
煮付け系だと思っていたら、出汁のはった鉄鍋に入ったお鍋風の一品だった。あっさりした出汁と豚肉&ニラが思いの外マッチしていて美味しい。
いかにも高度成長期の大衆酒場といった感じの店内の雰囲気と合わさって気に入ったお店。
神田駅西口近くのガード下居酒屋「大越」にて。

煮付け系だと思っていたら、出汁のはった鉄鍋に入ったお鍋風の一品だった。あっさりした出汁と豚肉&ニラが思いの外マッチしていて美味しい。
いかにも高度成長期の大衆酒場といった感じの店内の雰囲気と合わさって気に入ったお店。
神田駅西口近くのガード下居酒屋「大越」にて。

前から気になっていたガード下のごはん屋さんに入ってみる。駅構内のお店と厨房がつながっているようだけど、ガード下の方は居酒屋としても使えるみたい。カツカレーを注文してみると、カレーはなかなかいけたけどカツが冷めていたのは少し残念。次はシンプルにカレーだけの注文がよさそうですな。
神田駅西口近くのガード下「ふくてい」にて。


秋葉原の「百飲」と双璧をなす百均立ち飲みの100diningにいってみる。揚げたてのものを教えてくれるのでフライものが美味しい。焼酎やウィスキー、泡盛などの高級酒はさすがに量が少ないけど、僕のようにほとんど飲まない人間にはちょうどいい感じのお店。
「100ダイニング」神田店にて。
2006年4月21日発行の日本経済新聞夕刊、第17面特集記事「ホームページよ永遠に」の中でまろまろ遺書が取り上げられる。
インタビュー時は「16行から20行くらいでまろまろ遺書とその反響を紹介させてください」という話だったけど、
実際のインタビュー量と資料提供の割に扱いが小さいのは、記事の方向性が高齢者のネット利用にシフトしたのが原因のよう。
ただ、記者の人も「こういう話題を取り上げること自体が画期的」と言ってたように、
僕自身もこの話題はWeb3.0かWeb4.0でのメインテーマだと思っているのでこれは仕方ないなと感じた。
今は”兆し”の段階、そしてその兆候は確実に広がっていることをあらためて実感した。
2006 4/21
出来事メモ
らぶナベ@今日(金)の日経新聞夕刊に僕のインタビューが載るそうだす。
さて、『戦後名編集者列伝―売れる本づくりを実践した鬼才たち』桜井秀勲著(編書房)2003。
女性誌「女性自身」や「微笑」の編集長を歴任し、祥伝社の創立メンバーでもある著者が、
自分と接点があった編集者たちを中心に、戦後活躍した名編集者たちを紹介する同時代記。
伝聞や推定も多いのでどこまで信じたらいいのか分からない点も無いわけではないけど、
名物編集者たちそれぞれの人生、編集エピソードが生々しくえがかれてあって躍動感を感じた。
中でも印象深かったのは名編集者とされる人たちは物議をかもし出すことを恐れない、反骨精神あふれる人たちが多かった点だ。
これは、まだ”雑”誌が”良”書”と比べられてB級メディアとして見られていた時代の人たちであり、
編集者の多くが紆余曲折の経歴を持っていたこと、そして出版社側の採用過程も多様であったことが原因かもしれない。
(結果的に権威をつくってしまった人と、できあがった権威に入ろうとする人の違いか?)
現在を振り返れば、物議を醸し出しているメディアは出版ではなくネットである点にも時代の流れを感じた。
ちなみにレイアウト的には、列伝の最初に略歴がまとまっていると、もっと読みやすかったのにとも思った。
2006 4/20
メディア史
まろまろヒット率3

胡麻切り蕎麦が好きな僕には嬉しいお店。
湯島(東京都文京区湯島3-46-5)の「ふみや」にて。

駒込大観音ほおずき千成り市の出店についてお話しをおうかがいしにいくと、御供物をいただいた。非売品なのが残念な美味しさ(^_-)
向丘(本駒込と千駄木の間)の「光源寺」にて。

コーヒーゼリーがぷるるんプレイ。
本郷(東京都文京区本郷2-40-18)の「DOUTOR COFFEE SHOP(ドトールコーヒーショップ)」本郷三丁目店にて。

濃厚なスープに負けない油ののったパイコーが入った排骨坦坦麺を注文。3周年記念で半額セールをやっていたのでいってみたら知り合いとばったり会った。みんな考えることは一緒ですな。
本郷(東京都文京区本郷2-26-9)の「支那麺 竹子」にて。
全くの偶然で日経新聞と日経マネーからのインタビュー依頼が重なった、らぶナベ@経済系には縁遠いだけに巡り合わせの奇遇を感じてます。
さて、『社会学の根本問題―個人と社会』ゲオルク・ジンメル著、清水幾太郎訳(岩波書店)1979。
原題は“Grundfragen der Soziologie: Individuum und Gesellschaft” (1917)。
まだ社会学が学問として認められていなかった頃に、形成社会学を提唱した著者が書いた、社会学の本質を述べた一冊。
読んでみると社会学も科学なんだと弁明している第一章よりも、具体例として社交と芸術&遊戯との共通点を述べている第三章の方が面白く読めた。
以下はチェックした箇所・・・
☆すべて科学というものは、或る特定の概念に導かれて、諸現象の全体や体験的直接性から一つの系列乃至一つの側面を抽象するもの
<第1章 社会学の領域>
○存在しているものは、認識が到底直接に捕ら得ない統一体であり、私たちが事実内容と呼んでいるものは、或る一面的な範疇によって理解したもの
<第1章 社会学の領域>
☆芸術は、完全に生命から離れたもので、芸術に役立ち、芸術によって再び生産されるようなものだけを生命から取り出す
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>
○(芸術と遊戯の)両者は、生命のリアリティから生まれながら、このリアリティに対して独立の国を成す諸形式を共有する
→両者の意味と本質とは、生命の目的や生命の実質から生まれた諸形式がそれらから身を解き放って、
諸形式それ自ら独立した運動の目的になり実質になり、あのリアリティのうちから、この新しい方向に従い得るもの、
諸形式の独自の生命のうちに現われ得るもののみを取り入れるという、この断乎たる回転のうちにある
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>
○社交は、具体的な目的も内容も持たず、謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たない(略)
それゆえ、この過程は、その条件においても、その成果においても、この過程に参加する人間だけに限られている
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>
○社交というのは、すべての人間が平等であるかのように、同時に、すべての人間を特別に尊敬しているかのように、人々が「行う」ところの遊戯
→リアリティを全く離れた遊戯や芸術が嘘でないのと同じように、社交も嘘ではない
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>
2006 4/18
社会学、学問一般
まろまろヒット率3