いつも前を通っている中華屋に突撃。名物という「叉焼うま煮ごはん」を注文する。
「叉焼」(チャーシュー)を「又焼」(またやき)だと勘違いして注文すると「この店ができてからそう間違えたのはお客さんで二人目だ」と笑われてしまった。一人目でなかったことに悔しがるスケールの小さな自分。
本郷春日通り沿い(東京都文京区本郷7-2-5)の「本郷 蘭亭」にて。
佐藤郁哉 『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』 新曜社 1992
マリノフスキーっておちゃめさんと思っている、らぶナベだす。
さて、『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』佐藤郁哉著(新曜社)1992年初版。
対象との間合い(距離感)について考えていたら佐倉助教授から「名著だよ」と紹介された本。
著者は暴走族(『暴走族のエスノグラフィ』)や現代演劇(『現代演劇のフィールドワーク』)
へのフィールドワーク研究をしたことで有名な人。
内容は文字通りフィールドワークの概要や考え方について紹介している。
だからといってフィールドワーク至上主義というわけではなく、
サーベイとの対比をしながらそれぞれの一長一短を分析して
それぞれを補い合うよう提言している。
対象との距離感や社会調査法についてのことだけでなく、
仮説や概念のとらえ方についても議論しているので
こうしたことを全般的に通して考えるきっかけになる。
読み終わってからインターンシップで企業現場に飛び込んだり、
産学協同事業に携わったときにこの本を読んでいればとちょっと思ってしまった。
まぁまだ生きてるんだし、次は使えるさ。(自作自演な慰め)
ちなみにこの本の「書を持って街へ出よう」という副題は気に入った。
僕の場合なら「箱庭を持って広場へ出よう」という感じだろうか(^^)
以下はチェックした箇所(一部要約)・・・
○文化=知識・信仰・法律・風習、その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、
あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体(エドワード・タイラー)
<カルチャー・ショック>
○フィールドワーク=文化的な子供時代の再現
→ただし子供のように白紙の状態からとは違い、
既に身につけている自分の社会の文化を前提として
調査地の文化を学んでいくのがフィールドワーカー
<カルチャー・ショック>
○「居心地の悪さ」を感じることこそ「文化」を知るための最良の方法
→フィールドワーカーは「プロの異人」
<カルチャー・ショック>
○エスノグラフィー=
人類学者が異文化における日常生活を身近に観察し、記録し、
それにみずから参加し、細部を丹念に記述しながら
その文化についての話を書き上げる調査のプロセス(Marcus&Fischer, 1986)
→文学と科学の二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、
また、そうした文章を作るための調査法でもある
<民族誌>
☆フィールドワークとサーベイ
・フィールドワーク→定性的(質的)調査=
限られた範囲の対象について多様な事柄を調べられる
・サーベイ→定量的(量的)調査=
広範囲の対象に限定された事柄を調べられる
→一般的にフィールドワーカーvsナンバークランチャーの対立と言われるものは
この二つのアプローチの違いが原因
<アンケート・サーベイ>
☆サーベイとフィールドワークは対立する二つの方法ではなくて、
本来補い合うべきアプローチ(それぞれの違いは質的ではなく程度の問題)
<事例研究>
→派閥争いではなくトライアンギュレーション(マルチメソッド)でおこなうべき
<トライアンギュレーション>
→複数のモデルを使うのは目的地にたどり着くために何枚かの地図を使うプロセスと同じ
<モノグラフ>
☆信頼性と妥当性の区別が必要=その調査方法が信頼性があっても
その事柄への妥当性があるとはいえない
<信頼性と妥当性>
○統計データの多くは過去におこなわれたサーベイという
干渉的な調査結果であることを忘れてはいけない(Maier, 1991)
<トライアンギュレーション>
☆理論の検証(verification)=グランドセオリー(総合理論)と、
理論の発見(discovery)、理論の生成(generation)=グラウンディッド・セオリー
(データ密着型理論)を併用して、理論の生成と理論の検証の双方をめざすべき
<理論の検証と理論の生成>
☆恥知らずに折衷主義=
その社会に含まれる矛盾や非一貫性をすぐ単純化や抽象化するのではなく、
(抽象度が高いものはほとんど何でもいえてしまう危険がある)
ひとつの方法だけではとらえられない事柄は別の方法を使うという姿勢
(Suttles, 1976)
<恥知らずの折衷主義>
○操作主義(操作的定義の概念)=
操作の手続きで概念を定義することによって、客観化を目指すこと
→限定概念(definitive concept)と批判される
これに対して感受概念(sensitizing concept)=
研究のはじめに大まかな方向性(問題を検証する手がかりとなる感受の方向)を示す概念
→調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟性あり
<概念>
○仮説=すでにある程度わかっていることを土台にして、
まだよく分かっていないことについて実際に調べて明らかにするための見通し
<仮説>
○外国語の翻訳と同じように、ある行為の意味を明らかにするためには、
その行為が埋め込まれている社会生活の全体の文脈をあきらかにする必要がある
<分厚い記述>
○参与観察(participant observation)=
1:社会生活への参加、2:対象社会の生活の直接観察、
3:社会生活に関する聞き取り、4:文書資料や文物の収集と分析、
5:出来事や物事に関する感想や意味づけのついてのインタビュー
<参与観察>
○インフォーマントとは「客観性を失わないラポール」
(rapport combined with objectivity)が重要
→ここにフィールドワーカーだけが明らかにできるものがある
<インフォーマント>
○遂行面での知と批評的理解の知とは同じ性質の能力や知識ではない(Ryle, 1949)
<第三の視点>
☆時期尚早のコーディングの誘惑=
枠組みがあまり早い時期に固まるとその枠組みからはみ出した事柄は
観測や資料収集できなくなるおそれがあること
・それを防ぐ方法=
1:一般理論や他のフィールドワーカーが書いた民族誌の内容とつきあわせて、
調査の枠組みの位置づけを検討、確認する作業を怠らないこと
(理論的な前提に関して視野を狭めないようにする)
2:調査項目に関する網羅的なチェック・リストを作る
(調べる事柄にバラツキがないかを常にチェックする)
3:網羅的なフィールドノーツをつける
(ある段階で出来た枠組みにとって都合の悪いデータも記録するように自分にしむける)
4:データの分類だけでなく配列を考える
(一般的な基準で配列すれば都合の都合の善し悪しに関わらず一緒にリストアップ)
→現場が新しい発想を発見することができる宝庫だとしたら、
分類と配列はその宝庫の扉を開いて価値を何倍にも拡大するカギ
<分類と配列>
☆フィールドワーカーを調査の対象となる社会や文化を計る計測器にたとえれば、
日誌はその機械自体のコンディションをチェックするモニタリング装置
→日記は自分の置かれた環境の状態を測るだけでなく、
自分自身のフィールド体験による変容をとらえることができる装置
<フィールド日記・フィールド日誌>
2003 10/31
学問一般、フィールドワーク、社会調査法、社会学、人類学
まろまろヒット率4
ほろ苦い「ハーシーチョコアイス」
広場の箱庭師~HPのたのしさ~
「HP(WEBサイト)を運営することをどう捉えているんですか?」と聞かれることがあるので、
今回は自分がHP活動について感じていることのコラムをば。
カウンセリングのひとつに箱庭療法というのがあるらしい(『箱庭療法入門』、『トポスの知』)。
箱庭の中にある人形や家の配置や置き換えを通して、心療をするのだそうだ。
そういえば自分の小さい頃はレゴブロックを作るのが好きだった。
もう少し大きくなってからはジオラマを作ることが好きになったし、
思春期には戦略シミュレーションゲームにハマった。
いまではサッカーなどのスポーツのポジショニングやフォーメーションを考えるのが好きだ。
どれも自分の手の届く範囲で小さな世界を作る箱庭なのだろう。
振り返ってみるとすべて自分の手で組み上げることのできるものばかりだ。
落ち着きがなく、不安定な子供時代だったはずなのに、
箱庭を作っている間は気持ちが安定していたのを今でも覚えている。
最近ある友人から「戦略フェチのお前がシミュレーションゲームをしなくなったのは
HPをはじめたからだな」と指摘されたことがあった。
HTMLを接着剤にしてレゴのように情報をつなぎ合せてみる、中身を組みかえる・・・
HPの構築は確かにそういうセラピー的な要素があるのだろう。
そしてそれ以上にHPの最大の特徴は、ブロックや戦略ゲームと違って
箱庭を作る過程自体がそのままメディア活動になる点だと思う。
手作業でつくっている自分の箱庭をWEB(広場)にアップロードすることで、
訪れる人がその人なりの気持ちを感じたり知識を得て通り過ぎてゆく。
百人いれば百通りの感想、それはもう僕の手が届かないものだ。
その手の届かなくなったものが何かの拍子にまた自分の箱庭に帰ってくることもある。
まるで手の届くところにある手の届かないもののような、
コンパクト感とダイナミック感を両方感じられるんだから、
もうおもちゃやゲームなんかでは満足できなくなってしまう。
この箱庭と広場を行き来するような楽しみがメディアを作る楽しさなんだろう。
そう、このコラムを読んでいる貴方もまた、
僕が手作りした広場の箱庭に通りかかった一人なんです。
いらっしゃい、まろまろしていってね(^_-)
2003 10/25
まろまろコラム
養老孟司 『バカの壁』 新潮社 2003
肝機能回復のためにゴーヤ茶を飲んでいる、
らぶナベ@水筒を持ち歩いている人間を見かけたら、
もしかしたらそれは僕かもしれません(^^)
さて、『バカの壁』養老孟司著(新潮新書)2003年初版。
家に泊まりに来た人がくれたので読んでみた今年のベストセラー本。
脳解剖学者が書くエッセイ。
「一般に、情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、
と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない(略)あべこべの話です」
→「生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけども、
情報というのはその中で止まっているものを指してる。
万物は流転するが、『万物は流転する』という言葉は流転しない」
(第4章:万物流転、情報不安)と述べているところや、
「組織に入れば徹底的に『共通了解』を求められるにもかかわらず、
口では個性を発揮しろと言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。
要するに『求められる個性』を発揮しろという矛盾した要求が出されている」
→「(教育関係者へ)おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか」
(第3章:「個性を伸ばせ」という欺瞞)っと言い切っているところなどは
勢いがあって肯きながらサクサクと読んでいける。
また、「教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、
結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります」
→「(わたしは)自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている」
(第7章:教育の怪しさ)と述べているところにはすごく共感した。
ときどき僕は人から教え上手とか説明上手と言われることがあるけれど、
それは誤解で、僕は人に「教える」ことはまったくできないと考えている。
ただ、自分が必要だと思ったり大切だと思うことを相手に伝える、
共感することはできると思っていたところだったので、
そういうことを感じている人が他にもいたんだと思ってちょっと安心。
・・などなど、通して読むとけっこう面白いけど、
飲み屋のクダまきおっさんトーキングの色合いが強くなる後半は
ぐぐっと説得力と小気味良さが落ちてしまっている。
ちなみに、河合隼雄(心理学)といい、この本の著者といい、
こういう系のベストセラーを出す人が
心理学や脳科学の分野の人というのが現代的な特徴なのかな?
以下はその他にチェックした箇所・・・
○真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」
それが絶対的な真実であると考えることではなく、
そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢。
→イデオロギーは常にその内部では100%だが、科学がそうである必要はない。
<第1章 「バカの壁」とは何か>
○人間はどうしても、自分の脳をもっと高級なものだと思っている。
実際には別に高級じゃない、要するに計算機。
<第2章 脳の中の係数>
○V.E.フランクルは「意味は外部にある」と言っている。
「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。
<第5章 無意識・身体・共同体>
2003 10/22
エッセイ、脳科学、科学論、教育論
まろまろヒット率3
佐倉統 『佐倉統がよむ進化論のエッセンス』 トランスアート 2003
オリジナル(原作&アニメ)を知っているだけに実写版『セーラームーン』は
いくら仕事でも恥ずかしくて最後まで見れない、らぶナベです。
さて、『佐倉統がよむ進化論のエッセンス』佐倉統編(トランスアート)2003年初版。
進化にまつわる本を紹介しているアンソロジー本で、
情報学環の講義「進化生態情報学」の指定参考図書。
生まれて初めて手に取ったオンデマンド出版物でもある。
内容は生物学の基礎がない人でも進化論に取っ付けるように、
いろいろな本からさわり部分を引用して紹介している。
すごく面白い企画だけど、編者のコメントが少なすぎて物足りなさをかなり感じた。
どうせアンソロジーなんだから、もっとざっくりばっさり切り分けしてほしかった。
ただ、「日本の社会・文化は、まずは韓国や中国やヴェトナムなどと比較すべきであって、
欧米と比較して違いがあったからといって、即日本の独自性だと結論するのは、
論理的にもおかしい。日本ではなくて東アジアの独自性かもしれないのだから」
っと編者が述べているところには(第4部:日本の進化論、今昔)、
研究会で自分に言われているような錯覚を覚えた、反省します(^^;
以下はその他でチェックした箇所・・・
○進化=「変化を伴う由来」=”descent with modification”(Dawin, 1859:123-124)
<第3部 進化と歴史>
○いったん発表された文芸作品は、その後の改定・解釈・翻訳・模倣・ドラマ化
などによる「進化」を行う実体と解釈すべき
(literary accomplishment:Ghiselin, 1980:82-83)
<第3部 進化と歴史>
2003 10/19
進化論、自然科学、アンソロジー
まろまろヒット率2
一心の「牛タン焼定食」
今日は知り合いと牛タン専門店へ突撃。ランチのタン焼定食を食べる、テールスープもついててうれぴー!
後楽園春日通り(東京都文京区小石川2丁目1-2)の牛タン専門の「一心」にて。
ベラ・バラージュ、佐々木基一・高村宏訳 『視覚的人間-映画のドラマツルギー』 創樹社 1975(原著1924)
らぶナベ@広場の箱庭師です。
さて、『視覚的人間-映画のドラマツルギー』ベラ・バラージュ著、
佐々木基一&高村宏訳(創樹社)1975年初版(原本1924年初版)。
副指導教官の武邑光裕助教授から借りた本の第三段。
映画がまだ低俗なものとして扱われていた1920年代(白黒&無声映画の時代)に、
映画を芸術として位置づけようと試みた美学書の古典。
新しいものが芸術としてどう位置づけられて来たのか、
その過程を知るという点でも意味のある本。
この本で一番興味を持ったのは何と言っても「雰囲気」について述べているところだ。
「雰囲気は個々の形象の中に圧縮されている霧のような原素材である。
それはさまざまな形態の共通の基体でありすべての芸術の最終的なリアリティである。
この雰囲気がひとたび存在すると、個々の形態が十全でなくとも
それが本質的なものを損なうものとはならない。
この特別なものの雰囲気が< どこからくるか>を問うことは、
すべての芸術の源泉を問うことである」、
「雰囲気はたしかにすべての芸術の魂である。それは空気であり香気である」
(「映画のドラマツルギーのためのスケッチ」より)
・・・まさにビビっと来た。
作品と呼ばれるものは「その雰囲気」を感じさせれば作品として成功なんだし、
作品と呼ばれないものでも独自の雰囲気を醸し出せるものは芸術なんだ。
この本の論旨はまだ美学がその射程にとらえていない
WEB活動や同人活動にも応用可能だと読みながら感じた。
また、この本の紙質、大きさ、分量、文字の配置どれもすごくフィット感があった。
そういう意味も含めてまろまろヒット率5です(^_-)
以下は、その他にチェックした箇所・・・
○理論は芸術発展の舵ではないが、すくなくともコンパスである
<序言ー三つの口上>
○文化とは日常的な生活素材の完全な精神化を意味する
<視覚的人間>
○唯一無二であるということがそれぞれの現象の本質であり、
それぞれに存在理由を与えるものである
→それは他のものとの差異によって最も明白になる
<映画のドラマツルギーのためのスケッチ>
○すべての芸術の存在資格は、代替不可能な表現の可能性を持つものであるという点
<映画のドラマツルギーのためのスケッチ>
○(覗き見について)我々が何かを見るときには、我々自身がその場にいるのが自然(略)
誰もその場にいないときの事物の様子を見ることは、人間のもっとも深奥の形而上学的憧憬
<映画のドラマツルギーのためのスケッチ>
○芸術とは本来、削りとることなのだ
<映画のドラマツルギーのためのスケッチ>
☆(ウィットについて)それは概念の遊戯であって、
さまざまな概念相互のあいだの隠された思いもかけない関係を解き明かすことである
<映画のドラマツルギーのためのスケッチ>
2003 10/12
メディア論、映画論、美学・文化論
まろまろヒット率5
ナベッカム
らぶナベは組織やプロジェクト内での個人の役割をサッカーのポジションで例えることが多い。
読書日記やHP運営などのように主流から外れたアウトサイドで動くことが好きなために、
端っこを駆け上がるサイドアタッカー的な役割が自分には向いていると考えている。
そうしたことから自らをナベッカム(NABECKHAM)と称して
読書日記や出来事メモなどにごく普通に使用していた時期があった。
しかし、2002年の日韓共催W杯期間中に滅多に怒らない女の子にマジギレされたので
反省して封印していたのであるが、まろまろ掲示板での許可を得て再び使用することとなった。
追記:本家ベッカムが引退し、らぶナベと呼ばれた渡邊義弘本人の役割の変化もあって、
最近は、クリスティアーノ・マロウド、ナベンゲル
などの呼称もポスト・ナベッカムとして有力である。
教訓:比喩はメジャーすぎる例だと怒られるけど、微妙な例だと伝わりにくい
ネイティヴ・ナニワニアン
らぶナベの現在の生息地は東京都文京区であるが、生まれと育ちは大阪市浪速区である。
阪神ファンであり、納豆が食べられず、関西風うどんしか認めないグルメ気取り、
なおかつ掘り出し物を探すのに人生の半分をかけているために
まわりからはネイティヴ・ナニワニアン(Native Naniwanian)と呼ばれている。
この出自のためにすっかりマイナー好きな人生を歩むこととなってしまった。
ex.痛いものコレクター、変な名前好きなど
全国的に関西人は声高な少数者(noisy minority)として避けられがちでもあるが、
世界的に見れば日本自体がminorityであるので反省するそぶりも見せていない。
往々にしてマイナーも開き直れば個性になるものである。
生態:旨さと安さの両方を追い求めるために、高ければ旨いと思いたがる
バブリーな成金趣味人間とは食事のウマが合わない