ネイティヴ・ナニワニアン

  らぶナベの現在の生息地は東京都文京区であるが、生まれと育ちは大阪市浪速区である。

  阪神ファンであり、納豆が食べられず、関西風うどんしか認めないグルメ気取り、

  なおかつ掘り出し物を探すのに人生の半分をかけているために

  まわりからはネイティヴ・ナニワニアン(Native Naniwanian)と呼ばれている。

  この出自のためにすっかりマイナー好きな人生を歩むこととなってしまった。 
  
  ex.痛いものコレクター、変な名前好きなど
  
  全国的に関西人は声高な少数者(noisy minority)として避けられがちでもあるが、

  世界的に見れば日本自体がminorityであるので反省するそぶりも見せていない。

  往々にしてマイナーも開き直れば個性になるものである。
  

  生態:旨さと安さの両方を追い求めるために、高ければ旨いと思いたがる
      バブリーな成金趣味人間とは食事のウマが合わない

ヴィレム・フルッサー、村山淳一訳 『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 東京大学出版会 1997

生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにデコードする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコンセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4

村上祥子 『村上祥子の1人分でもおいしい電子レンジらくらくクッキング』 ブックマン社 2001

まろまろフラッグの卓上旗版(まろプチフラッグ)が完成した、らぶナベです。

さて、『村上祥子の1人分でもおいしい電子レンジらくらくクッキング』
村上祥子著(ブックマン社)2001年初版。

一人暮らしをしているのに電子レンジをあまり活用できていないので、
書店で見つけて購入した電子レンジのレシピ本。
買ってから知ったけれどこの著者は電子レンジ使いで有名らしい。

最初に電子レンジマニュアルとして基本的な使い方やコツが載っているのは便利だし、
醤油1:砂糖:1酒:1の割合でつくる「かれいの煮付け」(3分で完成)はけっこう良い。
ただ、レシピの方は鍋やフライパンを使ったほうが早いし簡単だというものも多かった。
油を抑えたいときに使うちょっと特殊なレシピ集になるのかも。

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2003 10/3
料理本
まろまろヒット率2

ジョン・バージャー、伊藤俊治訳 『イメージ―Ways of Seeing 視覚とメディア』 PARCO出版 1986

まろまろHPにわんわんを飼いはじめた、らぶナベ@リンクアイコンとして活躍中です。

さて、『イメージ-Ways of Seeing 視覚とメディア』
ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳(PARCO出版)1986年初版。
副指導教官の武邑光裕助教授が貸してくれた本。
「見る」ということがどういうことなのか、その意味を問いなおした本として
出版されたとき(原本1972年)には衝撃を与えた一冊らしい。
もとはイギリスBBCの番組”Ways of Seeing”をテキストとして構成しなおしたもので、
絵と写真から成るイメージだけの章もあって確かに意欲的な本。
ただしカラーじゃないのがすごーく残念だった。

内容的には追章「見ることのトーポロジー」の中で
フランス語の「”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある」と紹介していたことは
まさにこの本のテーマ性を言いあらわしているように思えた。
(フランス語知らないので新鮮だった)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。
それは、最初にあらわれ、受けとめられた場所と時間から、
数瞬または数世紀も引き離された概観である。
すべてのイメージはものの見方を具体化する。
<1 イメージの変容>

○過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む(略)
芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、
過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
<1 イメージの変容>

○裸(naked)とは単に服を着てないということであるが、
裸体(nude)とは芸術の一形態である。
→裸体(nude)とは絵の出発点ではなく、絵がつくりあげたものの見方。
(ケネス・クラーク『ザ・ヌード』)
<3 「見ること」と「見られること」>

○広告は実は物についてではなく社会関係について語っている。
広告が約束するものは快楽ではなく、幸福なのである。
幸福は外側から他人によって判断される。
うらやましがられる幸福、それこそが魅力と呼ばれるものである。
うらやましがられるということは安心の孤独な形といえるだろう。
→広告イメージはありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、
 かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。
<7 広告の宇宙>

☆仏語の”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある。
<見ることのトポロジー>

○印刷画を一般概念や特定の役割の見地からも見なければならないが、
とりわけ情報の伝達者や受容者に印刷の諸技術が課してきた
限界について私たちは考察する必要がある。
(ウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』)
<見ることのトポロジー>

○(複製によって)オリジナルは人々が入り込んでくる存在の場ではなく、
人々が自らのまわりに呼び入れる表層の場となる。
<見ることのトポロジー>

○見せる操作は世界へ介入するのではなく、世界を見られる形に変える。
見るということが、見る者と世界との相互性を含むものであるということを見えなくする。
<見ることのトポロジー>

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2003 10/3
視覚メディア論、芸術論、美学
まろまろヒット率3

吉田健正 『大学生と大学院生のためのレポート・論文の書き方』 ナカニシヤ出版 1997

いつの間にかYahooに「情報学」と「メディア論」のキーワードでも登録されていてた、
らぶナベ@院入学半年の活動がこういうキーワードでも登録されるようになった原因だけど、
本人の手を離れて独りでに進化していくようなところがネットでの活動の楽しさですな(^^)

さて、『大学生と大学院生のためのレポート・論文の書き方』
吉田健正著(ナカニシヤ出版)1997年初版。
同じ研究室の聖ちゃん(男)が貸してくれた本。
いまさら感もあるし、こういう本は総じて面白くはないけれど、
気づかずに付いた癖や思い込みを発見できるので通して読んでみた。

案の定、デジタルメディア(特にネット上の情報)を引用や注で使うときには、
“…; accessed 26 May 2003.”というようにアクセスした日時も記載するとういうのは
ころっと抜けていたところだったのでこれから参考にしたい(^^;
(8章:注・注記・引用・文献一覧)

また、どうでもいいところかもしれないけど「起承転結」はレポートにはあまり適さないし、
能や浄瑠璃で基本の「序破急」も不適切だと書いていたのには笑ってしまった。
(3章:レポート・論文の構成)

以下はその他にチェックした箇所・・・

○英文なら”A Manual for Writers of Term Papers, Theses, and Dissertations”か、
“MLA Handbook for Writers of Research Papers”が参考になる
<1章 レポートとは>

○「モデル」の意味(Alfred Tarski)=
1:theory formation, 2:sinplification, 3:reduction, 4:extension, 5:adequation,
6:explanation, 7:concretization, 8:globalisation, 9:action, 10:experimentation
<4章 卒業論文と修士論文>

○「科学的」の定義(ベレルソン&スタイナー)=
1:手続公開、2:定義の正確性、3:データ収集法の客観性、4:事実の再現可能性、
5:組織的・集積的なアプローチ、6:説明・理解・予測のための研究
<4章 卒業論文と修士論文>

○レポートと感想文との違い=objective&detached

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2003 9/30
作文指南、学問一般
まろまろヒット率2

まろプチフラッグ完成

まろまろフラッグは屋外や広い場所ではすごく効果的だけど、
長距離移動や室内での利用がしにくいことがこの10ヶ月で判明した。
今後予想される学会や国際会議などでも気軽に利用できる旗がほしいと思い、
まろまろフラッグの卓上旗ヴァージョン(まろプチフラッグ)を作ってみた。
実際にはedo-valleyに呼ばれたときに知り合ったミイレーの高根さんが調べてくれて、
クリップ版と吸盤版の二つのタイプが完成した。
(こういう活動に理解ある人が協力してくれたこともあってかなりの完成度)
オフラインでも機動力を得たことは、今後大きな意味を持ってくるのだろう。
実戦投入時の写真はここ

2003 9/30
出来事メモ、サイト運営

竹内郁郎・児島和人・橋元良明 『メディア・コミュニケーション論』 北樹出版 2000(第3版)

TBS系列で再放送していた『愛なんていらねえよ、夏』にちょっと感動した、らぶナベです。

さて、『メディア・コミュニケーション論』竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著
(北樹出版)2000年第3版。
コミュニケーション論の本を探していたらメディア論との関連で構成されている
この本を見つけたので読んでみることになった。

一章ごとに執筆者が違っていて全部で序章+15章とけっこうな分量だったけど、
内容は「薄いやん」っと思うような章もところどころあった。
おかげでメモを残した章がかなり偏っている(^^;
第7章の「マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開」が
この本の一応の中心にはなるんだろう。

また、この本で扱うメディアは新聞、ラジオ、テレビなどの
既存のマスメディアが中心になっていて、ネットや携帯電話などの
新しいメディアへの記述が少なくてちょっと残念だった。

ただ、各章末にそれぞれ3冊ずつ、そのテーマに関係する参考図書を
執筆者のコメントつきで紹介してくれているのはテキストとして役立った。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆メディア・コミュニケーション研究の対象=人間・メディア・社会の相関の磁場、
入れ子状の関係のもとでの社会的相互作用としてのコミュニケーション
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○メディア変容で注目する点→
1:メディアにおける身体の根源性と基本性
2:新たな個別メディアの登場とメディア総体の自己変容
3:道具・機械メディアの独自の系
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○第一次集団(家族や企業組織など)ほど個別間の結合が強固ではなく、
大衆ほどには離散的でもない中間的結合体系=「集合体」(collectivity)
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

☆メディアはそのメディア内容を離れてメディアそれ自体の独自の次元でも
リアリティ形成の力を一定の社会的文脈の中で発揮する
→メディア独自のリアリティ形成力=「メディウム性」
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○社会的格差の中にあるリテラシーを動員した実践が、
コミュニケーションという相互作用によって他者と共有するリアリティを
構成することを通じて、新たな自己、新たな他者との関係形成の一歩を築く
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○群集の特徴(Tarde,J.G.)=情動や集団的感情の模倣を通じての集団的一体感(コミュニオン)
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○文字の特性(Platon)=
1:書かれたものは客観的なモノと化して人工物となる、
2:書くことは記憶能力を衰退させる、
3:書かれたものは読み手に応答することはなく自らを弁護することもない
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○従来のメディアと電子メディアの相違点=
1:遠隔地間の情報伝達を瞬時に行える
2:同時に広範囲の人々に対する情報伝達ができる
3:電気信号によって多様な情報を蓄積、伝達することが可能
<第3章 メディアの今日的生成と諸形態>

○通信機器の普及の特徴=相手も同じ機器を持つ必要があるので
普及が十分ではない時期にはなかなか広まらないが、
普及がある一定数(クリティカル・マス)を超えると
逆にその機器を持っていないことに対して社会的圧力がかかる(吉井,1997)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

☆ある年齢層の行動・意識を調査・分析する際の注意点=
1:「年齢層効果」(特定の年齢層であることの影響)、
2:「時代効果」(調査した時代の影響)、
3:「コーホート効果」(同時代に生まれた集団=コーホートが持つ特性の影響)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

○メディアの公共性の基準(McQuail,1994)
=自由、平等、多様性、情報の質(客観性、均衡など)、社会的秩序と連携、分化的秩序
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○マス・コミュニケーションの社会的機能(ラザーフェルド&マートン,1960)
=1:地位付与の機能、2:社会規範の強化、麻薬的逆機能(潜在的機能)
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

☆マス・コミュニケーションの社会的機能(ラスウェル,1960)
=1:環境の監視、2:環境への反応にあたっての社会の諸部分の調整、3:社会的遺産の世代的伝達
(国家単位で当てはめれば1:外交官、2:ジャーナリスト、3:教育者)
→ライト(Wright,C.R.,1960)はこれに4:娯楽の提供を追加
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○カルチュラル・スタディーズは第一段階では記号論や精神分析のアプローチを導入、
第二段階では社会的な主体としてのオーディエンスに焦点を合わせることで
その構造的な規定性を脱構築するという二重のパースペクティヴを有する
→メディアの基本的契機であるテクスト、テクノロジー、オーディエンスを
 それぞれ独立した変数とみなして議論を進めることは無い
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

☆カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく(略)
様々な差別の文化政治学が葛藤と矛盾、せめぎあいを含みながら作動していく
政治の現場としてのオーディエンスの社会的身体である
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

○メディアと日常生活を分離させてそれぞれの分野の科学性を追及するのではなく、
日常生活や郊外や都市、グローバルな空間システムの作用についての分析と
コミュニケーションについての分析を統合させる
→家庭には、想像される家庭(home)、社会関係の場の家族(family)、
 モラル・エコノミーの場の世帯(household)の三つの次元がある(Silverstone,1994)
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

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2003 9/20
メディア論、コミュニケーション論、社会学、社会心理学
まろまろヒット率3

『愛なんていらねえよ、夏』(TV番組)

再放送で第5話からふと見る。マジでおもしろい!
テンポがいいのに人間描写にどきっとさせられる。
脇の配役も坂口良子、西山繭子、藤原竜也と実力派ぞろい。
(主演の広末涼子はこのころパンパン(^^;)
突っ込みどころは満載だけど緊張感があって気にならない。
最終話(第10話)でOPの意味がようやくわかるようになっている。
そんな作りこみが垣間見れるのも良い。
こんな良いドラマまのに本放送中は低視聴率だったらしい。
視聴率なんて信じねえよ、夏。

2003 9/17
もろもろ鑑賞、TV番組
まろまろヒット率5

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好きと危険~結婚するなら何番目?~

「結婚するなら二番目に好きな人としろ」という人生訓があるらしい。
一番好きな相手には色々な意味でいっぱいいっぱいになって余裕がなくなり、
うまくいかなくなることが多いからだからだそうだ。
至極もっともなことだと思う。
このことは対人関係だけでなく、すべての物事についても言えるのだろう。
思い入れが強すぎると往々にしてうまくいかないことが多いし、
何よりも失敗したときのダメージが大きい。
「趣味を仕事にしてはいけない」という教訓もそのひとつだろう。

その一方で、たとえ二番目に好きな相手でもうまくいかないこともあるし、
駄目だったときはどうせ傷つくんだから、
時間とエネルギーを一番好きな相手や物事に注入すべきだという意見もある。

どちらが正しいかはその人の中での優先順位や対象ごとに
その時々で変わってくるものだろうけど、
その相手や物事を選ぶか選ばないかということ以前に、
いっぱいいっぱいになるくらい好きになってしまうほど、
駄目になったときダメージを恐れるほどの相手や物事と出会えるということは
実はかなり幸せなことなんじゃないだろうか。

その相手や物事に没頭することが良いことかどうかはその時々によって違う。
でも、もし選んだなら駄目だったときのダメージのことも受け入れる、
たとえ選ばなくてもそれほどまでに思えるものはどこかで大事にし続ける。
そういう気持ちをどこかで持ち続けることが大切なのかもしれない。

そしていま、それほどまでに没頭できる相手や物事がなくても、
いつ現れるのか期待して&ビクビクして待つ。
好きと危険だけで人生はお腹いっぱいになれる。
好きと危険は人生というごはんのメインディッシュのようだ(^^)

2003 9/14
まろまろコラム