まろまろ記英語化プロジェクト~まろまろ世界にいきまふ~(まろぷろ)

“経緯”

 まろまろHPを立ち上げてから様々なことを感じるようになりました。(コラムにて)
その一つが、音楽や絵画と比べて文章は国境の壁が高いということです。 海外体験を通してその壁を越えれば感性の部分で通じ合えるものはあると感じていますし、そうした壁を越えやすいのがネットだと思うので、このHPを通してその壁を越えたいなぁ・・・っと漠然と考えていたところに、ふとしたきっかけからまろまろ読書日記の英語化プロジェクトが動きだしました。司馬遼太郎さんの本がきっかけというのも実にまろまろしているので気に入っています(^^)
もともとこのHP自体が、まろまろと読んだ本をまろまろと記録してきたものなので、英語化プロジェクトも「まろまろ世界に行きまふ」(コードネーム"まろぷろ")としてあせらずにまろまろと進めて行こうと思っています。そこでこのHPを気に入ってちょっとでも協力してやってもいいという方がいらっしゃったら、英語化プロジェクトにお力をお貸しくださればと思っています。

“詳細”

まろまろフェローシップ(まろふぇろさん)募集
この分野を中心に翻訳を手伝うよ」とか「この読書日記をピンポイントで翻訳しちゃう」、はたまた「とりあえず助言だけはするよ」や「詳しそうな知り合いに聞いてみる」、「こういうところに投げかけてみたら?」などなど、どのようなかたちで関わっていただいてもけっこうです。要求される能力も問いません。英語を勉強するきっかけにしたいという方も歓迎です。気が向いた時に気が向いたようにできる範囲でお手をお貸しください。

現状報告
 訳案や大きな進展状況についてはこのまろぷろページに載せていく予定です。現在はプロジェクトを軌道に乗せるための調整をおこなっています。当面の目標は英語ページの枠作りと皆さんが参加しやすい環境作りに力を入れていきます。この点について何かアイデアをお持ちの方はご連絡ください。
現在は英語化の模索と同時進行で、英語の本を読んだら英語で感想文を書くようにしています。英語の感想文の中に「こういう表現の方がいいんじゃないか?」とか、「こういうとこなおしたら?」という点を発見された方は一報いただければと考えています。また、薄く、読みやすくて、かつ英米文学や英語圏文化の参考になるような本をご存知の方がいらっしゃればご一報いただけるとありがたいです。
英語本の読書と遺書の英語化に取り組もうとしているのが現在の状況です。

まろぷろML
 プロジェクト連絡用ML"まろぷろしちゃいまふ"も公開していますので、具体的な進展を垣間見たいという方はログを閲覧&購読してみてください。敬語はできるだけ使わないという実に無礼講なMLとして活動していっています(^^)
この件について個別のお問い合わせ&ご質問&ご意見はまろぷろML:http://www.egroups.co.jp/group/maropro
もしくは らぶナベ宛: lovenabe@maromaro.comまで


ナウなヤングだからmaroproグループに参加しちゃう
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釜本雪生・くぼうちのぶゆき 『テキストサイト大全』 ソフトマジック 2002

読書日記の下にあるコラムやポエムは見落としがちだという指摘を複数受けている、
らぶナベ@独立コンテンツにすべきかどうかご意見募集しまっす(^^)

さて、『テキストサイト大全』釜本雪生+くぼうちのぶゆき編著
(ソフトマジック)2002年初版。
「個人による情報発信」は21世紀のキーワードの一つになりそうだと感じ始めている。
さらに『個人ホームページのカリスマ』や『万有縁力』が思ったよりも良かったので、
網羅的なタイトルと分量の厚さにひかれて購入した一冊。

HP運営者の一人としても何かヒントが得られればと読んだのだが、
「テキストサイトの平均寿命が半年から一年の間・・・
しかし閉鎖した人間のほとんどが再びサイトをたちあげる」というのが面白かった。
演劇にしろ写真にしろ芸能活動にしろどんな表現活動でも、
一度表現者としての充実感を感じた人間はそれを忘れられないのだろう。
「表現は麻薬」とも言うが、その薬をいかに楽しめるかが
情報化社会を生きる上で重要な鍵の一つとなってくるだろう。
(妄想銀行)

しかし、残念ながらこの本には重大な欠点が・・・
最初の方でテキストサイトの定義をする箇所があるのにそれを曖昧にさせている。
それなのにその後は常に「テキストサイトというものは」として話を進めているので
結果的に派閥などの内輪的な話や著者の先入観ばかりが妙に目立ってしまっている。
特にこの分野は信頼できる統計データがほとんどない上に変化も激しいので
「個人サイト」と言わずにあえて「テキストサイト」と打ち出すなら、
誤解を恐れずに最初に定義をしっかりと徹底的にやるか
もしくは完全に定義を放棄するのかのどちらかにしないと、
不完全燃焼に終わってしまうのだろう。
(どちらも勇気がいるが新しい分野を扱うのには必要なこと)
新しい分野に挑戦するというこの本の姿勢もタイトルも扱う素材も
良いだけにもったいなさを一番に感じてしまった。
インタヴューをおこなった有名テキストサイト(とされる)の運営者の多くが
「自分のところはテキストサイトじゃない」と言っていたのが象徴的だろう。
ただ、非常に魅力的な素材や姿勢なので、こういう本がまた出ることを期待。
個人サイトは今後減ることはなさそうなので安心して期待しよう(^^)

この本をamazonで見ちゃう

2002 8/1
情報関連、メディア論
まろまろヒット率2

15の夜

  らぶナベの口癖のひとつ。

  思春期のやり場のない怒りや衝動を歌った尾崎豊の『15の夜』という名曲があるが、

  らぶナベはちょうど15歳の時にたまたまこの歌と出会った。

  「盗んだバイクで走り出す(略)暗い闇のとばりの中へ・・・」

  という印象的な一節に心震わして家出を試みたことがある。

  当時たまらなく感じていた圧迫感や焦燥感とこの歌を重ね合わせて、
  
  歌詞にあるようにわざわざ寒い冬の夜を選んでバイクを盗もうとした。
  
  ・・・ところがいざ実行に移してみるとバイクの盗み方がわからず、

  試行錯誤してみたものの寒さに耐えられずに結局そのまま家に戻った経験がある。

  この歌ではバイクを盗んだあとに「自由になれた気がした、15の夜」
  
  という一節で終わるが、らぶナベ版15の夜は

  「自由になれた気もしなかった、15の夜」として終わった。

  以来、「世の中というのは歌や小説のようにはいかないものだ」というのが口癖になる。

  どんなことでも話半分に見聞きしなくてはいけないという、
   
  人生にとって何番目かに大切な心構えを養うきっかけとなった事件である。

  誰もが思春期に一度は経験する社会の壁との衝突は後に財産になるものである。

  類似例:飲み屋でよく耳にしても・・・「しみったれた武勇伝は聞き流せ」

京極夏彦 『百器徒然袋-雨』 講談社 1999

お酒はほとんど飲まないのでこの季節は帰宅後シャワーを浴びてからの
一杯の麦茶を人生の生きがいにしている、らぶナベっす。

さて、『百器徒然袋-雨』京極夏彦著(講談社ノベルス)1999年初版。
『今昔続百鬼-雲』と同じく京極堂シリーズの外伝的側面のある中篇集。
『今昔続百鬼-雲』には「多々良先生行状記」という副題がついていたが、
この『百器徒然袋-雨』には「探偵小説」という副題がついている。
作品の冒頭こそ、「一般大衆などと云うモノはこの世には存在しない・・・
個人は、個人としての責任を果たしたくない時に、大衆と云う覆面を被るのです。
責任の所在を不明確にし、不特定多数に転嫁する・・・」という一節が出てくるように
硬質な文体&世界観だったものの、そういう深刻さを打ち砕く探偵が作品を貫いている。
時代錯誤にも感じる「探偵小説」という副題に込められたコミカルさを感じる一冊。
特にオチになる最後の一文では笑わずにはいられなかった。

ただし『今昔続百鬼-雲』よりも京極堂シリーズ本編(『姑獲鳥の夏』から)を読まないと
おもしろさのツボがわかりにくい作品ではある。
たぶん著者は自分自身の同人作家のような楽しみでこの作品を書いたのだろう。
(妄想銀行)

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2002 7/22
小説、文学
まろまろヒット率★★★

司馬遼太郎 『ニューヨーク散歩―街道をゆく39』 朝日新聞出版 1997

大阪生まれ育ちなので上海やニューヨークは空気があっていると言われる、
らぶナベ@上海もNYCも行ったことないので行ってみたいっす(^^)

さて、『ニューヨーク散歩~街道をゆく39~』司馬遼太郎著(朝日文庫)1997年初版。
この本はだいぶ前に買ったものの端折り読みをしてただけなので、
読書日記にも残さず放置プレイをし続けていた。
そんな折にこの本に出てくるというNYC在住の人からまろまろ掲示板に書き込みがあって、
「本名で一瞬だけ出てるので探し当てたら好きな洋書をあげます」という謎々を出された。
書き込みのあった7月19日はまろまろ読書日記一周年で様々な更新があり
さらに京都に行かなくてはいけないなど何かと多忙だったが、
さっそくこの本をズボンのポケットに入れて移動中に最初から通読した。
(こういうきっかけで本が読めるというのもHP運営の喜びかな(^^))

読み始めるとすぐに時間を忘れてしまいそうになった、司馬遼太郎マジック(>_< ) ブルックリン橋を建設した親子やドナルド・キーンをはじめとした 日本学の研究者たちの姿はどれも生き生きと感じられた。 「はっ!」とさせられたのは日本語研究者にスポットを当てた項「御伽草子」の中で・・・ 本を黙読するのは近代の風習である。 近代以前では。書く人も口誦さみつつ書き、読む人は、とくに朗々と諷誦した。 ・・・と述べていた箇所だ。 今度からできるだけ意識して読もう。 ただ妙に分量が薄くてあっさりしすぎているのが気になった。 NYCはまだ新しい街とはいえ、司馬作品に出てくる「余談だが・・・」エッセンスをつめた この『街道をゆく』シリーズとしてはもうちょっと分量が欲しかった気がする。 この本をamazonで見ちゃう

2002 7/19
エッセイ、歴史
まろまろヒット率3

まろまろ読書日記1周年

人生初のHPを立ち上げてからこの一年さまざまなことがあった。
HP自体も当初にはなかったアクセス解析設置、用語集、詩などの創作カテゴリを創設、メルマガ発行
掲示板の三代交代、オフ会(まろじぇくとX)、geocitiesから独自ドメインでの運営開始の変化があった。
HPの更新を考えて「どんなに忙しい時にも一ヶ月一冊は本を読む」という日々の目標も新たに出来た。
(結果的に多忙だったこの一年で19冊を読めた)

そして何よりも重要なのは自らの体験や情報をメディア化することの意味だ。
「表現の自由の価値とは自己統治と自己実現の二つである」とはどんな憲法の本にも載っていることだが、
表現の自由の価値と自己実現の関連をこれほどまで実感することになるとは思わなかった。
(情報の最大の価値は知識でも教養でもなく感性の共鳴か?)

自らが運営するメディア、自らのブランドを形成することの意味を感じた
この一年は自分にとって大きなものになるだろう。
感じたことを中心にまろまろコラムはしり書きにも掲載。

2002 7/19
出来事メモ、はしり書き、まろまろコラム、サイト運営

幸せの位置

いいなプリンワールドカツ丼倶楽部など、
成功しているHPを見ていて「思い切りがいいな」と思う。
「プリンなんて・・・(HPにするほどのものじゃないという言い訳入る)」、
「カツ丼なんて・・・(一般受けしないなどの言い訳入る)」
・・・などという独りよがりなまとまりは一切ない。
スケールが小さいことを思い切りやるスケールの大きさまで感じる。
もしかしたら情報の最大の価値は知識でも教養でもなく感性の共鳴にあるかもしれない。

その情報というものは受け取る人それぞれにとってまったく意味が違うものなので、
自分以外に一人でも好きだという人がいれば、それだけで情報発信する価値がある。
そういうことをまろまろHP開設から一年たったいま、実感として感じる。
僕自身、「読書日記なんて・・・(知り合い以外誰も読まないだろうし)」と、
勝手に決めつけて長くMLの世界にとどまっていたからその思いは後悔とともに強い。
何よりも後悔させられるのは上に紹介したHPの管理者さん達は本当に楽しそうだということだ。
僕もまろまろHPを運営して大小の日々の目標と充実感を意識するこができている。
勝手に小さくまとまらずにもっと早くHPを開設していれば・・・。
「どうせ何かにぶつかって小さくなるんだから自分からわざわざ小さくなる必要はない」
・・・そんな言葉がふと浮かんできた。

きっと幸せになるには思い切りが必要なんだろう。
もしかしたら「幸せ」がある位置は「無難さ」がある位置とは離れているかもしれない。

2002 7/19
まろまろコラム、はしり書き、出来事メモ

サイト開設一周年を記念してコラム化

人生ほど儲かる商売はない

すぐ後に振り返って無駄だと思ったことでも後々活きてくることが多い。
この読書日記を書くことも「そんな無駄なことを・・・」と言われることもあった。
それが自分専用メディアの価値を持ってきているんだからやはり人生無駄なものはなさそうだ。
自分が棄てなければ(たとえ棄てても?)すべてが活きてくるなら
「人生ほど儲かる商売」なんてないのではないだろうか?
どうせなら大きく儲けるように無駄なことを活かすようにしていきたいものだ。

2002 7/13
はしり書き

プロデュースが中間にいるものの役割

ふとした偶然(詳細は出来事メモに記載)から老舗の酒卸業の若い三代目と話をした。
いま転換を迫られている業種であることもあって問題意識が非常に強く共鳴する面も多かった。
卸など中間業の役割は代替可能で誰がやっても同じという話もあったが
歴史マニアの僕からすればかつての卸は個人の個性や独自のネットワークを基に
常に提案をしていたプロデューサー業だったと感じていた。
クリエイター(生産者)と消費者(ファン)を結ぶ単純な機能としてだけでなく
主体的提案能力があったのにそれがなくなってしまって単なる機能だけになったから
卸を飛ばしたり巨大卸業以外の必要性がなくなったのでは・・・
(単なる機能としてならNo.1卸一つで足りる)
と、前から思っていることを話すとおじいさんの代の話と今の代との違いの話などが
聞けてこちらも勉強になることがとても多かった。
単なる機能だけならば中間は代替可能で「その人」がする必要性がなくなるときもくる。
しかし提案能力があればそれは「その人」でしかできないものになるだろう。
サッカーでもゲームメイカーといわれるMFが一番代替不可能性が高い。
・・・そう考えるといま僕が主任スタッフをつとめるプロデュース業でも、
クリエイター自身が自分の表現媒体を持つ時代が目の前に迫っている。
いまは花形のプロデューサー業が転換を迫られる時代もそれほど遠いことではないだろう。

2002 7/12
はしり書き