思い出横町の「かめや」にて。

船津衛 『コミュニケーション・入門―心の中からインターネットまで』 有斐閣 1996

最近になって公開している遺書がいろいろなところで取り上げられるようになった、
らぶナベ@この本風に言えば生死間コミュニケーション?(^^;

さて、『コミュニケーション・入門~心の中からインターネットまで~』
船津衛著(有斐閣アルマ)1996年初版。

コミュニケーション論についての議論を網羅的に紹介している一冊。
何となく感じてるコミュニケーション論への違和感を具体化させるために、
メルマガでこの分野の本を募集したときに紹介された本でもある。

読んでみると「うわさ」についての記述に一番の興味を持った。
曖昧な状況の中で状況を把握するために必要なものとしてうわさは発生する。
だから人々がうわさに基づいて行動するのはそのうわさを信じているからではなく、
それが必要だからだし、情報が多すぎても発生するというのは納得(第7章)。

でもやっぱり通して読んでみると全体的に何だか薄いような気がする。
これはメディア論などの本を読むときに感じる違和感にも似ている。
双方向とか強調しながら実は受信者中心で発信者への視点が弱いからだろうか?

ちなみに副題にインターネットが入っているけど、
初版が1996年ということもあって記述がすごく少ない。
(日本におけるインターネット元年が1995年)
やはりこの領域はすごいスピードで変化しているんだなぁ
っとあらためて感じたりもした。

以下はチェックした箇所(一部要約&関心が高い順)・・・

☆「うわさ」
=曖昧な状況に共に巻き込まれた人々が自分たちの知識を寄せ集めることによって
その状況についての有意味な解釈を行おうとするコミュニケーション(ジブタニ, 1985)
→うわさは単なる伝達ではなく人々が状況を規定する過程
→人々がうわさに基づいて行為するのはそれを信用しているからではなく、
それを必要としているから
<第7章 集団行動・社会運動のコミュニケーション>

☆うわさは変化していく状況に適応するために情報が必要であるにも関わらず、
制度的チャンネルが破壊されている場合に生み出される(ジブタニ, 1985)
→情報が多すぎる場合にも発生する
→新しい環境に対処する際に人々がよりいっそう適切な方法を
発達させていく過程に不可欠な要素
<第7章 集団行動・社会運動のコミュニケーション>

☆自己に対する他者の認識と評価についての想像、
それと関連する自己の感情から自我が成り立っている(クーリー, 1921)
→notワレ思うゆえにワレありbutワレワレ思うゆえにワレあり
<第2章 自我とコミュニケーション>

☆「自我は本質的に社会的」
=社会は自我に常に先行して存在し、自我は社会から生まれ、
そこにおける社会的経験と社会的活動の過程において生み出される(クーリー, 1921)
→役割取得(role-taking)を通じて具体的に形作られる
<第2章 自我とコミュニケーション>

☆マスコミは人々の「評価」や「影響」の点ではパーソナルなものにはかなわないが、
「認知」や「情報の流れ」の点では強い力を持っている(ドイッチマン&ダニエルソン)
<第8章 マス・コミュニケーション>

☆「コミュニケーション」
=2人以上の人間が意味を伝達し、その意味の伝達を通じて
互いに共通な意味を有するようになる過程
<第8章 マス・コミュニケーション>

☆「ネットワーク」
=固有の意思と主体性のあるユニットがそれぞれの自由意思で自発的に参加したまとまり
(金子, 1988)
<第5章 集団・組織のコミュニケーション>

○「自己表現」
=自分の気持ち、意志、意見、態度、思考、地位、身分などを他者に向かって表現すること
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○「意味の意識」
=他者の反応と自己の反応、さらにその間の関係を意識していること(ミード, 1973)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「意味のあるシンボル(significant symbol)」
=他者のうちに一定の反応を引き起こすと同時に、
それと同一の反応を自己のうちに引き起こすもの(ミード, 1973)
→これによって人々の共通の意味の世界(universe of discourse)が生まれる
→これは人間特有のもの
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「創発的内省性(emergent reflexivity)」
=他者の態度を通じて自己の内面を省みて、
過去と未来を関連づけながら新たな世界を創造すること(ミード, 1973)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「自分自身との相互作用(self interaction)」
=人間は自我をもつ存在として物事や他者を対象化するのと同じく
自分自身を対象化して自分自身に向かって行為できるようになること
→人間は自分自身とコミュニケーションできる(ブルーマー, 1991)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○社会規範、価値、理想に同調するときに真の自我を感じる「制度的自我」
               VS
そうしたものから解放されたときに真の自我を感じる「インパルシブな自我」
(その中にはさらにインパルス解放型とインティメート型がある)
<第2章 自我とコミュニケーション>

○「鏡に映った自我(looking-glass self)」
=人間の自我は他者を鏡として、鏡としての他者を通じて知ることができること
(クーリー, 1921)
<第2章 自我とコミュニケーション>

○役割コンフリクト=役割内(intra-role)コンフリクト&役割間(inter-role)コンフリクト
<第2章 自我とコミュニケーション>

○「役割距離」
=決められた役割期待とはズレる行為を行って、目的を達成してしまうこと
→他者の期待から相対的に自由で自律性があることを示す(ゴフマン, 1985)
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○「役割形成」
=既存の役割規定の枠を越えて新たな人間行為を展開すること(ターナー)
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○コミュニケーションの私化は結局は非私化をもたらし再社会化に進む
<第4章 電話コミュニケーション>

○「コミュニケーション合理的なもの」
=共通の状況規定のもとで相互の了解と合意が形づくられ、行為の調整がなされるもの
(ハーバーマス, 1986)
<第5章 集団・組織のコミュニケーション>

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2003 11/10
コミュニケーション論、社会学、社会心理学、心理学、教育学
まろまろヒット率3

人生罰ゲーム

  旅先の宿でカードゲームに負けて罰ゲームが決定したときに、

  「俺の人生自体が既に罰ゲーム気味やのに・・・」と

  思わずつぶやいたことがきかっけで生まれた用語。

  この用語集の随所に垣間見られるように、

  らぶナベの人生を良く著しているので使用頻度も高い用語である。
  
  人生はバラ色だとか未来は明るいものだと思っているとツライことが多いが
  
  そもそも罰ゲームみたいなものだと思えば意外と楽しいこともあるものである。

  人生の不思議さを感じさせる用語である。
  

  用例:勝ち組、負け組話をふたれたら→
     「もとから罰ゲームな人生なんでつつがなく過ごしたら勝ちなんです」と応えるなど

nice to meat sauce

“nice to meat sauce” is a maromaro-conjugated form of “nice to meet you.”
It is a greeting expression you would use when you meet English speakers for the first time.

Maromaro used the phrase when he met an American who spoke little Japanese.
He wanted to check whether his MAROMAROish word would be accepted universally.
It actually made the American laugh a lot more than Maromaro had expected.

Maromaro found out the humor could be world-wide from the results (Maromaro 2003).
He, therefore, started to use it and categorized the expressions as a MGT, aka, MAROMARO Global Terms.
“I am NABECKHAM, but I have no Victoria” is one of them, too.

copyright coment:If you have a opportunity to use this term, I never recieve any patent.
Because all the maromaro term is my meme, just maromaro gene.

河合隼雄 『箱庭療法入門』 誠信書房 2000

LOVENABE@a Sand-Player on the AGORA.

さて、『箱庭療法入門』河合隼雄編(誠信書房)2002年第31版。

HP活動と箱庭療法が似てるような気がしたので(まろまろコラム)読んでみた、
30年以上(初版1969年)使われ続けている箱庭療法の定番テキスト。
理論篇と事例篇(9例)から構成されている。

箱庭療法を「思考、感情、感覚、観念、記憶が不可解なほどにからみ合っている」
人の治療として「視覚だけでなく触覚のような感覚の要素」をもって、
「通常の治療に必要とされる解釈や転移なしに治療できる方法」として紹介している。
(第1章:技法とその発展過程)
特に子供に有効であるということを述べているが、
思考、感情、感覚、観念、記憶が複雑にからみ合っているのは
認知科学的に言っても子供に限ったことではないし、
現に事例でも32歳の成人男性(精神分裂症)への箱庭療法による治療を紹介している。

120点も収められている事例の箱庭をぱっと見ただけで伝わってくるものがあって、
確かに言葉では表現できない心情が表現されているというのが視覚的にも納得できる。
事例篇では治療が進んでいくにつれ箱庭の感じが徐々に変わっていくのが垣間見れて、
事例の最後で治療が完了した報告を読むのと同時に
最後の箱庭を見るとうるうる来そうになってしまったこともあった。

また、箱庭を作っている時には「それを見ている治療者の存在が大切」
(第3章:箱庭表現の諸相)という点や、
最初は雑然としていたものが回を追うごとにつれてだんだんとテーマ性や
その人なりの個性がはっきりしてくるところは(事例篇)、
HP(WEBサイト)にもすごく似ているように思えた。

以下は、その他でチェックした箇所(一部要約&重要と思われるもの順)・・・

☆治療的な面から見れば箱庭療法は遊戯療法と絵画療法の中間にある
→被治療者自身が創造の過程に自ら参加し、
結果の意味を直感的にしろ潜在的にしろ把握する度合いは他の投影法の場合より大
<第2章 理論的背景>

☆箱庭の空間配置について・・・
・左側はその人の内的世界・無意識世界、右側は外的世界・意識世界を示すことが多い
・すべてが一定方向に向いているときには、左向きは退行(regression)を、
 右向きは進行(progression)を示すことが多い
(ただしこれらは例外もあるので絶対ではない)
<第3章 箱庭表現の諸相>

☆箱庭の主題になりやすいテーマ・・・
(意識を無意識を含めた)全体性の象徴、全体性の中心としての自己(Self)、
二つの世界の統合、二つの世界の領域の反転、死と再生、領域の拡大、
渡河や出立(人格発展に立ち向かう姿勢を示す)、
行列や川の流れ・動物の行進(エネルギーの流れを表す)、
給油(エネルギーの供給を表すのでガソリンスタンドの模型は大切)、
勢力が均衡している戦闘場面(単なる攻撃性ではなく新しい発展を示す)、
蛇は劇的な変容を象徴する場合が多い、
(ただしこれらは例外もあるので絶対ではない)
<第3章 箱庭表現の諸相>

○まず大切なことは、作品をできるだけシリーズとして見ること
→箱庭の作品を見たとき、それに対して全体として受ける感じ、
印象のようなものを大切にしなければならない
<第3章 箱庭表現の諸相>

○(箱庭療法の有効性について)人間に自由を与えてその内的なものを深く掘り下げた
表現をさせる場合、何らかの制限を必要とする→自由と同時に適切な制限が必要
<第2章 理論的背景>

○箱庭は治療者と被治療者との人間関係を母胎として生み出された一つの表現
=心像(image)=意識と無意識・内界と外界の交錯するところに生じたものを、
視覚的な像として捉えたもの
→心像は具象性、直接性、集約性といった特徴をもっている
<第2章 理論的背景>

○(箱庭療法は)患者が言語を手段とすることなく
保護された場面における象徴体験によって治療が進んでいく(略)
象徴の意味する点を何ら解釈して患者に伝えなくても治療がなされることもある
<第2章 理論的背景>

○統合性=分離、粗雑、貧困、機械的、固定的な要素の少ないこと

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2003 11/4
心理学、臨床心理、箱庭療法
まろまろヒット率4

『日本ASEAN交流年2003』パンフレット完成

『日本ASEAN交流年2003』(“ASEAN-Japan Exchange Year 2003”)
パンフレットが日本語版、英語版ともに完成した。
僕は「日本とASEAN、その交流の歴史」(13~15ページ)をライターとして担当し、
また、「国と国をつなぐ人」のコーナーに友達のJOLLY(17ページ)を紹介した。
(彼はフィリピン出身でフィリピン外務省でのインターンシップ経験があり、
大学はアメリカで大学院は日本という多様なキャリアから最適の人材だった)

思えばタイトなスケジュール、資料の少なさ、情報流通のぎこちなさから依頼された当初から困難が多く、
歴史ページということでJOLLYを含めたアジアの友人たちからの指摘もあって、
誤解を受けてはいけない記述、表現をめぐって激しいやりとりもあった。
日本の外交行政の体質に久々にマジギレしてしまった。
(隣にいた人は僕がいつ相手にシャーペンを投げつけるかと思ったほどらしい、そんな大げさな(^^;)

そんなこんなでパンフレットの完成は感慨もひとしお(T_T)
協力してくれたアジアの友人たちにもお礼と共に手渡しした。
今後、このパンフレットはASEAN10+3などの国際会議でも配布されることになる。
クレジットも残らない仕事だけど、こういう仕事ならかまわない。
アジアの交流と平和に直接的に貢献できるんだから。

ちなみにWEBページとして見れるようにもなっていた。
アジアの交流と相互理解をあらためて痛切に願う機会になった仕事だった。

2003 11/1
出来事メモ