15の夜

  らぶナベの口癖のひとつ。

  思春期のやり場のない怒りや衝動を歌った尾崎豊の『15の夜』という名曲があるが、

  らぶナベはちょうど15歳の時にたまたまこの歌と出会った。

  「盗んだバイクで走り出す(略)暗い闇のとばりの中へ・・・」

  という印象的な一節に心震わして家出を試みたことがある。

  当時たまらなく感じていた圧迫感や焦燥感とこの歌を重ね合わせて、
  
  歌詞にあるようにわざわざ寒い冬の夜を選んでバイクを盗もうとした。
  
  ・・・ところがいざ実行に移してみるとバイクの盗み方がわからず、

  試行錯誤してみたものの寒さに耐えられずに結局そのまま家に戻った経験がある。

  この歌ではバイクを盗んだあとに「自由になれた気がした、15の夜」
  
  という一節で終わるが、らぶナベ版15の夜は

  「自由になれた気もしなかった、15の夜」として終わった。

  以来、「世の中というのは歌や小説のようにはいかないものだ」というのが口癖になる。

  どんなことでも話半分に見聞きしなくてはいけないという、
   
  人生にとって何番目かに大切な心構えを養うきっかけとなった事件である。

  誰もが思春期に一度は経験する社会の壁との衝突は後に財産になるものである。

  類似例:飲み屋でよく耳にしても・・・「しみったれた武勇伝は聞き流せ」

京極夏彦 『百器徒然袋-雨』 講談社 1999

お酒はほとんど飲まないのでこの季節は帰宅後シャワーを浴びてからの
一杯の麦茶を人生の生きがいにしている、らぶナベっす。

さて、『百器徒然袋-雨』京極夏彦著(講談社ノベルス)1999年初版。
『今昔続百鬼-雲』と同じく京極堂シリーズの外伝的側面のある中篇集。
『今昔続百鬼-雲』には「多々良先生行状記」という副題がついていたが、
この『百器徒然袋-雨』には「探偵小説」という副題がついている。
作品の冒頭こそ、「一般大衆などと云うモノはこの世には存在しない・・・
個人は、個人としての責任を果たしたくない時に、大衆と云う覆面を被るのです。
責任の所在を不明確にし、不特定多数に転嫁する・・・」という一節が出てくるように
硬質な文体&世界観だったものの、そういう深刻さを打ち砕く探偵が作品を貫いている。
時代錯誤にも感じる「探偵小説」という副題に込められたコミカルさを感じる一冊。
特にオチになる最後の一文では笑わずにはいられなかった。

ただし『今昔続百鬼-雲』よりも京極堂シリーズ本編(『姑獲鳥の夏』から)を読まないと
おもしろさのツボがわかりにくい作品ではある。
たぶん著者は自分自身の同人作家のような楽しみでこの作品を書いたのだろう。
(妄想銀行)

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2002 7/22
小説、文学
まろまろヒット率★★★

司馬遼太郎 『ニューヨーク散歩―街道をゆく39』 朝日新聞出版 1997

大阪生まれ育ちなので上海やニューヨークは空気があっていると言われる、
らぶナベ@上海もNYCも行ったことないので行ってみたいっす(^^)

さて、『ニューヨーク散歩~街道をゆく39~』司馬遼太郎著(朝日文庫)1997年初版。
この本はだいぶ前に買ったものの端折り読みをしてただけなので、
読書日記にも残さず放置プレイをし続けていた。
そんな折にこの本に出てくるというNYC在住の人からまろまろ掲示板に書き込みがあって、
「本名で一瞬だけ出てるので探し当てたら好きな洋書をあげます」という謎々を出された。
書き込みのあった7月19日はまろまろ読書日記一周年で様々な更新があり
さらに京都に行かなくてはいけないなど何かと多忙だったが、
さっそくこの本をズボンのポケットに入れて移動中に最初から通読した。
(こういうきっかけで本が読めるというのもHP運営の喜びかな(^^))

読み始めるとすぐに時間を忘れてしまいそうになった、司馬遼太郎マジック(>_< ) ブルックリン橋を建設した親子やドナルド・キーンをはじめとした 日本学の研究者たちの姿はどれも生き生きと感じられた。 「はっ!」とさせられたのは日本語研究者にスポットを当てた項「御伽草子」の中で・・・ 本を黙読するのは近代の風習である。 近代以前では。書く人も口誦さみつつ書き、読む人は、とくに朗々と諷誦した。 ・・・と述べていた箇所だ。 今度からできるだけ意識して読もう。 ただ妙に分量が薄くてあっさりしすぎているのが気になった。 NYCはまだ新しい街とはいえ、司馬作品に出てくる「余談だが・・・」エッセンスをつめた この『街道をゆく』シリーズとしてはもうちょっと分量が欲しかった気がする。 この本をamazonで見ちゃう

2002 7/19
エッセイ、歴史
まろまろヒット率3

まろまろ読書日記1周年

人生初のHPを立ち上げてからこの一年さまざまなことがあった。
HP自体も当初にはなかったアクセス解析設置、用語集、詩などの創作カテゴリを創設、メルマガ発行
掲示板の三代交代、オフ会(まろじぇくとX)、geocitiesから独自ドメインでの運営開始の変化があった。
HPの更新を考えて「どんなに忙しい時にも一ヶ月一冊は本を読む」という日々の目標も新たに出来た。
(結果的に多忙だったこの一年で19冊を読めた)

そして何よりも重要なのは自らの体験や情報をメディア化することの意味だ。
「表現の自由の価値とは自己統治と自己実現の二つである」とはどんな憲法の本にも載っていることだが、
表現の自由の価値と自己実現の関連をこれほどまで実感することになるとは思わなかった。
(情報の最大の価値は知識でも教養でもなく感性の共鳴か?)

自らが運営するメディア、自らのブランドを形成することの意味を感じた
この一年は自分にとって大きなものになるだろう。
感じたことを中心にまろまろコラムはしり書きにも掲載。

2002 7/19
出来事メモ、はしり書き、まろまろコラム、サイト運営

幸せの位置

いいなプリンワールドカツ丼倶楽部など、
成功しているHPを見ていて「思い切りがいいな」と思う。
「プリンなんて・・・(HPにするほどのものじゃないという言い訳入る)」、
「カツ丼なんて・・・(一般受けしないなどの言い訳入る)」
・・・などという独りよがりなまとまりは一切ない。
スケールが小さいことを思い切りやるスケールの大きさまで感じる。
もしかしたら情報の最大の価値は知識でも教養でもなく感性の共鳴にあるかもしれない。

その情報というものは受け取る人それぞれにとってまったく意味が違うものなので、
自分以外に一人でも好きだという人がいれば、それだけで情報発信する価値がある。
そういうことをまろまろHP開設から一年たったいま、実感として感じる。
僕自身、「読書日記なんて・・・(知り合い以外誰も読まないだろうし)」と、
勝手に決めつけて長くMLの世界にとどまっていたからその思いは後悔とともに強い。
何よりも後悔させられるのは上に紹介したHPの管理者さん達は本当に楽しそうだということだ。
僕もまろまろHPを運営して大小の日々の目標と充実感を意識するこができている。
勝手に小さくまとまらずにもっと早くHPを開設していれば・・・。
「どうせ何かにぶつかって小さくなるんだから自分からわざわざ小さくなる必要はない」
・・・そんな言葉がふと浮かんできた。

きっと幸せになるには思い切りが必要なんだろう。
もしかしたら「幸せ」がある位置は「無難さ」がある位置とは離れているかもしれない。

2002 7/19
まろまろコラム、はしり書き、出来事メモ

サイト開設一周年を記念してコラム化

人生ほど儲かる商売はない

すぐ後に振り返って無駄だと思ったことでも後々活きてくることが多い。
この読書日記を書くことも「そんな無駄なことを・・・」と言われることもあった。
それが自分専用メディアの価値を持ってきているんだからやはり人生無駄なものはなさそうだ。
自分が棄てなければ(たとえ棄てても?)すべてが活きてくるなら
「人生ほど儲かる商売」なんてないのではないだろうか?
どうせなら大きく儲けるように無駄なことを活かすようにしていきたいものだ。

2002 7/13
はしり書き

プロデュースが中間にいるものの役割

ふとした偶然(詳細は出来事メモに記載)から老舗の酒卸業の若い三代目と話をした。
いま転換を迫られている業種であることもあって問題意識が非常に強く共鳴する面も多かった。
卸など中間業の役割は代替可能で誰がやっても同じという話もあったが
歴史マニアの僕からすればかつての卸は個人の個性や独自のネットワークを基に
常に提案をしていたプロデューサー業だったと感じていた。
クリエイター(生産者)と消費者(ファン)を結ぶ単純な機能としてだけでなく
主体的提案能力があったのにそれがなくなってしまって単なる機能だけになったから
卸を飛ばしたり巨大卸業以外の必要性がなくなったのでは・・・
(単なる機能としてならNo.1卸一つで足りる)
と、前から思っていることを話すとおじいさんの代の話と今の代との違いの話などが
聞けてこちらも勉強になることがとても多かった。
単なる機能だけならば中間は代替可能で「その人」がする必要性がなくなるときもくる。
しかし提案能力があればそれは「その人」でしかできないものになるだろう。
サッカーでもゲームメイカーといわれるMFが一番代替不可能性が高い。
・・・そう考えるといま僕が主任スタッフをつとめるプロデュース業でも、
クリエイター自身が自分の表現媒体を持つ時代が目の前に迫っている。
いまは花形のプロデューサー業が転換を迫られる時代もそれほど遠いことではないだろう。

2002 7/12
はしり書き

中間を考えた再開と出会い

三年以上音信不通だった知り合いがたまたまmaromaro.comで使っている
サーヴァ会社に勤務していたことが判明して会うことになった。
彼が顔を出しているヴェンチャーな人々の集まりに誘われて行ったが、
どうもこういう場は好きではなくちょっと気乗りしなかった。
(三年ぶりに会うというのでななければ行かなかった)

しかし、その場で老舗の酒卸業の若い三代目と話ができたのはよかった。
いま転換を迫られている業種であることもあって、問題意識が非常に強く共鳴する面も多かった。
卸など中間業の役割は代替可能で誰がやっても同じという話もあったが
歴史マニアの僕からすればかつての卸は個人の個性や独自のネットワークを基に
常に提案をしていたプロデューサー業だったと感じていた。
クリエイター(生産者)と消費者(ファン)を結ぶ単純な機能としてだけでなく
主体的提案能力があったのにそれがなくなってしまって単なる機能だけになったから
卸を飛ばしたり巨大卸業以外の必要性がなくなったのでは・・・
と、前から思っていることを話すとおじいさんの代の話と今の代との違いの話などが
聞けてこちらも勉強になることがとても多かった。

単なる機能だけならば中間は代替可能で「その人」がする必要性がなくなるときもくる。
しかし提案能力があればそれは「その人」でしかできないものになるだろう。
サッカーでもゲームメイカーといわれるMFが一番代替不可能性が高い。
いまは僕が業務で関わっている事もクリエイター自身が直接情報発信できる環境が整いつつある。
いまは花形のプロデューサー業も転換を迫られる時期はそう遠くないのではないだろうか。
こういう集まりのよさは思うことを気兼ねなく話しあえることだろうか、
いままで嫌煙していたがちょっと考えを改めた。

2002 7/12
出来事メモ、はしり書き

河合隼雄 『こころの処方箋』 新潮社 1998

らぶナベ@『姑獲鳥の夏』に続き今年二冊目のお勧め度サイコー本っす(^_-)

さて、その『こころの処方箋』河合隼雄著(新潮文庫)1998年初版。
いま日本でもっとも有名な心理学者・河合隼雄(現職は文化庁長官)の代表的著作。
臨床心理の現場にカウンセラーとして長年たずさわって来た経験をもとに、
人生の場面場面にふと出てくる気持ちに対して言葉の光を当てている。
心理学のバックボーンがある名言集といったところだろうか。

中でも面白いなぁっと思ったのは著者は初対面の人と接するときには、
「人の気持ちなんてわかるはずがない」と思って接するという点だ。
一見、当たり前のことのように思えるけど今まで自分は安易に
「この人は機嫌悪いな」とか「自分に良い感情を持っていないな」とか、
いろいろな判断(実は単なる先入観)を持って人と接したこともあったなと反省。

また、「己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、
人の役に立とうとするのは虫がよすぎる」という言葉にはとても共感した。
近頃、何人かそういう人と接したことがあったので
自分は恥をかきたがらずだからといって努力も少ないのに
イイ気になりたがる人間への痛烈な批判はある意味で爽快でもあった。
(さすがNo.1カウンセラー(^_-))。

こうしたことだけでなく親と子、教師と生徒、上司と部下など
導く人と導かれる人との関係についての事例も多かった。
(こういう人間関係が一番トラブルが多いからかな?)
たとえば「自分の権力や権威を否定する人ほど自分を安定させるために
気づかないところで権威を振りかざしたり権力にしがみつくこともある。
・・・自分がどれほどの権力と権威を持っているかしっかり自覚し、
自身を高めることによって内的権威(これは誰にも奪われない)を高めるべき」
などというのは様々な人を見て漠然と感じていたことに形を与えてくれた気がする。
この本はいろんな意味で教育や助言の仕事にたずさわる人間は必読書じゃないだろうか?

・・・こう書くと何か教条主義的な感じがするけど、
終始やわらかい言葉で語られている上に関西のおっちゃんらしい
「まぁええがな」的な視点には思わず笑ってしまうところもある。
本来はこういう話は宗教が担うべきものなんだろうけど、
日常と宗教が遠い存在になりがちな今の日本では必要な本なんだろう。
末尾で谷川俊太郎が「河合さんは海千山千」と愛を込めて表現していたのは
実はそういう意味もあったのかなと感じた。

ちなみにこの本は“西行法師プレイ~出会い系サイトを歩く編~”で知り合った
高校生から薦められたのが実際に読むきっかけになった。
奇しくも七夕に読み終える自分の痛さに笑ってしまった。
(痛いものコレクター)

以下は、チェックした箇所(あえて順不同、☆は特に共鳴したもの)・・・

☆「うそ」はあんがい「まこと」を引き出してくれる力をもっている(略)
その「うそ」のなかに、何らかの”真実味”がこもっていることが必要で、
それをどうやって見つけ出してゆくかがポイント
17「うそからまことが出てくる」

☆権力を行使してその場をごまかしてしまうよりは、
後で自分なりに調べたりする方が労力が必要である。
このような労力を惜しまないことによって得た権威は、
自分の”身についた”ものとして、他人に奪われることがない(略)
自分は権力などに関心がないとか、大嫌いという人があんがい多い(しかし)
不安を解消するために、急に妙なところで権威者ぶろうとしたり、
権力にひそかにしがみついたりしている人は実は多いのである。
そんな面倒くさいことはやめにして、人間は自分の存在を支えるもののひとつとして、
内的権威が必要であることを認め、それをいかにして磨いてゆくかを考えた方が、
効果的であるし、近所迷惑も少ない
45「権力を棄てることによって内的権威が磨かれる」

☆(生徒や部下と同等だと言いたがる教師や上司が多いことについて)
権力を否定することよりも、まず自分がどれだけの権力を持っているかをはっきりと意識し、
それに見合うだけの孤独に耐える強さを持っているかを考えてみる方が意味が深い
46「権力の座は孤独を必要とする」

☆簡単に判断を下さず人の心というものはどんな動きをするのかわかるなずない
という態度で他人に接する(略)それまで見えなかったものが見えてくるし
一般の人々が思いもよらなかったことが生じてくる
1「人の心などわかるはずがない」

☆「ふたつよいことさてないものよ」とつぶやいて、全体の状況をよく見ると、
なるほどうまく出来ている、と微笑することまでゆかなくとも、
苦笑くらいして、無用の腹立ちをしなくてすむことが多い
2「ふたつよいことさてないものよ」

☆己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、
人の役に立とうとするのは虫がよすぎる
3「100%正しい忠告はまず役に立たない」

☆自立ということを依存と反対である、と単純に考え、依存をなくしてゆくことによって
自立を達成しようとするのは、間違ったやり方である。
自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれでてくる(略)
自立ということは、依存を排除することではなく、必要な依存を受けいれ、
自分がどれほど依存しているのかを自覚し、感謝していることではないだろうか
22「自立は依存によって裏づけられている」

☆人に遅れをとることの悔しさや、誰もができることをできない辛さを味わったことによって、
弱い人の気持ちがよくわかるし死について生についていろいろ考え悩んだことが意味をもってくる
40「道草によってこそ”道”の味がわかる」

☆早すぎる知的理解は、人間が体験を味わう機会を奪ってしまう(略)
ある程度のことは知っていても、事が起こるとあわてふためき、
それでも知っていたことがじわっと役立ってきて収まりがつくという形になることが多い
53「”知る”ことによって二次災害を避ける」

☆私が大切にしているのは(略)「”私が”生きた」と言えるような人生をつくり出すこと
55「すべての人が創造性を持っている」

☆実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎる
20「人間理解は命がけの仕事である」

☆(会社でトラブルがあって疲れ切って帰って来ると息子が万引きで捕まったことが発覚)
いい加減に説教しても、少しぐらい怒ってみても、80点では駄目、98点でも駄目
12「100点以外はダメなときがある」

☆どちらにしろ、ひとつの考え方を維持するために支払わねばならぬ
努力の質と量についての自覚がないかぎり、うまくはいかない
6「言いはじめたのなら話合いを続けよう」

☆理想は人生の航路を照らす灯台ではあるが、それに至るべき到達点ではない
9「灯台に近づきすぎると難破する」

☆何か仕事をしながら、やっぱりあの好きなことをしておけばよかったとか、
いやだなとか思っているときは、心のなかに生じる摩擦のためにエネルギーを消耗するもの
14「やりたいことは、まずやってみる」

☆(更生と悪化が極端に変化し続けてゆくことについてその人は)
われわれが依然と変わらぬ態度で接していることに助けられ、
もう一度、自分の生き方にういての検討をはじめられることになる
15「一番生じやすいのは180度の変化である」

☆その人が適切な感謝をする力があるかどうかは、相当に信頼できる尺度
35「強い者だけが感謝することができる」

☆われわれの人生は(略)「楽譜」を与えられているにしろ、
“演奏”の自由は各人にまかされており、演奏次第でその価値はまったく違ったものになる
30「同じ”運命”でも演奏次第で値段が違う」

三年も彼女にだまされていたなどと考えるのではなく、自分の心の中で活動し続けた
「優しく賢い女性」という絵姿は、自分にとって何を意味するのだろうと考えてみる
4「絵に描いた餅は餅より高価なことがある」

理解ある親が悪いのではなく理解あるふりをしている親が子供にとってはたまらない存在となる
5「”理解ある親”をもつ子はたまらない」

子どものためと思ってやっている”開発事業”が、自然破壊につながってゆく(略)
それをキャッチすることが、大人にとって非常に大切
8「心のなかの自然破壊を防ごう」

イライラは自分の何かー多くの場合、何かの欠点にかかわることーを見出すのを防ぐために、
相手に対する攻撃として出てくることが多い
10「イライラは見とおしのなさを示す」

「己を殺す」と言っても(略)自分を殺しきることなど出来たものではない(略)
半殺しの存在やらが、本人の気づかぬところで、急に動き出すこともある
11「己を殺して他人を殺す」

マジメな人は住んでいる世界を狭く限定して、そのなかでマジメにやっているので、
相手の世界まで心を開いて対話してゆく余裕がない(略)
マジメな人の無反省さは、鈍感や傲慢にさえ通じる(略)
笑いと言うものは、常に「開く」ことに通じるもの
13「マジメも休み休み言え」

ともかく、勝負を焦ることはない
16「心のなかの勝負は51対49のことが多い」

(説教はする方の欲求不満の形を変えた表出であることが多いことについて受ける側は)
説教している人の精神衛生のために御協力しているのだと思ってもう少し暖かい気持ちできける(略)
説教をしたくなった場合、その背後にどのような欲求不満がそんざいしているかを考えてみる
18「説教の効果はその長さと反比例する」

今まで仲良くやっていた夫婦が中年になって(略)離婚などというとこまで出て来そうになるのは、
多くの場合、協力から理解へと至る谷間にさしかかっているとき
19「男女は協力し合えても理解し合うことは難しい」

心のエネルギーの出し惜しみは、結果的に損につながることが多い
23「心の新鉱脈を掘り当てよう」

ノイローゼさえなかったら、あれもするこれもすると言っている人は、
本当はそれを避けるためにノイローゼになって、
それを嘆くことによって安定を保っている(という説もある)
28「文句を言っているうちが華である」

「ここは逃げる」と決めたとき、うろうろしないことが肝心
33「逃げるときはもの惜しみしない」

「どっぷり」体験をしようとする人は、恐怖を乗り越える体験をする点でも意味がある
34「どっぷりつかったものがほんとうに離れられる」

「昔はよかった」という論議は、それでは今何をすべきか、今何ができるか、
という点で極めて無力なことが多い
39「”昔はよかった”とは進歩についてゆけぬ人の言葉である」

いざというときは、思わずその(生地)傾向がでてくるにしろ、
やはり鍛えられているものの方が役に立つ
41「危機の際には生地が出てくる」

親の個性にふさわしい心のエネルギーの消費によって、子どもは親の愛を感じる
44「物が豊かになると子育てが難しくなる」

「羨ましい」という感情は、どの「方向」に自分にとっての可能性が向かっているかという
一種の方向指示盤としての役割をもって出現してきている
48「羨ましかったら何かやってみる」

沢山ある心配のなかで、特にその心配が自分に与えられることになった。
それも大きく考えてみると、人生の楽しみのうち
49「心配も苦しみも楽しみのうち」

何か精神的なことを言いたくなったり、言ったりしたときは、
自分が「精神」ということからズレていたり、逃げようとしたり、
それについてはっきりとわからなかったりしているときだということ
52「精神的なものが精神を覆い隠す」

この本をamazonで見ちゃう

2002 7/7
心理学、名言集、エッセイ、教育学
まろまろヒット率5